2009年度
フォーラムの開催記録

 

 「フォーラム」は古典力と対話力を学術的かつ応用的に発展させるために設けられた場のひとつです。
 異なる学域の専門家との学術的対話を、若手研究者と学生が共同で企画・運営し、社会との学術的対話力の展開を図ります。

 

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西田哲学の現在
(第35回倫理創成研究会)

  • 日時:2010年3月8日(月)午後2時から午後6時まで
  • 場所:神戸大学文学部A棟1階学生ホール
  • 報告者:
    • ローラン・ステリン(京都大学文学部):「西田における個物概念の発生」
    • 小林敏明(ライプツィヒ大学東アジア研究所教授):「カイロスの系譜――西田時間論の新解釈に向けて」
  • コメンテーター:
    • 大家慎也(神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程)
    • 本林良章(神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程)
  • 参加人数:約30名
  • 共催:神戸大学大学院人文学研究科倫理創成プロジェクト

 本フォーラムでは、我が国を代表する哲学者のひとりであり、京都学派の創始者でもある西田幾多郎の哲学を取り上げた。後発世代への影響力は大きいが、難解かつ晦渋な文章のため、専門的研究者以外にはどうしても縁遠い西田幾多郎の哲学を読み解き、そこに含まれる哲学的エッセンスを抽出し、現代における哲学的諸問題との接続を試みることが今回フォーラムの開催目的である。西田哲学が日本というローカルな場所に限定した哲学ではない、文字通り世界的な広がりを持つものであることを証拠付ける研究活動を行っている二人の西田哲学の研究者、ライプツィヒ大学の小林敏明氏と、スイス出身で現在京都大学に籍を置く若手の研究者ローラン・ステリン氏を招いた。小林氏は精神病理学や日本文学にも造詣が深く、西田哲学とそれらとの接点を模索する著作を多数発表している。ステリン氏はローザンヌ大学での修士論文を著書として出版し、田邉元のフランス語訳の出版を準備中の気鋭の日本哲学研究者である。
 フォーラムはステリン氏、小林氏による講演、大学院生によるコメント、フロアを交えてのディスカッションという形で進行した。フォーラム全体の司会は嘉指信雄神戸大学文学部教授がつとめた。

■レポート

 ステリン氏の講演「西田における個物概念の発生」は、前期における「連続的な特殊化」の立場から後期における「非連続的な個体化」の立場へと西田哲学の展開を整理した上で、西田哲学における個物概念を位置付け、「述語の論理」から「繋辞の論理」へと変容し、やがては「歴史的世界」の次元へと指向する西田哲学の展開を跡付けるという、西田哲学に関する独自の解釈を含む、斬新な内容の発表であった。講演後の質疑応答では、西田哲学における連続と非連続の理解について、’subject’を「主観」と訳す前期の立場と「主体」と訳す後期の立場とステリン氏の解釈との整合性について、「繋辞の論理」の位置付けについての質問などがなされた。
 小林氏の講演「カイロスの系譜――西田時間論の新解釈に向けて」は、小林氏が断続的に『思想』誌上に発表してきた一連の西田の時間論研究を総括する趣旨のもので、数直線上を点が推移するというイメージで時間を捉えるクロノス的時間観と、点と直線によるイメージでは捉えきれない、「今」がまさに「今」であることに時間表象の本質を置くカイロス的時間観の対比から始まり、アウグスティヌス、キルケゴール、ハイデガー、アガンベンなどの西洋の哲学者のカイロス的時間観の系譜に西田の時間論を位置付けるという内容であった。こうした講演は、カイロス的時間の様相を精神病患者の症例に見出すなど、狭義の人文学の枠組みを超えて学際的な視点で時間概念を探究するものであったと言えよう。
 ステリン氏、小林氏の講演の後は、大学院生二人(大家慎也、本林良章)による特定質問をはさんで、フロアとの活発な質疑が行われた。

 ステリン氏の講演は西田哲学についての専門的な研究発表であったが、極めて明快な解釈上の図式に基づくものであり、多くを学ぶことができた。また、小林氏の講演は、平易な語り口で西田哲学の時間論を語る内容で、時間論にも西田哲学にも門外漢の筆者にもそのエッセンスを十分に理解することができた。西田幾多郎についての綿密な文献解釈に留まらず、哲学の問題として古来より議論され続けてきた「時間」について、西洋哲学史や木村敏のような精神病理学者の知見を広く参照して迫る小林氏の講演は、哲学史研究に主たる研究フィールドをおく筆者にとってはたいへん刺激的であった。また、西田幾多郎の思考のベースには数学と禅があるという小林氏の指摘は、西田哲学に研究京都学派の数理哲学に関心を持つ筆者にとってはたいへん興味深く感じられた。
 「絶対矛盾的自己統一」のような通常の理解を拒む言い回しを数多く用いる西田幾多郎の哲学書を柔軟に読み解き、その難渋さや政治的・宗教的含意から西田哲学を解放し、「西田幾多郎」という固有名が(たとえば)カントやフッサールといったヨーロッパの哲学者と同様に哲学的思考の源として現在でもなお有効であることを説得的に語ってみせた二人の講演は、まさしく「西田哲学の現在」と銘打った本フォーラムにふさわしいものであった。当日は哲学以外の専攻の学生や学外からの参加者も多く、それぞれの参加者にとって資するところの多いフォーラムになったのではないかと思う。(文責:稲岡大志)

人文学における古典と対話

  • 日時:2010年2月9日(火) 13:00~17:20
  • 場所:神戸大学百年記念館 六甲ホール
  • 報告者:
    • プログラム:
    • 13:00 開会挨拶 佐々木衞(神戸大学大学院人文学研究科長)
    • 【第1部】取組報告:「古典ゼミナール」「古典力発展演習」成果発表会
    • 13:10 趣旨説明 成瀬尚志(人文学研究科特命助教)
    • 13:15 報告1「ジェンダー論研究会」 本林良章(同博士前期課程・哲学)
    • 13:30 報告2「現代社会論研究会」 梅村麦生(同博士前期課程・社会学)
    • 13:45 報告3「東アジアにおける『伝統社会の形成』研究会」 藪本勝治(同博士後期課程・国文学)
    • 14:00 報告4「古典力発展演習」 平田佐智子(同博士後期課程・心理学)
    • 14:15 質疑応答
    • 14:25-14:35 休憩
    • 【第2部】:招待講演
    • 14:40 山脇直司(東京大学大学院総合文化研究科教授)
    • 「哲学、社会学、社会思想史の相互連関」
    • 15:20 西山雄二(東京大学東京大学特任講師)
    • 「人文学にとって現場とは何か?―古典・対話・教養」
    • 16:00-16:10 休憩
    • 16:10 全体討論 テーマ「人文学における古典と対話」
    • 討論者:松田毅(人文学研究科教授・哲学)、奥村弘(同教授・日本史学)
    • 司会:油井清光(同教授・社会学)
    • 17:15 閉会挨拶 油井清光(同教授・社会学)

 本フォーラムは、大学院教育改革支援プログラムとしての本プロジェクトの、今年度の活動の総括を目的として開催された。 本プロジェクトは今年度、昨年度に引き続き、大学院生が定期的に自主的な輪読研究会を開催するのを「古典ゼミナール」として支援し、また、大学院生が従来の専門分野の枠を超えた学際的な交流によって新たな研究課題を発見することが出来るよう、「コロキウム」、「フォーラム」、「古典サロン」といった学術イベントを開催した。そして、そうした「古典ゼミナール」や学術イベントと本研究科の教育カリキュラムを連動させるべく、授業との連携企画を試みた。
 そこで本フォーラムは、2部構成をとり、第1部では、「古典ゼミナール」や、本研究科の授業の1つである「古典力発展演習」に積極的に参加した大学院生が、活動や成果を報告した。第2部ではまず、人文学における学際性についての諸問題を検討すべく、東京大学大学院総合文化研究科教授の山脇直司氏に「哲学、社会学、社会思想史の相互連関」というテーマでの講演をお願いした。次に、人文学と教養教育をめぐる諸問題への関心から、東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」特任講師の西山雄二氏に「人文学にとって現場とは何か?―古典・対話・教養」として講演をお願いした。そして本研究科の松田毅教授(哲学専門)と奥村弘教授(日本史学専門)が講演者への質問を含めて討論し、最後に会場の大学院生からの質疑応答を行なうかたちで、パネル・ディスカッションを行なった。

■レポート

 第1部は、「古典ゼミナール」と「古典力発展演習」の成果報告であった。
 まず古典ゼミナール「ジェンダー論研究会」の代表として、本研究科博士前期課程に所属する哲学専攻の本林良章氏が報告した。同研究会は、ジェンダー論やフェミニズムについての理解の深化を目的に、英米文学、国文学、社会学、西洋史、東洋史などを専門とする大学院生が顔を合わせ、学域を横断した討論を行なう。その基本活動はジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの撹乱』(青土社、1999年)の輪読である。本林氏は、同研究会に参加することにより、自らの専門分野を新たな角度から見つめ直すきっかけを得たと報告した。
 次に「現代社会論研究会」から、本研究科博士前期課程に所属し、社会学を専攻する梅村麦生氏が報告した。同研究会はこれまで、アレゼール日本編『大学界改造要綱』(藤原書店、2003年)を講読してきた。同書は、現在の大学や大学改革をめぐる様々な問題を議論するものである。梅村氏は、同研究会に参加し、異なる専攻の大学院生らと大学や大学院改革などをめぐる話題を共有し得たことが、大きな収穫であったと述べた。
 3人目の報告者は、本研究科博士後期課程に所属する、国文学専攻の藪本勝治氏であった。氏は「東アジアにおける『伝統社会の形成』研究会」の代表である。藪本氏は今回の報告で初めてパワー・ポイントを利用したとのことで、氏にとっては、そうした新しいツールを積極的に使用する機会を得たという点でも、得るものは少なくなかったようである。同研究会は14~18世紀の東アジア諸地域における歴史・社会・文化の再解釈を目的とし、今年度はおおむね月1回のペースで集まってきた。年度の前半では、岸本美緒、宮崎博史著『世界の歴史12明清と李朝の時代』(中央公論社、1998年)を輪読し、後半では宮崎市定『水滸伝―虚構の中の史実』(中公文庫、1993年)および松枝茂夫訳の『紅楼夢』(岩波文庫、1972年)を講読した。また随時メンバーによる小発表の機会を設け、平成21年12月17日にはフォーラム「モダニティーの多元性―東アジアの『伝統社会』から考える」を開催した。藪本氏は、これらの活動の主な成果が、1.学域横断的な知識・視野の獲得、2.国境横断的な知識・視野の獲得の、2つであったと報告した。
 第1部の最後に、本研究科博士後期課程に所属し、心理学を研究する平田佐智子氏が、本プロジェクトと本研究科教育カリキュラムとの連動授業である「古典力発展演習」を履修した経験について報告した。この授業の目的は、専門の異なる研究者に対して自らの研究を効果的にプレゼンテーションする能力を習得することである。氏は、授業で会得した、効果的な発声方法やパワーポイントを使用したプレゼンテーション技術を、平成22年1月に香港大学において開催された2つの国際学術会議The 2nd International Postgraduate Conference at Hong Kong UniversityおよびThe 5th Annual Conference of the Asian Studies Association of Hong Kongにおいて実践し、確かな手ごたえを得たと述べた。
 第2部は、東京大学大学院総合文化研究科教授の山脇直司氏による、「哲学、社会学、社会思想史の相互連関」というテーマでの講演で開始した
。  山脇氏はまず、19世紀までの哲学史を紹介し、ヘーゲル以前の哲学者による哲学は人文学の一分野ではなく、より包括的なものであったと述べた。氏によれば、19世紀後半、ヘーゲルより後になると、哲学は大学における人文学系学部の一学科として、他の専門分野と没交渉な状況に陥る。そして氏は、21世紀の「不安定なグローバル化」時代において、そのような哲学をめぐる現状が脱構築、再構築されるべきであるとする。
 山脇氏は、哲学の将来を、まさに本プロジェクトが課題とするような、学域横断的、社会的役割を担うという役割にみる。19世紀前半までのプレ専門化時代、哲学は包括性を有するものであった。しかし19世紀後半から現代までの専門化時代に、哲学は大学の人文学系学部の一学科としての、非常に狭い枠内に限定されてしまった。それゆえ氏は、21世紀、ポスト専門化時代において、哲学が再び学域横断的な役割を果たし、社会的な諸問題に取り組むべきことを提唱する。
 山脇氏が、そうした哲学の将来におけるかたちとして提唱するものが、「公共哲学」であり、「グローカル公共哲学」である。公共哲学とは、社会の「様々な現場」と「哲学的理念」と「政策」を、公共性というコンセプトを切り口にしてリンクさせる学問である。グローカル公共哲学とは、研究者が自らの置かれた現場や地域(locality)に根ざしつつ、地域的(global)視野で、福祉、平和、環境などの公共的問題を論考していく学問である。さらに氏は、ポスト近代における社会思想史の理念として、近代ヨーロッパ啓蒙主義の偏重や文明の進歩史観から脱して、対話的、解釈学的な比較社会思想史研究を推進する必要を訴えた。
 一方、西山雄二氏の講演は「人文学にとって現場とは何か?―古典・対話・教養」というテーマであり、日本における近年の高等教育政策と大学および大学院教育改革をめぐる様々な問題をめぐる、非常に充実した議論であった。
 西山氏はまず、日本における1990~2000年代の高等教育改革の潮流を整理し紹介した。そこでは一般教育課程や教養学部の解体とともに、新たな潮流として、「新しい教養」の概念が普及した。それは、新自由主義時代における、企業に就職することと市場で競争することを前提とする教養であり、思想や歴史、文化への深い理解や主体性が国民教育の再生と結びつくという理念に基づくものであった。そして人文学の意義が、教養教育に見いだされるにいたった。
 しかしながら世界各国の人文学の高等研究教育拠点に着目すれば、とりわけ欧米では、人文学の高等研究院のほとんどが1990~2000年代に創設されたものであるという事実が指摘され得る。西山氏は、そうした高等教育研究機関の特徴として、学際性を有すること、国内の人文学研究のネットワーク拠点となっていること、国際性を備えること、若手研究者に活躍の場を与えること、高度な教育へのインセンティヴを発揮すること、歴史感覚と人文学の根本的使命に基づく理念を掲げることなどを挙げる。
 一方で現在の人文学が困難に直面しているという事実も存在する。その困難の1つは「エクセレンス」という概念による競争と評価の問題であり、いま1つは学際化により顕在化しつつある諸問題である。
 西山氏は、上述のような様々な問題を提示しつつ、ジャック・デリダの『条件なき大学』(月曜社、2008年)に依拠し、フィクションへの権利、「すべてを公的に言う権利」としての人文学に将来をみる。それは、「権力を欠いているが、しかし、脆弱さをも欠いた抵抗や反逆の原理。権力を欠いているが、たとえそれがある種の脆弱な力であろうとも、力をもたないわけではない原理」である。
 山脇氏と西山氏の講演の後、討論と質疑応答が行なわれた。はじめに司会の油井清光教授(社会学)が、社会学の立場から、山脇氏と西山氏の講演の要点を整理した。その後、松田教授が哲学の、奥村教授が日本史学の立場から、それぞれ講演者への質問と、問題提起を行なった。議論はおよそ、現在の日本における大学のありかたをめぐって展開した。大学あるいは大学院は、例えばそこにおける教育について、研究者の養成から企業に必要とされるような人材の育成まで、様々な要求が複雑に交錯する場である。また大学は、実社会のニーズに応えていかなければならない。そうした大学における人文学の将来を、現在の日本の高等教育をめぐる状況、ひいては社会状況にかんがみ、どこに見いだすべきか。これは、本プロジェクトの来年度事業において、そして人文学を専門とするすべての研究者によって、模索されるべき課題として残っている。(文責:磯貝真澄)

 


 

第8回歴史文化をめぐる地域連携協議会
「震災から15年―地域歴史資料の現在」

  • 日時:日時:2010年1月31日 於・
  • 場所:神戸大学瀧川記念学術交流会館
  • 参加人数:49機関89名
  • 共催:地域歴史資料学研究会 (科学研究費補助金・基盤研究 (S) 「大規模自然災害時の史料保全論を基礎とした地域歴史資料学の構築」研究代表者・奥村弘神戸大学教授)
  • 後援:兵庫県教育委員会、芦屋市教育委員会、小野市教育委員会
  • 報告者:
    • 11:00 主催者挨拶
    • 11:10 趣旨説明
    • 11:20~12:30 第1部
    • 報告(1) 11:20~12:00
    • 坂江渉(神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター)
    • 松下正和(神戸大学大学院人文学研究科)「阪神・淡路大震災と地域文献史料のその後」
    • 報告(2) 12:00~12:40
    • 佐々木和子(神戸大学地域連携推進室)「震災資料の15年」
    • 12:40~13:40 昼食
    • 13:40~15:00 第2部
    • 報告(3) 13:40~14:20
    • 森岡秀人氏(芦屋市教育委員会)「被災後の埋蔵文化財の復興調査の成果と課題」
    • コメント 14:20~15:00
    • 村上裕道氏(兵庫県教育委員会文化財室)
    • 大村敬通氏(小野市立好古館)
    • 15:00~15:30 交流会
    • 15:00~17:00 第3部 コメントと総合討論
    • コメント 15:30~16:10
    • 平川新氏(東北大学東北アジア研究センター)
    • 神戸大学大学院生
    • 総合討論 16:10~17:00

 阪神・淡路大震災が発生阪神・淡路大震災が発生してから、今年で15年を迎えた。大震災では、市民・自治体職員・大学関係者が協力して、被災した歴史資料や文化財の救済・保全活動がおこなわれた。これ以来、緊急時の文化財の防災対策、あるいは日頃から地域の歴史遺産を守るためにどうしたら良いか、さらにはそれをまちづくりに活かすために何が必要かなどについて各分野で議論され、また様ざまな実践的な取り組みも始まっている。
 しかし、活動の出発点となった阪神・淡路大震災後の救済・保全資料や文化財がその後どうなったのかについては、これまで個々の調査は実施されているものの、総括的な調査研究は未だ十分におこなえていない状況にある。
 そこで、本年度の協議会は、「震災から15年―地域歴史資料の現在」というテーマのもと、 救出された歴史資料や緊急発掘された埋蔵文化財はその後どうなったのか、あるいは震災資料そのものの公開・活用状況はどうなったかなど、各分野における資料と文化財のその後の行方と現状について検証し、そこから見えてくる成果と課題について議論する目的で開催されるものである。

■レポート

 中村千春・地域連携担当理事副学長の開会挨拶、 奥村弘・事業責任者 (地域連携推進室長) の主旨説明のあと、はじめに地域連携センターの坂江渉研究員と松下正和人文学研究科特命講師が「阪神・淡路大震災と地域文献資料のその後」と題した報告がなされた。
 坂江報告では阪神・淡路大震災時の史料レスキュー活動で救済されたさまざまな史料が、その後活用されて地域の新たな歴史像の形成に役立てられたという多くの事例が紹介されるなどした。また松下報告では、大震災を契機に誕生した史料ネットの活動と、そこから出てきた早期対応の難しさや被災史料保全に担える人材の不足など、現在も抱えるさまざまな課題が述べられた。地域連携推進室の佐々木和子研究員「震災資料の15年」では、人と防災未来センター資料室などを事例に、この15年における震災記録保存の動向が報告された。芦屋市教育委員会の森岡秀人氏は「被災後の埋蔵文化財の復興調査の成果と課題」というテーマで報告し、埋蔵文化財保全の成果と活用について、芦屋市の状況を述べた。
 コメントでは村上裕道氏 (兵庫県教育委員会) ・大村敬通氏 (小野市立好古館) ・平川新氏 (東北大学東北アジア研究センター) ・吉原大志氏 (神戸大学大学院人文学研究科) が登壇し、それぞれの立場から震災に関連した地域歴史資料に対する取り組みや態度、またそれらに即した今後の課題について述べられた。
 討論では、歴史資料や震災資料を守り活用するためには、(1)有事のみならず平時から資料に眼を向けることの大切さ、(2)人のネットワークをつくることの重要性、(3)保全と活用を担える人材育成のためのシステム構築と関係各機関におけるポストの確保、(4)資料情報などについての積極的な情報発信の必要性、(5)15年たって新たに考えるべき論点を整理することの重要性、などの点をめぐって活発な議論がなされた。

 


 

カントと人文学

  • 日時:2010年1月21日(木) 15時から18時まで、22日(金)10時から12時まで
  • 場所:神戸大学文学部A棟1階学生ホール
  • 報告者:
    • Martin Schönfeld (南フロリダ大学教授) :"Integratin Kant"
    • 信田尚久 (神戸大学大学院文化学研究科博士課程):"The view of Newtonian Mechanism in Kant's Physical Monadology ─ The significance of conversion of `power' by Kant ─"
    • 伊藤政志 (近畿大学医学部非常勤講師):"Another Form of Truth―Reconsidering `Aesthetic Truth' in Kant's Theory of Error"
  • コメンテーター:
    • 信田尚久(神戸大学大学院文化学研究科博士課程)
    • 宇野佑(神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程)
    • 李明哲(神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程)
  • 参加人数:約25名

 前批判期のカント哲学と環境の哲学を専門とする南フロリダ大学のM・シェーンフェルト教授を招き、それぞれ哲学と芸術学を専攻する若手のカント研究者二名(信田尚久、伊藤政志)による発表を交えたフォーラムを行った。また、翌日はシェーンフェルト教授の著書The Philosophy of the Young Kant: The Precritical Projectをめぐって、大学院生3名(信田尚久、李明哲、宇野佑)をコメンテーターにしたディスカッションを行った。

■レポート

 信田氏の発表“Newtonian Mechanism in Kant's Physical Monadology.─ About the concept of‘force’of Kant ─”は、前批判期のカントの自然哲学とニュートン力学との関連に関して、前者を後者の哲学的基礎付けとして捉える、M. Friedmanに代表される従来の解釈を批判的に検討し、なおかつ一次資料の精密な読解に基づいて、カントの力学観とニュートン力学の相違点を浮き彫りにし、前批判期のカントの力学観に関して独自の解釈を提出するという内容であった。
 伊藤氏の発表“Another Form of Truth―Reconsidering “Aesthetic Truth” in Kant’s Theory of Error―“は、カントの美的真理をカントの誤謬理論から再検討し、現代美学理論においても有意味なもう一つの真理概念として提示するという内容であった。美的真理という、今ではもうすっかり廃れた感のある概念を、現代美学の中心概念となりうる候補としてリハビリテーションを行うこと、これが発表の目的であるが、この目的を遂行するためにカントの誤謬理論が参照された。
 シェーンフェルト教授の講演 ”Integrating Kant”は、認識論、道徳哲学、自然哲学など様々な領域にまたがるカントの思索を統一的に捉えて、前批判期と批判期を別個に扱う傾向の強いこれまでのカント解釈とは一線を画した、新たなカント像を提示するという主旨であった。位相幾何学のisomorphism(同型写像)の概念を援用し、主に自然哲学に傾倒した前批判期のカント哲学と、道徳哲学が前景に出される批判期のカント哲学が、それぞれの論証構造を俯瞰して捉えると、両者の間にある種の同型性が認められるという解釈に基づいてカント哲学の全体像を再評価するという内容であった。(文責:稲岡大志)

 


 

モダニティーの多元性:東アジアの「伝統社会」から考える

  • 日時:2009年12月17日(木)
  • 場所:瀧川会館・小会議室
  • 報告者:
    • 金炫栄氏(韓国国史編纂委員会)「朝鮮時代の両班と郷村社会」
    • 井上舞氏(人文学研究科・日本中世文学)「中世瀬戸内海と説話(仮)」
  • コメンテーター:
    • 市沢哲氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)
    • 緒形康氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)
    • 藪本勝治氏(神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程)

 本フォーラムは昨年度、東アジアの視点からモダニティーの新たな可能性を検討した「モダニティーの多元性」の第2回である。テーマは「東アジアの「伝統社会」から考える」である。東アジア諸地域の個性豊かなモダニティーのあり方は、この地域が「中世・近世」という時代を共有しながら、それぞれに形成した独特の社会構成が大きく影響している。今回は「伝統社会」という視点から、東アジアのモダニティーを展望する。なお、今回は古典ゼミナール「東アジアにおける「伝統社会の形成」研究会」との共同企画でもある。

■レポート

 今回は金炫栄氏(韓国国史編纂委員会教育研究官)と井上舞氏(神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程)に朝鮮と日本の「伝統社会」にかかわるご報告を頂いた。金炫栄氏は岸本美緒・宮嶋博史『明清と李朝の時代(世界の歴史12)』の訳著もあり、朝鮮時代の郷村社会を東アジアの視点から精力的に研究している。本フォーラムでは「朝鮮時代の両班と郷村社会」のテーマで、従来のマルクス史に替わる時代区分として、高麗時期と朝鮮前期を「中世」として一体的にとらえる必要があると述べた。あわせて、朝鮮時代の実学者、于若鍗による身分制の再定義に焦点をあて、朝鮮時期の“洞”が開放的であったのに対して江戸時期の“村”が閉鎖的であったと指摘した。他方、井上舞氏は「中世瀬戸内海と説話――『予章記』の世界――」をテーマに報告した。15世紀の伊予国で成立した『予章記』の説話をとりあげ、河野氏による海域ネットワーク支配の論理とその背景を検討したものである。『予章記』で展開された世界は、瀬戸内海に影響力を持つ貴族や寺社との関係を暗示しつつ、同時に東アジア海域の交易と結びついた貿易商人の論理をも内包したことによって河野氏の支配論理を強化する作用があったと指摘した。
 以上の報告に対して3名のコメンテーターから質疑があった。金報告に対しては、朝鮮史の時代区分について討論があった。緒形康氏(神戸大学人文学研究科教授)は、中国史では「中世」と「近世」の画期を貴族制から科挙制への変化ととらえる議論もあるが、朝鮮史の場合はどうか、と質問した。また、市澤哲氏(神戸大学人文学研究科教授)は、高麗と朝鮮前期を「中世」としてとらえるその共通点について質問した。これらに対して金氏は、高麗時期と朝鮮前期は「奴婢制」の存在という点で共通していると述べた。続いて井上報告に対しては、市澤氏が『予章記』から見える15世紀の東アジア世界について質問した。藪本勝治氏(神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程)が、百済との関係を語る大内氏と越州との関係を語る河野氏とのあいだに共通性はないのか質問した。フロアからは東アジアにおけるモンゴル帝国のインパクトを考慮に入れる必要があるのではないかと提案があった。井上氏は今後、『予章記』を東アジアの文脈のなかで考えてみたいと回答した。

 


 

アジアにおける文化的記憶

  • 開催月日:2009年7月15日(水)14時~19時
  • 場所:文学部A棟 学生ホール
  • 開催者担当:油井清光(人文学研究科教授)
  • 司会:緒形 康(人文学研究科教授)
  • 報告および報告者:
    • 【海外招待講演】
    • 胡 家瑜(国立台湾大学人類学系准教授)
    • "Materialized Memories and Reproduced Past Resources: Studies on Heritagization and Commoditization of Indigenous Art/artifacts in Taiwan"
    • 「物質化された記憶と再生された歴史的資源――台湾固有の美術/工芸の文化遺産化と商品化に関する研究」
    • 【講演】
    • 樋口大祐(人文学研究科准教授)
    • 「日語文學中的臺灣敘述與其多元化――以司馬遼太郎, リービ英雄, 津島佑子為例」
    • (日本語文学における台湾表象の多元化について――司馬遼太郎、リービ英雄、津島佑子を中心に)
    • 【研究報告】
    • 川口ひとみ(人文学研究科博士後期課程)
    • 「明治时期长崎华人的民事诉讼回忆纪录――作为史料的《簿書鞅掌》」
    • (明治期長崎華人の民事訴訟の記憶――『簿書鞅掌』を史料として)
  • コメンテーター:
    • 張 傳宇(人文学研究科博士後期課程)
    • 藪本勝治(人文学研究科博士後期課程)
    • 藤岡達磨(人文学研究科博士後期課程)

 本フォーラムの趣旨は、「言語、工芸品、文物といった様々なメディアに物質化された記憶」という幅広い見地から、アジアにおける記憶の錯綜した保存・登録・再現・展示といった諸問題を検討することである。世界的に活躍する人類学者をお招きし、「アジアにおける文化的な記憶」をテーマにご講演いただき、本学の教員・研究員・院生による報告も交え、学域横断的な議論を深めることを目的とする。

■レポート

 本フォーラムでは、三名の方々に報告いただいた。最初に招待講演として、胡家瑜先生(国立台湾大学)に、「物質化された記憶と再生された歴史的資源――台湾固有の美術/工芸の文化遺産化と商品化に関する研究」と題してご講演いただいた。「物質化/商品化された記憶」という観点から、台湾の原住民の芸術および文化遺産を検討するもので、たいへん刺激的な内容であった。
 つづいて樋口大祐准教授より、「日本語文学における台湾表象の多元化について――司馬遼太郎、リービ英雄、津島佑子を中心に」というタイトルでご講演いただいた。報告内容は、「日本語文学」における台湾の描かれ方について、三人の作家の作品を通しての考察である。「あらゆる地域が異郷である」という境地に立ち、言語化不可能な部分を捨象してしまわない態度が重要であることが示された。
 最後は、川口ひとみ氏(博士後期課程・社会学)よる研究報告で、タイトルは「明治期長崎華人の民事訴訟の記憶――『簿書鞅掌』を史料として」である。訴訟記録『簿書鞅掌』を史料として、清国中央から派遣された理事官が赴任地日本(長崎)でどのような訴訟処理を行っていたのについて、華僑とのつながりに関連づけながら、詳細に検討された。

・コメントおよび討論内容  会の後半は、講演および研究報告をふまえ討論をおこなった。三人の大学院生コメンテーターによるコメントとそれへの応答、それからフロアを交えてのディスカッションへとすすんだ。
 コメンテーターは人文学研究科の三人の大学院生がつとめた。まず張傳宇(博士後期課程・東洋史)から、とくに胡先生に対してコメントと質問がなされた。第一に、外側から原住民文化が発見され、商品化されていったとのことだが、現在において原住民自身が「自分たちの文化」を復興・創成しつつあるという自意識はどれほどあるのか。第二は、記憶のなかでも「物質化されていない」要素、つまり風習や伝統行事といった無形文化によって継承される記憶もあるのではないかと思うが、それについてどうお考えだろうか。
 これに対して、胡先生より、「物質化されていない要素」については、最近の人類学や社会学の議論では、グローバル化の進展する世界では、どのような文化であろうとその様式を完全な形のままで維持し続けることは非常に困難だと言われている。つまり文化資源が断片化されたり、博物館化されたりすることをまぬかれない。重要なのはそれらをいかに再生産・再構築するかであり、その場合に自己の意識をどのように変容させていくかである、とのリプライがあった。
 つぎに藪本勝治(博士後期課程・国文学)から、樋口准教授へ質問とコメントがなされた。一点目として、三人の作家による台湾表象の差異に関して、台湾社会や対日関係の時代的変化とはどのように関係しているのか。二点目として、リービ英雄のようにあらゆる所属を相対化する視点を日本語文学が獲得したとして、その後の日本文学にはどのような展望を描くことが出来るのか。それに対して樋口准教授より、今回取り上げた作品に関しては、時代の変化よりも作家のポジションに注目することが視角としてより有効である、との指摘がなされた。二点目については、移動することで他者と接触し、そこで生じた摩擦や違和感が新たな文学を生み出してゆくことになるだろう、との見解が示された。
 つづいて藤岡達磨(博士後期課程・社会学)より、川口報告へのコメントがなされ、第一に当時の清朝本国での裁判形式はどのようなものであったか、それらと比較したうえでの本事例の特徴はどのようなものか、第二に、歴史的にみた場合の本事例の位置づけはどうか、類似事例はどれくらいあるのかという質問が出された。これに対しては、裁判は当時の清朝での様式に即していたと考えられ、そのなかで日本の事情に詳しく影響力をもつ有力華僑の協力を得ながら、訴訟処理をすすめていたと思われる。当時のコンテクストのなかでの位置づけを明らかにしていくことが今後の課題であるとの応答があった。

・まとめ
 緒形教授より会を総括して、以下のようなまとめがあった。「歴史研究にたずさわるものとして、「記憶」と聞いてまず思い至るのは「戦争の記憶」というトピックである。本日の議論により、そうしたトピックを含み込んだ現代に至る大きな問題が「記憶」というテーマにはあることが再認識された。言語や文化といったものと同様に、「物質化された記憶」という点もさらに検討されなければならい。今日の議論は、本プログラムのさまざまな取組みに関連するものだと思う。今後も、多くの企画・取組と連携しながら体系的にすすめていきたい。」
 担当研究員の感想としては、まずは、さまざまな専修から多くのご参加をいただいたことに感謝したい。また内容においてもたいへん充実したものであった。異なる学域の院生がコメントをしあい、議論することを通じて、人文学の素養はもとより、各自の研究にも新しい視点を与えたはずである。こうしたイベントをきっかけにして、院生・若手研究者たちが「古典ゼミナール」や研究会を積極的に企画開催していき、学域横断的な若手研究者ネットワークを築いていけたらと思う。 (記録:田村周一・藪本勝治)

 


 

バイオエシックスの諸相:原理と実践(第31回倫理創成研究会)

  • 開催日時:2009年7月14日(火) 17:00-19:00
  • 場所:A棟1階学生ホール
  • 報告者:
    • 田中伸司氏(静岡大学)
    • 前川幸子氏(甲南女子大学)
  • コメンテーター:
    • 田村周一(神戸大学人文学研究科学術推進研究員:社会学専攻)
    • 遠藤繁行(神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程:哲学専攻)

 古代哲学とバイオエシックスを専門に研究されている静岡大学の田中伸司氏と、看護学を専門にされている甲南女子大学の前川幸子氏を招き、特に、現代医療の現場における倫理学上の問題点について議論した。

■レポート

  古代哲学とバイオエシックスを専門に研究されている静岡大学の田中伸司氏と、看護学を専門にされている甲南女子大学の前川幸子氏を招き、特に、現代医療の現場における倫理学上の問題点について議論した。
 田中伸司氏による講演(「応用の学としての倫理学と古典テクスト――現代の医療にどう向き合うか――」)では、古典テクスト、特に田中氏が専門に研究されている古代哲学のテクストを読む意義という観点から、所謂現代の応用倫理学とは異なる倫理学の可能性が問われた。田中氏は近代合理主義に根差す医療化の流れ中で、現代の医療の現場において「死生観」がなおざりにされがちであるという現状を問題にし、古代哲学において主要なテーマとなる「濃い」死生観を構築する必要性を主張する。また他者を理解するよりも傾聴することを重視する対話的真理を基盤とする古代の実践的な知の性格に注目し、それを現代の医療化の流れに対するアンチテーゼとして提起する。
 前川幸子氏による講演(「応答としての看護――看護の経験が生成される臨床の場からみえてきたこと――」)では、看護学において行われる技術的な教育、その原理的適応では対応しきれないような看護の現実について、特に看護の初学者である看護学生の臨床における経験を一例にしながら、問題提起がなされた。前川氏は、異質性の高い他者としての患者の呼びかけに応答する形で成立する 「応答関係」におけるケアの実践の在り方に注目しながら、臨床の場において受動的/受苦的な経験が自らを変容し、自ら開くという看護倫理を、形式的な知を超える倫理的な実践の可能性、看護実践の手前にある倫理の根本問題として提起する。
 以上の発表に対し、コメンテーターを中心にフロアを交えてのディスカッションが行われた。特に、田中氏の発表に対しては、ギリシア哲学固有の倫理学上の問題における有効性、また田中氏が批判の対象とする近代合理主義とそこに根差す医療化の内実が議論の争点となった。また前川氏に対しては、前川氏の主張する「応答関係」におけるケアの実践が、個別的な対応を重視するあまり、社会性から切り離され閉じた倫理を生むという障害を引き起こしかねないか、またこのようなケアの考え方によって患者を一様に弱きものとみなすことに弊害はないかという点が議論された。また改正臓器移植法(A案)の成立に関しても、コメンテーターからの質問に答える形でそれぞれの発表者から見解が述べられ、フロアを交えてその倫理学的な問題に関し議論が行われた。(文責:藤井)

 


 

アメリカにおけるフェミニスト思想の現在

  • 日時:2009年7月2日(木) ※5月21日の振り替え
  • 場所:人文学研究科A棟1階学生ホール
  • 講師:Heather E. Keith (米バーモント州グリーン・マウンテン・カレッジ准教授)
  • コメンテーター:
    • 八幡さくら(神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程:哲学)
    • 沖野真理香(神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程:アメリカ文学、院プロ学生研究支援員)
  • 司会(兼通訳):嘉指信雄(神戸大学大学院人文学研究科教授)
  • 主催:神戸大学大学院人文学研究科倫理創成プログラム
  • 共催:神戸大学大学院人文学研究科大学院教育改革支援プログラム・ジェンダー論研究会

 神戸大学大学院人文学研究科倫理創成プロジェクトの主催で開催された本フォーラムでは、アメリカ哲学や東洋‐西洋比較哲学、フェミニスト倫理、ジェンダー・セオリーなどを専門に研究されているヘザー・キース氏によって、フェミニズムの観点からケアの倫理(the Ethics of Care)についての講演が行われた。フェミニズムに関するフォーラムのため、古典ゼミナールのジェンダー論研究会が共催となった。ケアの倫理に基づいたキース氏のフェミニズム観は、フェミニズムやジェンダーの問題を敬遠しがちな学生にとっても受け入れやすいものである。

■レポート

 2009年7月2日(木)、アメリカ哲学や東洋‐西洋比較哲学、フェミニスト倫理、ジェンダー・セオリーなどを専門に研究されているヘザー・キース氏を迎え、フェミニズムの観点からケアの倫理(the Ethics of Care)について講演をしていただいた。
 キース氏はまず、特にアメリカで広く受け入れられたプラグマティズム(Pragmatism)をジョン・デューイ(John Dewey)やジョージ・ハーバート・ミード(George Herbert Mead)らの思想を挙げながら概説し、さらにプラグマティスト・フェミニズム(Pragmatist Feminism)を代表するジェーン・アダムズ(Jane Addams)の活動を紹介し、プラグマティズムの思想や社会道徳における“empathy”や“sympathy”を持って他者が何を求めているのかを理解することが重要であるという考え方が、ケアの倫理へと受け継がれ発展してきたことを述べた。次に、有名な「ハインズのジレンマ」を使ったコールバーグ(Lawrence Kohlberg)の道徳発達テストに対して、ギリガン(Carol Gilligan)が男児と女児の答えの違いに注目したことについて話は進んだ。ギリガンは、一見、女児が因習的な道徳発達過程に則った答えを出さない傾向にあることは、決して女児が男児よりも道徳発達が未熟であるからというわけではなく、女児の方が男児よりも周りの人々との人間関係や状況を重んじて答えを出す傾向にあるということを指摘した。そしてこのことがフェミニズムにおけるケアの倫理の基礎となった。ギリガンの主張を哲学の分野で発展させたのがネル・ノディングス(Nel Noddings)である。続いてキース氏は、アメリカで盛んなエコ・フェミニズムについて論を進めた。カレン・ウォレン(Karen Warren)は、女性も自然も歴史的に長い間支配されてきたという点で共通していると主張する。さらに彼女は、人間と自然の違い、男女の違いを認め、支配関係なしで「感情移入的な」アプローチが必要であると述べる。まとめとして、キース氏は、道徳理論には合理性や規律だけではなく、感情やケアの感覚も非常に重要であるとした。
 次にコメンテーターを務める院生から、コメントおよび質問があった。芸術哲学を研究する八幡氏は、ケアの倫理において女性がケアと結び付けられることが伝統的なジェンダー・バイアスを再生産するという批判があることを述べ、このことについて今日のアメリカではどのような議論がなされているのかという疑問を提示し、またケアの倫理と正義の倫理相反の関係が実は相互依存の関係にあるのではないかとコメントした。キース氏は返答として、ノディングスが当初、子どもの時に母親からケアされるという経験が、自分がケアする立場になることに重要な意味を持つとしたことが、女性とケアを結びつけると批判されたことによって、“mothering”から“parenting”に表現を変えたことを紹介した。ケアの倫理と正義の対立に関して、アメリカ・インディアンのナバホの例を出し、彼らの間で犯罪が起こった場合の裁判で、罰を与えるためではなく、人間関係を回復するための、つまりケアを含んだ正義が目指されることを紹介し、この事例があらゆる社会においてケアを取り入れた正義を目指すときの示唆になるであろうと述べた。沖野はアメリカ・マイノリティ演劇研究の立場から、ある種のフェミニスト像が日本におけるフェミニズムの浸透を阻んでおり、特に男性から敬遠されていることを述べ、また社会の中心にいる男性がはたして本当にマイノリティである女性の立場に理解を示すことが可能かどうか質問した。キース氏はこのコメントに対して、アメリカでも極端なフェミニストたちがフェミニズムのイメージを悪くしている面はあるが、徹底した平等意識のもと、職場において女性が男性よりも給料が低いなどの差別はほとんどないと返答した。
 フロアからの質問では、ハインズのジレンマに対して女児が持つ合理性が文脈依存型の限定された合理性であるかどうか、ケアの倫理とキリスト教の関係、西洋哲学的なケアの倫理と東洋などの地域の思想との関係、エコ・フェミニズムにおいて自然を女性的と捉える事の問題、ケアの倫理と動物の権利の問題など、さまざまな角度から発言があり、盛んな質疑応答となった。(文責:沖野

 


 

講演会「日系三世映画監督&アーティスト リンダ・オオハマが語る日系カナダ人体験」

  • 講演タイトル:
    • "The Japanese Canadian Experience from Nikkei Sansei Film Director Artist Linda Ohama’s Perspective"
    • (日系三世映画監督アーティスト リンダ・オオハマが語る日系カナダ人体験)
  • 日時:2009年6月25日(木) 15:10~16:40
  • 場所:神戸大学文学部B棟351教室
  • 講演者:Linda Ohama氏(映画監督、作家、ヴィジュアル・アーティスト等として活躍)
  • コメンテーター:吉岡由佳氏(神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程)
  • 司会:Gordon Gamlin氏(神戸大学大学院人文学研究科准教授)
  • 総合司会:山本秀行氏(神戸大学大学院人文学研究科准教授)
  • 使用言語:英語(一部、通訳あり)
  • 共催:神戸大学大学院人文学研究科倫理創成プロジェクト(第29回倫理創成研究会)

 今回のフォーラムでは、日系カナダ人Linda Ohama氏を招き、日系カナダ人の歴史的コンテクストや日本での創作におけるご自身の立場などについて講演を依頼した。開催目的が、異文化共生、広くは倫理問題を学ぶことであったため、神戸大学大学院人文学研究科倫理創成プロジェクトとの共催である。Ohama氏が活動の中心としているカナダの人種・民族問題や自己のルーツ探しについての彼女の講演を聴くことで、参加者はそれらをカナダ同様に多文化主義化する日本や自分自身の問題に反映して考える機会を得るだろう。また、映画監督やヴィジュアル・アーティストとして、大学人とは異なる領域で活躍するOhama氏の仕事内容に触れることは、学生にとって新鮮な刺激となるだろう。

■レポート

 映画やアートの分野で高い評価を得ている日系カナダ人Linda Ohama氏は現在来日中(広島・尾道滞在中)で、日本をテーマに映画を撮っています。今回のフォーラムでは、日系カナダ人の歴史的コンテクストや日本での創作におけるご自身の立場などについて講演をしていただきました。
 カナダのバンクーバー出身のOhama氏は、1991年から映画制作に取り掛かり始めました。その多くはドキュメンタリーです。そして、映画を通してカナダにおける日系人としてのご自身や家族の体験を表現してきました。Ohama氏はご自身が監督されたドキュドラマ(半分ドキュメンタリー半分ドラマの作品)である“Obaachan’s Garden”を解説を交えて上映してくれました。“Obaachan’s Garden”のドキュメンタリー部分では日系一世であるOhama氏のお祖母さんの人生が本人によって語られます。Ohama氏はお祖母さんの100歳の誕生日に彼女の100年の人生を描きたいと思ったそうです。またドラマ部分ではOhama氏の娘さんやいとこも登場します。お祖母さんはほとんど日本語だけしか喋らなかったのでOhama氏は日本語を聴いて理解することはできるそうですが、第二次世界大戦後のカナダでは日系人が日本語を話すことは厳しく禁じられた時期があったため、Ohama氏は日本語を習い始めた時に日本語をしゃべることがなかなかできなかったそうです。“Obaachan’s Garden”の撮影の途中で、お祖母さんは今まで家族にも秘密にしてきた日本での結婚離婚にまつわるエピソードを語り始めました。その中にお祖母さんがカナダへ写真花嫁としてやってきた発端がありました。Ohama氏が初めて日本にやってきたのは、お祖母さんが日本に残した子どもたちを探すためでした。ドラマ部分からは、第二次世界大戦中に広島に原爆が落とされたニュースを聴いた時に、お祖母さんが日本に置いてきた子どもたちのことを心配して非常に取り乱した様子が分かります。この映画は日本でも各地で上映されました。
 コメンテーターの吉岡氏から “Obaachan’s Garden”というタイトルの意味やOhama氏自身の尾道への思いなどについて質問がありました。Ohama氏は前者の質問に対して、お祖母さんが花壇を持っていて、日本から持ってきたバイオリンを花壇の側で弾いていた思い出があるからと答えました。後者の質問にはお祖母さんの出身地である尾道にはOhama氏自身も強いつながりを感じ、自分のDNAの一部であると感じていると答えました。フロアからの質問も盛んに行われ、非常に有意義な講演会になりました。特に、日本と日系人との関係や、自らの体験を映像で表現することについて多く学ぶところがあったのではないでしょうか。(文責:沖野)

 


 

Rhyme not without Reason(脚韻に理由あり)

  • 日時:2009年6月23日(火)17:00~18:30
  • 場所:神戸大学文学部A棟1F学生ホール
  • 報告者:
    • Prof. Peter Edwin Hook (ミシガン大学名誉教授・ヴァージニア大学招聘研究員)
    • "Rhyme not without Reason: Basic word order, information peak, and the use of rhyme in traditional prosodies"
  • 司会:Prashant Pardeshi (人文学研究科講師)
  • Discussant:
    • Jens Östlund (人文学研究科博士前期課程)
    • 寺澤京子 (人文学研究科学術推進研究員)

 P. E. Hook氏は “The Transformational Grammar of Sanskrit: A First Approximation” でM. A. を “The Compound Verb in Hindi” でPh. D. を取得され、研究対象言語は広く、東京大学のILCAA (the Institute for the Study of the Languages and Cultures of Asia and Africa) にも関わっておられた(1999-2000)。特にアジアの言語や詩についての研究は、我々の関心をひくものだが、今回の報告もアジアの詩ghazalに関わる内容で、日本の短歌への言及もある。脚韻の有無と言語の主要語順(VO、OV)、情報の主要部(information peak)との関係は、言語学のみならず、文学など他分野の研究者、学生にとっても興味深いテーマである。2007年には秋田大学で講演されたが、今回、関西来訪の機に、本大学でも報告していただきたいとフォーラムを企画した。

■レポート

 アジアの詩ghazalは、幾つかの2行連句(couplet)から成っていて、脚韻の後に、radifという反復語 (refrain words)も付いている。Hook氏は授業で、学生に英語でghazalを創らせた経験から、言語の語順と脚韻の関係に関連があることに気づいた。
 ギリシャ語やラテン語などの詩では(基本的にOV語順なので)、例外を除いて、脚韻を踏まないことが多い。中世に入り、ヨーロッパ言語も次第にVOの語順をとるようになり、脚韻も発達してきた。一方、東アジアの言語(韓国や日本語)ではOV語順のため、脚韻は不在のことが多い。また、情報の主要部(information peak)の位置も、脚韻と関係する。VO言語では、主要部が句の終わりにくることが多いが、OVではそうではない。キーワードが句の末尾にあるVO言語では、脚韻を踏みやすく、OV言語では頭韻などの方が生じやすい。これらを様々な実例を挙げて、説明された。
 ディスカサントのJens Östlund 氏は、言語の語順は、定動詞あるいは本動詞の位置によって決まるのか、詩では効果を考えて語順を替えることが多いが、それはいかに捉えるべきか、という質問をした。寺澤京子は、日本語は音節ではなく、モーラ(mora)で捉えられ、アクセントはpitchに関わっていて、英語のようにstressではない。それらも脚韻を踏まない原因ではないだろうか。また、脚韻には例外もあり、北原白秋の「からたちの花」は、脚韻を踏んでいるように見えるが、どう考えるべきか質問した。(文責:寺澤京子)