『細川両家記』永正16年〜17年

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澄元方の池田三郎五郎、高国方の河原林・塩川の軍勢を破る。
于時永正十六年己卯歳秋の比より四国又播磨をもよほして切上り給ふべき御談合ありけるに。御内に摂州の住人池田前筑後守息三郎五郎申されけるは。今度御上洛候はゞ摂津国口の先陣は何がし仕り候べしとて申請。摂州有馬郡田中と云所へ上り人数を揃ふる所に。高国方の河原林対馬守正頼。池田民部丞。塩川孫太郎相談し。かの田中へ同十月廿二日夜半に夜討する処に。かの田中へかへり忠の者ありければ。田中にはこしらへて待たゝかひければ。寄手案内は知らず。廿日あまりの事なればくらさはくらし雨はふる。散々に切ちらされて塩川衆河原林衆身にかわらぬ人あまたうたせ。漸々にこそ引にけれ。 時に永正十六年己卯の歳、秋のより、四国又播磨を催して切り上り給うべき御談合ありけるに、御内に摂州の住人池田前筑後守息三郎五郎申されけるは、今度御上洛候はば、摂津国口の先陣は何がし仕り候べしとて申し請け、摂州有馬郡田中とう所へり、人数を揃うる所に、高国河原林対馬守正頼・池田民部丞・塩川孫太郎相談し、かの田中へ同十月廿二日夜半に夜討するに、かの田中へ返忠の者ありければ、田中にはこしらえて待ち戦いければ、寄手、案内は知らず、廿日あまりの事なれば、暗さは暗し雨は降る。散々に切り散らされて、塩川衆・河原林衆、身にかわらぬ人あまた討たせ、漸々にこそ引きにけれ。 時に永正十六年(一五一九)己卯の歳、秋の頃より、(細川澄元方が)四国と播磨(の軍勢)を催して、(畿内へ)攻め上られるという相談がおこなわれたところ、家臣の摂津国の住人池田前筑後守の子息三郎五郎が申されるには、今度御上洛されるならば、摂津国口での先陣は、私が務めましょうと引き受けて、摂津国有馬郡の田中というところに上り、(軍勢の)人数を揃えたところに、(細川)高国方の河原林対馬守正頼・池田民部丞・塩川孫太郎が相談し、かの田中に同十月二十二日夜半に夜襲したところ、(高国方の中に)田中の側へ裏切った者があったので、田中の側では用意して待ち受け、戦ったため、攻撃側は不案内のうえ、二十日すぎのことであったので、(月が欠け?)暗さも暗く、雨も降ったため、散々に切り散らされて、塩川衆・河原林衆はかけがえのない人を多く討たれ、ようやくのことで退却した。

澄元、池田三郎五郎に恩賞を与える。
池田三郎五郎は首三十あまり討取。則阿波国へ注進申されければ。澄元御感あつて豊島郡一色に下され。弾正忠になされ申と也。 池田三郎五郎は首三十あまり討ち取り、則ち阿波国へ注進申されければ、澄元御感あって、豊島郡一色に下され、弾正忠になされ申すと也。 池田三郎五郎は首を三十余り討ち取った。そして阿波国(の澄元)へ注進されたので、澄元は感心されて、(摂津国)豊島郡を一色知行(※1)として下され、(池田三郎五郎を)弾正忠になされたということだ。

澄元方、兵庫に上陸する。
然ば澄元四国淡路播磨を催して。三好筑前守之長御供にて兵庫浦へ着。灘へ上り給ふ。 然れば澄元、四国・淡路・播磨を催して、三好筑前守之長御供にて兵庫浦へ着き、灘へ上り給う。 そういうことで、澄元は、四国・淡路・播磨(の軍勢)を催して、三好筑前守之長をお供に、兵庫浦へ着き、灘へ上った。

高国方の河原林正頼、越水城に籠城する。
高国方河原林対馬守。今度は越水の城に楯籠。 高国方河原林対馬守、今度は越水の城に楯籠もる。 高国方の河原林対馬守は、今度は越水城に立て籠もった。

澄元方、越水城を包囲する。
まづ此城を責よとて。壱万余騎にて取巻給ふ。 まづ此の城を責めよとて、壱万余騎にて取り巻き給う。 澄元方は)まずこの城を攻めよということで、一万余騎で包囲された。

澄元、鐘の尾山に陣取る。
澄元は神呪寺の南の鐘の尾山と云山に陣取給ふ。 澄元神呪寺の南の鐘の尾山と云う山に陣取り給う。 澄元は神呪寺の南の鐘の尾山という山に陣取られた。

四国勢、広田・西宮などに陣取る。
三好。海部。久米。川村。香川。安富。広田。中村。西宮。蓮華畑に陣取。毎日合戦あり。 三好・海部・久米・川村・香川・安富は、広田・中村・西宮・蓮華畑に陣取り、毎日合戦あり。 三好・海部・久米・川村・香川・安富(※2)の各軍勢は、広田・中村・西宮・蓮華畑に陣取り、毎日合戦がおこなわれた。

弓の名手、一宮三郎。
城の中に究竟の弓どもあり。その中にも一宮三郎は比類なうこそ聞えけれ。されば矢を十放しければ。七人八人は射あてける。 城の中に究竟の弓どもあり。その中にも一宮三郎は比類のうこそ聞こえけれ。されば矢を十放しければ、七人八人は射あてける。 (越水の)城の中に強力な弓の使い手たちがいた。その中でも一宮三郎は比類なく名が聞こえていた。すなわち矢を十本放てば、七、八人に命中させた。

澄元方、一宮三郎の弓に恐れる。
寄手の人々是を見て。たとへば異国の養由。我朝の頼政。奈須与一等が化身にてやあるらんと。この矢に恐れ日月を送りける。 寄手の人々是を見て、たとえば異国の養由、我朝の頼政、那須与一等が化身にてやあるらんと、この矢に恐れ日月を送りける。 攻撃側の人々はこれを見て、たとえるなら異国の養由(※3)、我が国の(源)頼政(※4)、那須与一(※5)らの化身なのではないかと、この矢に恐れをなして、月日を送った。

一宮三郎、知行を給わる。
然ば一宮三郎は一張の弓の威徳により。久しく御勘当かうぶりしが。此度赦免ありて。丹波の国の本領は申に及ばず。重て御領給はる也。 然れば一宮三郎は一張の弓の威徳により、久しく御勘当蒙りしが、此の赦免ありて、丹波の国の本領は申すに及ばず、重ねて御領給わる也。 このため、一宮三郎は一張の弓の威徳によって、長らく勘当されていたところを、このたび赦免されて、丹波国の本領は言うに及ばず、さらに領地を給わった。

高国、池田城に着く。
去間高国は丹波。山城。摂津国相触させられて。同十一月廿一日都を立せ給ひ。同十二月二日池田城へ着給ふ。 去る間、高国は丹波・山城・摂津国に相触れさせられて、同十一月廿一日、都を立たせ給い、同十二月二日、池田城へ着き給う。 そうするうちに、高国は丹波・山城・摂津各国に(出陣を)触れられて、同十一月二十一日に都を出発され、同十二月二日に池田城に到着された。

高国方、武庫川沿いに布陣する。
越水の城の後巻のために。小屋野間九十九町。高木。河原林。武庫。寺部。水堂。浜田。大島。新田。武庫川のかた。上から下迄陣を取つゞけ折々合戦させられたり。 越水の城の後巻のために、小屋・野間・九十九町・高木・河原林・武庫・守部水堂・浜田・大島・新田、武庫川の方、上から下まで陣を取り続け、折々合戦させられたり。 越水城の後詰め(※6)のため、小屋・野間・九十九町・高木・河原林・武庫・守部・水堂・浜田・大島・新田と武庫川沿いに上から下まで陣を布いて、折々合戦をおこなった。

高国方、攻勢に出る。
くれければ永正十七年庚辰に成也。正月十日に高国より諸陣に相触させられて二万余騎にて打出。諸口にて合戦終日に有。 年暮れければ、永正十七年庚辰に成る也。正月十日に高国より諸陣に相触れさせられて二万余騎にて打ち出ず。諸口にて合戦終日に有り。 年が暮れて、永正十七年(一五二〇)庚辰の歳になった。正月十日に高国から諸陣に触れられて、二万余騎で攻め寄せ、(越水城の)諸口で終日合戦がおこなわれた。

高国方の内藤貞正、敗れる。
高国方丹波の守護代内藤備前守火花をちらし合戦させ。切負て二百人計討せて引にけり。阿波衆も百人計討死す。双方手負数しらず 高国方丹波の守護代内藤備前守、火花を散らし合戦させ、切り負けて二百人計り討たせて、引きにけり。阿波衆も百人計り討ち死にす。双方手負い数知らず。 高国方の丹波守護代内藤備前守は、火花を散らして合戦し、敗れて二百人ほど討たれて退いた。阿波衆(澄元方)も百人ほど討ち死にした。双方負傷者は数えきれないほどであった。

高国方の伊丹国扶、中村口で勝利する。
高国方摂津国の住人伊丹兵庫助国扶は中村口へ取懸。木戸逆茂木を切落し内へこみ入。申の時より酉の終りまで合戦し。伊丹衆討勝て阿波衆の首五十余り討取。勝時つくり取入たり。 又、高国方摂津国の住人伊丹兵庫助国扶は中村口へ取り懸かり、木戸、逆茂木を切り落とし、内へこみ入り、申の時より酉の終わりまで合戦し、伊丹衆討ち勝ちて、阿波衆の首五十余り討ち取り、勝ちつくり取り入りたり。 また、高国方の摂津国の住人伊丹兵庫助国扶は中村口に攻めかかり、木戸や逆茂木を切り落として、中へ入り込み、申の刻から酉の刻まで戦い、伊丹衆が勝利して、阿波衆の首を五十余り討ち取り、勝ち鬨をつくって(中村口を)占拠した。

雀部兄弟、澄元方の田井蔵人の首を取る。
又同日に城のうちより追手の木戸をひらき。我等当国大島住人雀部与一郎。同弟次郎太郎と名乗。高国のため又は家のために命おしからず。敵方誰も寄合給へとよばはりければ。澄元方田井蔵人と名乗。よせ合切あふたり。雀部切勝て蔵人が首討取。 又、同日に城の内より追手の木戸を開き、我等当国大島住人雀部与一郎、同弟次郎太郎と名乗り、高国のため、又は家のために命惜しからず。敵方誰も寄せ合い給えと呼ばわりければ、澄元方田井蔵人と名乗り、寄せ合い、切りうたり。雀部切り勝ちて、蔵人が首を討ち取る。 また、同日、城の中から、大手門を開き、「我ら当国(摂津国)大島住人雀部与一郎、同じく弟次郎太郎」と名乗り、「高国のため、また家のためには命は惜しくない。敵方の誰でも攻めてこられよ」と呼ばわったところ、澄元方の田井蔵人が名乗り出て、攻め寄せ、斬り合った。雀部が勝利して、蔵人の首を討ち取った。

雀部兄弟も落命する。
雀部兄弟も痛手負。城の中へ入けり。四五日して死したり。対馬守初て上下共におしまぬ人はなかりけり。 雀部兄弟も痛手を負い、城の中へ入りけり。四、五日して死したり。対馬守を初めて上下共に惜しまぬ人はなかりけり。 雀部兄弟も傷を負い、城の中へ入った。(雀部兄弟は)四、五日して死んだ。(河原林)対馬守をはじめとして、上の者から下の者まで、(その死を)惜しまないものはなかった。

越水城開城。
城の中日月を送る程に退屈して。同二月三日夜半に対馬守。安部の蔵人と談合して城をあけられければ。若槻伊豆守は老躰にて候へばいづく迄とおもひきり。腹十文宇に切死たりけり。 城の中、日月を送るほどに退屈して、同二月三日夜半に対馬守、安部の蔵人と談合して、城を開けられければ、若槻伊豆守は老躰にて候へば、いづくまでと思い切り、腹十文字に切り、死にたりけり。 城の中で月日を送るうちに、(籠城側は)気力が衰え、同二月三日夜半に、(河原林)対馬守は、安部の蔵人と相談して開城したため、若槻伊豆守は老体なので、どこまでも生き延びてもと思い切り、腹を十文字に切って死んだ。

高国方、伊丹、尼崎などへ撤退。
去間後巻勢衆地田。伊丹。久々知。長例。尼崎へ引籠たり。 去る間、後巻勢の衆、池田・伊丹・久々知長洲・尼崎へ引き籠もりたり。 このため、後詰めの軍勢は、池田・伊丹・久々知・長洲・尼崎へ引き退いた。

三好之長、難波に布陣。このほか富松などに陣取る。
然ば澄元三好筑前守之長。難波へ陣取給ふ也。此外小屋。富松。生島。七松。浜田。新田へ陣取。 然れば澄元三好筑前守之長、難波へ陣取り給う也。此の外、小屋・富松・生島・七松・浜田・新田へ陣取る。 そこで、澄元方の三好筑前守之長は、難波へ布陣された。このほかに(澄元方は)小屋・富松・生島・七松・浜田・新田へ陣取った。

両軍、尼崎・長洲で合戦する。
同十六日に一万七千余騎にて尼崎。長洲へ取懸合戦あり。大物北の横堤には高国方香西与四郎打出。三好孫四郎と渡合。太刀打して双方名を上られたり。その日は暮。雨もふりければ。両方互に引たり。 尼崎・長洲へ取り懸け、合戦あり。大物北の横堤には高国香西与四郎打ち出で、三好孫四郎と渡り合い、太刀打ちして、双方名を上げられたり。その日は暮れ、雨も降りければ、両方互いに引きたり。 同十六日に一万七千余騎で、尼崎・長洲へ攻めかかり、合戦がおこなわれた。大物北の横堤では、高国方の香西与四郎が攻め寄せ、三好孫四郎と渡り合い、太刀打ちして、双方とも名を上げた。その日は暮れ、雨も降ってきたので、両方とも互いに(兵を)引いた。

高国方、京都へ退却。
然る間高国叶はじと思召。城々ヘ仰合られ其夜中に一同に京へ上給ふ。 然る間、高国叶わじと思し召し、城々へ仰せ合わせられ、其の夜中に一同に京へ上り給う。 そうすると、高国は叶わないと思われて、(味方の)各城に申し合わせて、その夜のうちに、一同京都へ上られた。

人々、高国の敗北を、神罰と噂する。
かやうに成行事は。正月十日は西宮の神事御かりなり。居籠とて人音をもせざる日。取かけ給ひし御罰と人々申也。 かように成り行く事は、正月十日は西宮の神事御かりなり。居籠とて人音をもせざる日、取り懸け給いし御罰と人々申す也。 このようになったのは、正月十日は西宮神社の神事の物忌みで、斎籠(※7)ということで、人は音も立てないようにしている日であるのに、戦いをされたことへの神罰であると、人々は言った。

高国、近江に落ち延びる。
然ば落武者のかなしさは京にもいらせ給はずして近江国へ落行給ふ。今度公方様澄元一味にて京に御座候也。 然れば落ち武者のかなしさは、京にもいらせ給わずして、近江国へ落ち行き給う。今度公方様澄元一味にて、京に御座候也。 そうなると落ち武者の悲惨さで、(高国は)京都にもとどまれず、近江国へ落ち延びて行かれた。今回は将軍(足利義稙)は澄元方に味方したので京都におられた。

伊丹但馬守・野間豊前守、伊丹城で自害する。
然るに伊丹城の中に同名但馬守。野間豊前守二人申けるは。当城此数十年の間。諸侍土民以下煩としてこしらへたるそのしるしなく。のがれける事口おしさよ。我等二人は此城の中にて腹切らんと四方の城戸をさし。家々へ火をかけ天守にて腹切ぬ。是又剛なる人哉とかんぜぬ人こそなかりけれ。 然るに伊丹城の中に同名但馬守、野間豊前守二人申しけるは、当城此の数十年の間、諸侍・土民以下の煩いとしてこしらえたるそのしるしなく、逃れける事、口惜しさよ。我等二人は此の城の中にて腹切らんと、四方の城戸をさし、家々へ火をかけ、天守にて腹切りぬ。是又剛なる人かなと、感ぜぬ人こそなかりけれ。 ところが、伊丹城の中にいた同名(伊丹)但馬守、野間豊前守の二人が言うには、当城はこの数十年の間、諸侍から土民以下の苦労によって備えてきたのに、その甲斐なく、逃れることは口惜しい。我ら二人はこの城で腹を切ろうと、四方の城戸を閉ざし、家々に火をかけて、天守で切腹した。これまたなんと剛の人かと、感心しない人はなかった。

三好之長、京に上る。
然に同二月廿七日に難波より三好筑前守之長。京へ上り給ひ。都にて威勢申計なし。 然るに同二月廿七日に難波より三好筑前守之長、京へ上り給い、都にて威勢申し計りなし。 そうして、同二月二十七日に難波から、三好筑前守之長が京都に上られた。都において、その威勢は言いようもなかった。

澄元、伊丹に入城する。
同三月十六日神呪寺より澄元は伊丹城へ御入あり。 同三月十六日、神呪寺より澄元は伊丹城へ御入りあり。 同三月十六日、澄元は神呪寺から伊丹城へお入りになった。

高国、六角・京極両氏を頼み、上洛する。
此分ならば千年万年と諸人おもひ申処に。又高国。近江国両佐々木殿を御頼み有。同五月三日に京東山白川表へ上り給ふ。 此の分ならば千年万年と諸人思い申す処に、又、高国近江国両佐々木殿を御頼み有り。同五月三日に京東山白川表へ上り給う。 この分ならば千年万年(も安泰)と、皆思っていたが、また高国は、近江国の両佐々木殿(京極高清・六角定頼)の支援を仰いで、同五月三日に、京都の東山白川表へ上られた。

三好之長、劣勢に陥る。
此由三好筑前守之長聞給ひ。二條。三條。四條。高倉表へ陣取。こゝろはたけく樊?のいさみをなされけれ共。敵は猛勢三万よ騎。味方は五千に過べからず。 此の由、三好筑前守之長、聞き給い、二条・三条・四条・高倉表へ陣取る。心は猛く、樊?の勇みをなされけれども、敵は猛勢三万余騎。味方は五千に過ぐべからず。 このことを三好筑前守之長がお聞きになり、二条・三条・四条・高倉表に陣取った。心は勇猛で、樊?(※8)のように勇んでおられたが、敵は猛勢三万余騎、味方は五千に過ぎなかった。

三好之長、落ち延びて曇華院に潜む。
殊に頼し香川。安富。久米。川村は高国へ降参申されければ。三好之長叶はじとて。五月五日賀茂の祭を見すてつゝ方々へ落行ける。然に三好之長父子三人は曇華院殿へ忍び申さるゝ也。 に頼みし香川・安富・久米・川村は高国へ降参申されければ、三好之長叶わじとて、五月五日賀茂の祭りを見捨てつつ、方々へ落ち行きける。然るに三好之長父子三人は曇華院殿へ忍び申さるる也。 特に、頼みにしていた香川・安富・久米・川村が高国に降参したので、三好之長は(高国方に)叶わないと、五月五日の賀茂の祭をしり目に、あちこちへ落ち延びて行った。そして三好之長父子三人は、曇華院へ隠れられた。

河原林正頼、撤退する澄元を攻撃する。
澄元は摂州伊丹城に御歓楽にて御座。京の合戦の事聞召。取あへず同七日早朝より生瀬口へ落行給ひけるを。河原林対馬守境津にありしが。はや船をこしらへ渡海し御跡をしたひをつかけ。雑兵以下首二百ばかり討取。 澄元は摂州伊丹城に御歓楽にて御座。京の合戦の事聞こし召し、取りあえず同七日早朝より生瀬口へ落ち行き給いけるを、河原林対馬守、堺津にありしが、はや船をこしらえ、渡海し、御跡を慕い追っかけ、雑兵以下首二百ばかり討ち取る。 澄元は摂津国伊丹城で病気であった。京都の合戦のことをお聞きになり、取りあえず同七日早朝から生瀬口へ落ちて行かれたのを、堺にいた河原林対馬守が、すぐに船を仕立てて、渡海し、(澄元の)跡を追って、雑兵以下首二百ばかり討ち取った。

澄元、播磨に落ち延びる。
然其澄元は異儀なく播磨へ御のき有ける。河原林方より首共京へ上ければ。高国御感有けり。 然るに其の澄元は異儀なく播磨へ御退き有りける。河原林方より首共、京へ上げければ、高国御感有りけり。 しかし、その澄元は別条なく播磨へ退かれた。河原林方から首を京都へ上げたので、高国は感心された。

之長父子、包囲され、降参する。
去間三好之長父子三人運のつくる事やらん。その夜のうちにいつ方へも落行給はで。曇華院殿に忍ばれし事かくれなく。此寺を同九日に二重三重に取巻ければ。之長父子三人腹切らんとし給ひしが。今一度命のべばやとおもはれ高国へ御侘言申さるる。誠にはかなき事ながら降参にまいられける。 去る間、三好之長父子三人、運の尽くる事やらん、その夜のうちにいづ方へも落ち行き給わで、曇華院殿に忍ばれし事、隠れなく、此の寺を同九日に二重三重に取り巻きければ、之長父子三人、腹切らんとし給いしが、今一度命延べばやと思われ、高国御侘言申さるる。誠に儚き事ながら、降参にまいられける。 そうするうちに、三好之長父子三人の運も尽きたのであろうか、その夜のうちにどこへも落ち延びられることができず、曇華院に潜んでいることが明らかになり、(高国方が)この寺を二重三重に包囲したので、之長父子三人は腹を切ろうとされたが、今一度、命を長らえれば、と思われ、高国に詫びを申された。誠にはかないことであるが、降参に参られた。

之長父子、曇華院を出る。
子息芥川次郎。同弟の孫四郎まづ寺を出て。同十日に高国へ御対面也。上京安達の宿所へ入給ふ。同十一日に之長。同名新四郎も御免とて此寺を出給ふ。 子息芥川次郎、同弟の孫四郎、まず寺を出て、同十日に高国へ御対面也。上京安達の宿所へ入り給う。同十一日に之長、同名新四郎も御免とて、此の寺を出給う。 子息芥川次郎と同じく弟の孫四郎がまず寺を出て、同十日に高国に対面された。(次郎と孫四郎は)上京の安達の宿所にお入りになった。同十一日に之長と同名新四郎も赦免されるとのことで、この寺を出られた。

之長、切腹する。
然所に淡路彦四郎殿。げんざいおやのかたきとて申請させ給ひ。上京百万遍して腹切給ふ。同名新四郎介錯し。我も則腹切ぬ。淡路守殿むかへり月にかやうに有ければ。只人間の困果はめぐるにはやきもの哉と人々申也。 然る所に、淡路彦四郎殿、現在親の仇とて申し請けさせ給い、上京百万遍にて、腹切り給う。同名新四郎介錯し、我も則ち腹切りぬ。淡路守殿むかへり月にかように有りければ、只、人間の因果は巡るに早きものかなと、人々申す也。 ところが、淡路彦四郎殿が、(三好之長らは)紛れもなく親の仇であるとして(※9)、(三好之長と同新四郎の身柄を)申し請けられ、上京の百万遍で、(之長)は切腹された。同名新四郎が介錯し、自身も腹を切った。淡路守殿を迎えた月(?)にこのようになったので、人の因果は巡るのがなんと早いものかと人々は言った。

細川彦四郎、次郎と孫四郎の身柄を要求する。
同子息次郎孫四郎事も彦四郎殿より高国へ色々申されける。 同子息次郎・孫四郎の事も、彦四郎殿より高国へ色々申されける。 同じく子息次郎・孫四郎についても、彦四郎殿から高国へ色々と申し入れられた。

彦四郎方、次郎と孫四郎に切腹を迫る。
降参人いかゞと思召けれ共。さあらば生害させられよと御返事有ければ。彦四郎殿の御内衆。かの兄弟の宿所へ同十二日にをしよせ申けるは。御親父之長は昨日百万遍にて腹切給ひぬ。かたくも只今腹切給へと申ければ。兄弟は親の事を聞て涙を流し。同は一所にて死せんずる物をとて歎き。やゝ有て申されけるは。人々暫く御待候へ。国へふみを下べしとて硯をこひ。二人思ひ思ひにかきとゞめ。ある人の方へ渡されける有様は。古のさうりそくり兄弟がかいがん波濤にありつるもかくやと思ひ出されて。一しほ哀まさりける。 降参人いかがと思し召しけれども、さあらば生害させられよと御返事有りければ、彦四郎殿の御内衆、かの兄弟の宿所へ同十二日に押し寄せ、申しけるは、御親父之長は昨日百万遍にて腹切り給いぬ。方々も只今腹切り給えと申しければ、兄弟は親の事を聞きて涙を流し、同じくは一所にて死せんずる物をとて歎き、やや有りて申されけるは、人々暫く御待ち候え。国へ文を下すべしとて硯を乞い、二人思い思いに書き留め、ある人の方へ渡されける有様は、早離速離兄弟が海岸波濤にありつるもかくやと思い出されて、一入哀しみまさりける。 (高国は)降参した者をどうするべきかと思われたが、そうであるならば殺害されよと御返事になったので、彦四郎殿の家臣が、かの兄弟の宿所へ、同十二日に押し寄せて言うには、父の之長は昨日百万遍において腹を切られた。あなたがたも今、腹を切られよと言ったので、兄弟は親のことを聞いて涙を流し、同じ(死ぬ)ならば(父と)一緒に死んだものをと嘆き、ややあって言われたのは、(討手の)人々、しばらくお待ち下さい。国へ手紙を送りますと、硯を乞うて、二人は思い思いに書き留められ、ある人に渡された様子は、いにしえの早離・速離兄弟(※10)が(孤島の)海岸波濤にあった様子もこのようであったものかと想像されて、一段と哀しみが増した。

次郎・孫四郎、切腹する。
去間先孫四郎腹切給ひければ。次郎方介錯あり。そののち我も腹きり。侍は相互。たれにても介錯して給候へと申されければ。しばしあり鎗長刀にて首を取る。見し人皆々涙ながしける事。かりそめながら人死する事。是迄七千あまりにしるされたり。もし是を御覧じ給ふ人は。念仏の一へんをも御ゑかうあるべく候。穴賢々々。 去る間、先ず孫四郎腹切り給いければ、次郎方介錯あり。そののち我も腹切り、侍は相互い、誰にても介錯して給い候へと申されければ、しばしあり鎗長刀にて首を取る。見し人皆々涙流しける事、かりそめながら人死する事、是まで七千あまりにしるされたり。もし是を御覧じ給う人は、念仏の一遍をも御回向あるべく候。穴賢々々 そして、まず孫四郎が腹を切られるので、次郎の方が介錯し、そののち自身も腹を切って、「侍は相互い(いつこのような身の上になるわからないので、情けをかけて)、誰でもいいので介錯していただきたい」と言われたので、しばらくして鎗長刀で(次郎の)首を取った。見た人は皆涙を流した。仮にも、死者はこれまでに七千余りに上った。もし御覧になられた方は、念仏の一遍も回向されたい。穴賢穴賢。