第7回神戸大学芸術学研究会
「身体と同一性」
2012.11.01up
-
日時・場所
主旨
現 在、われわれの身体は何処にあるのだろうか。ネットワークにみずからの身体を接続し、記録、公開することが常態化しつつある現在、その欲望や衝動を駆り立 ててきたのが、19世紀以来の複製技術と身体の遭遇にあったことは疑いない。では、われわれの身体は実際にそれらテクノロジーとどのように接続し、混ざり 合い、表出させられてきたのか。そのとき、身体の同一性は、どのように保証され、または揺るがされるのか。本研究会では、肖像写真、フォノグラフ、遺影写 真を具体例に、以下のパネリストの報告から「身体の在処」を議論していく。
プログラム
14:30 - 開会/司会 増田展大(日本学術振興会特別研究員)
14:40 - 報告1 橋本一径(早稲田大学文学学術院准教授)
「肖像権と同一性――19世紀フランスにおける写真の著作権をめぐる議論を通して」
15:15 - 報告2 秋吉康晴(神戸大学人文学研究科博士課程後期課程)
「おしゃべりするフォノグラフ――1877~1878年の蓄音機受容における声の同一性」
15:50 休憩
16:00 - 報告3 佐藤守弘(京都精華大学デザイン学部准教授)
「遺影と擬写真――ずれていく同一性」
16:35 - 全体討論
17:30 - 終了予定
発表要旨
橋本一径「肖像権と同一性――19世紀フランスにおける写真の著作権をめぐる議論を通して」
準備中。
秋吉康晴「おしゃべりするフォノグラフ――1877~1878年の蓄音機受容における声の同一性」
お しゃべりするフォノグラフ――1877~1878年の蓄音機受容における声の同一性」 録音された声を再生するとき、我々は一般にそれを誰かの声として聞いている。この「誰か」とは録音機に向かって声を吹き込んだ人物であり、我々はふつうそ の実在を疑うことはない。しかし、少なくとも1870年代末の二年間、フォノグラフの聴衆は録音された声をそのように聞いてはいなかった。というのも、彼 らはその声をフォノグラフそのものの声として聞いていたからである。本発表では、そうした初期のフォノグラフ受容を介して、録音された声をめぐる同一性の 問題について考えてみたい。
佐藤守弘「遺影と擬写真――ずれていく同一性」
遺影と擬写真——ずれていく同一性」 遺影写真とは、今は亡き人との回路を保持するためのモノ=イメージであり、それは光の痕跡である写真の持つインデックス性——不在の対象との物理的な関係 ——によって、故人と強力に結びついている。しかしさまざまな文化では、原型をとどめないまでに彩色された写真や、あるいは写真を基に描かれた絵画などを 遺影として用いる例が間々見られる。そうした絵画とも写真ともつかないハイブリッドなイメージを、本報告では〈擬写真〉と呼び、そこにおいて起こるさまざ まな同一性のずれについて考察してみたい。
問い合わせ先;芸術学研究室 増田展大
nobu0125888(at)gmail.com (@に変えてください)
第49回「文芸学研究会」研究発表会
2012.09.10up
日時・場所
研究発表者
- ・豊泉俊大(大阪大学)
- ・秋吉康晴(神戸大学)
発表要旨
豊泉俊大 絵画をめぐるジェームズ・ギブソンの知覚論
画家は絵を描くとき、対象を見、みずからの内部を見、筆先を見、筆を下ろすカンヴァスを見るであろう。見れば、見られる対象が認識される。絵を描く 行為は、その足元に、認識行為を据えている。「はたして、そうか?と、ジェームズ・ギブソン(1904‐1979)は問いなおす。「見るつまり「感覚する という行為は、感覚器官と精神をつなぐパイプにすぎないのであろうか。いくつもの実験が繰り返され、ギブソンは「これまで感覚について十分に吟味されたこ とはないという反省にたどりつく。とすれば、画家の描くという行為が 正当に評価されたこともなかったであろう。ギブソンの反省をもとに、絵画作品をめぐる感覚、行為、認識の関係を初手から把えなおし、芸術哲学におけるギブ ソン知覚論の有効性を正確に計測したい。
秋吉康晴 顔のない声―19世紀末アメリカにおける「トーキング・マシンとしての蓄音機
我々は録音された声を聞くと き、それを録音機に声を吹き込んだ人物の声として聞いている。しかし、1877年に最初の蓄音機が発明されたとき、この機械は最初に声を吹きこんだ人物の 印象を再現するのではなく、むしろ彼あるいは彼女の声を借りて「おしゃべりする機械として受容された。本発表では、この初期の受容を手がかりに、蓄音機が 主体の同一性を永続させるのではなく、機械と人間が混淆した新たな生を想像させる可能性を持っていたことを示す。