アスベスト被害聞き取り調査—藤田佳弘氏、真田勝弘氏、丸川寿雄氏 [2007-07-17]
松田
すみません。手書きの資料で渡辺さんが書かれている、「最後に」という箇所で、外国人船員の話が挙げられています。『海員』のほうにも外国人の船員という話が問題点として書かれております。
先ほど話題になった、船が外国に引き渡される、それから、そもそもみなさんが船に乗られていた時代に、外国人にとって船のアスベストの問題が何か気付かれていたか、ご存知のことがあったら、話していただけますか。
丸川
外国人の船員はおりました。ただ外国は、どうかなあ。
松田
それはいつごろのことでしょう。何年ぐらい。
丸川
ええっとねえ。ちょっと待ってくださいよ、船員手帳見たらわかるわ。
松田
船員手帳っていうのはさっきの。
真田
それはですね、労災認められた人のなんですけれど、それは入社当時からの船員手帳のコピーです。
松田
船員手帳は、旅券と健康保険兼ねたような手帳とお聞きしました。いつどの船に乗ったか全部書いてあるそうですが、実際はどういったものでしょうか。
藤田
船員は入社してから退職するまで会社の命令によって乗船、下船します。乗船時は雇入れ、下船時は雇止めの手続きをします。昔はその時の本船乗組員の事務員が乗下船時の各港の海運局へ手帳を持参して公認してもらいます。ですから手帳には全ての乗下船の年月日が記載されています。
丸川
船員手帳でもこういうふうに健康の証明が全部載ってるわけです。医者の合格の証明がなかったら船に乗れないです。必ずこの健康手帳に全部載ってるんです。それで、乗船した時に、こういうふうに。これが雇い入れ、こっちが雇い止め。雇い入れしてなかったら船に乗れない。雇い止めしてなかったら船から降りられないんですよ。だから日本に着いたっていっても、船員手帳がなかったら不法入国なんですよ。
松田
雇うというのは、その場合は日本郵船が雇っているということでいいのでしょうか。
丸川
そうです。で、その証明を海運局が、国がするわけですよね。
松田
一応形の上で一回船に乗って出るまでで、間に区切りがある。そういうことですね。
丸川
そうですね。
松田
外国人の方が船員になったときも、そういうシステム自体は変わりはないんですか。
丸川
変わりないですね。
松田
日本郵船の職員、スタッフとして雇われている、そういう形ですか。
藤田
期間契約なんです。入社っていうことじゃないんです。今も派遣とかなんとかっていうみたいな、雇用契約するわけです。1年とか1年半とか。それを代理店とか派遣会社を介して、フィリピンならフィリピンに手配して、それで乗船してくるわけです。
松田
その人たちが日本の船に乗る場合、日本の船員手帳を持つんですか、それともフィリピンで管理するんですか。
真田
日本の船籍じゃないです。
丸川
日本の船じゃないんですよ。あのね、船籍港がリベリアにあるんですよ。私が乗った船はね。フィリピン人が30人。最初の時は日本人が6人。2杯目は、2杯乗りましたから。
松田
じゃあリベリアの船員手帳みたいなのもあるんですか。
丸川
そうそう。
松田
で、そのフィリピンの人たちはリベリアの船員手帳かなんか持ってる。丸川さんの場合は日本の船員手帳でいいんですか。
丸川
いやこれもね、その船のアレが載ってないからね、向こうの船員手帳・・・。日本の法律が適用外になるんですよね。
松田
そのあたりで、例えば、フィリピンの船に乗られた方が中皮腫になるということはあるわけで、そうなった場合には日本の法律はもう関係ないと。
丸川
うーん、どうでしょうね、ないと思う。問題はありますよね、それは。
真田
日本の船員法が効かないでしょう、効くんですか。
丸川
日本の船員法は効かんのやろなあ。その辺はちょっとわからないですけどね。
真田
みんな船籍の国が発行する手帳を持っている。
丸川
向こうの派遣会社のあれで来ますからね。2年か、2年半ぐらいフィリピンと一緒に乗りました。2杯乗ったですからね。
羽地亮 (神戸大学大学院人文学研究科准教授)
外国の船員というのは、フィリピンの他にどういう国の人たちが。
藤田
混乗船始めたころはフィリピンだけじゃなかったです。フィリピン人が多いですけれど、始めたころは中国人もいました。これは中国本国からではなくて、香港とか。中国人、それから韓国人もいました。それからインド人もいたのかな。
丸川
インドもおった。
藤田
だけど、混乗船で残ったのは、フィリピン船員だけだったね。他の国の人との混乗船はいつの間にかなくなったようだけど。戦中戦前の歴史上の想いからか、民族的プライドからか、あるいは雇用契約上の問題があったからのか、噂だけのことで我々にはわかりませんが。
私の経験した混乗船のフィリピン船員の多くは性格の明るい人達だったし、命令には非常に従順だし、一緒に仕事しやすかったですね。
羽地
その外国船員との会話って言うのは英語でするんですか。
藤田
そうです、英語です。得手、不得手なんて言ってられません。
丸川
あのね、仕事はね、一つしか命令できないんですよ。二つとか三つとか仕事を言っても一つしかしないんですよ。だからもう必ず仕事する時は「終わったら知らせに来い」と。言わなかったら、もう終わったら遊んどんですよ。
藤田
ですから、さっきも言ったように、期間雇用ですからもう下船してしまったらわかんないわけですね。ですから給料もですね船内で計算するんですよ。それで毎月の明細を本社に電報入れる。そうすると、ドル計算された給料の、60パーセントだったか、70パーセント、数字は忘れましたけれど必ず本国への送金を義務づけられています。そして各家族のいる銀行へ送られるんじゃないですかね。そういうふうに船でもらうのは、ですから送金した後残りを船内で支給されます。
丸川
後の30パーセントくらいやな。
藤田
やっぱり少なくてブーブー言ってたような。
丸川
30パーセントが本人のになって、あとは全部国へ送られるわけです。そういう契約で、強制的に送らないと国から出られんわけですよ。
藤田
50年ぐらいから始まって、そして混乗船がどんどん増えてですね。超合理化船を造る言うて、乗組員数12人の計画だったかな。でも超合理化船というのは船価が非常に高いわけですね。ですからそこまで結局行きませんでした。ずっと混乗船で続けてきて、もうどんどん日本人の乗船は減って、職員もほとんどなし。日本人は船長と機関長だけ。それで船長・機関長いないかって会社で探してるんですからね。船長、機関長になるのにたいていは20年くらいかかるんですよ。
結局、超合理化船ていうのは船価が高くて採算が取れないっていうことで、船籍を変えたり、外人の乗組員にしたりして。ですから日本人の船員ていうのはほとんどいなくなっていきましたね。
松田
では、今若い方は非常に少ないんですね。
丸川
少ないどころかおらないです。
藤田
会社が船員の採用やめたの、何年だろ。50年代終りくらいですかね。
松田
昭和の50年代?
藤田
はい。少し記憶があやふやですけど。
真田
外航に乗る船員ていうのは少ないですね。
藤田
外航に乗る、外航船で部員になって乗るっていうことは、海員学校を卒業しないといけないんですけれど、海員学校の制度そのものが変ってしまったよね。
真田
海技教育機構には海上技術学校(本科・実習科3年制中学卒業者)と海上技術短期大学(専修科2年制高校卒業者と同等以上)、海技大学校(海技士教育科・技術教育科。船員・船員になろうとする者)があります。
藤田
そして3級の免状を取るようになったんかな。そして遠洋、外航に乗れないもんですから近海船の職員というふうに変わってきてますね。
藤田
我々の時代はですね、外国へ行こうと思ったら船に乗ったほうが手っ取り早いですね、すぐ外国行けますから。1960年かな、今の天皇陛下がたしか皇太子のときにアメリカを訪問されたと思うんですが、そのときの新聞記事は、たしか横浜からアメリカン・プレジデントラインの客船で訪米されたというふうなことがちょっと記憶の端っこにあるんですがね。
当時大型旅客機はなかったんです。そして、我々が運行している貨物船ていうのは、客室が6室ありまして、1部屋2人ずつ、それでお客さんを12名まで乗せられるわけですね。当時、ですから、日本の方が欧州へ行こうと思ったら、シベリア鉄道を通っていくか、船に乗っていくかです。シベリア鉄道通ったほうが早いと思うんですけれど、冷戦時代ですから手続きとか何とか難しいんですよね。
有名人の方が結構、留学生もそうですけど、船に乗って欧州に行かれましたね。帰りもそれだったですけれど。よくお客さん乗っけたよね。
丸川
うん。あそこ、イタリーのゼノアとフランスのマルセイユで下船して。後は汽車で欧州各国に。大体フランスのマルセイユでみなたくさん降りて。帰りはフランスのマルセイユで船に乗って日本に帰ってくる。
藤田
そして、今、商船大学の人たちの、船に乗ろうっていう人が少なくて、昔は航海科と機関科しかなくて、今、学部がいっぱいあると思うんです。ですから、わざわざ苦労してですね、難儀な職業につこうとしないんじゃないですかね。ですから郵船がフィリピンに商船大学つくって、人を採用するっていう。
松田
学生がいるのですか。それとも、これからですか?
丸川
これからです。
藤田
今年の6月に発足したはずだから。もうそのニュースは去年。「郵船、郵船、マニラに商船大学」、「ええっ」なんて。それだけ船に乗ろうっていう人がいなくなりました。
真田
日本郵船がフィリピンに商船大学を設立。大阪商船・三井船舶はマグサイサイとトレーニングセンターを開設。川崎汽船は、私立商船大学のe-Collegeと船舶職員育成に関する提携を結んでいます。
藤田
養成所は結構作ってるんですね。優秀な人たちを囲い込みたいわけですから。そういう所で勉強させて採用するっていうようなことをやってるようです。
真田
日本の企業でも採用しているのじゃないですか? 一般大学卒、あるいは中途採用して、2年ぐらい専門学そして乗船実習(乗船履歴)をつけて海技免許の受験資格を得て、免許を取得させて乗船させる。
藤田
一般大学から採用して、船長、機関長つくるって言ってますけれど。
真田
商船学部があるのに何でこんなことを企業がやるのか、矛盾してますよね。
藤田
海大には、すでにその制度、コースが始まっていますね。
丸川
船に乗るっていう人がね、50年代の頃は若い人がね、両方の免許とらないけなかったんですよ。機関士と航海士と。
藤田
混乗船になる前に、合理化と言いますが、乗組員数を減らすために甲機両用船員て言いまして、甲板部の仕事も機関部の仕事も両方できる。それが非常に多くなったのが、50年代の終わりごろまでですね。60年ごろになるとほとんどなくなってますね。それでどんどん外国人船員に入れ替わっていったんです。混乗船がどんどん増えてきたんですね。
丸川
だから両方勉強させられたのが、私が第一期生なんですよ。第一期生で私は機関部でしたので、甲板部の勉強しました。
加藤
今の50年代60年代っていうのは、昭和50年代ということですか?
丸川
そうそうそう。昭和です。昭和の50年代に第一回の郵船が合理化のためにG.PC教育を始めたんですよ。
藤田
教えるほうも苦労する。
丸川
そう。教えるほうも苦労するよ。
松田
藤田さんは、海技大学校で教鞭を執られたとお聞きしていますが、安全教育については海でどんなことをされていたのでしょう。アスベストについては全くされてなかったと思うんですけれども…。
藤田
おっしゃる通り、アスベストとは、とか、アスベストについての安全対策などの教育は全くやっていませんでした。まだアスベストに対する意識・関心そのものがありませんでしたから。
丸川
知ってたらね、手でこねたりね、そういうことしなかった。そういうのはもう、全然、退職してから十何年経ってから、問題になったから。びっくりした後ですよ。
藤田
私が学校行きだした時は、昭和60年ですね。当時、いくつかの科目を担当しましたけど、先ほど言われたようにアスベストについては何もやっていません。
松田
会場の皆さんのほうからもどうぞ。
藤田
船っていうのもずいぶん変わりましてですね、これが今の船なんですよ。人が点みたいに小さく写ってる。これは昔のゼネラルカーゴボートっていう、あらゆる雑貨を積む船で、今はもう全然ないです。全て専用船です。
丸川
みんなもうコンテナ、ね。
藤田
昔の船っていったら、三島型って言いまして、ここにブリッジがあります。それからアンカー、こっちは係船機、操舵機なんかもここにありまして、島が3つあるように見えるでしょ。それで三島型っていいますけれど、これは一般貨物、何でも積みます。鉱石類、羊毛、鉄板、電線、電化製品、自動車までみんな積みます。今はこう船は全然ありません。
これから全部専用船。コンテナも、コンテナしか積みません。こういう船はもう見ることできません。このディーゼル船でここへウインドラスがありますけれど、1番ハッチ、2番ハッチ、3、4、5番ハッチまでありますけれど、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、ウインチが12台ですか、マストがここにありまして、このウインチで荷物を積んだり降ろしたりするわけです。この荷役時間を極力少なくして、停泊日数を短くして運航効率を上げるためにコンテナ船になってきたんですね。
松田
大体、何人くらいの人が乗るのですか。
丸川
えーと、だいたい15人か。私乗っとったときはね。
藤田
昔の外航船は、52人とか53人乗りの船もありましたね。
丸川
50人近く乗っとったですよ。昔はね。それでその、お金をかけて15人くらいにするために、ものすごいお金をかけてね、だいたい、船の一番上のブリッジで航海士と二人が見張りして動かしてるんですよ。それが、誰もおらなくても、前から来る船が5杯ぐらいまでは自動でかわしてくれるんです。その代わり、1台、レーダーと連動して舵が動くように、それ2台ついとるわけですよ。1台が大体、1億なんぼかかる。だから2台あるから2億なんぼかかるんですよ。
松田
その機械だけで?
丸川
機械だけで。その代わり50人ぐらい乗ったんが、14、5人で動かせるようになった。
藤田
これ先生、私が海員組合から送ってもらった『海員』ですけれど、お持ちではないかと思いますけれど、よろしかったらこれどうぞ。アスベストに関するニュースがこれ見ればお分かりになると思います。
松田
本日は貴重なお話をお聞かせ頂き、ありがとうございました。
藤田、真田、丸川
ありがとうございました。
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