神戸市北区淡河における連携事業

「発見」の経緯
制札の内容と意義
制札に関連する史料
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「発見」の経緯

 このたび、淡河町淡河にある歳田神社で、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が天正7年(1579)と、同8年(1580)に発給した制札(木札)2枚が「発見」されました。
 地域連携センターと、淡河自治協議会、神戸市との連携事業では史料の所在調査のため、情報提供を呼びかけてきました。その中で2004年5月、地元から羽柴秀吉の制札が歳田神社にあるとの情報が寄せられ、地域連携センターが調査に赴き、その存在を確認しました。この制札については、以前から地元の一部では存在が知られており、また近世に写(うつし)によって、かつて存在していたことは知られていましたが、制札の現物が現存していることは、学界をはじめ、広くは知られておらず、今回の調査によって改めて「発見」された形となりました。
 この制札は地元との連携の中で、その存在が再確認され、地域連携センターの調査活動によって、その位置づけや意味が明らかとなってきました。また神戸市教委が神戸市博への寄託や文化財指定に向けて動き、これを実現させました。そうした点で、これは三者の連携の意義をよく示す事例と言えるでしょう。今後も三者の連携をさらに推進していくことが目指されます。

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制札の内容と意義

 制札は桐の箱に、近世の写、および制札の由緒書きとともに収められていました。
 中世(江戸時代以前)の制札は全国で、約100点程度現存が確認されていますが、神戸市内では初の例となります。また、天正7年の制札には「らくいち(楽市)」の文言が見えますが、「楽市」の文言が文面に現れる制札は全国でも3例目(6枚目)、秀吉のものとしては初の事例となります(なお、類例の有無などについては小島道裕国立歴史民俗博物館歴史研究系(中世研究部門)教授のご教示による)。

1.制札の外形的特徴
〔天正7年制札〕

天正七年制札
 かなりの部分で墨が消えて、文字が読みとりづらい状態にあります。墨があった部分は、墨がなかった部分に比べ風化が遅れるため、文字が浮き彫り状に残るので、辛うじて読めますが、判読できない部分もあります。制札の裏面には、掲示する際の棒を取り付けるためと思われる横木が残っており、棒を打ち付けた痕と見られる釘穴もあり、この制札が一定期間、屋外に掲示されていたことは確実です。制札の中央部には縦に割れ目ができており、それを補修するために鎹(かすがい)が打たれています。

〔天正8年制札〕

天正八年制札
 天正8年の制札は、墨が残っているため、文字が肉眼でも読みとれ、赤外フィルムで撮影すればより明確に読みとることができました。制札の上部に、掲示した際に付けたと考えられる屋根が残っています。右半分の部材は制札に釘で打ち付けられた状態で残っていますが、制札の幅からはみ出る部分が欠けています。左半分の部材は、制札から外れていますが、完全な形で残っています。制札の屋根が残っている事例は、全国でも少なく、貴重です。また、制札の右側面に縦にV字状の溝が彫られています。用途は不明ですが、これも他に類例がありません。また、一部に焦げ跡があります。制札の由緒書きの中で述べられている火事のときにできたものである可能性もあります。

2.制札の内容

※文字の判読は、仁木宏大阪市立大学助教授および小島氏のご教示による。

〔天正七年制札〕

〈翻刻〉
  掟条々      淡川市庭
一当市毎月 五日 十日 十五日 廿日 廿五日
 晦日之事
一らくいちたる上ハしやうはい座やくあるへからさる事
一くにしちところしち[      ]□事
一けんくハこうろんりひせんさく□(にヵ)を□□(よハヵ)す双方
 せいはいすへき事
一はたこ銭ハたひ人あつらへ次第たるへき事
右条々あひそむくともからこれあらは地下
人としてからめをきちうしんあるへしきうめいを
とけさいくハにおこなふへき者也仍掟如件
  天正七年六月廿八日   秀吉(花押)

〈読み下し〉
  掟条々      淡川市庭
一、当市毎月、五日、十日、十五日 廿日 廿五日 晦日の事
一、楽市たる上は商売座役あるべからざる事
一、国質・所質[      ]□事
一、喧嘩口論、理非穿鑿に及ばず、双方成敗すべき事
一、旅籠銭は旅人誂え次第たるべき事
右条々相背く輩これあらば、地下人として搦め置き、注進あるべし、糺明を遂げ、罪科に行うべきものなり、よって掟くだんの如し
  天正七年六月廿八日   秀吉(花押)

〈内容〉
 五か条からなり、「淡川市庭」すなわち淡河市場に宛てられています。天正7年6月28日の日付があります。この時期、羽柴秀吉は、織田信長の部将として、中国地方の攻略を担当していましたが、天正6年に、播磨国三木城(現三木市)の別所長治が織田方に反旗を翻したため、これと戦っています。淡河城主の淡河定範は、別所氏に味方しましたが、織田方は淡河城を包囲するための付城を築いて攻撃し、天正7年5月に淡河城は開城しました。淡河定範は三木城へ退去したとも言われます。こうして淡河は秀吉の支配下に入りました。この制札は、その直後に出されたものと考えられ、淡河城の膝下にある淡河町の振興策と考えられます。
 第一条では、月に6日の市日が規定され、淡河市場が六斎市であったことがわかります。
 第二条は、淡河市場を「楽市」と規定し、商売上の課役を免除しています。「楽市」の文言が文面に現れる制札は、ほかに美濃国加納市場(現岐阜市)に出された織田信長および池田元助・輝政の制札が4枚、相模国荻野新宿(現神奈川県厚木市)に出された北条氏のものが1枚確認されているだけで、淡河の事例は3例目(6枚目)、秀吉のものとしては初の事例となります。
 第三条では、「国質」・「所質」という、中世に在地慣行としておこなわれていた質取り行為が禁止されています。
 第四条では、いわゆる喧嘩両成敗が規定されています。第三条と第四条は市場の治安維持を図るものであると言えます。
 第五条では、「はたこ銭(旅籠銭)」についての規定がされています。こうした規定は他に類例がなく、摂津国内から有馬(湯山、現神戸市北区)や三木(現三木市)を経て、姫路に至る有馬街道(湯山街道)の宿場町としての淡河の特色を示すものと考えられます。
 全体として課役の免除と治安の維持による市場の振興を図ったものと言えます。

〔天正8年制札〕

〈翻刻〉
  条々
一当所奉公人何も立置候間可為如先々事
一同町人如有来無異儀可商売事
一下々猥之族不可有之事
 右条々違乱之輩有之者堅可
 加成敗者也仍如件
  天正八年十月廿九日   藤吉郎(花押)

〈読み下し〉
  条々
一、当所奉公人、いずれも立て置き候間、先々の如くたるべき事
一、同町人、有り来る如く、異儀なく商売すべき事
一、下々猥りの族これあるべらざる事
 右条々違乱の輩これあらば、堅く成敗を加うべきものなり、よってくだんの如し
  天正八年十月廿九日   藤吉郎(花押)

〈内容〉
 三か条からなり、宛所は記されていませんが、同様に淡河市場ないしは淡河町に宛てられたものであると考えられます。天正8年、信長から播磨国を与えられた秀吉は、姫路城を修築し、9月には家臣たちに播磨国内に知行地を与えるなど、支配をかためています。天正8年の制札はその一環であるとも考えられます。同じく播磨の三木などにも同年に出された秀吉の制札が残っています。第一条は、武家奉公人が従来どおり淡河町に居住することを認めたものです。第二条は、淡河町の住人の商売の権利を認めたもの。第三条は、治安維持の規定です。
 以上のように双方とも、市場の振興を図ったものであり、近世の淡河本町の基礎を築いたものと言えます。また、天正7年制札では差し出しに「秀吉」と実名(じつみょう)を記し、天正8年制札では「藤吉郎」と仮名(けみょう)を用いていますが、この違いについては、改めて秀吉の発給文書全体の中に位置づけて検討してみる必要があるでしょう。現在知られている天正7年、8年に秀吉が播磨国内に発給した制札の内、「秀吉」を用いているのは、天正7年の淡河宛てのものと、三木城落城直後の天正8年正月に、三木に出されたもののみで、それ以降はいずれも「藤吉郎」を用いており、秀吉の播磨支配の安定とも関係があるかもしれません。
 このように、制札は研究上の価値を持つだけでなく、秀吉や楽市令など教科書にも登場する広く知られた事項が見られるこの制札は、淡河の歴史に関心を持ってもらうきっかけとして、今後、町づくりなどにも活用が期待されます。

(文責:村井良介)

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制札に関連する史料

 制札と合わせて、いくつかの関連史料も発見されました。制札は江戸時代中期まで、明石藩の淡河組大庄屋を務めた村上家に伝わっていたことが明らか(木村・村井2005年)ですが、制札と同じ箱には江戸時代に作成された「由緒書」が収納されていました。次にこれら制札関連史料を紹介してゆきます。

〔淡河町由緒書〕 貞享3年(1686)12月
〈翻刻〉
   覚
古へ淡河上山之城主淡河弾正殿・別所甚太夫殿右両人ハ三木之城主別所小三郎殿御一族、天正年中 太閤様三木之城御責被成候節、上山之城ハ有馬法印・同四郎次郎殿江従 太閤様被 仰付、御落城之節甚太夫殿ハ夜ニまきれ御忍出、三木之城へ御引籠、其後有馬法印・同四郎次郎殿へ、御城主法印御所替已後ハ姫路御領分ニ成、池田三左衛門殿御支配、其後より古城ニ成
右之城御責被成候寄手之大将 太閤様より被仰付
寄城本城より東ニ当テ四丁有馬法印付城
同南ニ当て弐丁半有馬四郎次郎殿付城
同西南ニ当て弐丁浅野弾正殿付城
同北ニ当て八丁余杉原七郎左衛門殿付城
木津之城天正年中之比有馬法印御取立、則御城主也、淡河之城へ御移り被成候節より古城ニ成、往還より南ニ当て弐丁余
淡河町ハ古へ中村と申在所にて、道筋ニ漸家弐拾軒計有之候、然所 太閤様西国御発向之時、中村□(ニ)両度迄御滞留被遊 上意ニ者海辺通路停止之事ニ候間、此道筋往還ニ可然候、□(中)村を宿次之町ニ取立候様ニと有馬法印へ被 仰付、大庄屋藤兵衛先祖喜兵衛を被召出 太閤様江御目見被為 仰付、町取立申様ニとの蒙 上意、牢人或ハ町人共相集、屋鋪を申請、町並能宿次ニ罷成次第ニ栄へ、太閤様御機嫌能、月ニ六日之市日を御定、御制札ニ御直々御判被成下、町之支配諸事喜兵衛ニ被為 仰付、則同心五人被付置、弥町繁昌ニ罷成候、依之諸役御赦免之御証文被下置候、大庄屋喜兵衛江為御褒美、御検地之節高拾石御赦免御証文頂戴仕候、御守護法印様御所替にて、姫路御領分池田三左衛門様御知行所ニ成、然処ニ九年之内町中三度火事ニ相、御証文不残消失仕、漸御札場ニ有之候御制札相残、其後御証文之申請度旨三左衛門様御役人中へ申達置候処、御所替ニ付、弥御証文申請度と願候へハ、御所替之砌故重而之御守護様へ御伝置可被下由にて出不申候、小笠原右近様御入城已後諸事御尋ニ付、町之由緒申上候へハ、御家老原与右衛門殿御取次にて御免許之御証文并大庄屋藤左衛門自分之御証文弐通頂戴仕、夫より御代々御守護様御証文被下置所持仕候
                        淡河大庄屋
 貞享三年                       藤兵衛
  寅極月
右者松平若狭守様御家来大田一右衛門殿へ書上ル
〈読み下し〉
   覚
いにしえ淡河上山の城主淡河弾正殿・別所甚太夫殿右両人は、三木の城主別所小三郎殿ご一族。天正年中太閤様三木の城お責めなされそうろう節、上山の城は有馬法印・同四郎次郎殿へ太閤様より仰せ付けられ、ご落城の節甚太夫殿は夜にまぎれお忍び出で、三木の城へお引き籠り。その後有馬法印・同四郎次郎殿へ。ご城主法印お所替え已後は姫路ご領分になり、池田三左衛門殿ご支配。その後より古城に成る。
右の城お責めなされそうろう寄せの大将太閤様より仰せ付けらる。
寄せ城、本城より東に当て四丁有馬法印付け城。
同じく南に当て弐丁半有馬四郎次郎殿付け城。
同じく西南に当て弐丁浅野弾正殿付け城。
同じく北に当て八丁余杉原七郎左衛門殿付け城。
木津の城天正年中のころ有馬法印お取り立て、すなわちご城主なり。淡河の城へお移りなされそうろう節より古城に成る。往還より南に当て弐丁余。
淡河町はいにしえ中村と申す在所にて、道筋にようやく家二十軒ばかりこれありそうろう。しかるところ太閤様西国ご発向の時、中村に両度までご滞留遊ばされ、上意には、海辺通路停止の事にそうろうあいだ、この道筋往還にしかるべくそうろう。中村を宿次ぎの町に取り立てそうろう様にと有馬法印へ仰せ付けらる。大庄屋藤兵衛先祖喜兵衛を召し出され太閤様へお目見え仰せ付けなされ、町取り立て申す様にとの上意を蒙り、牢人あるいは町人どもあい集め、屋鋪を申し請け、町並よき宿次ぎにまかり成り、次第に栄え、太閤様ご機嫌よく、月に六の市日をお定め、ご制札におん直々ご判成し下され、町の支配諸事喜兵衛に仰せ付けなさる。すなわち同心五人付け置かる。いよいよ町繁昌にまかり成そうろう。これにより諸役ご赦免のご証文下し置かれそうろう。大庄屋喜兵衛へご褒美として、ご検地の節高拾石ご赦免ご証文頂戴つかまつりそうろう。ご守護法印様お所替えにて、姫路ご領分池田三左衛門様ご知行所に成る。しかる処に九年のうち町中三度火事にあい、ご証文残らず消失つかまつり、ようやくお札場にこれありそうろうご制札あい残り、その後ご証文の申し請けたき旨三左衛門様お役人中へ申し達し置きそうろうところ、お所替えに付き、いよいよご証文申し請けたしと願いそうらえば、お所替えのみぎりゆえ、重ねてのご守護様へお伝え置き下さるべき由にて出で申さずそうろう。小笠原右近様ご入城已後諸事お尋ねに付き、町の由緒申し上げそうらえば、ご家老原与右衛門殿お取り次ぎにてご免許のご証文ならびに大庄屋藤左衛門自分のご証文二通頂戴つかまつり、それよりおん代々ご守護様ご証文下し置かれ所持つかまつりそうろう。
                        淡河大庄屋
 貞享三年                       藤兵衛
  寅極月
右は松平若狭守様ご家来大田一右衛門殿へ書き上げる

由緒書(部分)
▲由緒書(部分)

〈内容〉
 「由緒書」は八ヶ条からなっています。
 一条目は淡河城の元城主淡河氏と別所氏が三木城の別所氏の一族であり、秀吉による淡河城攻めに当たっては有馬法印と有馬四郎次郎によって攻められたことが書かれています。落城後は有馬氏が城主となったが、同氏が三田へ所替えとなった後は、淡河の地は姫路城主池田氏の所領となり、淡河城は廃城となったとあります。
 二条目は淡河城攻めが秀吉によって攻囲軍が編成されたこと。
 三条目は淡河城攻めのための陣所として、淡河城からみて東へ4町(およそ400メートル)の地点に有馬法印の付け城が設けられたこと。
 四条目は、同じく南へ2丁半(およそ250メートル)の地点に有馬四郎次郎の付け城が設けられたこと。
 五条目は、同じく西南へ2丁(およそ200メートル)の地点に浅野弾正の付け城が設けられたこと。
 六条目も同じく北へ8丁余(およそ800メートル余り)の地点に杉原七郎左衛門の付け城(天正寺城)が築かれたことが記されています。
 七条目は、木津の城すなわち淡河の東方に位置した萩原城について、天正年間に有馬法印によって築かれ、有馬氏が淡河城主に転ずるに及んで廃城になったことが記されています。
 以上の条目が専ら秀吉の淡河城攻め前後のことがそれぞれ比較的簡単な文章で書かれているのに対し、八条目だけはかなりの長文で、内容も七条目までとは趣を変え、淡河町および淡河組大庄屋村上家の由緒書とも言える内容になっています。これこそが本文書を「由緒書」と呼ぶゆえんですが、ここでは八条目を中心に内容を掲げておきます。
 「由緒書」第八条は、次のようなことを語っています。

  1. 淡河町は秀吉以前には道筋に二〇軒ほどの家があるだけの村だった。
  2. 当時秀吉の属する織田信長方の敵であった荒木村重方の勢力により「海辺通路停止」という状態だったため、淡河を通過する湯山街道を秀吉方の主要往還とし、淡河町を「宿次之町」に取り立てた。
  3. 貞享当時の大庄屋だった藤兵衛の先祖喜兵衛を召し出し、秀吉自ら「町取立」を命じた。
  4. 牢人や町人が集住し町が次第に栄えてきたので、月に六日の市日を指定し制札を発給した。
  5. 町の支配を喜兵衛へ委任し同心を五人付属させた。
  6. 町に対し「諸役御赦免之御証文」が発給された。
  7. 「大庄屋喜兵衛」へ褒美として「御検地之節高拾石御赦免御証文」が発給された。
  8. その後淡河の領主が有馬則頼から姫路城主池田輝政へ代わるが、その頃淡河町が九年間に三度の火災に見舞われ、秀吉から発給された証文類が全て焼失した。
  9. 秀吉発給のものとしては制札だけが焼失を免れた。
  10. 池田家へ対し証文の発給を願ったが、転封のため結局証文の発給がなされなかった。
  11. 新たに淡河の領主となった明石藩主の小笠原家へ町の由緒を上申し、家老より「御免許之御証文并大庄屋藤左衛門自分之御証文」二通の発給を受けた。
  12. それ以後、小笠原家→松平(戸田)家→大久保家→松平(藤井)家→本多家→松平家と目まぐるしく交替する代々の明石藩主それぞれから証文を受給してきた。

この「由緒書」は控えで、本物は貞享3年当時の明石藩主松平(越前)家の家臣に提出されたことが分かります。秀吉の時代よりおよそ100年経過してから作成されたものなので、ここに書かれている内容が全て真実であると言い切ることは困難ですが、なぜ淡河の地に秀吉の制札が存在するのかを考えるうえで、たいへん貴重な情報を含んだ史料といえるでしょう。
 また、制札とは別の箱(文箱)に、歴代明石藩主の証文なども数点残っていました。これらは先の「由緒書」に「諸役御赦免之御証文」と記されたものにほかなりません。いずれも歴代明石藩主から淡河町として課役免除を認められたもので、まさしく近世に羽柴秀吉時代以来の淡河町のもつ特権が公認されていたことになります。以下に紹介してゆきましょう。

*   *   *

〔小笠原忠真判物(諸役免除)〕 元和6年(1620)2月3日

〈翻刻〉
(包紙ウハ書)
「右近様   淡河町中」
(端裏付紙)
「右近殿證文淡河町中」
如先代有来候淡河町中諸役令免許者也
 元和六年二月三日  (花押)
                       淡河町中
                          庄屋藤左衛門
〈読み下し(本文のみ)〉
先代のごとく有り来たりそうろう淡河町中諸役免許せしむものなり。

小笠原忠真判物
▲小笠原忠真判物

〔松平康直判物(諸役免除)〕 寛永10年(1633)9月11日

〈翻刻〉
(包紙ウハ書)
「丹波様   淡河町中」
如先代有来候淡河町中諸役令免許者也
 寛永拾九月十一日 (花押)
                      淡河町中
                          庄屋藤左衛門
〈読み下し(本文のみ)〉
先代のごとく有り来たりそうろう淡河町中諸役免許せしむものなり。

松平康直判物
▲松平康直判物

〔大久保忠職判物(諸役免除)〕 正保2年(1645)11月15日

〈翻刻〉
「加賀様  淡河町中」
任先代之証文、淡河町中諸役令免許者也
 正保二年十一月十五日 加賀(花押)
                            淡河町中
〈読み下し(本文のみ)〉
先代の証文に任せ、淡河町中諸役免許せしむものなり。

大久保忠職判物
▲大久保忠職判物

〔松平忠国判物(諸役免除)〕 慶安4年(1651)5月13日

〈翻刻〉
「淡河町中」
三木郡淡河町中歴代之証文、実正之上任先規諸役免除不可違背、仍為来証如件
                         松平山城守
慶安四辛卯年五月十三日                忠国(花押)
                       淡河町中
〈読み下し(本文のみ)〉
三木郡淡河町中歴代の証文、実正のうえ先規に任せ諸役免除違背すべからず。よって来証のためくだんのごとし。

松平忠国判物
▲松平忠国判物

〔松平直明黒印状(諸役免除)〕 貞享3年(1686)11月2日

〈翻刻〉
(包紙ウハ書)
「淡河町中」
美嚢郡淡河町中諸役任先規免除之者也
 貞享三年十一月二日 (印)
                            淡河町中
〈読み下し(本文のみ)〉
美嚢郡淡河町中諸役先規に任せこれを免除するものなり。

松平直明黒印状
▲松平直明黒印状

以上の制札関連史料は、制札本体とともに神戸市指定文化財に登録されました。
 このほかにも、歳田神社には、近世から近代にかけての淡河町で作成された多くの史料が保管されていました。今後こうした史料群から淡河町を中心とする淡河全体の歴史が明らかにされることが期待されます。

(文責:木村修二)

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