アスベスト被害聞き取り調査—中村實寛(さねひろ)氏 [2006-09-12]
松田毅 (神戸大学大学院人文学研究科教授)
今回はアスベストの被害、苦痛、あるいはその影響を、日常生活の次元から一般にこの問題に詳しくない方にも分かる形で、克明に浮かび上がらせることができたらと思いますので、よろしくお願いします。
『中皮腫・アスベスト疾患 患者と家族の会』の会報を見ておりますと、患者の方の生い立ちや仕事、病気のことも書かれていますので、それを基本的になぞるような形でお話していただけるとよいかと思います。多くの問題があり、現在に至る過程についても、一時間、二時間では語り尽くせないとは思うのですが。
アスベスト被害で中皮腫になられ、運動を始められる過程で幾つかの転機、ターニングポイントがあったと思いますが、それぞれのときに、自分がどう感じ、またそれがどう変って、今どう思われ、今後どうしていきたいか、そういう流れでお話していただけたらと思います。
中村實寛
わかりました。
松田
シナリオがあるわけではないので、生い立ちからお話しいただけたらと思います。先の会報には宮崎で仕事をされていたとありますが。
中村
生まれは鹿児島なんですけども。中学校、学校卒業するまで鹿児島で生まれて育ったんですよ。
松田
鹿児島のどちらですか。
中村
鹿児島の、当時は曽於郡でした。今は市町村合併で曽於(そお)市となったのですが。まあ曽於郡、僕は財部町ザイベと書くんですけど、財部町いう所で、生まれ育ったんですけども、昔の曽於郡には、鹿屋市とか志布志町とか、志布志市ですね。そこで、中学校まで卒業するまで暮らしてまして、中学校卒業と同時に宮崎に弟子入りして、建築大工の修行というんですか。
松田
お生まれは昭和何年ですか。
中村
昭和23年4月25日生まれです。ですから、中学校を卒業したのは39年の春ですね。
松田
それから宮崎市の方に。
中村
宮崎市内です。宮崎市内に弟子入りして、そこで仕事を教えてもらって、それで一応、建築大工というのは4年間が一応修業なんですよね。僕の場合は何でか知らんけど、3年半ぐらいでもういいよと言われて。
松田
ああ、そうですか。優秀だったんですね。
中村
いやいや。要領が良かっただけですけどね。まあ3年半目で、自分の田舎の、鹿児島の家を建替えたんですよ。そのときに、親方に手伝って下さい言うたら、親方は暇やったんやけど、おまえの手伝いなんかできひんわ、言われて、自分の仕事が忙しい言うて断られたんですよ。まあそれが一つはどう言うんですか、突き放すというか、自分でやってみなさいという指導だったんだと思うんですけどね。
で、まぁとりあえず3年半で卒業させてもらって、まぁ1年間は御礼奉公という昔ながらのしきたりみたいなあるんですよね。ただ働きになるんですけどそれを済ませて、ほんでまた鹿児島でちょっと働いてまして、昭和45年に大阪に出てきたんですよ。
松田
当時、昭和40年の初めぐらいには、大工さんのお仕事の中で、アスベストの問題は何か認識されていたのでしょうか。たとえば、材料などでアスベストに関連するものがありましたか。
中村
当時は、そういうのは、僕も無学ですから、そう言うのはほとんど教えてもらってないし、実感してなかったんですよね。最近になってと言うか、やはり学校パニック以降ですかね、気にし出したのは。それまでは製品自体に、例えば、建材の製品自体にアスベストのマークがあっても、別にほとんど気にしてなかったというのが現実ですね。
松田
大工さんの仕事は、やはり木材に関連するのものが多いのでしょうか。木造の家をつくるというような。
中村
木造の家なんですけど、どうしてもこういう内装で、家具・壁材とかでしたら、そういうアスベストが何%か、正確には分かんないんですけど、2、3%とか、5%含有されたような建材があったと思うんですよね。実際、どれぐらいの含有率かと言うのは分かんないんですけど、そういうアスベストマークが入ってるラベルを張ってあったり、印刷してあったりしたのを見た記憶はありますよね。
松田
記憶はありますか。
中村
うっすらと。それと当時はセメントにも入ってたと言うようなことも、最近、報道で分かってきたというか、僕自身が分かってきたんですけども、当時は実際工務店で働いてたんで、木造の場合でしたら、基礎から全部一括してやってたんですよね。最近は基礎工事屋とか、左官屋とか、ブロック屋とか、いろんな職種に分かれてやってますけど、当時はもう1軒受けたら、もう一から最後までやってたんで、ほんでそういう土方仕事みたいなのは、ぼんさん、つまり若い弟子達がやってたんですよね。
ですから、そういうのにも入ってたって聞いたんで、いつどこで暴露したかも分かんないし、ですから昭和39か40年から、そういう環境の、作業環境の中で仕事してきてますので、実際はわかんないですね。ちょうど僕らが弟子入りしたころが、いろんな建材というんですか、新建材の出始めですよね。
新建材と言われる化粧材とかですね。そういうのが出だした時期ですから、それまでは左官屋さんが土壁を塗って、壁も作ってたし、ほとんどそういうのはなかったと思うんですけど。昭和40年代初期からですね。そういう建材が出始めたので、いろんなところで使われてたし、石綿は3000種類ぐらいに使われていたと言われてますから、いろんなとこに入ってたと思うんです。
松田
その作業の中で、当然でしょうが、建材を切った時に舞い上がるとか、そういうことが多かったですか。
中村
それはありますね。ほとんど電動丸鋸(まるのこ)言うて、ちっちゃい丸鋸で切るし、ほこりは、もうもうとしてましたね。
松田
例えば、そのときにマスクをするとか、そういうことはどうでしたか。
中村
よっぽどひどい時で、タオルで口を覆うぐらいですね。普通はもう風で流されるんで、特別そんなマスクとか、そういうのはしませんでしたね。
杉川綾 (神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程)
そのマスク自体はそのアスベストを防止するためでなく、作業でほこりが邪魔だから。
中村
うん、逆に例えばガーゼマスクみたいなしてたら、すぐ詰まってくるんですよね。そのマスク自体が。そしたら息苦しくなって、それでマスクをし出したのも90年代なんですけどね。僕らが現場で、それでもううっとうしいなって、息苦しくなるから、すぐ外して、もうそのままで鼻なんかが真っ白けになるぐらいでしたけどね。
松田
話を戻しますが、数年間ぐらい宮崎にいてその後はどうされたのでしょう。
中村
ええ、5年間、6年間ですかね。昭和45年に大阪に出てきまして、まぁいわゆる店舗屋と言うんですか、店舗改装をする。
松田
昭和45年というと、1970年ぐらい。万博の頃ですね。
中村
万博の頃です。万博の年に出てきて、その店舗屋で働いてたんですよ。70年ですね。
松田
やっぱり景気がよかったのですか。
中村
うん、あの僕の田舎の同級生を長いこと田舎で見なくなって。おまえどこへ行っとったんやと正月に会って、どこへ行っとったんや言うて聞いたら、大阪でこういうとこで働いていたんや言うから、一回引き上げてきたんですけどね。もう一回行く気ないか。紹介してくれ言うて、そんで一緒に出てきたんですけど。もちろん景気よかったし、田舎とは雲泥の差でしたから、日当というか、給料は良かったですね。
松田
当時、宮崎で働くのと、大阪で働く給料とはどのぐらい違ったでしょうか。
中村
約2倍です。
松田
2倍ですか。今、そこまでは違いませんよね。
中村
今はそこまでは開きはないと思います。
松田
では、出てくることにすごく大きなメリットがあったわけですね。
中村
そうですね。
松田
その頃はまだもちろん独身で。
中村
ええ、独身です。遊ぶ金に。消えて行きましたけどね。飲んで遊ぶ金。
松田
その頃の働き方はいかがでしたか。
中村
ものすごいハードでした。僕が入ったのが大阪に出てきて、その会社に入ったのは2月の多分7日ぐらいだったと思うんですよ。そんで3日間ほど準備があるから言うて休んで、10日ぐらいから働き始めて、それで月末までに残業80何時間しましたので、20日間で。朝もまあ6時ぐらいからですね、ひどい時は夜中の11時、12時。まあ日によってですけどね。早い時は5時、6時に終わってましたけど。そして次の月が1カ月で180時間残業してましたので、ほとんど寝る時間というのはないですね。
もう、現場から現場を渡り歩いてたと言う、ほんまに渡り鳥みたいなもんで。当時、日立の電器屋さん。家電屋さん一軒家の店舗行って、田舎なんかで店舗ありますよね。家電屋さんが。あれの店舗改装を三人のグループでやってたんですよ。そんで三人でグループ組むから、ほとんど最低2軒かけ持ちで、まず最初、スタートが三人で一つの店に行くんですよ。そんでここで撤去、解体ですね。改修工事ですから、三人で解体して、解体が終わったら一人残るんですよ。一日目に。そんでこの日の夕方、二人は2軒目にいって、夕方例えば5時ぐらいから解体入るんですよ。それで9時ぐらいまでで店舗を中だけですから、解体が終わる。そしたら一人はここで残ってやってるんです。そんで今度次の日になったら、一人は最初の店に、一人は2軒目に残って、後の一人は3軒目に行って、ほんでここが終わったら、こいつはここに行って助っ人してと言うような感じで、最低2軒はかけ持ちです。ひどいときは3軒。
そういうローテーションでやってたんで、夕方もう5時とか6時から現場行っていうのが、多くありましたが、そういうとこで一軒家の店もあるし、例えば、マンションの下のテナントみたいなとこの店もありますよね。電器屋さんなんかも。そういうとこの仕事もしてたし、そういう所に吹き付けアスベストがあったんですよね。
松田
それで解体のときに、例えば、壁とか、建曩とかという形でされたのですか。
中村
うん。それもありますし、それは一軒家の場合はそういう建材なんかにありますし、そんで、建屋自体が鉄骨で建っていたら鉄骨に吹きつけアスベストというのがあったんですけどね。それが劣化したやつが天井裏とか、壁の裏に積もってたんで、天井をめくったらアスベストも一緒に落ちてくる、というようなんが現実でしたね。
松田
解体作業の場合はアスベストに関してどのような危険性があったと思われますか。
中村
そうですね。解体のときはやっぱり一番ひどかったと思います。
松田
この作業の中心は何でしたか。取り壊しから作るところまでですか。
中村
ええ。もう全部また天井下地をつくって、天井板を張って、壁も下地して、壁もつくって、そんで陳列棚までつけて。あとは仕上げのクロス屋に渡して、もうクロス屋に渡すときは、僕らがよその現場に行ってるから一番どう言うんですかね、汚れ仕事というか、そういう仕事をやったんですよね。
松田
その場合の、危険性の認識はやはり薄かったのでしょうか。
中村
薄かったですね。ただもうほこりっぽいなぁ。ちょっとチクチクするなぁ言うぐらいで。
松田
今のところ国と企業がアスベスト問題を認識したのは、昭和46年とされていますが、その点はいかがでしょう。実際はともかく、大阪へ来られたのが45年だったわけで、次の年には国と企業は言葉通りとるならば、知っていたことになるわけですね。
中村
知ってたし、通達を出したと言う事になってるんですよね。国は。
松田
そのとき、実際の通達というのはどうだったのでしょう。
中村
ないです。まず、多分僕が働いてた会社の社長とか、安全管理の人間とかも多分知らなかったと思います。
松田
安全管理の人間とは、どういう人でしょうか。
中村
うん。会社に一応、安全管理責任者というのは少なくとも一人は常駐でいなければいけないんですよね。ですからこの安全管理責任者というのを、いろんな会合とか、建築組合とか、いろんなとこの会合に出て勉強せんといかんかったのですけど、出てもそういう話は聞いてたかどうか知らんけど、僕らまでには伝わってこなかったんですよね。
松田
基本的には、安全管理者が話をすることになっているのですね。
中村
うん。自分とこの従業員に通達して、注意を喚起する役目がある。それがなかったということは、そこまで下りてきてなかったんだろうと。
松田
仮にアスベストの危険性認識がないとしたとして、他のものと比べて、例えば安全性意識そのものが全体的に薄かったのか、あるいは、建設現場で危険だから注意しなさいとかいうことは、別のものではあったのか、そのあたりどうでしょう。
中村
特に建築関係の現場というか、事業所というのは、まず目に見える傷害ですね。例えば、墜落、転落事故、指切断とか、とりあえず人身事故。そういった事故にはやっぱり厳しかったですね。ですから、そういう環境の被害というのは、ほとんど認識なかったと思うんですよね。
松田
目に見えにくいものというのは、あまり当時、言われてなかったですか。
中村
そうですね。ですから現場に来ても、ちょっとしたゼネコンの現場でしたら、一ヶ月に1回、月初めのうちに、朝礼の時に安全大会というのが必ずあるんですよね。その現場現場ごとに。そんでまあ奉仕というんじゃないけど、いろんな注意を促すために、いろんな事業所の安全管理責任者が変わりで訓示みたいな形で話をするんですけど、そういうときに出る話というのは、どうしてもその足場の徹底とか、不備ないようにしなさいよ。転落事故に注意しなさいよ、そういう怪我に、怪我というか、事故に対して注意だったりですかね。ですからほこりっぽいから、ちょっと注意しなさいよというのは、誰一人いなかった。
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