◇概要
東南アジア沿海域圏調査グループでは、今後、以下の地域の調査を予定している。調査国および調査地の概要は以下の通りである。
I.インドネシア共和国

国土面積、約189万平方キロメートル(日本の約5倍)であり、人口は2004年推計で2億人を超えている。首都ジャカルタの人口は2003年推計で864万人。民族構成は、大別すると大半がマレ?系に属するが、ジャワ、スンダ等、20以上のエスニックグループに分かれている。
言語は、インドネシア語であるが、それぞれのエスニックグループの言語も使用されている。宗教は、イスラム教が多数派を占め(87.1%)、その他はキリスト教8.8%、ヒンズ?教2.0%と続く。現在、世界最大のイスラム教国であり、東南アジアの「大国」となりつつある。中世時代は、季節風を利用した東南アジアの交易ネットワークの中で活躍するいくつもの小王国が栄えたが、17世紀以降、オランダの植民地化が進行する。1940年代、短期間の日本の占領下を経て、1945年、旧オランダ領植民地であった地域が一つの「インドネシア共和国」として独立。その後、1965年9.30事件以降、スハルトによる長期軍事政権が続いたが、1998年5月、スハルト大統領辞任、ハビビ副大統領が大統領に。1999年6月、新しい制度の下で総選挙実施。10月、国民協議会においてアブドゥルラフマン・ワヒッドが第4代大統領に選出。?2001年7月、ワヒッドは国民協議会特別総会で解任され、同日、メガワティ副大統領が大統領に就任。2004年10月、初の大統領直接選挙の結果、ユドヨノ大統領就任(現在に至る)。
インドネシアの主要産業は、鉱業(石油、LNG、アルミ、錫)であり、それに農業(米、ゴム、パーム油)、工業(木材製品、セメント、肥料)が続く。1997年タイでの「バーツ危機」が発端となった「アジア通貨危機」により、インドネシア経済もかなりの打撃を被ったが、政府はIMFとの合意に基づき、経済構造改革を断行。その後、経済は順調に回復し、2004年末から2005年初めにかけて個人消費や輸出に支えられ経済は好調であったが、その後、石油燃料価格の値上げに端を発するインフレと高金利により成長率は鈍化。しかし、2006年は、インフレ率・金利の低下に伴い、消費が回復し、また過去最高額を記録するなど輸出が好調だったこともあり、経済は回復基調となった。2001年以降の経済成長率(実質、%)(インドネシア政府統計による)は、3.8(2001年)、4.5(2002年)、4.8(2003年)、5.1(2004年)、5.6(2005年)、5.5(2006年)、GDP(名目、億ドル)は、1,641(2001年)、2,038(2002年)、2,433(2003年)、2,576(2004年)、2,813(2005年)、3,652(2006年)(インドネシア政府統計による)、一人当りGDP(名目、ドル)も、673(2001年)、930(2002年)、1,091(2003年)、1,165(2004年)、1,283(2005年)(以上IMFによる)と上昇し、2006年は1,663ドルとなっている。(ただし2006年数値はインドネシア政府統計)
調査地域:
インドネシア、ジャワ島、ジョクジャカルタ特別州内の農業地域であるバントゥル県内の農村地区を予定している。ここで実施されてきた開発プロジェクト、それに対する住民の対応、そして住民生活や地域共同体の変化に関する調査データの蓄積をもとに、ジャワにおける「地方的世界」の変動や動態の分析を行うと共に、バントゥルという「地方的世界」が、グローバリズムの下における展開分析を行う。産業化・都市化、情報化、地域の中心的都市であるジョクジャカルタ、首都ジャカルタ、シンガポールといった外国への人の移動・流動化といった現代的な要因が、「地方的世界」に何をもたらしているか、という点についても明らかにしていく。そして、最終的には、得られた調査データ、資料を元に、インドネシアの「地方的世界」の現代的な再生、そして持続可能な発展のための課題や条件を、ナショナリズム、グローバリズム、エスニシズムなどと関連づけて明らかにする。
II.フィリピン共和国

面積は、299,404平方キロメートル(日本の約0.8倍)。7,109の島からなる。人口は、8,310万人(2005年世界銀行データ)と言われているが、家族計画の不浸透などにより、近い将来に1億人に達するのは確実であると言われている。首都はメトロ・マニラ(人口993万人)。民族は、インドネシア同様、マレー系が主体であるが、他に中国系、スペイン系から構成される。更に山地にはいくつかの少数民族が居住する。言語は、フィリピノ語が国語として制定され、公用語はフィリピノ語と英語。80前後の言語がある。国民の83%がキリスト教徒(カトリック)であり、その他のキリスト教も10%を占めている。イスラム教徒の人口は5%に過ぎないが、南部ミンダナオ島周辺に集中しており、イスラム分離主義者の運動も根強い。
東南アジア諸国のなかでは、最も早期に西欧による植民地化が始まり、16世紀後半以降スペインの統治下にあった。19世紀末期以降、アメリカによる統治、日本の軍政を経て、1946年独立。以後、直接選挙によって選出された大統領が政権を取る立憲共和制政体をとる。元首はグロリア・マカパガル・アロヨ大統領。
-フィリピンの主要産業は、農林水産業(全就業人口の約37%が従事)以外、主要な産業はない。しかし、狭小な国土に比して膨大な人口を抱え、失業率は常に10%を超えている。そのため、国民の10%に相当する700万人前後の海外出稼ぎ労働者を輩出し、彼らからの送金が国家にとって重要な収入となっている。経済成長率(%)は、インドネシア同様「アジア通貨危機」の影響を受けた1998年に、マイナス成長を記録した(-0.6(1998年))、それ以後、以下のように緩やかに回復している。3.4(1999年)、4.4(2000年)、3.2(2001年)、4.6(2002年)、4.5(2003年)、6.1(2004年)、5.1(2005年)、5.4(2006年)。GNP(億米ドル)は、685(1998年)、802(1999年)、790(2000年)、757(2001年)、820(2002年)、864(2003年)、26(2004年)、1,052(2005年)、1,278(2006年)。一人当たりGNP(米ドル)は、912(1998年)、1045(1999年)、1051(2000年)、978(2001年)、1034(2002年)、1050(2003年)、1,100(2004年)、1,232(2005年)、1,470(2006年)と漸増しているが、2004年以降、インドネシアに抜かれ、低迷している状況である。今後、持続的な成長を維持していくには、経済構造改革、財政赤字解消、不良債権処理、治安回復によるフィリピン経済への信頼回復が課題である。一方、2006年の実質GNP成長率は、海外労働者送金の堅調な増加により6.2%を記録した。
調査地域:
フィリピン、イロコス地方北イロコス州ラワグ市周辺における調査を予定している。上述の通り、海外出稼ぎ労働者の実態調査をもとに、彼らの存在が、どのように地域に影響を及ぼし、住民生活や地域共同体の変化を引き起こしているのか、を中心フィリピンにおける「地方的世界」の変動や動態の分析を行うと共に、ラワグという「地方的世界」の、グローバリズムの下における展開分析を行う。もはや海外出稼ぎ者の存在が国家経済存続のために不可欠の要素になっていると言われるフィリピンにおける産業化・都市化、情報化、外国への人の移動・流動化といった現代的な要因が、「地方的世界」に何をもたらしているか、という点についても明らかにしていく。そして、最終的には、得られた調査データ、資料を元に、フィリピンにおける「地方的世界」の現代的な再生、そして持続可能な発展のための課題や条件を、ナショナリズム、グローバリズム、エスニシズムなどと関連づけて明らかにする。
III.ミャンマー連邦

ミャンマー連邦は、国土面積68万平方キロメートル(日本の約1.8倍)に達し、東南アジア大陸部諸国のなかでは最大の国土面積である。人口は5,322万人(ミャンマー政府 Statistical Year Book 2004)首都は、2006年、旧来の首都ヤンゴンからより内陸のピンマナ州ネーピードーに移転。民族構成は複雑で、ビルマ族(約70%)が多数派を占めるものの、その他カレン族、モーン族、シャン族など多くの少数民族からなり、分離独立を要求するグループも存在している。言語は、国語としてミャンマー語が用いられているが、少数民族州によっては、彼らの言語が併用されている。宗教は、仏教(90%)が多数派であるが、キリスト教(主としてカレン、カチン、チンなどの少数民族)、イスラム教徒(ミャンマー西部の少数民族、ビルマ族にも少数存在)等、民族のラインと一致する場合が多い。ミャンマー(旧ビルマ)は、諸部族割拠時代を経て11世紀半ば頃に最初の統一王朝(パガン王朝、1044年-1287年)が成立するが、地方的には、モーン族、シャン族などの小国も並立する。ビルマ族の王朝としては、タウングー王朝、コンバウン王朝が続くが、3度に及ぶ英国との戦争「英緬戦争」に敗北し、1886年に英領インドに編入される。1937年英領インドから分離して自治領になる。その後、1943年日本軍の支援下に建国された「ビルマ国」(1943-1945年)期を経て、1948年1月4日に「ビルマ連邦」として独立。1962年、ネ・ウィン将軍によるクーデターにより、以降軍政へ。1988年、全国的な民主化要求デモにより26年間続いた社会主義政権が崩壊したが、国軍がデモを鎮圧するとともに国家法秩序回復評議会(SLORC)を組織し政権を掌握した(1997年、SLORC は国家平和開発評議会(SPDC)に改組)。1990年には総選挙が実施され、アウン・サン・スー・チー女史率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したものの、政府は民政移管のためには堅固な憲法が必要であるとして政権移譲を行わなかった。総選挙以降、現在に至るまで、政府側がスー・チー女史に自宅軟禁措置を課す一方で、同女史は政府を激しく非難するなど、両者の対立が続いてきた。2003年5月には、スー・チー女史は政府当局に拘束され、同年9月以降、3回目の自宅軟禁下に置かれている。2005年11月7日、ミャンマー政府は、首都機能をヤンゴンからピンマナ県(ヤンゴン市の北方約300キロメートル)に移転する旨発表。2006年3月頃までに政府機関は概ね移転を終了し、移転先はネーピードー市と命名された。
現在、政体はタン・シュエ(Than Shwe)国家平和開発評議会(SPDC)議長を元首とする軍事体制であり、国会は1988年9月クーデターにより解散させられて以降、召集されていない。
ミャンマーの主要産業は農業であるが、天然資源(天然ガス等)、木材(チーク材)の輸出も盛んである。名目GDPは約930億ドル(2005年、IMF推定)、一人当たりGDPはわずか219ドル(2005年、IMF推定)であり、東南アジアの最貧国の一つである。1962年以来農業を除く主要産業の国有化等社会主義経済政策を推進してきたが、閉鎖的経済政策等により外貨準備の枯渇、生産の停滞、対外債務の累積等経済困難が増大し、1987年12月には国連より後発開発途上国(LLDC)の認定を受けるに至った。1988年9月に国軍が全権を掌握後、現政権は社会主義政策を放棄する旨発表すると共に、外資法の制定等経済開放政策を推進。1992年から1995年まで経済は高い成長率で伸びていたが、最近は非現実的な為替レートや硬直的な経済構造等が発展の障害となり、外貨不足が顕著となってきている。経済成長率は5.0%(2005年、世銀資料)を維持していると言われるが、物価上昇率も17.6%(2005年、世銀資料)と高く、失業率も10パーセントを超えている(約10.2%(2006年度推定))。そのため、国境を越えてタイで働くミャンマー人出稼ぎ労働者の流れが止まらず(約100万人)、タイ・ミャンマー双方で重大な政治・経済的問題となってきている。
調査地域:
モーン州、特に、タイへの出稼ぎ者が多数を占めるモウラミャイン市周辺を予定しているが、現地調査の難しさにより、文献調査およびタイでの労働者への聞き取り調査が中心になる。まず、植民地期以後のミャンマー(ビルマ)の一地方としてのモーン州、モウラミャインの役割、位置づけとその国際情勢下の変化について、東南アジア諸国家と比較しつつ、国民国家形成や地方行政・政治の側面から調査・分析する。さらに、若年層を中心としたタイへの挙家離村型出稼ぎにより、高齢者と子供しか残っていないと言われる、モーン州の地方コミュニティの実態を視察する。タイへの大規模な出稼ぎがタイ社会に与えるインパクトと同様に、送り出す側であるモーン族コミュニティに生起しつつある変化、彼らのエスニックおよびナショナルアイデンティティに及ぼす影響についてタイ側から見ていく。最終的には、得られた調査データ、資料を元に、ミャンマー社会における「地方的世界」の現代的な再生、そして持続可能な発展のための課題や条件を、ナショナリズム、グローバリズム、エスニシズムなどと関連づけて明らかにする。
(以上、外務省「各国・地域状勢」(URL:http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/index.html)等に基づく。)
橋本(関)泰子(四国学院大学)
2009年度調査報告
○フィリピン
2008年度調査報告
○フィリピン
○インドネシア
○ミャンマー
2007年度調査報告
○フィリピン
○インドネシア
○ミャンマー
|