神戸大学大学院人文学研究科倫理創成プロジェクト

アスベスト問題に関連する研究成果や情報

アスベスト被害聞き取り調査—藤田佳弘氏、真田勝弘氏、丸川寿雄氏 [2007-07-17]

page 1 2 3 4

松田毅 (神戸大学大学院人文学研究科教授)

今日は授業の一環ということで、三人の方にお越しいただいて、それで聞き取りといいますか、いろんな話を聞かせていただきます。 先日の尼崎での集会の時に、船員の方のアスベストの被害の問題というのがあるとのことで、お三方を紹介していただきました。「せっかくだから大学に行って話をしたい」ということになりましたので、今回はこのようなかたちで聞き取りを行いたいと思います。では自己紹介をお願いしてよろしいですか。

真田勝弘

こんにちは、日本郵船OBの真田勝弘と申します。こういう所に立つのは初めてなので、宜しくお願い致します。

昨日は中越沖地震で新潟地方は相当な被害があったと報道されていましたが、今日は12年半前、阪神大震災が起きて、この神戸大学でも職員さんや学生さん41名が亡くなられました。改めてご冥福をお祈り致します。

私は、日本郵船に1957年4月海上社員として入社、1987年5月に退社しました。その間、蒸気船レシプロ、タービン船、ディーゼル船。延べ24隻に乗船しました。現在は機関部(西部地区)OB会の世話役をしております。

本日同席をお願いした藤田佳弘さんと丸川寿雄さんを紹介します。

藤田佳弘

こんにちは、藤田です。この両人と同じように郵船のOBです。またおいおい自己紹介がてらアスベストに関わるお話をしたいと思いますのでよろしくお願いします。

丸川寿雄

丸川と申します。私も日本郵船、昭和26年に入社して、60年に退職いたしました。現在は西部地区の機関部、OBのOB会長をしております。名古屋から沖縄までの退職者に、一年間に一回みんな連絡を取り合って、ここいらで会合を開催することを旨として、いろいろと話し合いをしたりしております。

そして現在のアスベスト問題、これをほとんど真田君にやってもらっています。また後でお話しすることもたくさんあると思いますのでよろしくお願いします。

松田

アスベストの問題というのはわれわれもあまり今までよく知らなかったというのもありますし、それからそもそも船の中の様子だとか、いわゆる船員の方のキャリアであったり、どういう仕事をされているのかということも、私も含めて、この教室にいるほぼ全員が、あまりよく分からない状態です。

最初はアスベストと船員生活というようなかたちで、少しどういうふうなキャリアでこういうお仕事されてて、どういうところでアスベストと接触する機会があったのか、といったところから、お話を伺いたいと思います。学生の皆さんも、お話の途中であっても、もし質問があればその都度してもらう、というかたちですすめていきます。大体、今日二時間ちょっとくらいの予定で聞き取りをすすめますので、積極的に発言してください。

それでは、お話していただいてよろしいでしょうか。

藤田

では私から最初にお話させていただきます。今日はアスベストと船員社会ということでお話せよということでしたけれど、さあ、皆さんのご期待に沿えるようなお話ができるかどうか、心許ないんですけど。私の過去とそして昔の船のお話などしながら、アスベストに絡んだことをもっとご理解願えれば嬉しいかなと思っています。

それでまず、先ほども申しましたけれど、自己紹介からはじめたいと思います。わたくしは、現在アスベスト疾患の患者の一人です。症病名はなにかといいますと両側胸膜肥厚斑、つまり両側の胸膜にプラークを持っている、ということなんですね。

それがわかったのは本当に偶然なんです。今から5年前です。2002年ですね。6月7月ごろですねえ、どうも風邪ひいたんじゃないかなぁ。疲労——非常にこの疲労感が強い。そして、朝起きて、顔を洗うとき鼻水が出る。そして痰が出る。痰がそんなに青い痰じゃないんですよね。透明な、透き通ったのがタラタラッとこう出るくらいなんですよ。そして軽作業すると、ちょっと息切れが早い。早足で歩くと、ちょっと息切れするなあ、年かなあ、老化かなぁと思ってたんですね。

それで症状が少しも良くならないもんですから、近所のお医者さんに行って、「風邪らしいんだけど」と言ったら、お医者さんが胸部のレントゲン写真撮ってくれました。

医師:「ちょっと影があるけど」

藤田:「先生それは去年もあったじゃないの」

医師:「そしたら詳しく調べてみようか」

ということで、西宮のほうの診療所を紹介されまして、CTを撮りました。そしてCTの写真が返送されてきて、先生が言うには、「ちょっと正常なアレじゃないんで、専門医に見てもらったほうがいいんじゃないか」とのことで、六甲アイランド病院を紹介されました。

そして、六甲アイランド病院に行きまして、担当の先生が「うちの最新式のやつで撮りましょう」っていうことで、写真を撮りました。スパイラル式で詳細に写真が撮れるわけですね。撮りましたら、「うーん、どうも胸膜に腫瘤がある」と。「腫瘤ちゅったら、え、ガンか?」と思ったわけですね。そして先生曰く、「その一部組織を採ってきて生体検査したほうがいいんじゃないか」と。

私も「じゃあ、やりましょう」ということで急遽ですね、5年前、今でも覚えてますけれども9月2日に入院しまして、あくる日の3日に全身麻酔で手術しました。胸腔鏡下胸膜腫瘤摘出術です。鏡と道具使って採るわけですね。背中からわき腹にかけて2cmくらいの穴を三箇所開けて、一ヶ所は手術によって生じる体液の排出、もう2ヶ所は鏡と道具を挿入するための穴ですね。それで腫瘍組織の一部を採り出されました。手術が終わって、夕方から24時間集中治療室に入りました。

ちょっと余分な話だけどいいですかね。

松田

どうぞどうぞ。

藤田

集中治療室では、全裸でじっとしたまま動けません。そして24時間後、一般病室に戻りました。そして就寝前、10m程離れたトイレに行き戻る途中、エコノミークラス症候群を発症し、術後2日目に肺動脈造影。この首からカテーテル入れて、血栓溶解療法・抗凝固療法そして下大静脈にステント挿入を行うなど、二、三日バタバタしました。集中治療室は常時監視・完全看護ですから、何となく安心感がありましたが、出室してからが大変でした。

ま、そんなことがありまして、結果が出たのがですね、9月10日ごろですか。先生が、「胸膜の表面に細胞ではなくて、繊維状の組織物が点々と、あるいは面状に付着しているように見える」と。私が「先生、どんなものですか」と聞きましたら、先生は「色は碁石に似た白色。硬さはガムのようなものだ」って言うんですね。

それで「藤田さん、あなた何かアスベストに関係した仕事してませんでしたか」って言われまして、私は、「さあ…。新聞では建築物の解体業者がなんかアスベストの害をっていうことは新聞で見ましたけどそれ以外は…」。全然意識してないんですよね。アスベストについては。そんなもんです。それで「仕事は何してましたか」って聞かれましたから、「船員、機関部で働いてました」。そしたらその担当医がですね、「それです!」と。すぐだったですね。「アスベストを吸って発症するには、30年以上経たないとわからない。ですから、気がつくのが非常に遅いんです。」そういうことを言われましたね。

発症原因がすぐ判明したのは、私の運が良かったのかどうか分かりませんけれど、その先生が、当時珍しく、アスベストの研修を受けていたようです。「先生よく知ってますね」って言ったらそんなこと言ってました。

それで、「もう、何で俺だけがそんなアスベストなんや」っていうことですね。不満というか不安というか。周囲の誰も知らないわけです。話しても「ええ、そんなことあるの」って言うぐらいで、どこに訴えようもなかったですね。

そうしましたら、2004年の4月ですか、新聞で船員保険の、第一号認定者、労災認定者が出たのを知りました。ご存知のように笠原さんです。それなら俺と一緒じゃないかと思ったわけです。で、新聞に東京亀戸のひまわり診療所ですか、そこの名取先生っていう方がいらっしゃるんですけれど、その電話番号が載っていたもんですから。電話しまして、いろいろお話してたら、「まあ、平地を歩いててなんでもなかったら大丈夫ですよ、しかし将来、プラークに隣接している細胞がガン化する恐れがあるかもしれませんね。」と言われ、「エッ!ガンになったら一大事だな」と思いましたら、「おたくの会社でも何か相談の窓口ができたようですよ」っていうことを聞いたわけです。

それで、元勤めていた本社の窓口に電話しまして、「これこれなんだけれど、労災申請したい」と。そうすると、その窓口は、東京の社会保険事務所であること、郵船本社が東京ですから一括して船員は全部東京の社会保険事務所で扱ってるわけです。で、聞いた電話番号をもとに、社会保健事務所に電話しまして、「これこれで労災申請したい」ということを言いましたら、必要書類を送ってきました。それでその際にですね、何言われたかというと、アスベストを吸ったと思われる年月日、それと作業名、作業の内容を提出してもらうと。そしてその作業に対して、証言者2人を立てて、証言書を送ってくれというわけですね。それで「ええ、そんな何十年も前のことを」となってですね。自分がいつ、どの船でアスベストを吸ったかなんてことは直ぐにはわかんないわけですよ。

私は昭和27年に郵船に入りまして35年勤務して、昭和62年ですか、会社を退職するまで、35年間。そしてですね、乗った船が31隻です。そして、実際の乗船期間というのは22年なんですね。各船の乗下船日を元に合計すると22年間ということです。あと13年間は有給休暇、自宅待機、各種研修、陸上勤務等です。

それでどの船選ぶか、といったって、「そんなー」と思うわけですね。そのうち、31隻のうちタービン船は3隻でした。ま、機関室の中でアスベストの使用量がどっちが多いかと言えばディーゼル船よりかタービン船のほうが多い。しかしディーゼル船にもアスベストの使用箇所は多数あります。燃料油タンク、暖気用蒸気、各種ヒーターなど船内の加熱用エネルギーはほとんど蒸気です。タービン船は主機がタービンで、蒸気を使用して運航しますが、発電機をはじめ多数のポンプ、ヒーターなど補助機器にはすべて蒸気を使用しています。ここで蒸気の流れを説明しますと、まずボイラーで発生した蒸気を、その頂部に設けられた主蒸気止弁から大口径の主蒸気管、中間弁を経て主機操縦弁へ供給して主タービンを運転します。

補機器用蒸気は主蒸気止弁と同様に取付けられた補(副)蒸気止弁からボイラー室に近いエンジンルームの壁に設置されたスチームレシーバーに導入されます。レシーバーには多数の補機器の蒸気元弁が取付けられ、各機器へ別個に配管して蒸気を供給します。

エンジンルームは中央に主機、その両側に1、2号発電機、周囲の側面には多数のポンプ類が配置されています。各機駆動後の蒸気をエキゾーストスチームと言いますが、船にとって蒸気の元の清水は貴重ですから捨てることはできません。これを主・補復水器に導き冷却し、再びボイラーに給水します。従って蒸排気管は天井・側面に沿って機関室を囲むように配管されています。これらのパイプ、多数の蒸排気弁、各ポンプのシリンダーも全てアスベストを使用して断熱保温されています。

またスチームレシーバーから各機器、ポンプまで何十メートルもあり、1本が5〜6mのパイプをつないで配管しますが、このジョイントのフレンジ部にはシート状パッキンを使用して蒸気洩れを防止しています。このジョイントシートもアスベスト製品です。これは現在も未だ船舶に使用されていると思いますけど。劣化して蒸気が洩れるようなことがあれば、予備品の大きなシートから手作業で切り取って形状に合わせてパッキンを作り、新替します。また各諸弁はバルブカバーとスピンドルの間に流体の漏洩防止のためグランドパッキンと称するアスベスト製パッキンを装備していますが、これは損耗がはげしく、たびたびの新替が必要です。

パイプの修理、取替そして各弁、機器の開放点検、整備、修理にはそのたびごとにアスベストマット等の取外し、復旧後の取付け、アスベストシートの新替を伴います。当然、保温材も傷みますから補修用のアスベストセメント、シート、テープ、ロープ等が多量に機関室倉庫の棚に、他の機器用予備品と共に保管されています。機関の整備、修理作業時には当倉庫への出入りは常時あるし、機関部員は四六時中、アスベストに囲まれた環境の機関室内で働いています。

機器の整備、修理作業は停泊中が多いですけれど、乗組員は航海中3直制の航海当直に入ります。0時から4時までは二等機関士、4〜8時は一等機関士、8〜12時は三等機関士が担当し、それぞれの当直時に操機手1名、機関員1名の計3人が組になって午前と午後、1日2回入直します。ボイラーが石炭焚きの船だとボイラールームにファイアマンとコロッパス(石炭運び)が別に入直します。当直中はエンジン、ボイラー各部の圧力、温度等を計測記録します。その他当直中は常に機関の運転状況を点検して廻りますが、当直時に最も重要なのは、機器の故障の前兆をいち早く感じ取り、発見して機関の事故発生を未然に防止することにあります。そのため、当直員は人間の五感を総動員して機関室内をチェックして廻りますが、機器の異常をすばやく気づけるのは五感を鍛錬して得られる鋭い第六感だと思います。

蒸排気管は機関室だけではありません。甲板蒸気として機関室外に使用する蒸気元弁があります。甲板上にはオモテ*に揚錨機、船倉付近は数台の揚貸機、船尾(トモ)に繋船機、操舵機室があります。これらの甲板機はすべて往復動式の蒸気機械です。これらの蒸排気管はほとんど甲板上に配管され、アスベストにより断熱保温しています。甲板蒸気は甲板上だけではなく、居住区内にも多数ヶ所に使用されています。昔の船室の暖房は蒸気式ラジエーターですから、部屋の中に蒸排気管が入っています。

風呂場の浴槽は蒸気を吹き込んで、お湯を沸かします。調理室には50人ほどの乗組員のご飯を炊いたり、味噌汁を作る大きな釜がありますが、これも釜が二重になっていて、熱源は蒸気です。それにパントリーの湯沸器も蒸気で加熱しています。ですから船全体に蒸排気が配管されていましたね。

あとで申し上げますが、船員にも2005年12月に健康管理手帳制度が発足しました。これは真田君に教えてもらったのですが。これは今年6月頃の数値ですが、元郵船船員の労災認定者は7名ですね。そしてこの手帳を取得した元船員は45名います。その内訳は元船長が2名、甲板部員2名、機関長士あわせて11名、機関部員が26名、事務員3名、通信士1名ということです。まあ機関部が一番多いのはそれ相当ですが、全職種の乗組員、全員がアスベストに曝露されていたと言えるのではないでしょうか。

しかしですね、労災申請にどの船を特定したかと言いますと、先ほど31隻乗船したと話しましたけど、やはりタービン船そして親船なんですね。親船とは入社後、初めて乗船する第一船のことです。最初の船で今風に言えば、OJT(ON THE JOB TRAINING)でしょうか。この船で社船の運航管理技術を厳しく教育され、船員としての技術習得の第一歩ですから、一番記憶に残っています。私の親船は函館丸でしたけど、他に姉妹船が3隻、小樽丸、室蘭丸、釧路丸ですね。

*舟へんに首

丸川

千歳丸。

藤田

千歳もそうだったかな。いや千歳丸違う。あれはレシプロエンジン。

丸川

ああ、レシプロエンジン。

藤田

同じ貨客船だけど、船型が違う。そしてホールドがオモテ*のほうに二つありました。

*舟へんに首

丸川

二つだったかね。

藤田

うん。そして後方は客室になってるわけです。まぁ戦後造ったんですけれど、どこ走ったかというと北海道と東京、名古屋、関西それから門司。この間をお客さんと荷物を運んでたんですね。昭和23年にできた船です。私の親船が昭和27年3月に乗船した函館丸だったんです。当時呉に英連邦軍が進駐していまして、英連邦軍に傭船されて、呉と門司と、それから韓国の釜山、蔚山の間を航海していました。ちょうど朝鮮戦争の時代ですね。

傭船中は兵員や日用品、食料それに弾丸、薬莢まで輸送していました。特殊な船でしたし、通常は乗組員ではなくてドックハンド(=造船所作業員)でやる仕事を2回も経験しましたから非常に印象があります。船は4年に1回の定期検査、その間一年毎に第一種、第二種中間検査を受検するよう義務づけられています。

ですから、ほぼ一年毎に入渠して機器全部を4年でひとまわりするように順次開放して整備受検します。ボイラーはもっと短期で受検しますが。受検工事量は入渠期間に比べて多量なので、ほとんどドックハンドにより施工されますが、簡単なものは乗組員も担当します。

先ほどお話した2回の作業は主蒸気止弁の開放点検とボイラーの長期休缶工事です。蔚山停泊中に機関長の命令で、この蒸気弁が減っている傾向があるから開放して点検しようということになりましたけど、この作業は長時間の工程が必要です。ボイラー圧力を大気圧まで下げなければなりませんから、開放前日から作業を始め、翌日昼までに終了しましたが、この時もアスベストの布団の取外し取付けがあります。

もう一つボイラーの作業ですけれど、戦争もおさまってきて当年11月に傭船解除されまして呉港から東京港へ回航し長期係船されることになりました。係船しますと、電気は陸から給電して、全機器を運転停止します。しかし次の運航に備えて何時でも機器を異常なく運転再開できるように防錆工事など、たくさんの作業が必要です。ボイラー担当の私はボイラーの内部掃除をして乾燥剤を入れる作業に従事しましたが、この作業にはボイラー内に出入りするためマンホールの開放復旧作業がありますが、これもアスベストマットの取外し取付けがあります。ボイラー内部掃除は先ほどの話のように通常はドックハンドで施工されるものなので、私は特異なっていうか、希少な経験を函館丸で二回もやったわけですね。

「函館丸かなー」と思ってて、「しかしまたそういうのごちゃごちゃして面倒くさいし、もう今なんともないからもう労災の申請もやめようかな」とも思ったんですね。そしたら、毎年の10月1日に会社の創立記念日がありまして。創立記念日にはですね、郵船を退職した人が任意で入る游仙会がありますけれど、終身会員制です。退職したときに入会金5,000円かな…。

真田

私の時は3,000円でした。

1 2 3 4

上に戻る | 教育研究活動の一覧へ戻る