アスベスト被害聞き取り調査—藤田佳弘氏、真田勝弘氏、丸川寿雄氏 [2007-07-17]
松田
今日は、付録としてある記事のコピーを用意しております。Harriesという有名な研究者だそうですが、造船所の作業過程でどれぐらいアスベストの濃度が違うのか、について調査した有名な実験があります*。それが1940年頃の造船作業を再現していまして、造船の方ではこの段階で明らかにわかっていたということがあると思います。
船の寿命のことなのですが、どれくらいの期間使用するのでしょうか。
*PG Harries. Asbestos dust concentrations in ship repairing: a practical approach to improving asbestos hygiene in naval dockyards. The Annals of occupational hygiene, Vol. 14, No. 3, pp.241-254, 1971.
丸川
そうねえ、昔作った船をずっと使っておれば全部巻いていますからね。
藤田
港行って我々がときどき目にするんですけれど、横文字の船名が書いてある。その下のほうにですね、何々丸なんていうのがあって、溶接でなぞった跡が見えるんですよ。ああ、昔の日本船やな、なんて思います。大体造って20年もすると売るんじゃないかな。そうすると、買った船会社はまだ動かせるとなると運航するわけですね。
丸川
大体15年から20年くらいで、会社によって違いますけどね、うちの会社の場合は売ったり、子会社へ落としたり、無くなっていくんですよね。
松田
20年使われて、売られた船はさらにどれくらい使われるんでしょうね。
丸川
それはまだまだですよね。すぐスクラップにする会社もあれば、そのままずっと使うところもある。
真田
外国に売却したら日本の法律が適用されなくなるから。もう向こうの国の船になるから、全然わからない。
松田
そうですね。その先どこに所属、どこの国に属するかによって決まるのですか。
丸川
決まりますよね。太平洋戦争勃発時113隻くらいあったの全部沈められたですからね。照国とかああいう船は全部戦争中に、客船が空母になったりね、ほとんど沈められて、残ったのは、氷川丸くらい。戦争中にとにかく軍の荷物を積んで向こうへ行けばいい、だから行きだけ行って帰ってこんでもいいような船を作って、まあわれわれ入社したときは、そのころは戦時標準型船、戦標船やったんですよ。
松田
「帰ってこんでいい」というのはどういう意味なのでしょうか。
丸川
沈められるから。
松田
帰り沈んでもいいと。
真田
死ぬんですよ。
丸川
それでも各社の船、沢山沈んだんですよ。
藤田
戦争中にですね、乗組員の亡くなったパーセンテージは48パーセントなんですよ。6万人いたそうです、戦時中。48パーセント死んでます。陸軍は何パーセントくらいだと思いますか。
藤田
23パーセントです。海軍はどのくらいだと思います?
松田
怖いですね。海軍はもっと多いんじゃないですか。
藤田
18パーセント。輸送船団を海軍は守ってくれないんですね。裸で出されて、すぐ飛行機に…。
丸川
だから、船員が船を沈められて死んでも、戦死じゃないわけです。
藤田
その神戸にですね、全日本海員組合の建物があるんですけど、そこに全部資料があります。
丸川
海員組合の二階にね、沈んだ船の写真がずうっとありますから、いっぺん見に行ってください。たくさんの先輩が太平洋の藻屑になったんです。インド洋、太平洋で。たくさん死んだんです。
松田
戦標船の話が出ましたが、資料を用意していただいております。さきほどの、労災申請の際に2名の証人が必要という話題がありましたが、実態証言というものが二種類、記載されております。
若い人間は戦標船について何もわからないのですが、いかに労働が過酷であったかも書かれていますし、このあたりをご説明いただくとありがたいのですが。
丸川
そうですね、戦標船に延長丸に乗ったんです。これが6900トンぐらいの船なんですけどね。それで、馬力が2800馬力です。この船はその当時戦争中に作って荷物を運んで日本に帰ってくる会社が運行しとった船で、助かったんですよね、戦争中に。そのころにやっと計画造船で平安丸とか、国が援助してくれて船を造りだしたところ。それまではそんないい船はなかったです。戦時標準型の船が40杯ぐらいあったかな、うちの会社にね。延長丸はボイラーを3缶、それで蒸気で動かすレシプロいうんですね。あれと一緒です、機関車とね。あれの大きな、縦にして、それで蒸気ピストンを動かして、スクリューを回して走ってたんですよ。
で、だいたいこの船は1日に石炭を30トンぐらい焚くんですよ。ボイラーが三つあり、この船は30トンぐらい焚いて、一時間のスピードが7〜8マイルです。船の割りに馬力が小さいですから。走らないわけですよね。1日30トン焚いたところでたいしたスピードが出ないわけですよね。
いっぺんフィリピン沖で台風に遭うたことがありまして、この船で。それで一日30トン石炭焚いて、あの台湾海峡のとこにね、ガランピンって島があるんですよ。その島が・・・朝に見たらすぐ横にあるんですよ。それで一昼夜経ってですね、前から台風で煽られて風受けて、それであくる日の朝見たらまだ見えとるんですよ。で、3等航海士に「一日何マイル走った?」言うたら、「2マイルしか走ってない」言うんですよ。馬力が小さいからね、台風に会うたら全然進まないんですよ。30トンも石炭焚いても。戦時標準型いうたら、そういうような船なんですよ。
だから要するに戦争中に荷物を敵地へ持っていくだけで帰らなくてもいいいうような船やからお金はかけてないね。船そのものに大きなエンジンもつけてない。だから、向こうの潜水艦とか飛行機に追いかけられて、我々の先輩がみんな沈められて死んでるわけなんですよ。
そういう船が戦後に残って・・・働いて、新造船を国から援助してもらって、援助してもらっといて、今まで欧州航路とか客船がたくさんあったのが全部改装されて、空母とかそんなんになって全部沈められたでしょ。会社の損害だってものすごい損害だから。
松田
戦標船にもアスベストの問題がありますか。
丸川
ボイラーに石炭を焚いて蒸気を作るのですが、丸缶では(会社の船は)一つの缶に石炭を焚く口が三ヶ所あります。その奥に、有効に火力を働かすために、火を直送りしない様に邪魔をするようにして、耐火レンガでファイアーブリッジ(火の堰)を築き上げます。それが航海中に壊れたり、火で真っ赤になり、ボロボロ落ちるので、停泊したらアスベストセメントで(水で練って)耐火レンガを築き直します。
松田
戦争前からやってたってことですか。それで外国でも船で同じ作業をしてたと考えてよろしいですか。
丸川
そうそうそう、戦争前からやってた。そうですよ。外国でも同じ作業してたわけです。
藤田
丸釜が基本ですね。正面から見ると円形です。
丸川
これがボイラーですね。丸いボイラー。
藤田
丸缶を構成する三大要素を燃焼ガスの流れから説明しますと、まず石炭を投入し、燃やす(ファーネッスfurnace=炉)。その奥に隣接してガスを完全燃焼させ、流れる方向を転換するコンバッションチャンバー(combustion chamber=燃焼室)。そしてガスの熱エネルギーを缶水に最後に伝達するスモークチューブ群です。それからガスは缶前部上方に設けられた煙突に集まり、煙室に排出されます。
燃焼ガスがファーネッスからあまりに速くコンバッションチャンバーに逃げてしまうと燃焼効率が悪くなりますから、この境い目のガス通路を狭くするために、耐火レンガとアスベストセメントで構築した土手のようなファイアーブリッジが造られています。これがよく損傷し壊れます。そうすると、ボイラーを休缶しまして、ここを修理するのは火夫とか。コロッパスとか。
丸川
だから入社して、2,3年まではその仕事させられるわけですよ、皆。若いときにね。
藤田
丸缶はコンバッションチャンバーの位置によって湿燃式と乾燃式があります。チャンバーを本体内部に設けたのが湿燃式、本体後面に密接して外部に設けられたのが乾燃式ですけれど、耐火レンガで造られ、これも損傷することがあります。
スモークチューブは全て水面下にありますが、その上方ボイラー上部はスチームスペースでして、その頂部には先ほど言った主、補蒸気止弁、安全弁があり、そして頂部附近にマンホールがあります。マンホールはもう一ヶ所、水室下部にも設けられています。
松田
先ほど言われたのだと、このマンホールの中からその中に入られた。
藤田、真田、丸川
はい。そうです。
真田
熱いです。
藤田
こん中入っていったら、狭いですからね。そんなに人間が自由に動けるわけじゃないですから、横になったり、もうしゃがむのも苦労するぐらいで。
丸川
100本以上のパイプが走っていますからね。そのパイプの中を燃えたアレが通るわけですよ。そのまわりは水ですから。それで蒸気を作るんですよね。これが壊れたら、ここら辺の壁が落ちたりしたら、はしごを持ってきてここへ耐火レンガを、アスベスト、自分らで手で練ったやつを引っ付けて、それでまたアスベストで…ですよ。耐火レンガだってすぐに、熱が高いから崩れ落ちるわけです。
藤田
で、結局こういう周りは全部アスベストで覆われてるんですね。
丸川
ボイラーが全部アスベストで覆われてる。
藤田
アスベストで覆って、それをトタン板のような薄い鉄板でカバーしてる。それで、この先は煙突につながりますから、この周りはずうっとアスベストで巻いてある。われわれに言わすと、エンジンルームはアスベストだらけやったな。あんまり気にしてなかったけど。
丸川
三十年過ぎくらいからですね、もう石炭を焚かずに油を焚く船になって来ました。
藤田
戦標船にはA型、B、Cとか、あったんかなあ、僕が知ってるのはA型とE型、A型のいうたら永徳丸、これはタービン船です。これがですね、戦時中は短期間に作ってどんどん送り出さないと、全部船沈められてアウトになりますから、要するに効率よく船体を作ろうということで、船尾は三角形です。これを戦後改装しまして、改A型とするわけですね、石炭焚きを油焚きに最初にしたのが永徳丸かな、これは昭和25年頃かな、26年か、わたくしが乗っていく時は「日本郵船の最優秀船であるから、しっかり勉強してこい」なんて言われて、戦標船ですけど。実習生の時、昭和26年の話。
丸川
26年言ったら、氷川丸が戦時中に残った船で、あとは戦標船しかなかった様に思います。 太平洋戦争勃発時、133隻あり、多くの客船が沈められたので、会社も大変だったでしょう。26年頃から計画造船で平安丸、平洋丸が出来て一年、一年、新造船が出来、欧州、アメリカ航路等行く国が多くなりました。
藤田
蒸気駆動の甲板機を使用していた頃、揚錨機、繋船機、ウィンチなどにはハンドブレーキが付いてます。ブレーキパッドは全部アスベスト製ですから、これらを運転するたびに、アスベストの害を受けていたと思いますね。
丸川
あの大きな錨を止めるんですからね。チェーンだけでもこれぐらいの大きさありますからね。チェーンの太さはこれぐらいで。大きさがこんなのがずーっと。・・・mくらいあるんですからね。それをドーンと、アンカー下ろしたり、チェーンを止めなあかんのですから、ブレーキだってすごい。
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