神戸大学大学院人文学研究科倫理創成プロジェクト

アスベスト問題に関連する研究成果や情報

アスベスト被害聞き取り調査—東京都文京区さしがや保育園保護者の方々 [2009-02-28]

page 1 2 3

松田

一般の人が参加できるようになった委員会にはメンバーとして入られていたのですか。

Mさん(男性)

僕とIさんが二年間担当しました。

Nさん

それで、去年の4月から私ともう一人。

松田

そのあたりは現在進行形なわけですね。

Mさん(男性)

僕とIさんが担当していたときには、問題解決っていうことが焦点だったわけですが、今後は世の中の流れに添った形で新たな問題があれば、話していきましょうということになっています。

Nさん

MさんとIさんのときにほとんど問題は解決したんです。まず事件が起こって、子どもの避難ですよね。子どもが避難したら、長期的に子どもの保育をどうしていくかと。それが終わって、子どもたちに何が起こったかを明らかにしたいからと言って専門委員会を作ってもらい、その科学的根拠をもとに子どもたちに将来何を保障として残していくかを考えたかった。

私たちのゴールはあくまでも、なって欲しくないけれども子どもたちが中皮腫や肺がん発症時の医療補償で、それを保証するものを協定として今欲しかった。向こうはそれを受け入れるのにすごく時間がかかって。最初は「何ともない」と言っていたけれど、それが難しくなってくると、「わかった、何かあったときには面倒を見るよ」と要綱という一方的な提案をする。それでは向こうが勝手に変えられるから、私たちはもっと確かな保証が欲しいというところですごく時間がかかったんです。

松田

二回目の委員会の他の構成メンバーというのはどういう顔ぶれだったのでしょうか。

Mさん(男性)

ほぼ変わっていません。

Nさん

区の小児科医が入るんですけど、それが任期でやや変わり。

Mさん(女性)

被害者を救済するというのが目的の委員会の流れになってきた感じがしました。

Mさん(男性)

父母にどういったフォローをするかという事で、委員会の中で子どもたちのための冊子を作りました。

Mさん(女性)

その委員会に協定問題を乗せるまでが、手間のかかることでした。その協定とかいうのは裁判と同じレベルだというふうに区も受け取っているので、「委員会で話すべき内容ではありません」という感じで、区と保護者は直接話さなければいけない状況があったんです。相談している弁護士さんと区が和解ではなくてどうしても対決姿勢になってしまうんですよ。それで、対決姿勢になってどんどん話がまとまらなくなってしまう。それをリスク相談に何人かの保護者で行き、U先生やA先生にもこの状態こそがリスクの一つになっていると言うことをご相談しました、委員会レベルの話にして、「親御さんたちが困っています。この話も委員会で皆で検討してみましょう」というので協定の内容を委員会の議題にしていただく流れになっていきました、委員会で細かくチェックして、何十年経っても子どもが困らないような言い回しになっているかどうか検討を重ねました。

松田

訴訟された方がいらっしゃって、和解された。そのことがかなり区の動きを変えたんじゃないかということを昨日お話された方がいらっしゃいました。

Mさん(女性)

それは絶対ありますね。裁判までされるとは向こうも思っていないところに、ちゃんと裁判しないと40年後の保障はないということまでわかっていたから。そこでもやはり裁判に行く人と行かない人と、分かれますよね。その訴訟がベースになっているんですよ。同じ弁護士さんに私たちも相談してますから。裁判の傍聴には行っていましたけれど、裁判しなかった私たちはどうなってしまうんだろうというのがあって。それには協定しかないというのは分かっていたんですけれど、協定をとるにはどうやったらできるのだろうというのが大変なことでした。裁判の和解内容も40年後はきついかなというのがあったので、それ以上をとりたいというのが弁護士さんにもあった。

Nさん

その間に時間が経っているので、だんだんアスベストのことがだんだん解明されてきました。今後も10年後、20年後、もっといろいろなことが分かるでしょう。だからあまり確定的なことを入れてしまうとかえって損をしてしまうことがある。なかなかそれも難しくて。

N先生が司令塔なんですけれど、結構いろいろな形でせきたてられたんです。裁判が大事なことは分かるけど、そこまでしたくない気持ちがありました。今よりもっと傷ついていたんです。小さい子どもを抱えて、明日を乗り越えるのに精一杯の私たちにとって、裁判を押し付けられるのはつらいことだったんです。結果的にはN先生の言うとおりに動いてきたメンバーですけれど、正直つらかった。もうできればやめてしまいたいと思っていながら、仕方なくやっていた私たちです。

もうひとつはこの中の人間関係を穏便に保つことが大切でした。裁判する人たちだって私たちのサポートがなければできないわけです。議員さんのところへ行ったり、文書を作ったり、傍聴に出てくださったり、とそれぞれができるところで10年間がんばった結果だと思うんです。子供たちが暴露した親としては、アスベスト問題にかかわること自体が、辛い現実を見つめることでした。どの親も傷ついていました。区との交渉の過程で、傷ついた親同士の関係が悪くなることもありました。それはまた新たな苦しみを生みました。たくさんの困難や絶望を感じながら、自分たちを奮い立たせて交渉してきました。辛い気持ちを出すこともエネルギーがいるんです。皆が辛いと分かっているけど、今を乗り切ることに精一杯でそういうことを話す余裕がない。言葉にしたら崩れてしまいそうなすごくもろい関係の中で、Iさんの人柄を頼って何とか頑張ってこられたのです。

Mさん(女性)

リスク相談のU先生やA先生は素人の父母がわけが分からない質問をしても誠実に答えてくださる。そこがすごいと思います。リスク・コミュニケーションの学問自体が外国で作られているので、それを日本に適用させるにはどうすればいいかということを探っていらっしゃる。日本人の感覚とか感性に合ったリスク・コミュニケーションというのは、先生たちが学んできたものとは違うというのをすごく認識なさっているから話をよく聴いてくださる。それで、どうすべきかと。

あと、もうひとつ私が協定でこれはこだわらなければだめだなと思ったのは、リスク相談のときに先生が、アスベストによって発症しないとしても、日本の肺がんの発症率で言うと、108人いるお子さんの中で5人は確実に肺がんになりますよという話をされたんです。そのときに、もし肺がんになった方が、あのときのことと関係ないと思って生きていけるかどうか、そういうときにどうなるか。それはこの問題とは別に考えても確実に肺がんの発症者がいるということですよね。ということは、それが結果として分かっているとしたら、その件に関しての保障が絶対に必要なんだなというのは分かっていたんです。だから、それをはっきりさせる必要がある。だから40年後に何も起きないということはないということです。

Nさん

私たち最後まで見届けられないですよね。例えば、天寿を全うしてくれるかもしれないし、それが良いことだけれども、私たちはそのとき確実にいないですよね。区長に「がたがた騒ぐのは子どもの教育に悪い」「死ぬとしても30年後だ」と目の前で言われたんですよ。うちの子は1歳ですから、そのとき31歳ですよ。そういう想像力が政治家の人にはないんです。30歳で死ぬということは、結婚して子どもが生まれて、お父さんやお母さんが死ぬということじゃないですか。

だからそういうことが起こらないように、たぶん起こらないとは思うけれども、そういうものをリスクとして抱えてしまっているわけです。それをどういうふうに生きていくか。何年後かに医療費が欲しいとか、保障が欲しいんじゃなくて、そういうものを抱えた自分の人生を前向きに明日へ一歩踏み出すためには、やはりこれを10年やらなければいけなかった人たちが私たちなんです。

松田

裁判を担当されていた弁護士さんが言われていることで、「この裁判というのはアスベストを吸った人がまだ病気になっていなくても、責任を負わなければならないと認められた画期的な裁判である」と。このあたりの議論は裁判を傍聴されていたと思いますけれど、どんな感じで展開されて、それについてどんなふうに思われたのかということをお聞きしたいのですが。協定の中でもそのことは踏み込まれていたのでしょうか。

Mさん(女性)

もちろん、協定でも踏み込まれていました。弁護士さんは前例を気にしない姿勢がありましたね。今までにないことをやるという強い意志、それをすごく感じたけれど、私たちにとってみれば前例も何も知りませんからね。うちの子たちを守るというやり方だけを探っているだけだから。

Nさん

今、保障が欲しいと私たちは言ったんじゃないんですよ。見舞金が全員に10万円ずつぐらい出たんですよね。それは私たちが欲しいと言ったのではなくて、ただその10万円を出すということで一種の過失を認めると。ただ名前が見舞金になってしまったんですよね。私たちの精神的苦痛に対する。でも、そこに被害と加害のかたちをとるということと、もうひとつどうして将来の確約が必要かということは、ひとつ先ほど言ったように私たちが最後まで見届けられないということ。もうひとつは子どもたちに過失はないですよね。他のアメリカだとかオーストラリアとか世界中の保障の対象というのはほとんどが労働者ですよね。働いていて、リスクは知らされているかもしれないし、知らされていないかもしれないけれども、長期に大量に高濃度のアスベストに暴露して、その結果一部の方が亡くなったと。でも、大人だし、その人たちには職業の選択の余地があったんだと思うんですよね。その労働者の問題とは違って、子どもたちはたくさんの大人がいながら、守りきれなかった。そういったものに関してこの子たちは何の責任もないんだから、将来何かあったときのために今から約束するのは当たり前だろうということが前提にありました。

松田

子どもさん自身がどう考えているのかということが気になるのですが。

Nさん

昨日の夜、アスベストの話になったんです。今6年生なので、やはり何となく分かるじゃないですか。まだ子ども用のパンフレットはきちんと読ませてはいないんですけれど、中学生ぐらいになって本人が見たいと言ったら、見せようと思っています。現時点では簡単に説明し、「もしそれでも不安になったら、もっとうまく説明してくれる人たちがいるから、ちゃんと話を聴こうね」、と話しています。

あまり変に不安にさせるのもいけないので、きちんとレントゲンも見てもらうような態勢もできているから大丈夫だということを説明していこうと思っています。娘は、あそこの保育園にいた自分たちは皆、被害に遭っているんだなというのは感じていると思います。

Mさん(女性)

今度委員会で引き継いでいくときに、ネットワークを作っていくためにうまく子どもたちを導いていかないと。ただ、今はあまりごちゃごちゃ言わないで、当時友だちだった人たちと仲良しでいることが一番のリスク・コミュニケーションになっているだろうなと思って。

Nさん

それはすごく大事なんですよね。うちの子は、私が「死んじゃう」と言って泣いているのを見ているから、「私死んじゃうんだな」と思っていたんですね。このあいだ、子どもと一緒に保護者と子ども向けアスベストのサイトを作ったんです。その過程で、アスベストについていろいろ質問されました。今まで聞きたくても、お母さんが心配するから言えなかったのだとわかりました。サイトを作る作業のなかで、娘は心配だった情報を淡々と得ることができました。同時に周りに同じ保育園でアスベストを吸った子がにこにこ歩いているとことにものすごく励まされるんです。どのお母さんも今笑っている。そういうふうに周りの人が大丈夫だという反応を見て、「私も大丈夫だ」ときっと思っていると思うんですよ。ですから、この地域にいて皆と一緒にいるということはすごくうちの子どもにとって大事なことだと思っています。

藤木篤 (神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程)

アスベスト関連の書籍やパンフレットなどを読んでいると、被害者の方の心の問題にはほとんど触れられていませんね。「アスベストを吸うと、こうなってこうなります」とか「発症率はこれぐらいです」という感じで、事実関係が記載されているのみです。裁判の結果などに関しても、いついつ訴訟が起きて、何年にこういう判決が下されましたというように、これもまた同じようなものです。

被害者の方にお話を伺っている中でも、肉体的にも精神的にも相当消耗されたという印象を持ちました。しかしその一方でアスベストセンターの永倉さんからは、こういったメンタルなところに関しては(ケアに対する)態勢がまだまだ不十分だと伺いました。被害者の方のケアというのはとても重要なことだと思うのですが…。

Mさん(女性)

その方法が問題なんですよね。

松田

裁判を担当されていた弁護士の方が、この裁判あるいは協定では発症していない場合でも、行政は責任を持たなければならないということを言っていたと思うのですが、それが裁判だとか協定を結んでいく段階の中でどういうかたちで議論として出てきたのかということ、今振り返ってみてどういう評価をされているかということをお話して頂ければと思います。

Aさん

裁判は1年半ぐらいやったのかな。平成15年の7月に提訴をして、平成16年に和解というかたちになっています。現時点では因果関係や将来についての予想ができないわけですが、とは言え調査の中で10万人に6人という数字が現実として出ているわけですから、その数字や僕たち保護者の訴えや心情をかなり理解してくれた判決だったかなという気がしました。あと、リスクを知っていながらやっていたということは明らかだったので、未知の犠牲を強いられたというのは甚だ反社会的だというニュアンスの和解判決だったと思います。そのプロセスにおいてはやはり勝てるのかなと思いながらやっていたのですけれど、問題提起という意味も大きかった。先生や支援者に助けてもらいながら続けることができたんですけれども、やはり僕らがやっていることは正しいと思っていたし、逆にあのまま誰も気づかなかったら提訴にはなっていないし、行政が和解するなんてこともできなかったと思います。もし負けても裁判のプロセスというのは残るわけですよね。それはすごく意味があることだったんだなと思っていて、気持ちを奮い立たせてやっていました。

松田

裁判ではどういうやりとりをされたのでしょうか。例えば区側と提訴した原告側というのは。

Aさん

弁護士の先生が活発に動いてくれて、区で当時工事の発注書に判を押した東という人を任意で呼び出して、当時のことを思い出してもらいながら、どうしてこんなことになったのですかということを個別に話を聞きました。そうしたら、「これは僕がやったんじゃなくて、区がやったことなんだ」と。「これは区の総意としてやっていることで、それを僕だけに責任を言われるのは甚だ遺憾である」みたいなことを言ったんですよ。それで、腹が立つのを堪えながら、全然わかっていないなあと思って。そういうこともやりました。

あと、行政の注意義務違反であるとか、あるいは縦割り行政から生まれた人災であるとかといった問題にも警鐘を鳴らすことができたので、その後のアスベスト対策もかなり良くなってきたんですよ。そういった意味でもすごく意味があったなと思います。今も被害が全く出ていないとは思わないけれども、かなりチェック機能が働いているんじゃないかなと。

個人的に今でも工事現場などを見ると、「ここ大丈夫かな」と思いますよね。そういうのは、すごく知識として蓄えてきたというのがものすごく大事なんだろうなと僕は思いますね。それをまた子どもたちにどう伝えていけるかということも含めて。僕たちの子どもも実際に被害に遭っているわけだから、彼らはそういう問題意識を持って、社会に対してそういう目を持ってくれれば、やった甲斐があるんじゃないかなと。

松田

その担当課長のHさんという方はそれ以前の段階で、工事の交渉にも出られていたのでしょうか。

Aさん

最初に発覚した頃は説明会に必ず来ていて、頭をぺこぺこ下げるだけでした。それで「触っていない」とかいろいろと詭弁を言って責任逃れをしようとしていた典型的な役人で、そのあと処分が下って飛ばされて、そのまま他のところへ天下りのようなかたちになりました。

松田

その人はアスベストに関する知識を持っていたか持っていなかったかということに関してはどのような主張をされていたのでしょうか。

Aさん

「一般的には持っていた」というようなことは言っていましたね。環境対策課というところがアスベスト除去工事の申請を受け付ける部署だったんですけれども、そこと全く連携が取れていなかった。工事を発注するのは保育課だから、そこともただ単に予算のことだけしか話していないという感じで、全くリスクに関しては効果がなかった。

だから、保育園の園長とか保育士さんたちというのは実際やはり知識がなかったと思うし、それが起きたときにも右往左往しているしかなくて、僕ら自身もそれはなかったし、周囲の大人の無知というか、無責任性が、子どもたちを結局被害に遭わせてしまったという典型的な人災でした。

Mさん(男性)

最初にお母さんが個人的に園長先生に話されていたというレベルでは園長先生も「区の担当はまともに取りあってくれない」というような対応だったのではなかったかと思います。

Aさん

今考えるとそういう関係力学というのは変ですよね。それは学校でいうと教育委員会と先生の関係みたいなんだけれど、やはり保育現場の人と行政の関係性が悪かったんだろうなという感じがします。未然に防ぐチェックポイントは何回もあったんですよ。それをスルーしていて、気がついたらもう始まってしまっていたというような。それが後でわかって、やるせない感じがしました。

Nさん

異常な状態だったんですよ。後でわかったのですが、皆、断片的に「変だ変だ」と思っていたんです。私たちが預けに行くときは工事をやっていなくて、いかにもちゃんとやっているように見えるんですよ。わざと入り口から通してくれなくて、外をぐるーっと回って。子どもを預けるときはちゃんと普通に仕切ってあったりするけれど、お母さんがいなくなると仕切りを開けてガンガンガンとやっていた。

松田

業者はそれをある程度認識していてわざとそういうふうにしたのでしょうか。

Nさん

それはそうですよ。

Aさん

アスベストというのはどうかわからないですけれど、実際やっていたのは東南アジアから雇った日雇いの労働者だったから、彼らが一番アスベストを吸っていると思う。

Nさん

ただ、アスベストかどうかは別として、音と粉塵とっていうのは、保育の環境ではなかったです。たまたまその途中に早く迎えに来た親御さんは、煙がもうもうとするなか子どもたちがわーっとベランダに逃げるのを、先生たちが「危ないから行っちゃだめよ」とそこに行って、もうもうと煙がそこに出ているというのを見ている。もしこれが粉塵じゃなくて火事の煙だったら逃げると思うのに、子どもは本能に従うのに、それを止めちゃうというのが人災だと思うし、普通の感覚は麻痺していますよね。「こんなところにいられないよ」というのがなかったんですよ。ちゃんと看護師もいたけど、危機管理という面では無能だったと思います。あと、Aさんの部下もちゃんとその場にいたけど、黙認していたんですよね。

松田

アスベスト以前の問題としてもあったというわけですね。

Nさん

もちろんですよ。それをわざと隠していたわけですよね。迎えに行くと、綺麗になっているんですよ、また。何事もなかったかのように。

松田

それは業者にとって手間がかかるということだったのではないでしょうか。

Nさん

でも冗談じゃないですよ。お金なんか何百万円しか違わないのに。Aさんという人が判子を押したんですけれど、その下で実際にやっていた3人組の衛生課の職員がいたんですよ。それで、「どうしてこんなことしたの」って言っても「いや、わかりません」という感じで。でもきちんとそれをしようと思えばできたのだと思うんですけど、そういう能力がなかった。

Mさん(男性)

Hさんに関しても、「Hじゃなくて、区がやったんです」というような説明になる訳です。なぜこんな人たちが行政の重要な仕事をやっているのかなと思いましたよね。

Nさん

子どもたちがこんな大事になって親たちが死ぬほど苦しんでいるということが全然わかっていない。平気で保育園のどこかでたばこを吸っているし。なんでもそうですけれど、事故なり災害なりを最後に水際でせき止められるのはやっぱり人間なんですよ。システムがあって、マニュアルがあって、でもそれだけではだめで、一人ひとりが責任を持って。常識がないからこういうことになるわけで。

それを誰も責任を持たなかった。「自分はそういう仕事じゃない」とか「上司がこうだったから」とか、みんなが自分の責任から逃れていたんです。残念なことに、日本の法律では何かをしたことに対しては責任を問えるけど、見殺しをしたことに対しては責任を問えないので。

Aさん

無作為の行為に対するものがないんだよね。

Mさん(男性)

そこをM先生がリスク・コミュニケーションの研究をされていて、何かリスクを生じさせるなということに対しては、きちんと説明会を開いて、情報を共有して。原発を作るときにも行うじゃないですか。保育園の建て替えに関しても同じようなリスクがあって、きちんと問題意識を持って子どもたちを守るとか知り合いを守るということを考えていかないといけなんじゃないかなということを学びました。今回、リスク・コミュニケーションという概念があるというのを始めて知りました。

松田

最初の検討委員会があって、そのあとの対策委員会ではAさんも入られたわけですか。

Aさん

傍聴はしていたけれども、訴訟していたので委員には入れませんでした。

松田

私の関心から言うと、専門家とそうでない人たちとのコミュニケーションの問題があると思うのですが、傍聴されていてどんなことを感じられたのでしょうか。

Aさん

最初に委員会のメンバーを決めるときも、区主導ではなくて、Fさんと名取先生たちがコメントをして、入れてくれということで。そこはやっぱり勝因のひとつなのかなという気はしますね。そこで黙って行政主導で彼らのそろえた人たちだけでやられていたら、結果としてどうなったのかなというのがあるし、もちろん皆さんいろいろな見識を持ってやってくれていたんだけれども、やはり現場でアスベスト問題に取り組んでいらっしゃる3名の方々の意見というのは相当影響力があったと思います。ミーティングの後にお茶やお酒飲みながらいろいろ関係ないことも話せたのはありがたかった。

Mさん(男性)

委員会後の気持ちの軌道修正みたいなものですよね。

Aさん

アスベスト以外でも親としての悩み相談なんかもしていたし、会議の場だけじゃないコミュニケーションもうまくいっていたっていうのは結構大きかったですよね。

松田

前の段階で入れる、入れないのあたりはどういう議論をされたのですか。

Aさん

10人の中で、構成をどうするかというのはかなりやり合いました。

松田

それはすんなり受け入れられたというわけではないですよね。

Aさん

ないです。ただ当時の状況はこちらにアドヴァンテージあったので、先方が要求を呑まざるを得ないみたいな感じではありました。

松田

マスコミ関係のことも全部、記者会見などされたということでしたが。

Aさん

仕事柄そういうネットワークがあったので、関心を持ってくれそうな記者さんに情報を流したら、毎日新聞やテレビ朝日などで取り上げてくれました。メディアで報道後、行政の態度もコロっと変わりましたよ。

Nさん

あの頃はメールとかもみんななくて。危ないといっても知らせる手立てがないんですよ。お知らせを貼っておくとか、子どもがかばんに入れておくとか、そういう時代だったので。しょっちゅう呼び出されて何度も説明会があったんですが、出たくても私たち出られないですもんね。両親が働いているので。夜遅くなってしまうし、次の日も仕事があるし。

Aさん

夜にミーティングを開くときは保育園を夜間に開けてくれて、子どもたちを保育士さんが見てくれるということはやってくれましたけれどね。

Nさん

当たり前と言えば当たり前だと私たちは思うけれど、あの人たちもつらかったと思いますよ。朝7時ぐらいから行ってずっと夜10時ぐらいまでやっていて。自分たちも吸っているけれど、一応「ごめんなさい」の立場ですよね。だから文句は一言も言えないですよ。私たちにも言えないし、区の人たちにも言えない。

Aさん

子どもたちへのしょく罪の意識は感じられました。職員組合もバックアップしていたからね。職場でのアスベスト曝露で組合員の健康を害したわけだから。

Nさん

親同士、親と子ども、親と先生、親と区というのがいろんなところであって、先生たちもすごくつらかったと思います。

1 2 3

上に戻る | 教育研究活動の一覧へ戻る