古典ゼミナール
「ジェンダー論研究会」2009年度開催記録

 

 

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山本秀行『アジア系アメリカ演劇―マスキュリニティの演劇表象』書評会

山本秀行『アジア系アメリカ演劇―マスキュリニティの演劇表象』書評会山本秀行『アジア系アメリカ演劇―マスキュリニティの演劇表象』書評会
  • 兵庫津・神戸研究会/ジェンダー論研究会合同古典ゼミナール
  • 開催月日:2009年5月7日(木)
  • 場所:人文学研究科A棟3階共同談話室
  • 参加人数:14名
  • 報告者:磯貝真澄
  • 司会:沖野真理香

山本秀行『アジア系アメリカ演劇―マスキュリニティの演劇表象』書評会レポート

2009年5月7日に、山本秀行氏 (本学准教授、アメリカ文学)の近著『アジア系アメリカ演劇―マスキュリニティの演劇表象』(世界思想社、2008年)の書評会が開催された。評者は大津留厚氏(本学教授、西洋史)、コメンテーターは沖野真理香(学生研究支援員、アメリカ文学)、司会は磯貝真澄氏(学生研究支援員、東洋史)が務めた。
 本書はアメリカのアジア系移民による演劇におけるアジア系男性のマスキュリニティの描かれ方について論じたものである。まず大津留氏は、本書の内容を的確にまとめつつ、私たち日本人には理解することが難しく感じられる外国の演劇について深く理解し論じることに成功している本書を高く評価した。大津留氏は『グラン・トリノ』(クリント・イーストウッド監督・主演、2009年日本公開)や宇沢美子『ハシムラ東郷―イエローフェイスのアメリカ異人伝』(東京大学出版会、2008年)などを比較に挙げ、本書で議論の基盤となっている「アジア系」という人種カテゴリーが持っている意味や、「アジア系アメリカ人対白人」という「対白人」二項対立がアメリカにおける人種的マイノリティの問題のすべてではなく、それぞれの人種的マイノリティの人々は白人以外の人種の人々とも複雑に絡み合った関係があり、そこにも注目しないと現代のアメリカ多文化主義社会の本当の姿は描けないのではないか、と意見を述べられた。沖野は演劇・文学研究の立場から、アジア系男性のホモソシアリティやアジア系演劇に描かれている白人男性のマスキュリニティ、アジア系女性劇作家の作品におけるアジア系男性の主体の再構築の可能性についてコメントした。
山本氏は大津留氏の意見への返答として、多文化主義が「白人対その他の人種」という構図をとっていることに疑問を抱き始めていると語った。山本氏は、この構図を崩さない限りはいくら多文化主義を掲げても白人は白人、有色人種は有色人種のままなのではないかと指摘し、この構図を打破する要素として混血やハイブリディティやポリ・カルチュラリズムに目を向けた研究が今後の課題であると述べた。  フロアを交えての質疑応答では、ヨーロッパでのアジア系男性の捉えられ方、ヨーロッパ男性のマスキュリニティ、演劇におけるオーディエンス(ターゲット)の問題、歴史におけるマスキュリニティの指標の揺らぎ、メディアにおけるステレオタイプ的マスキュリニティなど本書のテーマをめぐって色々な角度から議論が交わされ、専門分野の垣根を越えてさまざまな参加者が集った本書評会は非常に活発なものとなった。(文責:沖野)

 


 

第9回

  • 開催月日:2009年12月14日
  • 場所:人文学研究科A棟4階共同談話室
  • 参加人数:4名
  • 報告者:金成珉(社会学M2)

第9回レポート

 ジェンダー論研究会の第9回(2009年度後期第3回目)古典ゼミナールの報告は、社会学院生の金成珉氏が担当した。テキストは引き続きジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』(竹村和子訳, 青土社, 1999年)を使用し、金氏は本書の第2章「禁止、精神分析、異性愛のマトリクスの生産」の1~2節(pp.77~113)をまとめて報告した。
 第2章でバトラーは、レヴィ=ストロースやラカン、リヴィエールらを持ち出し、フェミニズム理論とジェンダーのパフォーマティヴィティをめぐり、構造主義の観点から、法のまえに身体が存在するか否かについて議論を深める。今回も専門用語や哲学概念の確認を行いながら読み進めたが、特に第2節以降は議論の複雑さが一層増し、参加者が読解に苦しむ箇所が多くみられた。
 今回の範囲は問題の提起にとどまっているため、参加者が挙げた疑問点で、これまで読んできた範囲から答えを導くことができないものについては、次回(第2章後半部分)の報告後にまとめて議論することにした。(文責:沖野)

 


 

第10回

  • 開催月日:2010年1月25日 17:00~
  • 場所:人文学研究科A棟4階共同談話室
  • 参加人数:4名
  • 報告者:磯貝真澄(文化学研究科OD)

第10回レポート

> ジェンダー論研究会第10回例会は、ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』(青土社、1999年)第2章「禁止、精神分析、異性愛のマトリクスの生産」の第3節から第5節(p. 75-147)を検討した。  第3節と第4節で著者バトラーは、フロイトの近親姦タブーと同性愛タブーの議論を批判的に検討し、フロイトとラカンやリヴィエールの議論とのあいだに存在する矛盾を指摘して、精神分析理論の問題を追及する。著者は第5節ではフーコーの理論を援用し、精神分析理論に依拠したフェミニズム理論の限界を鋭く指摘する。彼女によれば、精神分析における法(抑圧)の概念はジェンダーを生産し、増殖させるものであった。それゆえフェミニズム理論が精神分析理論を援用することは、適切でないということになる。
 『ジェンダー・トラブル』を読むことは、哲学を専門としない大学院生にとっては、学部の教養の授業で学習した事柄を、発展的に思い出す作業でもある。(文責:磯貝)

 


 

第11回

  • 開催月日:2010年2月8日
  • 場所:人文学研究科A棟
  • 参加人数:3人
  • 報告者:沖野真理香(英米文学D3)

第11回レポート

 今回の報告では、沖野がジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』(竹村和子訳, 青土社, 1999年)の第3章「攪乱的な身体行為」第1~2節(p.149~p.198)をまとめた。
 この範囲では、ジュリア・クリステヴァによるジェンダーの攪乱とミシェル・フーコー自身のセクシュアリティ理論の齟齬に対するジュディス・バトラーの批判が述べられている。
 クリステヴァはラカンに挑戦するのだが、彼女の主張の不備や矛盾がバトラーによって明らかにされる。特にバトラーがクリステヴァを批判している点は、クリステヴァがレズビアニズムを「理解不能なもの=精神病」としているところである。バトラーはフーコーを引き合いに出し、クリステヴァの論を批判するのだが、次節ではフーコーの矛盾点をも暴きだして見せる。
 フーコーはエルキュリーヌの日記によって、半陰陽的あるいは間性的な身体が、セックスのカテゴリー化という規制的な戦略を暴き、それに異を唱える様子を提示したいのだが、エルキュリーヌの二律背反はフーコーの理論の限界を示すとバトラーは考える。
 今回のゼミナールは参加者がいつもより少なかったため、重要箇所をより慎重に読解する必要があった。 (文責:磯貝)