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父は阿波守護細川義春。文亀3年(1503)、京兆家の細川政元の養子となる。永正元年(1504)、摂津守護代の薬師寺元一らが、澄元の擁立を図って挙兵するが、弟の薬師寺長忠に討たれる。永正3年(1506)、澄元は、阿波守護家の有力家臣の三好之長に擁されて入京。摂津守護に就任する。永正4年(1507)、政元のもう一人の養子である細川澄之を擁する香西元長・薬師寺長忠らが、政元を殺害。澄元と之長は近江に逃れる。しかし、細川高国・同政賢・同尚春らが澄元に味方して、澄之・香西元長らを討ったため、澄元は上洛して、京兆家の家督を継いだ。永正5年(1508)、澄元は、高国と不和になり、之長とともに近江に逃れる。周防の大内義興に擁されて上洛した足利義尹が将軍に就任し、高国と大内義興の連合政権が誕生した。永正8年(1511)、阿波に逃れていた澄元は、細川政賢・同尚春に呼応して、高国方と戦うが、船岡山の合戦で政賢が討たれ、阿波に戻った。永正15年(1518)、大内義興が周防に帰国すると、翌永正16年(1519)、澄元は三好之長とともに兵庫に上陸。永正17年(1520)、高国方を破って、之長が上洛。澄元は伊丹城に入った。しかし、高国の反撃に遭い、之長は捕らえられて切腹。伊丹城で病床にあった澄元は阿波に逃れたが、まもなく病気のため没した。 |