2009年度
古典サロンの開催記録

 

「古典サロン」は古典力と対話力を学術的かつ応用的に発展させるために設けられた場のひとつです。

学術推進研究員等が指導し、学生が一般市民と触れ合いながら表現力や企画運営を学ぶなど、学生と教員とが共同でコーディネートしつつ、市民へのアウトリーチを実践していきます。

 

>>2008年度のサロン開催記録

 

 


 

生野銀山古文書合宿

  • 古文書合宿の日程
  • <ガイダンス>
    • ■2010年2月15日(月)
    • 13:30 合宿の趣旨
    •     生野銀山・石川家文書の概要
    • 14:30 現状記録の方法
    • 15:15 古文書整理の方法
  • <古文書合宿>
    • ■2010年2月20日(土)
    • 12:00 生野銀山見学
    • 14:30 生野銀山町内の散策
    • 16:30 古文書にさわってみよう会
    • 20:30 整理終了
    • ■2010年2月21日(日)
    • 9:00 古文書にさわってみよう会
    • 12:00 終了、片付け・掃除
    • 企画展の閲覧、町内自由散策
    • 13:00 郷土史家をかたる座談会
    • 16:00 生野書院発
  •  

    (1)開催趣旨

     本合宿は、学生が市民と協力しながら地域の歴史遺産を保全・活用する技術やノウハウを学ぶ場であり、地域歴史遺産の保全・活用を実践しうる地域リーダーの養成を目的としている。
    古文書合宿という形式で、平成22年2月20日・21日の両日、朝来市生野書院・生野マインホールにおいておこなった。大学からは41名が参加した。  昨年度同様、学習の素材となる地域遺産として、生野銀山に隣接した森垣村石川家の古文書を活用した。石川家は、江戸時代から龍野屋という屋号で宿屋や薬屋を営みながら、大庄屋や本陣をつとめ、大正期以降は醤油屋を営んだ巨大地主・商家であった。また生野代官所役人や町内の山師・郷宿・掛屋とも縁戚・金融関係をもち、互いに銀山・代官所の経営をめぐって連絡を取り合うなど、鉱山の近郊農村にありながら、生野銀山・鉱山町とも深いかかわりを持っていた。
    なお専門性の高い合宿となるため、事前にガイダンスをおこない、整理する古文書や生野銀山などについて、大学からの参加者が知識を共有できる環境を整えた。

    (2)概要

     1) 銀山坑道の見学、銀山町内の散策(2月20日)
     生野銀山の古文書を整理する前提として、生野が如何なる特色を持つ地域であったのかを知っておくために、フィールドワークを設定した。まず、シルバー生野職員の案内のもと、鉱山資料館と金香瀬坑道を見学した。ついで、古文書学習会の海崎氏の案内のもと、銀山町内のうち生野代官所周辺の散策をおこなった。
     2) 古文書にふれてみよう会(2月20日・21日)
     石川家文書を用いて、地域住民の方々とともに古文書整理を行った。今年度は、古文書整理経験者と未経験者を分けて、それぞれの班に市民にも参加してもらった。市民8名の参加を得た。一度整理を終えた古文書ではなく、石川家文書のうち未着手のものを使用した。とくに桐箱に入った古文書の保存状態をデッサンしながら記録し、その上で整理をおこない、もとの桐箱に戻すという一連の作業を体験した。
     3) 生野書院常設展・企画展の閲覧(2月21日)
     生野書院の常設展と、企画展「生野銀山間歩絵図展」を閲覧し、古文書から歴史像を描き出す手法を学んだ。
     4) 郷土史家をかたる座談会(2月21日)
    石川通敬氏には、父親であり、郷土の歴史家であった石川準吉氏についてお話いただいた。また、山田定信氏には、三菱マテリアルでの勤務経験や現在の間歩調査の苦労、今後の研究展望などをお話いただいた。実際に古文書を所蔵している家ゆえの経験や論理、自治体に対する思いなどについてお話いただいた。

    (3)合宿の効果

     1) 実践的な古文書整理:昨年度同様、演習全体として、地域遺産の保存・活用をめぐる実践的な能力を身につけさせることを最重要課題においた。とくに、古文書は整理未着手のものを用い、整理作業についても、古文書を桐箱から出して整理し、もとのかたちに復元するまでの一連の過程を体験させた。とくに、将来フィールドワークを行うなかで発見した古文書を、簡便かつ正確に記録・整理・保存する方法を身につけてもらうことを目指した。
     2)市民との対話力:鉱山坑道や銀山町内散策の案内を市民に依頼し、学生が市民から学ぶ場を設定した。また、企画展「生野銀山間歩絵図展」では、研究者が研究成果を市民にアウトリーチする方法を提示し、座談会では研究者や学生が市民と直接対話する場をもうけた。古文書整理は、学生と市民が協同でおこない、互いの知識や意見を交換しながら歴史遺産を保存・活用する場として設定した。ただ、今年度については市民の参加者が少なく、学生中心になってしまった。
     3)院生のコーディネート力の養成:演習の準備をすべて研究員が行うのではなく、意図的に大学院生に振り分けることで、演習に対する彼らのモチベーションと緊張感を維持させた。来年度は、年度を通して市民と協力したプロジェクトを展開し、そこへ履修者の一部を定期的に派遣し、長いスパンで地域コーディネートの意味について考えさせる機会をもうけたい。(文責:添田仁)

「場との交流―いま・ここで生まれる何かを求めて」

  • 日程:2009年12月19日
  • 場所:神戸大学百年記念館
  • パフォーマンス:
    • ボヴェ太郎(ダンサー・振付家)、原摩利彦(作曲家)
  • ディスカッション:
    • ボヴェ太郎、上念省三(ダンス批評家)、富田大介(本学学生)
  • 参加者:50名(本学学生、神戸市民など)

 古典サロン「場との交流―いま・ここで生まれる何かを求めて」は、ボヴェ氏のパフォーマンス、本学学生の富田氏の報告、さらには両氏にダンス批評家の上念氏を加えた三名によるディスカッションで開催された。

●パフォーマンス―ボヴェ太郎、原摩利彦

 舞台となったのは、神戸港を一望できる吹き抜けのファサード―海側には芝生に降りていく階段があり、ふだんは学生や近隣の住民が休憩をとり、風景を一望し、あるいは食事をとる様子を目にすることができる。この吹き抜けがタブローとして切り取る風景に、人びとはつい足をとどめずにはいられないらしい。
 パフォーマンスが始まったのは、午後二時頃、ちょうど雲間から陽が射し、吹き抜けに淡い光を投げかけていた。ボヴェ太郎の姿は隠れたまま、原摩利彦がラップトップの操作をはじめると、はっきりとしたメロディやリズムをもたない電子的なアンビエント・サウンドが静かに聞こえはじめた。サウンドは吹き抜けから外へと広がって、環境音と混ざり合い、我々の視界を越えた空間の広がりを知覚させる。そのどこかにボヴェ太郎はいるはずだ。おそらく、もうどこかでダンスははじまっている。その姿が見えるのを待っておずおずと身構えたころ、ようやく彼が階段の下から昇ってくるのが見えはじめた。おどろくほど緩慢な速度で動く彼は、ふつう我々が階段を昇降するときのように上下に揺れることなく、宙から浮き上がってくるようにさえ感じられる。彼は鋭い緩急の変化でリズムの躍動を体感させるわけでも、技巧で目を奪うようなこともしない。むしろ、その緩慢な動きは彼の体から観客の注意を逸らすことすら許してしまうのである。しかし、そのうちに観客は遠方にたなびく工場の煙や、雲の流れ、周囲を満たしているサウンドが、ボヴェの身体の周りにまとわりついているかのように感じる。緩慢ではあるが切れ目なく運動し、循環する彼の身体は、周囲の事物に溶け込み、地と図の関係を曖昧にしてしまうような感覚を与えるのである。
 やがて、運動は終息を迎える。だが、彼の運動はその姿が再び階段の下に消えた後も、残響として持続しているように私には思われた。パフォーマンスが終わってずいぶん経ってから、思い出したかのように拍手をはじめた周囲の人びとも、きっとこの残響を感じ取っていたにちがいない。

●報告―富田大介「場との交流:いま・ここに生まれる何かを求めて」
 この企画のコーディネーターである富田大介の報告は、コンテンポラリーダンスの「コンテンポラリー性」を問いなおすことからはじめられた。それはしばしば「同時代の感性の産物」として、「同時代性」の位相においてとらえられてきた。しかし、スタジオを離れて、客を前にして踊る現場の「コンテンポラリー性」に即して考えるなら、それはむしろ「同時性」「現在性」という語源的な意味でとらえるべきではないかと富田は提案する。実際、2000年代以降の振付家においては、そうした「いま・ここ」の時間相における踊り手の感性と観客の居る「場」との特殊なコミュニケーションを志向するパフォーマンスが増えてきているからである。
 その具体的な例として、富田は手塚夏子とボヴェ太郎を取り上げ、比較対照しながら議論を進めていった。富田によれば、『私的解剖実験2』(2002)において手塚は身体の「内」に観察の目を向け、意識的に統御できない身体の不透明さを露わにしたのに対して、ボヴェ太郎は逆に身体の「外」に自身の感覚や意識を開いていくことで、習慣化された記憶にとらわれない身体の運動を引き出す方法をとっているという。
 興味深いのは、異なる方法をとるこれらの実践が、〈私〉のコントロールに回収されない身体像を模索するという点では共通の方向性を持つものとして議論されていた点である。身体を制御するために日常化=習慣化した身体像を、再調節し、〈私〉を〈他〉なるものに変えていくこと、それこそが手塚やボヴェの実践から富田が読みとろうとする可能性である。

●ディスカッション
 ディスカッションでは、交流の場としてのコンテンポラリーダンスについての議論が会場の参加者と共になされた。コンテンポラリーダンスは、ダンサーと受容者の緊張に満ちた出会いのあり様を問い、それぞれの〈私〉に閉じてしまうのではなく、各々の身体観に問いかけ、応答を求める様々な交流の場として立ち現れてくる。しかし、こうした可能性について議論するには、様々なかたちでなされるこの問いかけの場に飛び込み、それぞれの現象に内在する議論を行なう必要がある。参加者を含めた、ディスカッションの核心となったことは、以上のことである。(文責:松谷容作、秋吉康晴[サロン参加学生])

 


 

「移情閣で孫文『大アジア主義』講演を読む」

  • 日程:2009年7月23日(木)
  • 場所:孫文記念館(移情閣)
  • 基調講演:
    • 安井三吉 (孫文記念館館長・神戸大学名誉教授)
  • ディスカサント:
    • 金玄(神戸大学大学院文化学研究科博士課程)
    • 張傳宇(神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程)
  • 司会:田中剛(神戸大学大学院人文学研究科学術推進研究員)
  • 使用言語:中国語・韓国語・日本語
  • 主催:神戸大学大学院人文学研究科、財団法人 孫中山記念会
  • 参加人数:41名

●レポート

 7月23日、神戸大学人文学研究科と孫中山記念会は、「古典サロン 移情閣で孫文『大アジア主義』講演を読む」を共催した。1924年に孫文が神戸市民を前に熱弁をふるった「大アジア主義」講演をテーマに、その歴史的意義と、日本と中国、アジアの今後について考えるものである。
 古典サロンに先立ち、神戸大学人文学研究科の大学院生たちは、読書会を5月13日(水)から隔週水曜日の計5回にわたって神戸大学文学部で開き、孫文「大アジア主義」講演にかんする理解を深めた。テキストには米谷匡史『アジア/日本』(岩波書店)、陳徳仁・安井三吉『孫文・講演「大アジア主義」資料集―1924年11月 日本と中国の岐路―』(法律文化社)などを取り上げ、この読書会で得られた知見・疑問を古典サロンのディスカッションで、さらに深めていくことにした。
 古典サロン当日は午前中、参加者が中華同文学校、関帝廟、兵庫県庁「大アジア主義講演の地」プレートなどを見学しながら、神戸大学から孫文記念館まで貸切バスで移動した。参加者一同は、1924年に孫文が神戸を訪れたその足跡をたどると同時に、現在もまた神戸と中国との繋がりの深さを改めて実感した。午後からの講演会では、市民、神戸大学学生・教職員など、計41名の参加を得た。まず安井三吉氏が、「大アジア主義」講演に関する最新の研究成果や孫文と神戸の「記憶」「絆」について講演、続いて金玄氏が韓国の孫文研究を紹介し、張傳宇氏が読書会で得た知見や疑間を報告した。ディスカッションでは、現代のアジアの若者たちが「大アジア主義」講演のメッセージをどう受け取るのか、といった広範かつ活発な議論がみられた。
 今回の会場となった移情閣は、明治・大正期に神戸で活躍した中国人実業家・呉錦堂の別荘が前身で、1913年に孫文が神戸を訪れた際には歓迎会の会場にもなった場所である。その移情閣で、かつて孫文が神戸市民に語ったメッセージを今また神戸の市民と学生が一緒になって考えた今回のイベントは、単に「歴史学」という学問に収まらない創造的な地域社会連繋の一つである。今後もこのように市民との対話のなかから学生が学ぶ機会がより多く持てるよう期待したい。(文責:田中剛)