アスベスト被害聞き取り調査—岡崎剛氏 [2007-09-14]
松田毅(神戸大学大学院人文学研究科教授)
まず、これまでの経緯を簡単に説明させていただきます。われわれは文学部の哲学・倫理学といった分野が専門なのですが、最近の研究動向では「安全」や「リスク」といった問題に関心が高まっています。あるいは、工学や環境といった部分で倫理的な問題を扱うといったことをしております。 神戸大学は阪神淡路大震災をきっかけにしまして、地域との連携を打ち出しました。文学部も社会学や日本史で、震災を経験された地域の方と一緒になって問題を汲み上げ、そして考えるといったことをしております。
私たちも、二年前、尼崎の方でクボタの排出したアスベストによる環境曝露で中皮腫の被害者が続出しているということで、その問題に注目して、倫理的問題として取り組み始めました。クボタ以外にも、アスベスト性の肺疾患を患った被害者の方に聞き取り調査を行う中で、船員の中にも同様の問題がある、ということが徐々に明らかになってきました。
前回の聞き取り調査では、元船員の方々をお招きしてお話を伺いました。その際、一つ興味深いエピソードとして、その時は確か南アフリカだということだったんですけれども、(アスベストを含む)積荷の荷下ろしの際にも、労働者が防じんマスクをしていたと。もしそれが本当だとすると、海外ではかなり以前から港湾作業についてもアスベストの危険性が認識されていたのではないか、ということになります。そうすると、日本国内の港湾労働者の問題や政府や企業の責任ということにも直結してくるのではないか、と。
今回も同様に、船の仕事とアスベスト問題の関連について、ご自身の経験や見聞を踏まえてお話いただければ、と考えております。 では、まず最初に、日本郵船へ入社されるまでの経歴をお話いただけますか。
岡崎氏の経歴について
岡崎剛
私は少々変わった経歴でしてね。終戦は昭和20年ですが、その時には学徒勤労動員で横須賀市の海軍航空技術に、中学二、三年生まで所属しておりました。ですから、勉強は中学一年生の時だけですね。二年生になったら勉強はほとんどなく、今はアメリカ軍が占領してベースと呼んでいますが、横須賀の造船所の方に週二日ほど学徒勤労動員で仮に行っていて、正式には昭和19年12月に国家の命令を受け、一部の教職員を除き二年生は海軍航空技術に動員されました。
終戦までそこにいたわけですが、このままじゃいかん、ということで、ちょうど募集があった甲種飛行予科練習生の試験を受けたところ、合格しまして、試験があったのは昭和20年1月だったと記憶しているのですが、「昭和5年12月1日以前に生まれた者」という年齢制限があったものの、私は昭和5年9月11日生まれですので、ギリギリですがそれにひっかかることなく合格しました。
その後、昭和20年7月山口県市の海軍通信学校に行きました。そこで終戦を迎え、すぐに復員ですね。それから、今の横須賀高校に復学したのですが、食べるものもない、大変ひどい生活でした。幸い、米軍の空襲で焼けることもなく、家は無事だったのですが。そこで、海軍に行ったのだから船に乗れるのではないか、と思い立ち、つてを通じて特別輸送艦と名称が変わった旧海軍駆逐艦へ乗船することになりました。これが昭和21年から22年にかけてですね。22年3月に、今度は海員学校への試験を受け、これも合格して、約一年間岩手県宮古市の宮古海員学校——当時は海員養成所という名前でしたが——へ通いました。そこを卒業して初めて乗船することになりました。当時、戦後統制経済下の海運界は全船社が一括して船舶運営会という組織に組み込まれていたのですが、そこで一課一斑に所属していた戦標船(A型)6,800G/Tの汽船栄豊丸がいわゆる「親船」となった、即ち、海上における私の一生を決定づけた初乗船となりました。半年ほど引き上げ輸送(復員輸送)に従事した後、次に日本郵船の氷川丸に乗りました。最後にはGHQから外航に出る許可が出まして、ビルマのラングーン(現在のヤンゴン)などへ、お米を積みに行ったりもしたものです。
ディーゼル船はメインエンジンにディーゼル機関を使用していますから、蒸気をあまり使っていません。ですから、アスベストは使っていないというか、ほとんど関係ないと思います。私が最初に乗った非武装の駆逐艦はタービン船で、今で言うツインスクリュー船でした。それで、蒸気を非常によく使うんですね。煙突も二本、ボイラーも二つですから。アスベストで被覆された蒸気パイプが船内に縦横無尽に張り巡らされていました。
松田
その頃のお仕事は、具体的にはどのようなことをなさっていたのですか?
岡崎
機関部の方の補機担当です。電気と補機が一緒になっていたのですが、要はデッキ(甲板部関係)の方ではなく、エンジンルーム(機関部関係)です。
松田
以前、元船員の方にお話を伺った際、「船内職務分掌」に関する書類をいただいたのですが、階級は徐々に上がっていくわけですよね。これは、試験かなにかがあるのですか?
岡崎
社内の推薦や、船舶職員としての海技免状の取得状況に応じて昇進の基準はいろいろあります。私も最初は甲板員で、学校(現独立行政法人海技大学校)に行って合計三年間勉強して、海技免状を取って、船に戻って、船長になるまで三十三年間ですね。今は6級から1級まで海技士免許が分かれているのですが、3級の免許を取ってから一年後に2級免許を取る資格ができ、2級免許を取ってから二年後に1級への資格ができます。学科試験(含口述試験)と実務経験に分けられるのですが、学科試験は、最初に三回分(1級、2級、3級)を受け、合格することも可能です。しかし、実際に実技の経歴がないと、免許は取れません。
松田
どこからどこまでが三年なのでしょうか?
岡崎
ええと、順調にいって三等航海士(海技士)から二等航海士(海技士)へ昇進するためには一年間の海上実歴が受験資格として必要です。二等から一等——今は一級海技士と言いますが——までが海上実歴二年間で、合わせて海上実歴三年です。条件は今でも変わっていないと思います。
松田
「船長」は、資格ではなく、職名ですか?
岡崎
はい、職名です。(資格名では)今は海技士の6級から1級という呼び方をしますね。昔は甲・乙・丙という風に呼ばれていましたが、三十年ほど前に呼び方が変わったようです。
それで、先程の話で出た引き上げ輸送以降、つまり氷川丸からは貨物船で、貨物を運ぶ仕事でした。一番大きいのは、総トン数12万トン級のタンカーで、ペルシャ湾まで行って30万トンの油を積んでくるなんて作業が多かったですね。一番最後は、日本船籍ではなかったのでことさらはっきり覚えていますが(船自体は日本郵船のものだが、税金対策でリベリア船籍になっている)、外国人の方と混乗で乗り込んだのが5、6隻ありますね。
松田
船の乗り降りの場所の履歴などはわかりますか?
岡崎
乗り降りした港は、航路によっていろいろあるのですが、一個人としては、船員手帳を見るのが一番確実です。ただ、日本の船員手帳は日本籍でしか認証されていないんですよ。だから、正式な船長になるための経歴の書類にはならない。また、船員手帳では、貨物船か否か程度はわかりますが、どこからどこまで行ったかといった、航海ごとのデータまではわかりません。
※日本籍船は船員法の規定によって「公用航海日誌」の船内備置が定められている。また船内の日々のできごとは「船用航海日誌」(Ship’s Log Book)があり詳細に記載されている)
船上業務とアスベスト
松田
先ほど伺った、アスベストの積み下ろしの問題についてお話していただけますか。
岡崎
アスベストと言いますと、赤城丸のお話ですね。赤城丸は、日本を出て定期航路を廻る船で、私は昭和39年6月16日から、昭和40年11月4日まで乗り込んでいますね。最初の航海は臨時配船で日本−豪州間の定期航路。次いで中近東・黒海航路に就航し、その後日本からアメリカの五大湖の方へ行って、次にカナダを廻った定期航路です。沢山の港に寄港することになります。日本でいえば、神戸、大阪、名古屋、横浜といったように。普通で大体20〜30の港に寄港します。オーストラリアは大体6港くらいだったかな。シドニー、ブリスベン、メルボルン、アデレード…、まあ、大きなところは大体、寄るわけです。アスベストの件で寄ったのは、メルボルンだったかと思うのですが…。今となっては記録がないので何とも言えません。
松田
カナダも、アスベスト生産輸出大国ですが、カナダの港では、アスベストの積み下ろしの際のマスクの着用について指摘されなかったのですか?
岡崎
確かにカナダでは東岸・西岸共多数の港に寄港しましたが、カナダにおいてはマスク無しの危険性について指摘されたことはなかったですね。オーストラリアで指摘を受けたことはまず間違いない。「これは吸ったら危険だよ。船艙内へ入るならマスクをしないといけないよ」、ということを、赤城丸2番船艙内の沖仲仕(stevedore)から注意された記憶が残っています。
松田
日本ではどこの港から出発されたんですか?
岡崎
横浜が最終だったと記憶しています。一番先に帰ってくるのが神戸ですから、アスベストを一番最初に下ろしたのは神戸だと思います。
松田
クボタが購入したアスベストが、神戸港経由で入ってきていたことは間違いないと思うのですが…。
岡崎
私が運んだ中では、袋入りのものが記憶に残っています。セメント袋のような、一袋約30kgくらいの紙製の袋に入ったものです。
松田
紙ですか。我々がよく耳にするのは、麻袋のような目の粗い袋に、積み下ろしの際に鉤のようなものをひっかけて、そして破れた裂目から出てきたアスベストを吸い込むといったケースなのですが。
岡崎
アスベストに限らず、セメントなどでも、手鉤の使用は船社側の方で禁止しておりました。何故かと言いますと、こぼれたりすると危ないからです。ですから、フックは使うなと指示しておりました。労働者が運ぶ姿を実際に目にしていますが、あれは確かに(麻袋ではなく)紙袋でした。
松田
衝撃が加わった場合などに、袋そのものからの飛散があったかどうかは覚えてらっしゃいますか?
岡崎
はっきりは覚えていませんが、少しはあったのではないかと思います。積み下ろしの作業は1ギャング、つまり18人から20の単位で行うわけですが、常に半分は休んでいたように思います。半ギャングが働いている間は、もう半ギャングが休むといった感じで。オーストラリアの人間はあまり熱心に働くといったことはしないみたいです。
松田
一番可能性が高いのが、メルボルンですか。
岡崎
メルボルンだと思います。カナダにも行って、鉱石を積んだこともあるのですが、それがアスベストだったかどうか…。ちょっと今はわからないです。
松田
その時の積荷の量というのは、どれくらいですか?
岡崎
アスベスト単体で、2〜3千トンは積んでいたと思います。もちろん、他の荷物も積んでいますよ。全部合わせると1万トンくらいです。
松田
アスベストを船から下ろす時は、ご覧になっていませんか?
岡崎
うーん、覚えていないですね。なにせ、危険物であるという認識が全くなかったですから。危険物船舶運送及び貯蔵規則に定められた危険物であれば、当然、相当気を遣いますが。認識としては、普通の雑貨やセメント並でした。
もう一つは、それから何年か後、私が一等航海士になってからですが、ニューヨーク航路のはんぷとん丸に乗り込んだ時のお話になります。私がはんぷとん丸に乗っていたのは、昭和45年8月28日から昭和46年6月12日までですから、その頃の話になりますね。「荷敷き」と呼ばれる、ダンネージウッドというものがあるのですが、これは、船体との温度差によって荷物に水滴が付くのを防ぐ目的で使われます。これの代わりに、アスベストを使った荷敷きを使った経験があります。100枚くらいだったでしょうか。日本郵船経由でテストのお話が下りてきました。
危険性についてのお話は一切なかったのですが、重くて持ち運びが不便な上に、なにより強度的に弱かったので、一回きりの使用になりました。
松田
アスベスト製のダンネージ材を作っていた会社というのは、それまでも(木材などの、アスベストとは異なる素材で)ダンネージ材を作っていたのですか?
岡崎
どうやらそのようですが、その会社についての詳細まではわかりませんね。下請けの会社なので、直接のお付き合いもないもので。なぜアスベストを使おうという考えが浮かんだのかも理解しがたい。値段も高く、強度的にも従来の材料に劣っていたのに。厚さも約1cmはあって結構分厚かったですね。 結局のところ、使用を止めたのは、安全性の問題というわけではなく、強度的に実用に耐えうるものではなかったからです。強度的にはベニヤ板とほとんど変わらなかったんじゃないでしょうか。
松田
話は赤城丸の頃に戻りますが、アスベストを積んでいる船というのは、日本郵船以外にもあったのですか?
岡崎
ちょっとわかりませんね。少なくともやっていたのは日本郵船とMO、つまり三井船舶(現大阪商船三井船舶)の二社です。一種の航路同盟のようなものがありまして、昔からやっている大きな船会社が半ば独占的にやっておりましたから、他の会社の船はおそらく来ていないんじゃないかな、と思います。
松田
アスベスト積み下ろし作業の見聞のことなのですが、他の船に乗っておられた同僚や、あるいはそれ以外の方でも、同じような話を聞いたということはありませんか?
岡崎
それはありませんね。
松田
ということは、かなり珍しいケースだったのですね。
岡崎
そうなんですよ。昔の個品輸送とは違い、今は各船舶が専用船化されましてですね、積荷は全部コンテナに入っているので、外からは見えません。この、個品輸送から専用船化への切り替わりは、昭和50年前後からではないでしょうか。
ですから、オーストラリア航路もずっとコンテナ船が就航しています。ただし、外から見えないようにしているとは言っても、積荷が危険物であれば、危険物であることを示すマークがコンテナにはついているはずです。危険物以外にもマークの種類はたくさんありますから、コンテナを外から見ただけで積荷の内容はある程度はわかります。
松田
当時、代表的な危険物としてどのようなものがあったのでしょうか。
岡崎
問題になったのは、四エチル鉛ですね。航空燃料のオクタン価を上げる、アンチノック剤の原料になる化合物です。主にアメリカから来ておりました。これを積んで、大きな事故を起こしています。
(四エチル鉛は)ドラム缶に入っているのですが、航海中、そのドラム缶がなんらかの原因で破損し、穴が空いた。有毒な液体ですから、大騒ぎになりました。海上でおおまかな処理をした後、港でもっと精密な作業をしたのですが、その時に洗浄作業員の方が何人か亡くなられた※。
そういうこともあって、危険物というと、我々はハラハラしながら、自衛策を講じながら運んでいました。
※1967年10月17日の日本郵船貨物船「ぼすとん丸」での事故
松田
アスベストは、吸ったとしてもすぐに影響が出るわけではないですからね。
岡崎
危険品に指定されていなかったというのは、恐ろしいですね。運輸省が通達で出す、とかなんとか言っていたのですが…。しかし、少し調べてみたところ、今も載っていないようなのです。この辺りはもう少し詳しく調べてみる必要がありそうです。
松田
港湾作業員には清掃作業員も含まれますが、そういった方が清掃作業中にコンテナの中でアスベストを吸われるといったお話も、よく耳にします。
岡崎
清掃作業専門の方は、年中そういったことにあたっておりますが、船ごとに何が積まれているかわからない、というのが実状です。
松田
先ほど、昭和50年代からコンテナ船に変わった、とのお話がありましたが、アスベストも全てコンテナの中に積み込まれるようになったわけですね。個品輸送からコンテナ輸送に切り替わっても、その辺りの事情は変わっていないのですか?
岡崎
一緒ですね。変わっていません。
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