神戸大学大学院人文学研究科倫理創成プロジェクト

アスベスト問題に関連する研究成果や情報

アスベスト被害聞き取り調査—川本正男氏 [2008-09-18]

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藤木篤 (神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程)

パネルは一枚でどれくらいの重さなのですか?

川本

なんぼやったか、軽かったで。軽い、軽い。

藤木

さっきおっしゃった、三枚、四枚というのは。

川本

ぐぐーっと、こう持って、ほんで部屋へ入れて、雨が降りそうやったら。もう絶対にええ思たら外へやって、量が減ったら中へ入れたんわな。

それでね、私、新造船に20年おって、それから職場を変えられて、修繕部船装課外業係に20年おった。川崎造船は40年。だから40年のうちのはじめはアメリカが大きい船を作れいう、3、4年は私、石綿吸うてないと思うんや。知らんもん、石綿、小さな船やから。漁船なんかを作っとうから。その後にこないなってきたから、私、自分で貼らへんから、貼ってる人みたいに吸わへんわな。だけども37、8年の間、ちびちび吸うとってんやもん。それがばーっ重なってきたんやと思いますわ。

松田

最初の新造船にいたころはある程度、ご自身でも作業されていたのですか。組長とか監督になる前は。

川本

だけどもそのときはこんなアスベスト触らない。私は直接な、アスベストを触らなんだわ。私が命じんの、あんたがしなさいって。

松田

他に同じ職場で働いていた方はずっと、例えば、切るなら切るといった同じ仕事を何年も何年もやっているという感じですか?

川本

そう、そう、そう。長いで。ただし、それは下請けの人たちやで。貼るのもそうや、外注やねん。私らはしとったけれどもほんのわずかや。初めての人が来ますやん、ほんで教えよんねん。こういう風に貼れよと。こんなとこ隙空けたらあかんでと。こうしなさいよ言うて教えて、その人はもう終わるんやから。

んで、はいはい言うてその人に教えられたとおりに貼って、天井と壁と。ほんで、終わったらな言うて来いと、その人が検査して見よる。今思たら見とるときでもものすごい立っとったわ、ゴミ。私は、もう長年やから分かるん。あの辺はアスベストきついぞと。

藤木

今まで船員さんたちにお話を聞いてきた中では、ひどいときは、そこの流し台(およそ3m先)が見えないくらいアスベストの粉が舞っていたという話を聞いたのですが、そのような感じですか?

川本

もうちょっと先までは見えるわ。5mくらいかな。そんな近いことないと思うわ。それやったらな、一部屋で三人くらい入っとる。そこでやったら、普通の三倍たつわな、ゴミ、そういう時はきついけど、普通一人や。ほんで急ぐとき、二人。だけども、特にそういうときやったら、急いどるときやったら三人ぐらいにしとったかもしれん。

松田

扱っていたアスベストの種類は分かりますか?

川本

いろいろな色があって、でも船員さんの部屋は、白。一番軽いやつ。白以外のアスベストを張っとるの見たことない。エンジン場なんかは他の色のも巻いとったみたいや。

松田

他の色の巻いているのを見られたわけですか?

川本

いや、私、見てないけどな、そのいう言う人がいたわ。部屋はないわ、私、白しか覚えてない。

今も言うたように、この仕事をするのは田舎から出てきた人や。奥さんやお子さんがおったらな、「お父さん、川崎で大きな会社へ入って、何の仕事をしとんの」言いよる。私、後で人に聞いたら、「ほんまのこと言わん。」、言うよんねん。絶対に自分らがえらい目とか苦しい思いとかしとる言わへんねん。いい仕事をしとうと嘘を言いよんねんて、奥さんや子供さんに。ほんで安心さしようねん。ほんなら、奥さんや子供さん、お父さん、いい仕事をしとんのなや、それやったら暇になったらまた川崎に行ってやとなるねん。

これがもし私がやめた後で今みたいな、アスベストでばーっとなって田舎にまで分かってきたら、これ分かっとったら、奥さん、子供さん、川崎行け言わへんで。お父さん、早く死ぬとか思たら。知れへんからな、もう一度川崎行って、おじいさん、お父さん仕事してきてくれ言いよんねん。ほんで自分がはじめ嘘でいい仕事や言うたから今さら悪い仕事や言われへんから来よんねん、また田んぼが暇になったら。

伊藤

下請けの人は何年ぐらいされていきましたか?次の年も、次の年も来ました?

川本

アスベストを貼る人は、平均5年くらい来とったんちゃう。中には、川崎をやめて三菱に行く人もおったわな。九州やったら長崎にも造船所あんねん。それやったら神戸までわざわざ行くのやったら長崎の造船所でおんなじ仕事あんのやったら、それしよかいう人もおったと思う。

松田

その方のしゃべり方などから、どこから来たか、などと尋ねることがあったのですか。

川本

聞くよ。「あんた、どこから来たん?」とかな。ほんなら「私、家、ほんまどこそこや。」まあ、直接言うたら、四国の香川県のどこそこや、とか。「何でそんな遠いとこから来るの」と聞いたら、「向こうに仕事ないんや、だからここに来とんねん」とか言いよる。

私、前に川崎の人にな、神戸の人、何人も病気にかかんのに、なんで坂出の人は誰も言わへんのやって、「いや、坂出は罹ってませんねん。」て。よう考えたら、坂出にこの会社ができたんだいぶ遅かったわ。だから、これから患者が出てくると思うわ。

松田

何年くらい遅かったのですか?

川本

私が修繕におったから、昭和43、4年にできたんかなあ。仮にそのころから石綿を使うとると思うんやわ。だけどもまだ期間が短いから、出てきてないのかも。それとも発症しとってもな、今の会社は賢いねん。ただで診たるから、会社直系の病院で見たるから、来い来いって。会社定年になった人呼びよんねん。

神戸にも川崎の大きな病院があんねん、そこでただで行くやん。そこのお医者さんも看護師さんもみんな川崎重工の従業員や。でね、一人、言うたらあかんのをポロリもらしたんやろな。私が修繕部におるときに良く知っとる人にね、川崎、今どないや石綿言うて、話聞いとったやん。なら、「川本さんな、会社の中に保健室があって、そこの看護師さんがな、女の人やな、一人石綿の病気になったひと、おるんやで。」って

松田

看護師さん?

川本

うん。「そんなん、何でなるん?看護師さん、船からごっつい離れたとこに病院あってやな、そこでいつも患者を診とる人がなんでそんな病気になんねん。」て聞いたら、その白いのを肩や腰やズボンとかにつけたまま、何かあったら保健室に行くねんて。

「川本さん、あれはだいぶ回っとうで、石綿が。」て、「どないしてまわりよんねん?」、「そこで診てもらうのに服脱ぐんや」って。服の肩とか襟とか、ズボンのこんなとこにようけ付いたまま行くやん。ちょっとは掃っとるやけど。

松田

割と最近ですか?

川本

うん。その人と話したのもう2年程前やからな。みんな服が汚れると、家に持って帰って洗濯するん。会社の中にクリーニング屋があったんや。安かったんや、一枚くらい洗うの。それ持ち帰りするんやったら、私はズボンも服も三着も四着も交代でに出しとった。今考えたら良かった思う。あれ持って帰っとってみい、家の誰かにうつる恐れがある。

だから、私はずーっとクリーニングに出しよった。一着200円くらいかな、安かってん、作業着のクリーニングやから。月に上下二回出して1000円くらい。

松田

川崎重工がやっている病院は神戸だけですか。坂出にもあったのですか?

川本

坂出には病院はないけど、診療所はあった。

松田

造船所の中にですか?

川本

そうそう、会社の中にあんねん。会社の門の中にあんねん。これはあかん、ちょっと重いなと思たら川崎病院に行けと。この川崎病院は湊川公園の北のちょっと西にあった。四階か、五階の大きい病院やった。

松田

そこに行かれた方で、中皮腫になってる方がおられるかもしれないですね。

川本

分からへん。

松田

病院が言わなければ、外に出ない可能性があるわけですか?

川本

うん。私が勝手に探るんやけど、そんな病気の人がおったら、会社からすぐに行って、その人と交渉。初めから言いよった、川崎も、「私ら誠意を持って患者さんと交渉させてもらいます。」と。何が誠意や思たけどな。そう言いよった。

私が初めてアスベストに罹った2年前か3年前に、この組合を作った当時、三菱にしろ川崎にしろそら冷たいもんやった。まだ世の中が今みたいにアスベストのことわんわん言うてない。いいかけや。尼崎のクボタが出てきて、新聞やらテレビにあがってきたころやから、そんなん横向いて抑えておけって。

私、三菱で腹立ったんはな、工場に10人で行ったときに、三菱の人が「全員、部屋に入ったらあかん。」言いよんねん。なんでやと聞くと、「あかん。」と。ほんで、東京の早川さんがおって、この人がだいたい責任者やな。早川さんがおって私がおったんやわ。ほいでこれ、奥さん主人で三菱で働いとって、主人がなっとんねん。そいで奥さんや。

松田

奥さんも病気になったのですか?

川本

いいや、奥さんはなってない。家族やから一緒に来とったんや。もう1人、これも主人が亡くなって。5人や、5人しか部屋に入れへんねん。

伊藤

人数制限をされたのですね。

川本

制限するねん。ほんでね、なんでここの人、声だして言わへんのやろうと見とったら、1人は話をするんや。一番責任者や、この人は言うけんども。向こうも3人くらいおったんやわ。このあとの2人はもの言わへんねん。手でこないすんねん。おっかしいなあ、何でやろうな、私らが訪ねたっても、返事せえへん。「違う」いうことやろな。そんなん違うとか。

自分たちがこんな病気あるいうことを下のもんに教えたらんかい。もう後のほうは、川崎の上の人らは早うから知っとんのやからな。私がやめるちょっと前、マスクがちょっと良うなっとたわ。

伊藤

粉塵用のマスクですか?

川本

うん、ちょっとゴミ通しにくいマスクにはなっとった。だから、会社は分かっとん。一番最初は風邪ひいたみたいなマスク。

それで、川崎も暇になってきたから、韓国とか台湾にどんどん造船を作りだしたんや。だから日本の造船所ちょっと暇になってきたんやわ。

松田

ええ、不況になりましたね。

川本

「川本さん、悪いけどな、出向にいってくれ」言われたんや。5年間、出向に行ったんや。この5年間はアスベストを吸うてない。だからアスベストを吸っていたのは、造船部にいた20年間と修繕部にいた20年間の40年間。

松田

それでは本社に40年いてその後5年間は出向していたのですか?

川本

うん、出向。川崎不動産に行っとった。それは川崎重工の命令やで、あんたはそこへ行ってくださいと。もう、あんたは、修繕の船が来えへんから。私は川崎の従業員の組長もしとったんや。一番多いときは30人以上部下がおった。もう最後は3人か4人やったもん。だから最後の5年ほどは、私、アスベストを吸うてない。川崎不動産に行っとったからな。

松田

その5年で、後は退職ですか?

川本

その5年目の年が60歳やったんや。もう61になる手前で、「もう3年おれ」、言われたけど、辞める言うて。こういう会社はね一番良く動くのは50歳前や。言われたこら「はい、はい。」と。私みたいになったら動かへん。口は上手やしな。

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