アスベスト被害聞き取り調査—川本正男氏 [2008-09-18]
松田
今日はよろしくお願いします。どんな形でお話していただいてもかまいません。
川本
ほんなら私の話しようか。
松田
よろしくお願いします。
花岡館長
では生年月日から。
川本
昭和6年11月20日、名前は川本。76歳、もうすぐ誕生日来たら、77や。誕生日のちょっと前やけどね、今は。76歳。
松田
ずっとこちらにお住まいですか?
川本
うん、私な、ここで生まれて、結婚してちょっと外に出とってけど、また帰ってきた。ほとんどここや。生まれたのもここやしね。ずーっとここ。
ほんでな、前やったらどういうかな。今みたいに高校いうて行きよらなんだ、昔はな。小学校から、この付近の人はほとんど小学校六年生を上がったら、高等小学校いうのがあった。そこへ行きよった。その時分はほとんどの人がそうやった。たまに何人かちょっとお金持った家の子やったらその当時の中学か、そんなとこ行く人もおったけど。私らは高等小学校です。そんでその高等小学校が、私が二年生のときに、あそこ、一年、二年しかないねん。二年生のときに終戦になったんや。
それで終戦で、私はそのあと、家が焼けてしもたし、学校に行ったり行かなんだりして。空襲で家が焼けたのが8月や。家が焼けたのは終戦の前や、家焼けたの何月や。5、6月ころやったのかな。忘れたわ。それからすぐ終戦になったんや。終戦の時にはもう家焼けとったわ。
それから8月に終戦やから、あくる年の3月かもう卒業や。その時分はこれという仕事もあらへんし、学校をぷらぷらして、3月卒業したら、私ちょっとの間、ぷらぷらしとったん。そんなら私と同級生の子がおって、「川本さん、あんたどこか勤めてんの?」言うて、いやどこも勤めてへんねん。勤められへん。いっぺん川崎な、募集しとうから、行きましょうかいうて、神戸の職業安定所に行ってん。神戸駅近くにありましたわ。
伊藤
今でもあります。
川本
あんの?ほー。そこに行ったら、川崎造船が来てくださいということで会社に入社したんがね、昭和21年の5月13日や。ほんで造船いうのは今の新開地から南へ下がって突き当ったとこ南の突き当りが川崎造船やったんや。神戸駅から歩いて十数分で行けました。うちはそこやし、芦屋駅近いやん。ほんなら歩いて行って。私ね入ったとき、造船部船装課の外業係やった。終戦直後は大きい船は作らなんだわ。
松田
作れなかったんですね。
川本
近くで漁業をするような小さな船を作ってたんや。だからその時分はアスベストは使っていなかったと思うんや、私は。それから朝鮮戦争が始まりだして、マッカーサーが日本に油を運んでもええよ、大きな船を作れ、外洋へ出てもええと言い出して、大きな船。そうして外洋へ出て行くいうたら、太平洋やインド洋へやらと行かんならんから、日中でも船はずっと走っとる。夜昼なしに。日がかんかんだからものすごく暑いらしいわ。船員さんが言うには。それでアスベストを使い出したんや、たくさん。ほんで、どんなとこに使ったかね。
※ここで、船の図を川本さんが書いている様子。船首と船員室、居住区、機械室、エンジン室、倉庫、船尾や、船底が二重構造であることなどを説明。
川本

ほんでこっちが船の前や。こっちが後ろや。ほんで大概の船はね、荷物こことここに積むんやけど、船員さんの部屋がこの付近にあんねん。船員さんの部屋ほとんど。これが上下して、この辺にあるときもあるけれど、普通はここらが多いねん。なんぼ、四段、五段くらいか。ほんでここ居住区いうねんな、人の住むとこや。ほんでこの辺にエンジン場があったわ。で、この辺が倉庫で、荷物積むとこね。この辺は別に何もない。この辺は一番、二番と倉庫があって。ほんで底が二重になっとる。
まあ、ざっと書いたら船いうたらこんなん。ここが荷物積む倉庫で、船の大体真ん中付近に居住区のちょっと後ろのこの辺に機械場があって、その後ろにまた荷物積むとこがあって。
私の職場、居住区、ここや。それでこの中にね、船員さんの部屋がずーっと分かれてある。この一番上が舵とるとこや、操舵室言うて。これはどんな船でもそう決まっとる。船長さんやこの辺におったんや。機械長はこのうえにとかね。
そうすると外洋へ出て行きますやん。太陽がぼんぼん照りよう。だからこれが一番前の居住区の鉄板や。これが船の一番上の屋根や、言うたら。ほんで、ここで舵取る場所があってまたちょっと後ろへ下がって、この辺に無線室とかそんなんがあるん。ほいからここらに船員さんの部屋がずーっと。とにかくこの赤いのは外側の鉄板。だからここが屋根になってるとこやで、順番に。ほんで、この中にある鉄板にはアスベスト貼らへんねん。ほんんでこんなとこにアスベスト貼って。ここも話を聞いたら熱くなるパイプに巻きよった。ものすごくパイプ暑くなるねんて。
ほいでね、その時分は吹き付けはせえへんねん。
松田
吹きつけじゃないんですか?
川本
8cm〜9cmの厚みで長さ1m位の布団みたいなものを何枚も使ってあってん。うん、固めて、こうこう、1m四方くらい。厚みも8cmから10cmくらいや。仮にこの部屋が一番上としますわな、そうするとこの部屋、日が当たります。ならアスベスト貼らなあかん。鉄板そのものにアスベストをとめられる様に、締め金をつけとんねん。鉄板に締め金がついとんねん。その締め金にアスベストをぎゅっと、下から脚立で、あの端なら端からその1メーターのやつをくっと押したらぴゅっと入んねん。そら簡単にいきます。力みたいなのなんぼもいらん。ほんで終わったら、次、次と下は足場がひいて歩けるな。順番にずーっと貼っていくねん。
松田
はめ込みみたいな形ですか?
川本
そうそう、はめ込み。そんで、締め金があって外からワイヤーをつけてとめよんねん、アスベストが落ちんように。壁は壁でそういうふうに貼りよった。だから中のこういう部屋の壁は貼らへんで、直接太陽が当たらんから。外の部屋だけ。仮に端から貼っていきますやん、んで向こうに来てきれいに1mかなんぼか、そのアスベストの長さ空いたらいけんども、あわへん、こうなる。そんで、アスベストを切るん。切らな入らへんから。そのときに、立つゴミがぶわーっと。
伊藤
どのように切りました?
川本
機械の丸い鋸(のこ)があるねん。そこへ近づけるとザザザーと切れんねん。
伊藤
木材を切るような。
川本
そうそう、そんなん。ほんのわずかやったら、のこぎりで切っておる人もおったわ。ちょっとやで、わずかなとこやったら。柔いねん。簡単に切れんねん。
伊藤
じゃあ、もう木の加工みたいな。
川本
そうそう。そのときにごみがたくさんたつ。だからな作業しとる人だけやない、それが部屋へ回って、部屋の入り口からそのごみが出て行きますやん。アスベストは軽い、軽い。周りは大概通路や、人の通り道や。通路へ出て行って、通路から船の外のほうへ出たりしよんねん。だから直接アスベストを触ってないでもこの辺へ行く人はみんなついとん。
ほんでこの中は知らんけども、私らその当時な、あんまり危険やいう認識はなかった。ま、普通のごみのつもりでおんねん。船が汚れたら掃除しますわな、そんなごみでしとるような感じやから。普通の風邪ひきのときにするマスクあるやん。あんなん貸してくれよった。ゴミがたつからいうことでみんなそのマスクを交代でしよった。それだけや。夏なったら暑いでしょ、マスクなんかしてられへんいうて、取りよる人がいくらでもおった。
伊藤
それは何人くらいで一つの作業をされるのですか。
川本
大概、一つの部屋に一人か二人。たくさん固まってやるとものすごいゴミがたって他の人も吸うから。大概一部屋一人やったわ。そんでものすごく急がな、早く部屋を作ってしまわないかんときなんかあったら、二人おるかな。アスベスト貼るだけやったら、一人で一部屋、二日あったら貼っとったわ。部屋の大きさにもよるね。天井の面積とか壁の面積とかにもよるけど。そんでアスベストをそういうふうに天井とか壁とかに貼ったらその上から板を貼りよる。それを部屋の天井とか壁とかにしよる。鉄板と板との間にアスベストが入っとうから、部屋ができていったらアスベスト見えへんわな。
松田
さらされてはいないんですね。板が隠しているということで。
川本
うん。隠しとる。板で部屋中を覆っている。だからわからへんわな、知らん人が来たら、アスベストが入っとるんこと。川崎造船はほとんどの船でこないしとった。
松田
これは貨物船などですか?
川本
うん、とにかく居住区で言ったら、貨物船であろうが客船であろうがみんな、そう。川崎造船ね、客船はあんまり作ってなんだわ。貨物船が多かった。それとタンカー。中東のほうへ油を採りに行きよった、あのころ。アメリカに「持って来い」っちゅうのあったんやろ。タンカーが多かった。
松田
その「外業部」で川本さんと同じような仕事を当時されていた方は何人ぐらいおられたのでしょうか。
川本
さあ。川崎に直接雇われてたそんな人はあんまり危険な仕事はせえへんねん。下請けのほうに出しよんねん。このアスベストを張る職場は木工職場やったわ。私は造船に20年いて、新しい船を作りよった。
それから私、修繕へかわったんや。ほんでこれは新造やな、さらの船を作るときにこないしよんねん。ほんで船も最低4年に一回は検査をしなあかん。大事なエンジン場なんかは2年に一回ちょっと見てもらう。ほんでよかったらもう出て行くねん。4年に一回はあっちこっち見なあかん。そのときにこの部屋(アスベストを貼った部屋)が不便や。
この部屋をもう少しこうしましょうかとか言うよんねん。こんだけ削って、もうこんなんいらんと。もうこの部屋いらんと。そうするとここについとる部屋の中の板をばらして、アスベストをばらして鉄板を切りよんねん。ほんで修繕は修理のときにものすごくアスベストのごみがたつねん。
川崎の従業員では、修繕部に私はあと20年おったわ。おったけんども、あまりせへんねんこの仕事。組長が分かっとんねん、上が。自分の部下をえらい目にささんと。外注に出して下請けにさせとう。私はそれは知らんけど、上の言うよんやもん、もう従業員にさすなと。こんなん(アスベスト)貼る下請けの会社が5社くらいあったわ。下請けの会社の名前は覚えてないねんけどな。
松田
それは昭和の何年くらいが主でしたか。
川本
昭和の42、3年から10年、20年やな。
松田
ちょうど高度経済成長期のころですね。
川本
私はそのころ修繕に代わったからな。41年に修繕にかわったんや。私、修繕にかわってからは新造へは行かなんだわ。私が修繕に行ってすぐに、ちょっとあいつはうるさいから上の位にあげておけと言うて、私は役員になっとった。
それで下請けへと委託と。下請けは一服しとったら金にならへんやん。そんで上の人がごっつい部下を怒るやん。「やらんかいっ!」と。だから一生懸命しよんねん。今思たらかわしそうなもんや下請けは。
ほんで下請けいうのはね、あんまりこの付近の、この都会の人、阪神間とか、神戸の人は少なかったんや。下請けは姫路の奥のほうとか、兵庫県の上の日本海側とか、そんな人が多いねん。四国から来たとか、九州から来たとか、そんな田舎のところから来とる。二男、三男や。長男がお父さんから田んぼや畑をもろうて耕して、あんたらにわけたる分はないさかい、どっかに行って働けやと、そんな人が多かった。
仕事がまだあるのにいっぺん帰る人が出よたんわ。ほんで、「あんたまだ仕事あんのになんで今日、今から帰るんかい?」と聞くと、「ああ、帰るんです」と。「なんでや、まだあんた半分仕事残っとんやろ」と、ほんなら本人は「一万円もらえるところ、半分やから五千円もらったらええねん。」と。「終わらしてからやめや。」というと、「兄貴がな、はよ帰って来いと。田んぼが忙しくて」、「えー、田んぼしに行くのか?」、「そうや」、「家どこや?」言うたらどこか田舎と言うとったわ。兄貴とお父さんの仕事を手伝うねんとか。ほんで「田んぼが終わったら、川本さん、また来るから、頼まっせい。」って。まあ、それはそれでええねん。その人らは忙しいときには田んぼや畑を手伝えと、暇になったら川崎にいって働けと、そんな人が多かった。
松田
下請けの方はどれ位の期間働いていたのですか?
川本
アスベストを貼る時期になったら来たりな。時々、船が時々計画通りにいかんとちょっと早く出来上がって、船会社へ渡すやん。ほんで次の船を作るのにもう少し早よ作ればいいのに、十五日すくとかな。そんなんやった、その人たちは要らんやん。十五日も置いておかれへん、会社。ほんでまた貼り出すようなとこ行って。この人ら、向こうに居ったって仕事ないし、ほんなら川崎行こうかと。本人たちもあんな仕事はあんまりしとうないのにという気持ちはあったと思うわ。
私らでもな、仕事がどこまで進んどうか、見回る役あったんや。川崎の一般の従業員がおって、その上に役があんねん。それが組長いいよんねん。だから、皆さん私のこと川本組長、川本組長と呼ぶ。ほんで、組長の中でも上と下とがあんねん。私は始めは下の組長やったけど、辞めるだいぶ前やわな、上の組長になった。この上の組長は会社の命令が出たらいつでも下と上の位につける試験も通っとったんや。
松田
怖かったのですね。
川本
そやで。口がぱぱー言うからな。私より上に偉い、専門学校を出てきて、造船学校なんか出てきて、その人らまじめにやっとたら二十年くらいで部長になる、私らの三年間も四年間も上になるような人でも、言わなんだな。入ったとき、船のことは分からへん、ちょっとでもないらんこと言うたら、「あんた何言いよんねん、横から言うな、この仕事は俺が監視しとんや、黙ったらええ。」と。
ほんでだいたい船いうたら、この赤のこういうとこを天井と壁と貼っとった。で私はそのこの監督しとったんやわ。船とめる岸壁から、クレーンのとこで吊るもんがあって、石綿をその中へ入れて、デッキのこの辺へ降ろしよんねん。もしも天気が悪うて、今晩雨かなと思たら、外へ置いとかれへん。部屋の中へ運んで濡れんようしとかなあかん。運ぶときなんかは、軽いからね一人で二枚も三枚ほどか持って部屋へ運んどった。
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