細川氏は室町時代、幕府管領、摂津・丹波・讃岐・土佐の各国守護職を世襲する、京兆家を中心に、阿波守護家、備中守護家、和泉上守護家、和泉下守護家、淡路守護家など一族が協調する「細川同族連合体制」を築いていました。

 明応2年(1493)、京兆家の細川政元は、将軍足利義材(のち義尹、義稙)を追放して、管領畠山政長を自害に追い込み、足利義遐(のち義高、義澄)を将軍に擁立します。このクーデターを「明応の政変」と呼びます。明応の政変以後、政元は幕府の実権を握りますが、実子がなく、関白九条政基の子・聡明丸を養子にします。これがのちの澄之です。政元は、文亀3年(1503)、今度は阿波守護家の細川義春の子を養子に迎え、澄元と名乗らせました。さらに政元は、高国を養子を迎えています。
 この細川政元の養子となった澄之澄元の争いに端を発した京兆家の家督争いが、細川氏の家臣間対立、将軍家の後継者争い、摂津国衆・阿波国衆の争いなどと結びついて、大きな戦乱へと発展していきます。

 摂津守護代の薬師寺元一は、阿波にいた細川澄元を擁して、細川政元と対立しますが、永正元年(1504)、弟の長忠によって討たれます。しかし永正3年(1506)には、阿波守護家の有力家臣である三好之長の後ろ盾により、澄元が入京します。翌年には、薬師寺長忠が、山城守護代の香西元長と結び、政元を殺害し、澄元を近江に追います。これによって細川澄之が丹波から入京しますが、細川高国らが澄元に味方して澄之を攻め、澄之は薬師寺長忠、香西元長らとともに滅亡。澄元は、之長とともに上洛し、京兆家の家督を相続しました。
 明応の政変で京都を追われていた、足利義尹(義材から改名)は、周防の大内氏を頼っていましたが、永正5年(1508)、大内義興は、義尹を擁して上洛します。義興は、細川高国と結び、将軍足利義澄(義遐から改名)と、管領細川澄元三好之長を近江に追って、入京します。これにより、義尹が将軍に返り咲き、高国が管領に、義興が管領代に就任して、高国と義興の連合政権が成立します。永正8年(1511)には、阿波に逃れていた澄元と之長が、細川政賢に呼応して、堺に上陸し、一時入京しますが、船岡山の合戦で敗れ、再び阿波に逃れました。
 永正15年(1518)、大内義興は、出雲の尼子氏の擡頭などによって、国元の政情が不安定になったことから、周防に帰国し、細川高国の単独政権となります。義興が帰国すると、阿波の三好之長細川澄元が、再び高国に対して兵を挙げ、永正16年(1519)には兵庫に上陸。高国軍を破って、翌永正17年(1520)、入京を果たします。この一連の戦いの中で之長方が陣取った城の一つが富松城です。これに対し、高国は近江の六角氏、美濃の土岐氏、越前の朝倉氏などの支援を受けて、之長を討ち、澄元も阿波に逃れたのち、まもなく病死しました。

 大永元年(1521)、高国の専横に不満を持った将軍足利義稙(義尹から改名)は、阿波に渡って高国に対抗します。これに対し、高国は前将軍足利義澄の子である義晴を将軍に擁立しました。
 大永7年(1527)には柳本賢治や、丹波国の波多野稙通らが高国に対して反乱を起こし、これに呼応して、阿波にいた細川澄元の子・晴元が、足利義澄の子で、足利義稙の猶子となっていた義維を擁して挙兵しました。このとき晴元方の主力は三好之長の孫・元長でした。この戦いに敗れた高国は、将軍足利義晴とともに近江に落ち延び、高国政権は崩壊しました。しかし、勝利した晴元方も、入京することができず、堺にとどまり、義維は「堺公方」と呼ばれました。

 享禄2年(1529)、三好元長は柳本賢治と不和となり、阿波に帰国します。享禄3年(1530)、高国は、播磨の赤松氏の家臣で、播磨・備前・美作にまたがって勢力を伸ばしていた浦上村宗を頼って挙兵します。晴元方は伊丹城、池田城、富松城に立て籠もりますが、高国方は富松城を攻め落とし、さらに富松の南で、伊丹城から出撃した晴元方の高畠長信の軍勢を打ち破って、富松城に陣取ります。劣勢となった晴元方は、阿波に帰国していた三好元長を呼び戻します。享禄4年(1531)、元長は堺に上陸し、摂津国内まで進出していた高国方と交戦。高国方は大敗を喫し、浦上村宗は討ち死、高国は大物の広徳寺で自害します。これを「大物崩れ」と呼びます。
 細川高国滅亡後、細川晴元と三好元長は再び対立します。晴元方には三好政長、河内守護代の木沢長政、さらに茨木長隆ら摂津国衆がつき、「堺公方」足利義維や河内守護の畠山氏、阿波守護の細川持隆などは、元長に与しました。晴元は、元長に近い足利義維に代わって、近江に逃れていた足利義晴を再び擁立しようと図ります。晴元は天文元年(1532)、本願寺の法主証如と結び、一向一揆の力を借りて、元長を滅ぼします。しかし、これによって一向一揆勢力が勢いづき、畿内各地で蜂起すると、晴元は今度は法華一揆と結ぶなどして、これを鎮圧しようとします。結局、三好元長の子・千熊丸(のち範長・長慶)の仲介により本願寺と和平が成立します。和平の仲介と一向一揆の残党掃討で功績を挙げた千熊丸は、晴元政権に帰参を果たします。

 天文10年(1541)、河内半国・山城下五郡の守護代で、河内・大和・南山城に勢力を伸ばしていた木沢長政が、摂津の塩川政年・伊丹親興・三宅国村らとともに晴元に反旗を翻し、兵を挙げます。このとき摂津越水城主だった三好長慶を攻めるため、伊丹方の河原林対馬守が、西富松城に入城しています。結局、天文11年(1542)、木沢長政は太平寺の戦いで敗死します。

 天文17年(1548)、三好長慶が、細川高国の跡目を主張して、晴元政権と抗争していた細川氏綱と結び、細川晴元・三好政長に対し、兵を挙げます。この戦いの中で、長慶の本城・越水城を攻撃するため、政長が東富松城を包囲しました。天文18年(1549)、江口の戦いで、長慶方が大勝利を収め、政長は討ち死にします。この報を受けて、晴元や将軍足利義輝(義晴の子)は近江に落ち延びます。長慶は京都に入り、ここに三好政権が誕生しました。
 永禄7年(1564)、三好長慶は没し、その翌年、三好氏の家臣であった松永久秀と三好三人衆が、将軍足利義輝を殺害して、足利義維の子・義栄を将軍に擁立しますが、久秀と三人衆の間に対立が生じ、抗争が続きます。そして、永禄11年(1568)、織田信長が足利義輝の弟・義昭を奉じて入京し、明応の政変以来のいわゆる「細川・三好体制」は終わりを迎えます。
 
《主要参考文献》(詳しい書誌情報は図書室(工事中)にあります)
今谷明「細川・三好体制研究序説―室町幕府の解体過程―」
今谷明『戦国三好一族』
末柄豊「細川氏の同族連合体制の解体と畿内領国化」
永原慶二『戦国時代 16世紀、日本はどう変わったのか』
森田恭二「細川高国と畿内国人層」
森田恭二『戦国期歴代細川氏の研究』