第10回神戸大学芸術学研究会
「投影像、あるいは脱身体のユートピア?」
2015.10.16up
主旨
音響機器、映像機器を用いたインスタレーションは、今日の美術館、ギャラリーにおいて広く見られるものである。とくに、壁やスクリーンにプロ
ジェクターを用いて直接イメージを投影する手法は、一般的な美術展示となっているとさえ言えるかもしれない。
この投影されたイメージ(=投影像 projected images)の遍在については、2003年に『オクトーバー(October)』
誌上でラウンドテーブルが組まれている。その争点のひとつは、現在の投影像と1960,70年代のそれとの連続性をめぐるものだった。そこには一方で、投
影像は展示されている物理的空間と関わっており、60年代以来の現象学的な鑑賞経験の問題を引き継いでいるとする立場があり、他方で、それは仮想的空間を
作りだし、脱身体化、観者の否定に関わっているとする立場があったと言える。
第十回神戸大学芸術学研究会は、この問題圏を引き受け、投影像と観者をめぐる思考を再開する。芸術作品においてもますます進む映像のハイレゾリューショ
ン化は、人間の知覚能力の限界をとっくに超えており、展示空間において観者の有無に関わらず流され続ける超長編の映像作品は、いよいよ作品全体の把握を許
さないものとなっている。見る者を置き去りにして鑑賞を拒むかのようなこうした現象は、イメージと、それと相対する観者の境位をどのように変容させている
のか。果たして、投影像は、人間なしのイメージなのか。本研究会を通して、投影像に関する諸問題を検討する。
プログラム
13:00- 開会13:10-15:30 研究発表 司会:大崎智史氏(神戸大学人文学研究科)
報告1 居村匠氏(神戸大学人文学研究科)
報告2 唄邦弘氏(京都精華大学非常勤講師)
報告3 細馬宏通氏(滋賀県立大学人間文化学部教授)
15:50- 全体討議 司会:前川修氏(神戸大学人文学研究科教授)
(17:20終了予定)
発表要旨
居村匠「ハイウェイ上のアーティスト」
マイケル・フリードが、「芸術と客体
性」(1967年)において「客体性」という語でもってミニマル・アート(=リテラリズム)を批判したことは広く知られるところである。そしてそこでは、
トニー・スミスの高速道路の逸話が、その持続的な経験のために、まさに「演劇」であると言及されていた。しかし、この啓示的なエピソードは果たして本当に
演劇的なのだろうか。フリードが後に演劇性と対置する没入的性質を、そこに見いだすことはできないだろうか。
本発表は、この高速道路の体験を端緒とし、そこにこれまで十分に指摘されてこなかった没入状態があることを示すことで、高速道路という装置のもつ美的重層
的地位を明らかにする。最終的に、その多義的な境位と経験が、1960年代後半、70年代の芸術経験における視覚的/身体的という二項対立を越える剰余を
はらんだものであることを示す。
唄邦弘「洞窟映画と明滅するイメージ―ロバート・スミッソンによる<アンダーグラウンドシネマ>―」
ロバート・スミッソン(Robert
Smithson,
1938-1973)は、晩年のエッセイ「シネマティック・アトピア」(1972)において洞窟でのアンダーグラウンド映画の上映を計画していた。実際に
作成されることはなかったものの、スミッソンの映画に対する関心は、同時期の「スパイラル・ジェティ」(1970)とそれに伴って撮影された映画において
すでに具体的に展開されていた。ユタ州のグレート・ソルト・レイクに設置された「スパイラル・ジェティ」は、それまでのモダニズムを中心とする芸術受容に
対し、美術館という制度にとらわれないサイト・スペシフィックなアートを生み出した。そうした作品が存在する「場=サイト」として制作する一方で、スミッ
ソンは実際の作品と異なる視覚経験を生み出す「非・場所=ノン・サイト」としての映画を制作した。それによりスミッソンは、カメラを通した世界と現実の世
界とを区別し、サイトとノン・サイトの決定不可能な弁証法的な関係を生み出した。
本発表の目的は、美術館あるいは映画館とは異なる洞窟という場=サイトでの映像体験が彼にとっていかなる意味を持っていたのかを当時のアンダーグラウン
ド映画の登場と軌を一にする映画〈スパイラル・ジェティ〉を手がかりにとらえなおすことにある。それによって、アースワークとしてだけではなく、映画研究
の文脈でスミッソンの作品を捉えなおすことができるのではないかと考えている。
細馬宏通「プレゼンテーションの近代史―幻燈、ヴォードヴィル、弁論術―」
美術における映像がますます長編化し
全体の把握を難しくしている一方で、ビジネスや学術発表における映像を用いたプレゼンテーションは逆に、短時間で効果的な内容伝達を競っている。
Power
Pointをはじめ、KeynoteやPreziなど、用いられるツールはさまざまだが、生身の発表者が映像の前で話す点では、共通している。こうしたプ
レゼンテーションのルーツとして、幻燈を用いたレクチャーやトラヴェローグ、映像とヴォードヴィルの融合、そして、20世紀前半のデール・カーネギーに代
表されるセールス・トーク、演劇、弁論術の結びつきを挙げることができるだろう。切り替わる映像の前で生身の身体が弁舌をふるうという、わたしたちが当た
り前のように演じている奇妙な風習は、いかにして今の形になったのか。本発表では、アメリカにおけるプレゼンテーションの近代史を簡単に振り返りながらこ
の問題を再考する。
問
い合わせ先;芸術学研究室 大崎智史
dogdayafternoon22(at)gmail.com (@に変えてください)