細川政元

(1466〜1507)
(聡明丸・九郎・右京大夫)
父は勝元。明応2年(1493)、将軍足利義材を追放、管領畠山政長を自害に追い込み、足利義遐を将軍に擁立して、幕府の実権を握った。晩年は修験道に凝って、妻を持たず、子がなかったため、澄之・澄元・高国と三人の養子を迎えた。この結果、澄之と澄元の間で家督争いが起こり、永正4年(1507)、澄之派の香西元長・薬師寺長忠らによって殺害された。





細川澄之

(1489〜1507)
(聡明丸・九郎)
父は関白九条政基。延徳3年(1491)、京兆家の細川政元の養子となる。永正元年(1504)に元服し、澄之と名乗る。永正3年(1506)、丹波守護となり、一族の細川政賢とともに丹後に出陣。丹後守護一色義有と戦う。永正4年(1507)6月、香西元長・薬師寺長忠らが、政元を殺害し、政元のもう一人の養子である細川澄元を近江に逐った。翌7月、澄之は丹波から入京し、将軍足利義澄から細川京兆家の家督を認められた。しかし、政元のさらにもう一人の養子である細川高国や、政賢、淡路守護細川尚春らは澄元に味方し、8月、澄之は高国らに攻められて自害した。





細川澄元

(1489〜1520)
(六郎)
父は阿波守護細川義春。文亀3年(1503)、京兆家の細川政元の養子となる。永正元年(1504)、摂津守護代の薬師寺元一らが、澄元の擁立を図って挙兵するが、弟の薬師寺長忠に討たれる。永正3年(1506)、澄元は、阿波守護家の有力家臣の三好之長に擁されて入京。摂津守護に就任する。永正4年(1507)、政元のもう一人の養子である細川澄之を擁する香西元長・薬師寺長忠らが、政元を殺害。澄元と之長は近江に逃れる。しかし、細川高国・同政賢・同尚春らが澄元に味方して、澄之・香西元長らを討ったため、澄元は上洛して、京兆家の家督を継いだ。永正5年(1508)、澄元は、高国と不和になり、之長とともに近江に逃れる。周防の大内義興に擁されて上洛した足利義尹が将軍に就任し、高国と大内義興の連合政権が誕生した。永正8年(1511)、阿波に逃れていた澄元は、細川政賢・同尚春に呼応して、高国方と戦うが、船岡山の合戦で政賢が討たれ、阿波に戻った。永正15年(1518)、大内義興が周防に帰国すると、翌永正16年(1519)、澄元は三好之長とともに兵庫に上陸。永正17年(1520)、高国方を破って、之長が上洛。澄元は伊丹城に入った。しかし、高国の反撃に遭い、之長は捕らえられて切腹。伊丹城で病床にあった澄元は阿波に逃れたが、まもなく病気のため没した。






細川高国

(1484〜1531)
(六郎・民部少輔・右京大夫・武蔵守・道永・常桓)
父は細川庶流の細川政春。京兆家の細川政元の養子となる。永正4年(1507)、香西元長らが、政元の養子である澄之を擁して、政元を殺害。政元のもう一人の養子である澄元を近江に逐った。高国は、一族の細川政賢、淡路守護の細川尚春らとともに、澄元に味方して、澄之らを攻撃。これを自害せしめた。これによって、澄元は上洛し、京兆家の家督を継いだ。翌永正5年(1508)、高国は澄元と対立し、澄元と将軍足利義澄を近江に逐った。高国は周防の大内義興と結び、大内義興は足利義尹を奉じて入京。義尹が将軍に返り咲き、高国は管領に就任した。永正8年(1511)、細川政賢と同尚春が、澄元に味方して挙兵。高国は一時丹波に逃れるが、船岡山の合戦で、政賢を敗死せしめ、京都を奪還した。永正15年(1518)、大内義興が周防に帰国すると、翌永正16年(1519)、澄元が再挙を図って、三好之長とともに兵庫に上陸。永正17年(1520)、高国方を破って、之長が入京した。近江に逃れた高国は、六角氏・朝倉氏・土岐氏らの支援を仰いで逆襲。之長を捕らえて切腹させ、澄元は阿波に敗走、まもなく病没した。大永元年(1521)、将軍義稙が、高国の専横を嫌って出京すると、足利義澄の子・義晴を将軍に擁立。大永6年(1526)、一族の細川尹賢が、高国の近臣香西元盛を殺害したため、元盛の兄弟の波多野稙通、柳本賢治が高国・尹賢に対して挙兵。三好之長の甥・勝長と政長もこれに呼応して兵を挙げた。高国は、将軍義晴とともに近江に逃れた。三好之長の孫・元長は、澄元の子である細川晴元を擁し、足利義維を奉じて、堺に入った。高国は、義晴とともに入京し、享禄元年(1528)、元長と講和を図るが、講和は破れて、再び近江に逃れた。享禄3年(1530)、高国は、備前の浦上村宗と結んで、柳本賢治を滅ぼし、摂津に進撃するが、享禄4年(1531)、三好元長らに摂津天王寺で敗れ、村宗は討ち死に。高国は尼崎に逃れたが、捕らえられ、大物広徳寺で自害した。