古典ゼミナール
「ジェンダー論研究会」2010年度開催記録

 

 

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第1回

  • 開催月日:2010年4月19日17:00~19:00
  • 場所:人文学研究科A棟3階共同談話室
  • 参加人数:7名
  • 報告者:萬田可奈子(国文学専攻)
  • 次回:6月21日17:00~人文学研究科A棟4階共同談話室

第1回レポート

 ジェンダー論研究会は昨年度に引き続き、ジュディス・バトラー(竹村和子訳)『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(青土者、1999年)を講読している。今年度第1回は、国文学専攻の萬田可奈子氏が、第3章「攪乱的な身体行為」第3節「モニク・ウィティッグ―身体の解体と架空のセックス」(199~227頁)を担当し、内容を要約・提示した。

本節でバトラーは、フランスの作家でフェミニズムの理論家でもあったモニク・ウィティッグの議論を批判することにより自説を展開する。ウィティッグは、セックスのカテゴリーは自然なものではなく、自然を利用したきわめて政治的なものだと主張した。すなわち彼女は、言語によってセックスをカテゴライズすることが、異性愛を強制する社会体制、つまり強制的異性愛を保証すると論じた。彼女は、この強制的異性愛の制度を転覆させるために、女というカテゴリーに含まれない、レズビアンの視点を導入することが有効であると主張した。これに対しバトラーは、ゲイやレズビアンのアイデンティティの構築において男と女という2つのセックスのカテゴリーから排除されるという前提が必要ならば、レズビアンの戦略というものが、強制的異性愛を抑圧形態のまま強化することになるということを指摘する。

新年度第1回めとなった今回、3名の新たな参加者が得られた。バトラー『ジェンダー・トラブル』の講読もいよいよ結論部分へと向かうため、次に講読するテクストの選定作業が始められた。

来月は、5月19日(水)17時よりコロキウムを開催します。キャロリン・コースマイヤー(長野順子他訳)『美学―ジェンダーの視点から』(三元社、2009年)の合評会です。(磯貝)

 


 

第2回

  • 開催月日:2010年6月21日17:00~
  • 場所:人文学研究科A棟3階共同談話室
  • 参加人数:6名
  • 報告者:大家慎也(倫理学M2)
  • 次回:7月12日

第2回レポート

 今回は、前回に引き続きジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』を検討した。内容としては、第3章「攪乱的な身体行為」第4節「身体への書き込み、パフォーマティヴな攪乱」(228~248頁)および、結論「パロディから政治へ」(249頁~260頁)を取り扱い、内容を要約・提示した。今回が『ジェンダー・トラブル』読書会の最終回であっため、当該箇所の議論以外にも、本書全体を振り返った総括的な議論も行われた。

現代の批評理論において、アイデンティティは、固定的で統一的なものというよりは、むしろ流動的で不確定なものであるとされる。この類の議論において不可欠であるのは、いかにしてアイデンティティは「内」と「外」という(流動的かつ不確定であるが、ある程度のまとまりを持った)区分を形成するのか、という問いである。

今回、第3章第4節でバトラーは、この問題について特に〈身体〉という要素を取り扱い、一般には前文化的で完全に物質的であると見なされる身体が、その実、首尾一貫した主体を安定化し、強化する二元的な区別をつくりあげるものとして機能していることを暴露した。この議論は極めて説得力のあるものであり、同時に強力なものであると言える。この議論のおかげで、最も視覚的に確からしいと思われる、〈身体〉という「内」と「外」の区分を疑問に付すことができるのである。

このことは、ジェンダーが偶発的であるという議論(ボーヴォワール)以上に、バトラーの提出する、ジェンダーそれ自体が模倣の構造を持つという議論の重要性を裏付けるだろう。ジェンダーは自らを形成する際に、オリジナルなジェンダーというアイデンティティを真似る(他者の模倣という虚構性)。しかし、この真似る元のアイデンティティ自体(〈私〉のジェンダー・アイデンティティ)が、起源なき模倣、すなわち〈結果として模倣という形でしか現れ得ない虚構〉であると言えるのである。それならば、中心を持たない「内」としてのジェンダー・アイデンティティは、いかに「外」との区別として存在するのだろうか。ここにきて、「内」と「外」の存在を可能にする条件、つまり両者を媒介し、かつ安定的であろうとする境界を問う必要性が明らかになる。

バトラーはこの境界が生成されるメカニズムを、行為や身ぶりや欲望の反復に見ている。これらは、本質やアイデンティティとかいう結果を、偽造物として生み出すものであり、この意味でパフォーマティヴなものである。しかし大切なことは、この反復によるパフォーマティビティが、一般にある種のバイアスを被っているということだ。バトラーの用語では、このバイアスこそ社会という公的言説に他ならない。だからこそ、この公的言説の支配を確認し、必要ならばこれを(パロディの反復により)攪乱することがジェンダーの政治であると言えるだろう。

以上がバトラーの議論の大要であるが、参加者からは大まかな議論を肯定的に捉える一方で、批判的な声も上がった。例えば、

①議論の根幹にある言葉、(〈アイデンティティ〉など)が西洋哲学の言葉である。つまり議論全体が、あくまで西洋文化の領域のみを想定しており、他の文化圏との連絡可能性が議論されていないこと。

②ジェンダーの政治の見取り図を提示したことは良いが、それをいかに作り変えてゆくべきかという、実践的な判断にまつわる議論がされていないこと。(ジェンダー・アイデンティティの〈原理〉を構築することを目指す本書にそれを要求するのは、過剰な期待であるとも言える。しかしバトラーは本書において、明らかに実践的な政治を標的としているため、バトラーの提示した〈原理〉がこの世界で意味をもつことを望むならば、この類の批判は避けて通れないだろう)。

③社会と個との関係を、あくまでも伝統的な社会闘争(ヘーゲル的な社会と個人)というモチーフで捉えており、他の可能な関係性へと開かれていないこと(共益的存在など)。

批判的検討を経たうえで、なおバトラーの議論が有効性を保つのかについて、考察を深めていくべきであろう。(文責:大家)

 


 

第3回

  • 開催月日:2010年7月12日17:00~
  • 場所:人文学研究科A棟3階共同談話室
  • 参加人数:4名
  • 報告者:英米文学・PD・沖野真理香
  • 次回:9月27日

第3回レポート

  ジェンダー論研究会は、今回から新たに選定したテキストである、イヴ・コゾフスキー・セジウィック著(外岡尚美訳)『クローゼットの認識論―セクシュアリティの20世紀』(青土社、1999年)を講読し始めた。今回は英米文学専門の沖野真理香氏が、序論「公理風に」の前半(9~55頁)を担当した。

著者セジウィック(1950~2009)は、ジェンダー論、クィア理論を専門とする、社会学者、文学研究者である。彼女はジュディス・バトラーとならび、レズビアン・ゲイ・スタディーズの分野をリードしてきた。

本書の目的は、著者によれば、20世紀に提出されたホモ・ヘテロセクシュアルの定義にかんする見解や、同性の対象選択についての認識に内在する矛盾を指摘しつつ、そうした定義上の問題が、20世紀の西洋文化全体にとり本質的に重要であるという仮説を説得的に提示することである。(磯貝)

 


 

第4回

  • 開催月日:2010年9月27日17:00~
  • 場所:人文学研究科A棟3階共同談話室
  • 参加人数:3名
  • 報告者:磯貝真澄(東洋史・PD)
  • 次回:10月18日

第4回レポート

  第4回例会は、セジウィック『クローゼットの認識論―セクシュアリティの20世紀』(青土社、1999年)の序論「公理風に」の後半、55~94頁を、東洋史専攻PDの磯貝真澄が担当した。

著者セジウィックは序論において、7つの「公理」を提示し、検討を加える。それらは、「アンチ・ホモフォビックな分析という長期的プロジェクトから導き出された、分節化されていない様々な仮定や結論のいくつかを、秩序立て、一気にひとまとめに取り上げてみ」る作業である。この作業によりセジウィックが主張することを要約すれば、実在する同性愛者の存在を脅かすような結論にいたり得る論理は、いかなるものであれ認められないということであろう。

本書は、訳語の意味を正確に把握するのが容易でなく、現在のゼミ出席者には、なかなか読みごたえのあるものである。(磯貝)