2010年度
フォーラムの開催記録

 

 「フォーラム」は古典力と対話力を学術的かつ応用的に発展させるために設けられた場のひとつです。
 異なる学域の専門家との学術的対話を、若手研究者と学生が共同で企画・運営し、社会との学術的対話力の展開を図ります。

 

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モダニティの多元性I
「中国台頭の背景―いかに富強から文明に向かうのか―」

  • 日時: 2010年7月16日(金) 15:00~17:00
  • 場所: 人文学研究科A棟1階学生ホール
  • 講演者:
    • 許紀霖(中国華東師範大学歴史系教授・思勉人文高等研究院常務副院長)
    • 「中国台頭の背景―いかに富強から文明に向かうのか―」
  • コメンテーター:
    • 潘杰(神戸大学人文学研究科博士前期課程1年)
  • 共同開催:
    • 神戸大学大学院人文学研究科大学院教育改革プログラム
    • 神戸大学若手研究者ITP「東アジアの共生社会構築のための多極的教育研究プログラム」
    • 神戸大学大学院人文学研究科組織的な若手研究者等海外派遣プログラム
    • アジア・ディアスポラ研究会(代表:緒形康)

 本フォーラムは、「モダニティの多元性」と題して平成20年度より継続して開催している学術企画の一環である。このような企画の背景には、1950年代以降の学術言論における、近代性というものをめぐる議論がある。本フォーラムは、そうした、いわゆるモダニティについての議論をふまえつつ、中国華東師範大学歴史系の許紀霖教授に、経済的に活気を極める現代中国の性格をめぐる議論について講演いただき、現代中国に関心をもつ本研究科院生の考察を促した。

■講演内容レポート

 許紀霖教授の講演「中国崛起的背後:如何従富強走向文明?(中国台頭の背景―いかに富強から文明に向かうのか―)」の内容は、以下のとおりである。
 マーチン・ジャクスが『中国が世界を支配するとき──西洋世界の終焉と新グローバル秩序の誕生』において指摘しているように、中国の興隆は続き、世界の中心となろうとしている。講演者許氏は3つの方面の問題について述べる。すなわち、1つめは「富強になる」という夢の肥大、2つめは19世紀以降の中国人の精神状態の変化、3つめは富強に圧迫されていた文明について、である。

1.社会進化論が中国をどのように変えたか
 許氏によれば、日清戦争後、社会進化論は中国人の世界観と価値観を変化させた。西洋が強力になったのは物質の力ではなく、競争力によるものである。

2.なぜ富強が文明を圧迫したのか
 中国の強国の夢とは、富強となることの他に文明であることである。中国が2050年に覇者となっても、それは西洋の文明に征服されただけで、最終的な精神的勝利者は西洋のままであろう。中国が半世紀も強国の夢を追ったのは間違いではないが、文明というさらに重要なものを忘れてしまっている。

3.中国はどのような文明になるべきか
 民国初年の五四運動は世界主義の運動であり、文明である。それは、西洋人の提出した世界の公理に背を向けるものであった。現在の中国はかつての「眠れる獅子」ではなく、武力ではなく文物風教で世界に貢献することのできる「眠れる美人」に例えるべきである。中国は「富強の興隆」はもう実現したが、「文明の興隆」に足を進める準備はできているのであろうか。

講演内容要約:石井友樹(神戸大学人文学研究科博士前期課程2年)

■参加院生のレポート

 2009年は中国建国60周年であり、来年の2011年は中国辛亥革命100周年である。21世紀が中国人の時代であるかとうかはっきり言えないが、これから、さらに多くの人が中国に注目するのに違いない。
 今回許紀霖先生の中国の富強と文明についての講演も、中国の留学生、韓国、日本の方を含む多くの参加者を集めた。許先生の講演は主に3つの問題を論じた。1つめは清の晩期から中国人の強国の夢の中になぜ文明の面より富強の面が重視されたことについて、2つめはダーウィン主義が中国の富強に与えた影響について、3つめは中国にはどのような文明が必要であるか、という問題である。
 この講演は現在の中国に立脚点を置き、中国の歴史と中国の未来とを繋げて論じた。個人的な感想を述べれば、講演の内容の中で許先生の二つの論点が印象に残った。1つは新世紀の開始が時間ではなく、その世紀の重大な事件によるということである。20世紀は1901年から始まったのではなく、1914年からである。21世紀もそうである。もう1つは現代中国人の思想においてダーウィン主義の影響が強すぎ、対抗しうる他の思想がないということである。
 ほかの参加者も自らの関心に沿い、許先生に質問した。さらに多くの問題について許先生に尋ねたかったが、時間の制限のため、できなかった。また同様の機会に恵まれることを期待している。(文責:潘杰[人文学研究科博士前期課程1年])

 今日、許先生の興味深いご講演を聞き、本当に勉強になった。いくつか質問したかったが、時間のためできなかった。ここで自分の話したかったことを話させていただく。
 まず、潘氏の、中国の富強と文明が両立できるかどうかという質問に対し、許先生は富強と文明が主か次か、前か後か、という関係ではなくて、同時に実現でき、両方とも重要であると仰った。この点に疑問が生ずる。中国では約1世紀、すでに梁啓超、厳復などの人々が文明論を翻訳し、中国に紹介した。なぜ1世紀後の現在でも中国はこれを実現するどころか、まったく反対の道を歩んでいるのか。こうなる一番の原因は何であろう。誰の責任なのだろうか。
 また中国経済についての話題で許先生は、「長期的には楽観で、短期は悲観である」と仰った。私も同じような考えを持っている。今日まで中国経済は奇跡的な発展を遂げ、さらにしばらく高い成長率が続くだろうと思っている。ところが、民衆の人権意識の強くなるにつれ、高い生活水準を要求することは必然的で、避けられない。例えば、社会福利を上げ、農村インフラを整備するには、毎年のGDPのかなり部分を相殺すると思う。また高い生活水準を保ち続けるには、多額の投入が必要である。とにかく、将来の中国は現在のように高い成長率を長い間で続けるのは難しいと思う。(韓芝雷[人文学研究科博士前期課程1年])

 


 

「公共人文学としての文学(Literature as Public Humanities)」
(Wai Chee Dimock教授講演会)

  • 日時: 2010年6月16日15時~17時
  • 場所: 瀧川記念学術交流会館2階大会議室
  • 司会: 山本秀行(神戸大学大学院人文学研究科准教授)
  • 特定質問者:
    • 木田悟史 (神戸大学大学院人文学研究科英米文学D1)
    • 浦川未希 (神戸大学大学院人文学研究科英米文学M1)
  • 使用言語: 英語(一部通訳あり)

 6月16日(水)15時から、ワイ・チー・ディーモック教授(Wai Chee Dimock、イェール大学・英文学)による講演を中心としたフォーラム"Literature as Public Humanities"(「公共人文学としての文学」)を開催いたします。
  ポストコロニアル理論の旗手としてスピヴァックらと並び称せられるディーモック教授に、マイノリティ問題を含む現代のさまざまな倫理的問題を文学(研究)を通して語って頂きます。皆様、奮ってご参加ください。

【講演者プロフィール】
ワイ・チー・ディーモック(Wai Chee Dimock)
 香港出身。アメリカ合衆国イェール大学教授(英文学、アメリカ研究)。ハーヴァード大学で学士号(BA)、イェール大学で博士号(Ph.D)を取得。英文学、アメリカ研究、比較文学などの学域を越えたスケールの大きな人文学研究で世界的に有名。世界各地の大学で講演している。スピヴァックなどとともに、ポストコロニアル理論の旗手とされている。本フォーラムでは、マイノリティ問題を含む現代のさまざまな倫理的問題を文学(研究)を通して考える。

  • 主催:
  •  神戸大学大学院人文学研究科大学院教育改革支援プログラム「古典力と対話力を核とする人文学教育」
  • 後援:
  •  千葉大学時實早苗教授科研プロジェクト
  •  アジア系アメリカ文学研究会

■研究員によるレポート

 本フォーラムは、イェール大学教授ワイ・チー・ディーモック氏(Wai Chee Dimock)による講演を中心としたものであった。氏は、公共領域における文学および文学研究の展開の可能性について、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のフェイスブック(Facebook)上で自身が運営するグループ“Rethinking World Literature”(世界文学を再考する)の活動を例に話した。マンガなどの他のメディアが、暗に今の学生に文学教育を施しているように、フェイスブックの利用は、教室などのアカデミックな場以外での文学教育を提供する。そして、世界中のあらゆる文学作品同士が影響関係を持っている事実の発見は、「世界文学」について世界中の人々と議論する必要性を我々に気づかせてくれる。そこで生まれる議論は、キャノンに縛られていないとともに、学問分野自体を再考するものになっている。そして、欧米など特定の地域を中心にした研究の在り方は無効になり、人文学と自然科学の相互関係さえも見直すことにつながるのである。
 質疑応答では、まず、本学人文学研究科の院生の中から2名の特定質問者が講演内容に対して質問を行った。木田悟史氏(英米文学D1)は、ポップカルチャーや音楽の領域においても文学研究が可能か否かについて質問した。それに対してディーモック氏は、いかなる分野や新しいメディアにおいても、文学について研究する余地があり、その中で大きく広がる可能性を指摘した。浦川未希氏(英米文学M1)は、フェイスブック上の投稿に著作権があるのかどうか質問した。本来はフェイスブックでの自分の発言については自分自身ではなくフェイスブックが著作権を持つことになる。そのことに不安をおぼえてフェイスブックへの投稿をためらう人もいるが、ディーモック氏は著作権の問題よりもむしろ自分の考えが他の多くの人々に伝わることを重要視していると答えた。
 このフォーラムは、学内外からおよそ50名の参加者に恵まれた。参加者からは、実際にディーモック氏が大学でどのような授業を行っているのかという質問や、実際の文学研究・教育におけるフェイスブックの有用性について質問があった。氏は文学研究や文学教育を大学の外に広げるためにフェイスブックを利用しているが、フェイスブック自体が閉鎖的なコミュニティであることに、その限界があるのではないかという質問に対して、フェイスブックを利用しないとつながらないような人々と一緒に議論することができたり、フェイスブック以外のサイトを用いればより広い範囲の人々とつながったりすることが可能であると述べた。さらに、iPadやKindleの登場によって文学の媒体が変化することに関する質問では、そのことによって様々な問題は生じるけれども、それまでの紙媒体よりも文学作品にアクセスしやすくなることは大きな利点であると、ディーモック氏は主張した。
 フェイスブック上で、国や世代など様々な違いを持つ人々が、共通の話題についてそれぞれの角度から意見を交わすことの重要性について考えさせられる点で、本フォーラムは、文学を研究する院生のみならず人文学研究科のすべての院生にとって非常に有益なものであり、本研究科院生の学際的な研究活動を支援する大学院教育改革支援プログラムの趣旨に非常に合致するものであった。 (文責:沖野真理香)

 

■参加院生によるレポート

 今回のフォーラムでの、イェール大学教授ワイ・チー・ディーモック氏(Wai Chee Dimock)のSNSの一つであるFace bookを利用した公共人文学展開への講演は、文学研究だけでなく他分野をも巻き込みうるものであると感じ、とても興味深い物であった。SNSという場を利用することで、それまでアカデミックに議論されてきた文学研究がよりオープンに、また国際的に論議することが可能となり、既存の解釈とは異なった解釈の可能性が開けてくるのはとても意義深いことであると思われる。個人的には、氏の試みは文学研究の一環であるのだろうが、国際的な政治的合意形成を実験的に行いうるものとして面白い。政治哲学者のジョン・ロールズは「原初状態」下において、人々が共通の問題を論議することで、あらゆる人にとって正しい合意が形成されるとしたが、SNS上の論議はまさにそれに近しい状態にあるのではないかと思われる。
 フォーラム自身は初学者に配慮してか、原稿の翻訳があらかじめ用意されていたのは、参加者の語学力の差による参加意識のハードルを下げることに繋がり評価できる。個人的にはオリジナルのテキストも同時に配布した方が後々、講義の内容を考察し直すとき便利かと思う。あと質問が文学研究に関するものに偏りがちだったのは少々残念かと思う。会場からの質問は仕方がないにしろ、特定質問者には他分野の者をあらかじめ指名しておいた方がよかったのではないかと思う。せっかく50名近くの人が参加している講演であるため、ワイ・チー・ディーモック氏の試みがどの程度の学際的な射程を持ちうるものなのかを示すことができれば、より有意義な講演になるのではないかと思われる。
 このフォーラムは、学内外からおよそ50名の参加者に恵まれた。参加者からは、実際にディーモック氏が大学でどのような授業を行っているのかという質問や、実際の文学研究・教育におけるフェイスブックの有用性について質問があった。氏は文学研究や文学教育を大学の外に広げるためにフェイスブックを利用しているが、フェイスブック自体が閉鎖的なコミュニティであることに、その限界があるのではないかという質問に対して、フェイスブックを利用しないとつながらないような人々と一緒に議論することができたり、フェイスブック以外のサイトを用いればより広い範囲の人々とつながったりすることが可能であると述べた。さらに、iPadやKindleの登場によって文学の媒体が変化することに関する質問では、そのことによって様々な問題は生じるけれども、それまでの紙媒体よりも文学作品にアクセスしやすくなることは大きな利点であると、ディーモック氏は主張した。
 しかし、今回の講演のように、細々としたアカデミックな議論をするのではなく、第一線の研究者の新たな試みを知る機会が与えられることは、人文学研究科で研究するすべての院生にとってだけでなく、学部生や分野外の人々にとっても有益なものであるかと思われる。今後ともこのような講演が開かれることを学際的な研究が行われていくなかで、重要であるかと思われる。 (文責:杉川綾[倫理学D2])

 


 

院プロフォーラム・第36回倫理創成研究会
「トラウマを語ること/語らないことと支援者の役割―ノンアスベスト社会のために(VI)」

  • 日時: 2010年6月7日(月)午後5時から
  • 場所: 神戸大学文学部A棟1階学生ホール
  • 報告者:
    • 宮地 尚子(一橋大学大学院社会学研究科地域社会研究専攻・教授)
  • コメンテーター:
    • 大家 慎也(神戸大学人文学研究科博士前期課程)
    • 本林 良章(神戸大学人文学研究科博士前期課程)
  • 共催: 神戸大学文学部倫理創成プロジェクト

 倫理創成プロジェクトはアスベストによる健康被害の問題に継続的に取り組んでいるが、その過程で浮かび上がってきたのが、被害者の心理面と家族や支援者の心の問題である。被害者やその家族らが受けたトラウマは経済的補償によっては回復することが難しく、それゆえに行政による支援もまた十分であるとは言えない。こうした微妙で繊細な問題についてどう考え、語るべきかの手がかりを得るために、文化精神医学が専門で、被害者のトラウマについての著作もある宮地尚子氏(一橋大学大学院社会学研究科教授)を招いたフォーラムを開催する。宮地氏の講演に加えて、倫理創成プロジェクトのアスベスト関連の教育研究に参加している大学院生二人のコメントを中心とした質疑応答の時間も設けることで、問題点のさらなる理解を目指す。

■レポート

 宮地氏の講演「トラウマを語る/語らないことと、支援者の役割」は、様々な事件の被害者の心理状態を環状島のメタファーを多用して説き起こすという主旨のもので、精神医学の知識を持たずとも平易に理解できる内容であった。被害者がトラウマを克服するために自分の経験を他者に向けて「語る」ことにまつわる困難さや、日本では被害者が自分の救済のためにはなかなか語りにくい、何かしらの大義名分が必要とされるという現状が指摘された。また、こうした事例に研究者が関わることの困難さについても触れられた。研究者は、被害者を第三者的視点から見ることが要求されるが、こうしたコミットメントが被害者にとっては極めて重い心理的負担になりかねない。また、実際のフィールドワークの過程において被害者の来歴を知るにつけ、共感を抱くようになることも少なくない研究者はどこまで関わるべきなのか、などという問題が指摘された。
 質疑応答では二名の大学院生から、「語ること」の政治性をめぐるコメントがなされたほか、フロアとの議論も活発に行われた。

 

 「語ること」とはいかなる行為であろうか。何かを語ることは、ほかの何かを語らないことに他ならないのだから、この行為は(時に不当な)限定行為であると言えるかも知れない。しかし語られた内容が、この世界の関係性のネットワークに新たに組み込まれ、創造的に働くとき、そこに生産的な希望を見出すことができるかも知れない。肝心なことは、「いかに語りたいか」ということであろう。語られた内容が、この世界のなかでいかに存在するかは、語る主体である人間にかかっている。
 宮地の著書『環状島=トラウマの地政学』(宮地尚子、みすず書房、2007年)、およびこれを下敷きにした本フォーラムは、前述した「語ること」をめぐる議論に一筋の光を投げかけるものであった。宮地はトラウマティックな出来事、およびトラウマという身体的/精神的苦痛を、「環状島」の地政図で描くことを提案する。ドーナツ状に描出される環状島は、トラウマの被害が甚大な人ほど発言力を失ってしまう悲劇的な現実をあらわにするとともに、この失われゆく声を明るみへと掬い上げる希望を示唆するものでもある。
 このトラウマのモデルは非常に興味深く、また意義深いものである。トラウマにまつわる問題で肝心なことは、それがトラウマティックな出来事であると認識されなければ、いつまでも問題化(イシュー化)されることがないということである。自分を既存の問題系(例えば宮地の言う環状島)のうちに位置づけることができる人は、まだ幸運と言えるのかも知れない。気付かぬうちに被害に遭う人々、また知らぬ間に潜在的加害者になっている人々は、大勢いるのである。本学の倫理創成プロジェクトが取り組んでいる、アスベスト被害についての研究は、まさにこのたぐいの問題を相手にしていると言えるだろう。
 環状島のモデルは、被害者が声を上げること、そして支援者・研究者が語ることを、意味のある契機として取り上げることを可能にする点で優れている。何もなかった(問題視されることのなかった)海域に、環状に並んだ列島が姿を現し、やがてひとつの環状島が形成される――つまり社会運動の萌芽が起こり、形を成して、ついに市民権を獲得するという過程が、実に手際よく表現されている。環状島にまつわる地政学のレトリックは、トラウマの被害者を社会の中で(再‐)配置するための有用な武器になるであろう。
 ただし、環状島の地政学にはいくつか再考すべき箇所があるように思われる。特に宮地は、環状島の措定 (ポジシオン)を少々素朴に捉え過ぎている感がある。あるものを措定することは、同時に、他のものを抑圧する(もしくは抑圧されたかたちで措定する)ことに他ならない。また宮地自身が指摘するように、個人的な環状島は同時に集団の環状島でもあり、環状島は後続の人々のために「残る」ものでもあるから、社会の様々な領域(特に学問研究領域)に開かれている必要がある。したがって、環状島の措定にはある程度の厳密さと慎重さ、そして何より責任が伴わねばならない。そうでなければ、環状島の議論は限定的で独りよがりな議論に陥ってしまう危険性があるし、最悪の場合、自分が措定した環状島が他の人を傷つけてしまう可能性もある。
 冒頭で確認したように、語られた内容がこの世界のなかでいかに存在するかは、語る主体である人間にかかっている。だからこそ、語る自分の存在と、語りかける相手である世界に対して、今一度注意を向ける必要があるだろう。残念ながら、宮地の議論は素朴で個人的な比喩の段階に留まっており、環状島の持つ対他的なアクチュアリティーが検討されておらず、また他の学問領域がいかにトラウマの問題に関わることができるかを示せてはいない。このモデルを有効に機能させるためにも、措定の問題を一度深く検討し、他学問との連動可能性を提示しなくてはならないだろう。(文責:大家慎也[神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程2年倫理学専攻])

 


 

日本記号学会第30回大会『「判定」の記号学』シンポジウム
【セッション1】「揺れる法廷?――裁判員制度における<判定>」

  • 日時: 2010年5月8日14:30~17:30
  • 場所: 瀧川記念学術交流会館2階大会議室
  • パネリスト:
    • 堀田秀吾(明治大学)「「ことば」から見た裁判員制度」
    • 藤田政博(関西大学)「裁判員制度における判定――集団意思決定の観点から」
    • 山口進(朝日新聞GLOBE副編集長)
  • 司会: 前川修(神戸大学)
  • 特定質問者: 松谷容作(神戸大学文化学研究科)
  • 主催: 日本記号学会
  • 協賛: 神戸大学大学院人文学研究科大学院教育改革支援プログラム「古典力と対話力を核とする人文学教育」

■レポート

 2010年5月8日、神戸大学瀧川記念学術交流会館にて、シンポジウム「揺れる法廷? -裁判員制度における<判定>」が、神戸大学人文学研究科大学院教育改革支援プログラムのフォーラムとして、開催された。本シンポジウムは、『「判定」の記号論』というテーマを掲げた日本記号学会第30回大会の一環として、企画されたものである。その趣旨は、裁判員制度が昨年来施行された法廷での判定をめぐる、諸問題を照射することにある。登壇者は、法言語学と理論言語学を専攻する堀田秀吾氏、法心理学と社会心理学を専攻する藤田政博氏(関西大学)、ジャーナリストの山口進氏(朝日新聞GLOBE副編集長)の3名である。
 討議に先立ち、司会の前川修氏(神戸大学)から、裁判員裁判の流れと基本的な司法用語の解説、および裁判員裁判の判定結果やその報道についての報告がなされた。裁判の再現映像(裁判員制度広報用映画)を交えた前川氏の解説は、施行後間もない制度に不案内な多くの聴衆にとって有益だったのみならず、映像資料から見える裁判員裁判の諸問題を炙り出したようにも思われる。その後行われた、登壇者による研究発表の内容は、以下の通りである。
 まず堀田氏の発表は、コーパス言語学や語用論を援用しながら、裁判員裁判における裁判官と裁判員のことばを、具体例を挙げつつ分析し、両者の思考体系の差異を明らかにする試みであった。次に藤田氏の発表は、小人数で1つの結論をだす事態を「集団意思決定」として扱う社会心理学に依拠し、裁判員裁判を集団意思決定事態として捉え直すことを試みた。このような試みのなか、米国で盛んな陪審の科学的研究との比較を通じて、評議や公判前報道が裁判員に与える影響の考察がなされた。最後に山口氏の発表は、裁判員裁判の判定根拠やメディアによる事件報道がはらむ諸問題を明らかにし、制度改善ための提言を試みるものだった。各発表者の専門領域はそれぞれ異なるものの、判定をめぐる法と主体の今日的な関係性を注視しようとする姿勢が、3者には共有されていたように思われる。
 各発表後、特定質問者の松谷容作(神戸大学人文学研究科大学院教育改革支援プログラム研究員)から、裁判員制度導入以後の犯罪の変容、また罪状と犯罪との関係についての質問があり、その質問を皮切りに登壇者と聴衆の間でディスカッションが活発に行われ、裁判員裁判に関するさらなる問題点ないし論点が浮き彫りにされた。最後に前川氏が、法廷内/外、裁く側/裁かれる側のあいだの距離そのものが、現在変容をきたしていると総括し、シンポジウムは幕を閉じた。(文責:松谷容作)