古典ゼミナール
「『他者と欲望』をめぐる現代思想研究会」2009年度開催記録

 

 

>>2010年度の古典ゼミナール一覧

>>2008年度の古典ゼミナール一覧

 

 

第1回

  • 開催月日:2009年7月1日
  • 場所:人文学研究科A棟4階共同談話室
  • 参加学生一覧:6名
  • 報告者:食見

第1回レポート

 今回は初めての開催だったので、自己紹介や今後の方針などについて話し合った。自己紹介では参加者たちの関心が実に多岐に渡ることが確認されたので、各人は今後の相互的な影響に期待を抱くことができたのではないだろうか。参加者たちの関心を抱く領域に関しては、スピノザ、バタイユ、ヴェイユ、バーリン、ベンヤミン、コジェーヴなどの名前が挙がっていた。
 また今後の方針については次のようになった。まずアンソニー・ギデンズによる著作『近代とはいかなる時代か』を中心的に読む。しかしこの本自体はできるだけ早い段階で読み終え、それ以降は、ギデンズに対する学会の応答や、あるいはそこから各人の関心に引き寄せた内容を、ゼミの形式も含めて柔軟に対応していく。開催の頻度は、各人の研究の負担にならないように配慮して、月一回程度とする。
 ひとまず次回のゼミでは、『近代とはいかなる時代か』の第1章について議論されるほか、ギデンズに対する学会の応答についても参照される予定である。またこれらについてそれぞれの担当者はレジュメを作成してくることになっている。(文責:食見)

 


 

第2回

  • 開催月日:2009年7月22日17:00~19:30
  • 場所:人文学研究科A棟4階共同談話室
  • 参加人数:7名
  • 使用テキスト:
    • 『近代とはいかなる時代か?』アンソニー・ギデンズ,松尾 精文、小幡 正敏訳,而立書房,1993年
    • 『政治的なものについて』シャンタル・ムフ,酒井隆史監訳,明石書店,2008年
  • 報告者:大家

第2回レポート

 今回のゼミではギデンズの『近代とはいかなる時代か?』(以下、『近代』)の第一章をレジュメ形式で検討した。次いでギデンズの批判者であるシャンタル・ムフの『政治的なものについて』を大まかに見、ギデンズに批判的な立場を外観的に把握しようと試みた。しかしながら『近代』第一章の段階では明確なギデンズの主張とバックグラウンドを把握することは困難であり、その結果ムフによるギデンズ批判も上手く消化できなかった。
 そこで以降は、ムフによる批判を一旦端に置き、何回かに分けて『近代』を読み下した後で、改めて取り上げることとしたい。次回は『近代』の第二章と第三章を予定している。

『近代』第一章のまとめ

モダニティが示すダイナミズムの、主要な三源泉は以下であり、これらは相互に関連している。
 《時間と空間の分離》…時空間が無限に拡大化してゆく条件になった。また時間と空間の正確な帯状区分の手段となった。
 《脱埋め込みメカニズムの発達》…社会活動をローカルな脈絡から「引き離し」た。また社会関係を時空間の広大な隔たりを超えて再組織してゆく。
 《知識の再帰的専有》…社会生活に関する体系的知識の生成は、システムの再生産に不可欠な要素となり、社会生活を伝統の不変固定性から解放する。
 脱埋め込みメカニズムは以下のように抽象的に説明できる。《象徴的通標》と《専門家システム》は、《信頼》を必然的に伴い、《信頼》は根拠薄弱な機能的知識に基づく確信とは異なる。《信頼》は、リスクのある環境のなかで機能し、様々な度合いの安心(危険に対する防護)を得ることができる。
 社会的活動に再帰的に適用されてゆく知識には、次の四組の要素が浸透している。
 《権力の格差》…一部の人びとや集団が、専門的知識を、他の人たちや集団よりもたやすく専有できること。
 《価値の役割》…価値と経験的知識は、相互影響のネットワークのなかで結びついているということ。
 《意図しなかった帰結の影響》…社会生活に対する認識は、そうした認識を変革目的で用いようとする人々の意図を超越していくということ。
 《再帰性…二重の解釈学における社会的知識の循環作用》…社会システムの再生産の際に再帰的に用いられる知識は、その知識が最初に論及していった状況を、内在的に作り変えてゆくということ。

シャンタル・ムフ、『政治的なものについて』まとめ

ムフの批判対象
  西洋社会の「常識」:現在までに達成された経済的政治的発展の段階は、人間性の進化における大いなる前進であり、それが切り開く可能性を賞賛すべきである。集合的紐帯から解放された個人は、時代遅れのあれやこれやの桎梏にわずらわされることなく、多様な生活様式をはぐくむ営みに専念できる。「自由世界」は共産主義に勝利し、そして、集合的アイデンティティの弱体化にともない、「敵なき」世界がいまや実現可能になる。党派的な対立は過去のこととなり、対話を介した合意が可能になり、グローバリゼーションやリベラル民主主義の普遍化のおかげで、平和なコスモポリタン的未来を期待させる。

ムフのギデンズ批判
 ギデンズの描く近代政治の特徴
 ①望まれた成果は上層部から決定されない。②能動的な信頼が構築され維持されるための状況が作り出される。③特定のプログラムや政策によって影響を被る人々に自立が認められる。④物質的な富を含む自立性を高める諸々の資源が生成される。⑤政治が脱中心化する。
 このことにより、自立の価値が浸透していくことで利害の対立が公共的な議論によって解決される。
 しかし、このようなギデンズの見方ではわれわれ/彼らという形で集合的アイデンティティが見いだされることはない。(文責:大家)

 


 

第3回

  • 開催月日:2009年9月16日17:00~19:30
  • 場所:人文学研究科A棟4階共同談話室
  • 参加学生一覧:7名
  • 使用テキスト:
    • 『近代とはいかなる時代か?』アンソニー・ギデンズ,松尾 精文、小幡 正敏訳,而立書房,1993年
    • 『政治的なものについて』シャンタル・ムフ,酒井隆史監訳,明石書店,2008年

第3回レポート

 ギデンズが提唱する、前近代から近代への移行プロセスにおける「脱埋め込み」という概念に対して、「そもそも、近代における主体はそんなに簡単に(容易に)脱埋め込みできるのか?」という問いを発端とする議論、そして、ポスト近代という立場から捉える「〈主体〉」、近代という立場から捉える「主体」、再帰的近代という立場から捉える「主体」の比較を基にした議論は、特に興味深かった。
 他専攻の方と議論すること、及びたわいもない会話を交わすことは、学問的な面で非常に良い刺激になったし、何より、単純に楽しかった。
 ギデンズのこの著作は、冷戦が終わる1989年に、これからわれわれの社会がどのように変化していくかを考察したという点で意義深い著作である。しかし、9.11以降の新しい国際関係情勢や技術の進歩による新たな社会状況の発生、度重なる不況に見え隠れする資本主義システムの欠陥などを経験している現代の置いては、その主張は留意なしに読むことは危険であるように思われる。(文責:大家)

 


 

第4回

  • 開催月日:2009年10月14日17:00~19:30
  • 場所:人文学研究科A棟4階共同談話室
  • 使用テキスト:
    • 『近代とはいかなる時代か?』アンソニー・ギデンズ,松尾 精文、小幡 正敏訳,而立書房,1993年
    • 『政治的なものについて』シャンタル・ムフ,酒井隆史監訳,明石書店,2008年

第4回レポート

 第4章の感想:この章でギデンズは前半で親密性という人間の関係性の変容、後半で近代以後に現れたリスクに対しての向き合い方を論じている。前者の方ではゲゼルシャフト、ゲマインシャフト的な対立項を置く既存の社会学の説明とは違った捉え方で述べており、非常に興味深かった。後者のリスクに関して我々がとるスタンスとしてのある種の麻痺感覚と「運命の女神」は非常におもしろく、この世界不況の時代、成長なきゼロ年代を生きる私たちにとっての再呪術化とリンクしたと考えるとさらに興味深かった。と、同時にオバマ大統領がノーベル平和賞を受賞した直後ということもあり、核廃絶におけるギデンズの考え方はもちろん今の時代にも生きてくるものであると思った。
 他専修の方と意見を交換できる機会は極めて少なく、時折、私自身議論がタコツボに陥りがちかと思う私にとっては非常に貴重な経験であり、同時にこのような機会がもっと増えればとも思う。
 第4章では「親密な関係性」や「信頼」の在り方が近代化に伴ってこうむる変容について論じられており、本著全体のまとめたる第5章では近代的システムを凌駕するものとして「ポスト・モダニティ」の輪郭が素描される。
 ギデンズの論の進め方に対する疑問点を参加者が挙げていく中で、ギデンズは「信頼」について、個人に対するものとシステムに対するものとを一括して論じており、またその「信頼」の強度や質に対しても注意が払われていない、という指摘が導かれた。

 


 

第5回

  • 開催月日:2009年12月17日(木)
  • 場所:人文学研究科A棟521共同談話室
  • 報告者:吉中智里(芸術学M1)
  • 参加者:8名
  • 使用テキスト:
    • 『現代思想の冒険者たちラカン 鏡像段階』(2005、福原泰平、講談社)

第5回レポート

 福原野泰平著『ラカン —鏡像段階』の第二章「鏡像段階論」を講読し、それに関する議論を行った。
 人間の自我が、鏡に映ったイメージの誤認と、それを承認する他者のまなざしによって形成されるという鏡像段階理論を学習した。ここでは、鏡像を承認する他者=象徴界について、この概念と「コモンセンス」との共通点が指摘されたのが興味深かった。
 またラカンの、鏡像段階理論をはじめとする理論全般の図式性についても議論された。我々の現実の経験や感情は、シェーマLの図式に還元しきれないのではないかという疑問や、ドゥルーズ=ガタリによってなされた批判をふまえた上で、現在ラカンを読み直すとはどのようなことなのか、という問題意識の必要性が明らかとなった。(文責:吉中智里)

 


 

第6回

  • 開催月日:2010年1月28日
  • 場所:人文学研究科A棟4階演習室
  • 参加学生一覧:6名
  • 使用テキスト:
    • 『現代思想の冒険者たちラカン 鏡像段階』(2005、福原泰平、講談社)

第6回レポート

第三章 父の名前

ラカンの「父の名」の概念を中心に、幼児が鏡像段階=想像界から禁止の審級としての父の介入により象徴的世界を獲得するに至る過程を追う章。難解であった。院プロとして、この本をどのようにして読んでいくのかが話題になった。各自の専門や興味に沿って読み進めて、意見を交わす方向でまとまった。
他専修の方と意見を交換できる機会は極めて少なく、時折、私自身議論がタコツボに陥りがちかと思う私にとっては非常に貴重な経験であり、同時にこのような機会がもっと増えればとも思う。 (村田)

第四章 シニフィアン

 ジャック・ラカンはフランスの精神分析医。医師として多くの患者さんと向き合う一方、そうした治療の経験を通じて身に付けた独特の精神分析の手法と人間精神への洞察によって、精神分析ラカン派の祖となったのみならず構造主義をはじめとする現代思想に大きな影響を及ぼし続けている思想家ともなった人物である。
 我々「他者と欲望を巡る現代思想」研究会の参加者は、このラカンの難解といわれる思想をラカンその人の紹介も交えてある程度一般向けに解説した本『現代思想の冒険者たちラカン 鏡像段階』(2005、福原泰平、講談社)を購読しそこから議論を深めることで、ラカンの思想に触れて来た。今後は別のテキストを用いてさらに精神分析一般への理解を深めていく計画である。研究会は月に一回の頻度で木曜の夕方五時か六時ごろに開かれるが、毎回議論が白熱して終わるのは八時を過ぎた頃というのが通例である。今回用いた福原氏の著作は本文300ページ程で十の章から成る本であるが、我々は毎回二人の人が一章分ずつレジュメを作って来て発表しその後参加者全員による議論を行うという形で研究会を進めた。現在までに読めたのは第一章から五章までであり、全体の半分である。内容的には、本書の副題にもなっている「鏡像段階」(第二章)をはじめ「シニフィアン」(第四章)、「父の名前」(第三章)といったラカンの思想における重要概念の解説や、ラカンの思想を記号という観点から捉えた記述(第五章)を読み、ラカンの思想の基本を学んだ。
 個人的に、この研究会に参加する前ラカンについてはほとんど知識を持っていなかったが、プラグマティズムと現代記号論の創始者チャールズ・サンダース・パースを研究している者として、記号を「シニフィアン」として重視しているラカンの思想に関心を持ち参加した。実際レジュメの制作と発表では「シニフィアン」の章を担当させて頂いた。もっとも、同じように人間の思考における記号的なものの働きに注目しているとはいっても、記号の性質やその働きの結果としての人間の思考に対する考えは、ラカンとパースとでは大きく異なる。特に、ラカンが記号シニフィアンの発生や人間の思考における性的な要素に注目するのに対して、パースの議論には性的な要素はなく(せいぜい後期の宇宙論で宇宙の進化を司るところの愛と共感の作用「アガペー」が語られる程度)記号が合理的・科学的思考を成立させるものとして捉えられている点が大きく異なる。
 このようにパースとラカンとでは記号に対する位置づけが大きく異なるのに本書の第四章「シニフィアン」では記号に関する両者の思考が安易に並列されている(127ページ)など、今回用いたテキストには気を付けて読まなければならない箇所が結構たくさん存在する。また文体も一部気取ったようになっていて読みにくい。しかし基本的には優れた入門書であると思う。ラカン自体が非常に重要な内容を難解な言葉で語っていたのであるから、解説書もある程度不完全、難解なものにならざるを得ないであろう。
 何故そんな難しい思想にあえて取り組むのか、知的好奇心と挑戦心である。長大で難解な古典文学も理解しにくい哲学書も、あるいは新しい外国語も理論物理学も、取り組んで制覇する事が難しいというまさにその性質によって若人を引き寄せる。青年たちが夢中になるものは、なんだっていいのである。そして、ラカンの思想をはじめ人文科学系の学問というのは決まった答えがないため探究に終わりがない。意欲ある者の知的探究心、真摯な努力を無現に受け止めてくれるのが、学問の特に人文科学の良いところである。人文科学の営みが途絶えてしまえば、人々の行き場を失ったエネルギーは無益な闘争に向かうか空しく萎えてしまうかのどちらかであろう。人文科学の営みが続き我々がその営みに加わり続ける限り、我々は常に上を向いていられて、しかも活き活きしていられるのである。(梅田紘輝)

(文責:大家慎也)