古典ゼミナール
「『他者と欲望』をめぐる現代思想研究会」2010年度開催記録

 

 

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第1回

  • 開催月日:2010年5月12日17:00~
  • 場所:人文学研究科A棟4階共同談話室
  • 報告者:大家慎也(倫理学M2)
  • 参加人数:8名
  • 次回:6月16日17:00~人文学研究科A棟4階共同談話室

第1回レポート

 現代は、ポストコロニアルという植民地支配「後」の世界であり、異文化間の相互尊重と共存が叫ばれる時代である。しかしながら、理論家・比較文学者のガヤトリ・スピヴァクによれば、現代のグローバル化した地理的/経済的状況は、世界地図を文化・政治制度の面において支配的に構築し、さまざまな箇所で抑圧的に働いている。彼女(スピヴァク)は「脱構築」理論を政治的に用いることで、このような状況を暴き立て、政治的な問題として強烈に提示することを目指す、ポストコロニアルの代表的批評理論家である。 「〈他者〉をめぐる現代思想研究会」は本年度の活動として、スピヴァクの思想・活動についての入門書『ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク』(スティーヴン・モートン【著】、本橋哲也【訳】、青土社、2005年)を購読する。第一回研究会(5月12日)ではメンバーの顔合わせとスピヴァクについてのイントロダクションが行われ、次回以降の会の運営方針を決定した。 以下は運営方針である。原則一カ月に一回ほど集まり、テクストを一章ずつ読み進める形式を採用する。円滑に読書会を進めるために、参加者は事前にテクストを読んできた上で出席することが推奨される。尚、毎回担当者を割り振り、その者にレジュメ作成を依頼する。第二回は6月16日、テクストの第一章「理論、政治、および文体の問題」を取り扱う。(文責:大家)

 


 

第2回

  • 開催月日:2010年6月16日17:00~
  • 場所:人文学研究科A棟4階共同談話室
  • 報告者:杉川 綾(倫理学D2)
  • 参加人数:7名
  • 次回:7月14日17:00~人文学研究科A棟4階共同談話室

第2回レポート

 『ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク』(スティーヴン・モートン【著】、本橋哲也【訳】、青土社、2005年)の第一章「理論、政治、および文体の問題」を担当者がまとめ、発表及び討論を行った。本章ではポストコロニアル思想における批判理論を、現代における経済格差や差別、抑圧などの政治問題を明らかにするものとして読みかえを精力的に行うスピヴァクの思想的背景とその問題意識について論じられている。スピヴァクにとってまず問題であるのは、「言語」と「世界」が対応するという西洋の知的伝統であり、それが政治的文脈においては、西洋的な視点から非西洋世界を表象しなおす「世界化」を引き起こしている。この事態をスピヴァクは構造主義を批判的に継承し脱構築へと向かったデリダの思想を下に明らかにしていく。また彼女の文体は論理的な精緻さを欠き、複雑で晦渋な文体でその論は展開されている。しかしそれは、サバルタンにまつわる問題を明らかにするために、これまでのマルクス主義やフェニミズム、脱構築の概念の有効性と限界の両方を示そうとするがゆえに生まれくる事態である。/こうしたスピヴァクの試みは単純に旧植民地出身者からの支配国への批判と言うだけでなく、欧米の知識を吸収しその下で政治や社会問題を把握し論じている現代日本社会においても、根本を問う興味深い議論ではないかと思われる。次回は第二章「脱構築に仕事をさせる」を取り扱い、彼女がいかに脱構築を政治的文脈に適用していくかを見ていく。

 


 

第3回

  • 開催月日:2010年7月14日17:00~
  • 場所:人文学研究科A棟4階共同談話室
  • 報告者:梅田(学部4)
  • 参加人数:6名
  • 次回:8月4日

第3回レポート

 今回(第3回)はテキストの第2章「脱構築に仕事をさせる」をテーマに、参加者で語り合った。この章はスピヴァクがフランスのジャック・デリダから大きな影響を受けている事を紹介し、デリダの脱構築、後期の正義論と結び付ける形でスピヴァクの思想の内容及びその一見晦渋な文体について説明を与える章である。我々の討論においては、差延や二項対立などデリダの言語・記号論への検討がメインになった。 デリダは西洋の伝統的思考法であると彼がみなすところの二項対立的思考法を記述し、西洋を文明としそれ以外を非文明とみなすような図式やデカルト以来の自然を支配の対象とみなすような世界観と結び付ける形でそれを批判する。しかし読書会では、自己を優れたものとし他者を自己と違い劣ったものとみなす思考法は東洋にもあるのではないかといった意見や、西洋は自然を支配し東洋では自然を大事にするという見方は一面的ではないかという主張が出た。一方で、例えば中国の陰と陽の思想は、西洋的二項対立図式とは異なったタイプの二項対立図式の可能性を示しているという議論も出た。 個人的な話になるが、私が普段研究しているパースなどの記号論では記号を価値中立的なものとして扱う(違っていたら御免なさい)ので、記号の営みに時空性や社会性、さらには暴力性を見出すデリダの議論は非常に興味深かった。(文責:梅田)

 


 

第4回

  • 開催月日:2010年8月4日17:00~
  • 場所:人文学研究科A棟会議室
  • 報告者:杉川(倫理学D2)
  • 参加人数:7名
  • 次回:9月8日

第4回レポート

 『ガヤトリ・チャクラヴォルテ・スピヴァク』第三章「サバルタンから学ぶ」を取り上げ、スピヴァクのサバルタンへの取り組みに関して討論を重ねた。サバルタンはもともとはイタリアのマルクス主義者アントニオ・グラシムが『獄中ノート』にて展開した概念で、もともとは英国軍隊の下級将校を示す単語であったものを、自身が研究していた南イタリアの貧農集団のように、「ヘゲモニーを持たない集団・階級」を示すものとして再定義した。スピヴァクはサバルタンの概念をさらに脱構築的に拡大することによって、「労働者」や「女性」「被植民者」という概括用語で語られることで見過ごされてきたものを汲みつくす語として新たに定義しなおそうと試みている。私は、彼女のサバルタンへの取り組みは、われわれがある社会的現象を語るさいの危険性に気づかせてくれる鋭い議論であると思う。どうしても、何らかの集団について語るとき、われわれは既存の対応する概念を用いてかたらざるを得ない。しかし、西洋のフェニミズム運動で語られてきた「女性」が、インドにおける「女性」を言い表すものとして本当に妥当なのであろうか。確かにインドにおける女性のジェンダー問題を語るのに、既存の「女性」という概念を利用してしまうであろう。けれども。西洋社会で生まれた「女性」という概念には、当然西洋の文化的な背景が入り込んでしまっている。それゆえ、限界が存在する。けれども、さらにわれわれはいわゆる社会における被抑圧者について語るとき、彼らの代弁者として振る舞い、中立的に語っていると思い込んで語ってしまっている。この思い込みが、ある一定の概念を用いて語るさいの限界を覆い隠してしまい、被抑圧者達の声をむしろ歪め黙殺してしまうことになる。スピヴァクのサバルタン理論は、そういった政治的言説における語りの危うさを暴露するものとして興味深いものである。

 


 

第5回

  • 開催月日:2010年9月8日17:00~
  • 場所:人文学研究科A棟談話室
  • 報告者:本林(哲学M2)
  • 参加人数:7名
  • 次回:10月6日

第5回レポート

 テキスト『ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク』(スティーヴン・モートン【著】、本橋哲也【訳】、青土社、2005年)の第四章「『第三世界』女性と西洋のフェミニズム思想」の内容を報告者がまとめ、報告した。そして、その後、参加者全員によってテキストの内容についての討論が行われた。/本章では、スピヴァクによる西洋フェミニズムへの批判の紹介が主題となっている。その中で、ボーヴォワール、バトラー、クリステヴァといったフェミニスト達が扱われていた。その批判を簡潔に表せば、西洋フェミニズムは「第三世界」女性の歴史や生活、そしてそれにともなう苦難を考慮できていないということである。すなわち、スピヴァクは西洋の学門的モデルが「第三世界」女性の現実を無視できる特権的地位にあることに異議を唱えているのである。/また、討論においては、スピヴァクの提唱する戦略的本質主義という立場が議論の争点となった。戦略的本質主義とは、マイノリティ集団の短期的な戦略として、時として本質主義的立場を取る立場である。参加者の一人が、この戦略的本質主義という立場と民族的アイデンティティの議論における用具的アイデンティティの親近性を指摘し、こうした立場がどこまで有効であるかが議論された。その際、個人の力でどこまで自由にアイデンティティを選択できるかどうかがこうした問題を考える糸口になるのではないか、など次々に意見が出され、非常に活発な討論となった。