神戸大学大学院人文学研究科倫理創成プロジェクト

アスベスト問題に関連する研究成果や情報

アスベスト被害聞き取り調査—東京都文京区さしがや保育園保護者の方々 [2009-02-28]

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はじめに

当時の保護者の方々を対象に、聞き取り調査をおこなったものである。個人情報保護の観点から、協力者氏名は全てイニシャルでの表記としている。

事件の背景や経過に関する詳細については、下記URLを参照のこと。

東京都文京区ホームページ「さしがや保育園アスベスト健康対策等について」
http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_hoiku_sasigaya.html

松田毅 (神戸大学大学院人文学研究科教授)

去年(2008年)の3月ですけれども、震災時の解体工事をしていた30代の労働者が、中皮腫で労災認定されています。震災から13年しか経っていないのに、普通の潜伏期間からいうと、はるかに短い期間で発症したわけです。震災だけが原因ではないかもしれないが、当時、震災時にアスベスト用マスクを付けるべきことはほとんど言われていませんでした。そういう問題を踏まえ、子どももそうですが、災害時のアスベストリスクに対する予防の観点からいろいろな話をお聞きしたいと思います。

この冊子『パパ・ママ 子供とアスベスト さしがや保育園 アスベスト災害の軌跡』(飯田橋パピルス、2008年12月刊行)を読ませていただきました。Nさんといろいろお話をさせていただきましたが、最初の10ページから事件の経緯が時系列で書かれているので、それを追う形でお話をうかがえれば、と思います。特に、被害が出ていない段階で、リスク評価をされ、病気になっていない段階で補償をどうするかという問題、あるいは子どもの健康相談、メンタルケアも総合的に行われているという印象を持ちましたので、そのあたりを時系列でお聞きしたいと思います。特に専門家と当事者の間でいろいろなやりとりがあったと思います。その点、昨日もIさんから少しお話をうかがいましたが、どういうやりとりがあったのか、何が問題であったのか、今の時点で振り返られてお話して頂くと、専門家といわゆる素人の関係を考える上で参考になると思っていますので、よろしくお願い致します。

最初、非常に興味深かったのは、一番初めにアスベストのことに気づかれた方がいらっしゃったという点です。1999年の段階なので、そんなにまだアスベストの問題は世間に認識されていなかったと思います。日本でも何回かアスベストの問題は騒がれ、パニックが起こりましたが、下火になって忘れ去られていったわけです。昨日もIさんにお聞きしたのですが、よくわからなかったので、どういう方がどういう背景でアスベストを調べ、危険性に気づかれて、皆さんに問題提起されたのか、そのあたりからお聞きできたらと思います。

Mさん(女性)

私たちの年代に学校にアスベストがあるというようなことは、うすうす認識がありました。ただどういう形状のもので、どういう状態のものかは知らなかったのですが、たまたま知っているお母さんがいたんですよね。それで、天井を見たら「アスベストじゃないか」ということで、園長先生に指摘されたところから話はスタートしているはずです。

Nさん

でも、言葉はなんとなく聞けば聞いたことがあるけれど、それがなんで問題になっているのかとか、そういうことはまったく知りませんでした。

Yさん

私はNさんから教えてもらって、「危険なんだよ」というのを教えてもらったので、そこで「ああ、そういうものなんだ」というのを信じたぐらいだったので。

Mさん(女性)

一番強く認識したのは、NさんとAさんが開いてくれた説明会です。あれで、とんでもないことになっているという認識がはっきりわかりました。

Mさん(男性)

キーワードで危険だという言葉だけがあって僕たちにはわからない。それで、長松さんと安藤さんが説明会を行ってくれたという感じです。

Mさん(女性)

「どの程度だと危険なのか」というふうにしか思っていなかったし、できればなんでもないことになるほうがいいのになというぐらいにしか最初は受けとめていないから、おそらく開いている窓から発見した人は相当びっくりして言ったことだと思うんですけれど、その度合いが、一般の保護者には伝わりづらかった。温度差の違いは最初からストレスになっていました。

保護者の心配の度合いや内容がまちまちなので、園長先生の対応も曖昧になってくるわけです。大ごとにしたら、もしかしたら登園できなくなるかもしれない。そう考える父母もいました。そのあたりで温度差があったのかなと思います。

Mさん(男性)

アスベストは危険だというキーワードだけで、中身はわからないけれど、それに反応した父母と、「行政が行うことだから大丈夫」と反応しない父母。危険という言葉の認識にもものすごく差があった。

Mさん(女性)

普通何かとんでもないことだったら、絶対保育園に来てはいけないというふうになるはずだろうとしか思っていなかった。工事前に発見したお母さんと園長先生のあいだでは結構議論があったのではないでしょうか?

松田

そうすると、工事前からそういう議論はあったわけですか。

Nさん

そうです。工事が6月25日に始まる前に、4回ぐらいこの方が園長先生を通して聞いてきました。

Mさん(男性)

他の父母たちは誰も知らない。

Mさん(女性)

0歳児の保護者は入園後すぐの出来事だったので、だれにどのように質問していいのかさえわからない。着任したばかりの園長先生だったこともありました。それよりも、最初の頃は、そのすぐ後にある運動会が中止になってしまうんじゃないかとか、そっちのほうを心配しているという感じで。今考えれば、それどころじゃないんですけれど。

Yさん

それで保育園生活が崩れるんじゃないかということもかなりあったと思います。生活が崩れるとか。

Mさん(女性)

そっちのほうを恐れていたよね。預かってくれなくなったらどうなってしまうんだろうとか。実際、区の人もちょっと圧力をかけてくるようなこともあったから。

Mさん(男性)

そう、場所を移動するとなると通常の保育は出来ない様なことをすでに言っていた。

松田

かなり早い段階で区の方がそのように。

Mさん(女性)

圧力というか、一番印象に残っているのはお弁当問題。区の人が「給食の出ない避難場所に行ったら、お母さんたち毎日お弁当ですよ」と言われました。それはちょっとびっくりしましたね。「このままのほうがお弁当を作らなくていいですよ」というような言い方をされて、びっくりしました。そこからだんだん不信感が出てきました。

松田

NさんとAさんが開かれた説明会というのはどの時点にあったのでしょうか。

Nさん

7月14日に大きいのがあって、その週末の父母会で問題になりました。それで、「これは大変だ」と思って、16日くらいに工事を止めたんです。その後に17日に説明会があってたくさんの保護者が来たので、その前にアスベストのことを予習しましょうということで予習をしました。この頃は吹き付けがあるとは思っていなかったので、そんなに深刻ではないと思っていたのですが、私自身は専門知識がなかったので結構シリアスに話をした覚えがあります。

私たちは子どもが小さいので、保育園に思い入れがなくて、安全のほうが大事だと思っていました。長く子どもを保育園に預けていた方たちにとってみれば、保育園には今までの楽しい思い出があるし「どうせ私たち保育園を出ちゃうのに」という思う方も正直いたと思う。また子どもを預かってもらって両親が働いているひとは、それを乱されるということに恐怖を覚えた方もいた。それぞれが、事故によって生活を乱され、受け入れられない中で、現状がつかめないまま、区の対応も一転二転してとても混乱していました。

Mさん(男性)

まして1階と2階に園児の居る場所が分かれていて、年少者が2階だったんですよ。そういう条件も重なった。そこで温度差が生まれたというのがあると思います。

Nさん

「私たちは吸っていないから」ということで。

Mさん(男性)

「うちの子は大丈夫」という認識をしている父母はいました。

松田

父母会の中でも、その辺はかなり学年によって認識に違いがあったということでしょうか。

Mさん(男性)

学年というより、個人の捉え方だと思います。

Nさん

6月の工事前に一度父母会の議題になったのですが、5〜6歳のお母さんたちが「そんなことよりも夕涼み会のほうが大事だから」と言って却下してしまったんです。働いている親からすると、子どもと一緒の行事は滅多にないから。でも、その次の父母会にやっぱり心配だと思ったあるお母さんが再度提案してくれて、これはすぐに取り組まなくてはということになったんです。

Mさん(女性)

理論的になるまでに時間がかかったよね。感情的な考えが優先していたから。あと、アスベストに対する知名度とか認識みたいなものが。今聞けば、一般の人だって認識は違いますからね。今と10年前では社会的なバックグラウンドの違いが相当大きかったと思います。

Nさん

あと私たちが知らないところでやっていたんです。

Mさん(男性)

保育園に入園したばかりで、どういう対応をしていいのか、時間があったら知識を得たいという気持ちが強かったんですよね。どうして危ないのか自分で納得しようと思っていた気持ちが強かった。自分の子は大丈夫という気には当然なれなかったし、園の生活にも慣れないというのがあった。

Nさん

区側の態度も最初は酷かったですね。でもああいう対決がなければ、うやむやになったまま解決せずに終わっていたと思います。

Mさん(女性)

いろいろな方向からいくこと、感情的な人も絶対必要なんだと思います。マスコミ的なアプローチも必要だったし、個人的な感情も必要だったし、理論的な説得も必要だった。その全部がそろわないと皆を納得させることはできなかったと思います。それだけ個人の事件に対する受け取り方にすごく差がありました。

でもやっぱりテレビが一番わかりやすくて、父母連という文京区全体の保護者連絡会があるんですけれど、そこで協力してもらって、父母連でもこの問題が風化しないように、さしがやのことを支援してくださいということを話しました。内容が分かりづらかったので、今まで放映されたテレビの内容をダイジェストで収録したものを作りました。それをお貸しすると「こんな大変なことがあったの?」という反応が多数ありました。その後の父母連の流れにもつながったと思います。

松田

それはいつごろの話でしょうか。

Mさん(男性)

2000年の秋です。

Mさん(女性)

保育園の中だけで話していると、当事者どうしなので重苦しい空気にどうしてもなります。なんとかしなければと思い父母連の方たちに話を広げたら少し楽になったんですね。要するに被害にあっていない人の方が気楽に聞いてくれる。

Mさん(男性)

保育園の中での閉塞感というのがあったんですよね。

Mさん(女性)

被害にあっていない子育て仲間も応援してくれるんだなと。そっちに話を広げていくうちに、だんだん「まだ続けられる」という気になりました。圧力があったら、逃げたくなるような気分はいつもありましたね。でもそれを続けないと検討委員会も終わりませんし。あれはプレッシャーでした。

Nさん

いつまで経っても計測値が出ないっていう。

Mさん(女性)

このまま委員会そのものが終わっちゃったらどうなるんだろうと。

松田

今言われた委員会というのは健康対策委員会のことでしょうか。

Mさん(男性)

その前に父母が入らない専門家だけの委員会が3年〜4年ありまして、僕たちは傍聴だけでしたが、環境の方とか記者の方とかが出席するものがありました。そこで報告書を作りましょうということになって、それで3〜4年かかっていると思います。

松田

その委員会の傍聴にはどれくらいの方が参加されていたのですか。

Mさん(男性)

5、6名程度ですね。

Mさん(女性)

そのうちなかなか話が進まないというのが見えてきたので、N生が直接お母さんたちから話を聴く機会を作ろうと言ってくださいました。それで委員会で親が発言してもいいという機会ができて、そのとき4〜5人だったでしょうか、お母さんたちが来て、「こんなことになっています」というようなことを話す場面を作っていただきました。そのときに私がビデオカメラを持っていってお母さんたちの涙ながらのお話を撮って、座長のU先生にビデオテープをお送りしました。それで現状で委員会がなかなか進まないので保護者も心配していることを、父母会長のIさんがU先生に直接電話で話しをしてくださって、それからだんだん事態が動くようになって来たわけです。

Mさん(男性)

それまで専門家の先生は今までの数値のことが頭にあって安全だと言っていたわけなんですが、でもこういう考え方もあるという話を出しても委員会の中ではなかなか譲らないので本当に硬直しちゃうんですよね。

Mさん(女性)

でも今思えば、保護者は危険性が0%じゃないのであれば100%だと思うという気持ちがあるわけだから、被害者救済にすすめなければ議論は収束しないということをU先生はそのとき感じていらした。導いてくださる気がしました。

松田

U先生がそういうふうに導いている感じを持たれたのですね。

Mさん(女性)

やはり被害を受けた人の心理的な状況っていうのを、すごくリスクの面で重く見ていたように感じます。だから話がだんだん保護者よりに好転してきた。最初は「安全ですよ」ということを言うための委員会にしか見えなかった。「この程度で心配しないでください」と言うために、委員会って作られているなって、それはもう直感でわかりました。でも、それをそうじゃないってひっくり返さなきゃいけないんだというのを被害者の立場に立つ委員の先生方がおっしゃっていた。

松田

委員会には区が選んだ人以外にも推薦で入った方がいらっしゃると聞いたんですけれども。

Nさん

NさんとFさん、あとM先生も一時期入っていてくださっていて。皆、私たちの代わりに闘ってくれた方たちなんですよね。

Mさん(女性)

被害者寄りのほうにちゃんと論調を持っていける方たちに知識をもらいつつ考えました、当事者である保護者の態度や行動がない限りは動きようがないこともわかりました。それを逆転させるのが如何に大変なことなのか、世の中の問題というのがすごくリアルにわかってきました。原爆問題や公害病など全部に共通するものがあるということです。

松田

その委員会は一応、一区切りがついたということで。

Mさん(男性)

報告書ということで、提出が終わったんです。それで、その後に父母を集めて報告書の説明会を行いました。

松田

検討委員会は最終的に議論が分かれたままだった。

Mさん(男性)

すごく異例なことですけどね。委員会の内容は未だに理解するのが相当難しい。

Nさん

シミュレーションをしたんですが、この建物の中にアスベストがあるのだとしたらその周りをもうひとつ大きな器で密封して安全にしておいて、その中でアスベストをとるときにどうなるか、同じ事をやってみようということで、やってもらったんですよ。そこでとんでもない数値が出てしまって、それを見た本人がびっくりして「こんなわけがない」と言って、0を勝手に削ってしまうんです。だったらこんなことやらなければいいのに。そこをFさんが突っ込んで、Fさんは引かず、調査した彼も引かず、ということがずっと続いたんです。あの頃は名取さんが、議事録を全部チェックしていました。でないと大事なところが抜けてるんです。

Iさんに文書を作ったり、また別に弁護士さんのほうからプッシュしてもらったり、他の父母の方たちに新聞記事にしてもらったり、それぞれが分かれて動き始めた頃なんですよ。皆でやるのも大事なんですけど、それだけだと煮詰まってしまう。

Mさん(女性)

あまりにも経験が濃いから、被害が一緒だから、つらいんですよね。

松田

ある種のトラウマのような。

Mさん(男性)

というのもあるんでしょうし、すべての人が同じ気持ちで同調するということはかなり難しいことだと思います。

Mさん(女性)

保護者同士に軋轢が生まれるというのが嫌でしたね。

Nさん

子どもがまだ小さくて幼稚園に行く前というのはすごく大変ですよね。

Mさん(女性)

毎日保育園の送り迎えで保護者同士顔を合わせるから、何かと話をする。

Nさん

皆、この地域ですから。そして同じ小学校に上がり、「お兄ちゃんはあそこで一緒で」というように。生活をぐちゃぐちゃにされてしまったんですよ。

松田

こういう問題が起きなくても保育園というのはわりと人間関係が難しいところがありますよね。その上にこのような問題が起こってしまった。その辺のことは実はかなり大きいということですよね。

Mさん(女性)

そうです。それで、同じ学年の中に区役所に勤めている方もいるわけでだから、そこで「区がやっていることはおかしい」と言って良い気持ちになるわけもなく。「一緒にやりましょう」と言ったって、区役所に勤めている人が区役所に対して物申すことはできるわけもなく。でも、普段は生活をしているわけだから、そこは結構気を遣ってというか、すごく考えました。

松田

後で心理相談をやられるのも、そのこととは全く無関係ではないのですか。

Mさん(女性)

でも、遅すぎましたね。その時点で皆かなり傷ついていますよね。

Nさん

もう掘り返す元気もないときに、心理相談をしてもらっても、悪いんですけどもう手遅れです。今まで一緒に闘ってきた人たち以外にはわかってもらえない。今までの苦しみを知らない偉い先生に来てもらっても、しらけたものになる。

Mさん(女性)

今みたいに何か事件が起きると、もう次の日からちゃんとカウンセリングが実施されるなんて、あの頃はありえない。早くにやることが絶対に大事。

Nさん

皆、傷ついているんです。子供がリスクを負ったことで、子どものお父さんお母さんも、その周りにいるおじいちゃんおばあちゃん、皆がとっても深い傷を負った。ただその傷に気がつかないだけだった。傷ついてしまった苦しみから、保育園で親や先生が傷つけあって、それが何重にも起こってくることによって、普通だったら仲良くできるようなことも仲良くできない。皆がフラストレーションを抱えていることがつらかった。「これは皆さんの一時的な正当なリアクションであって、本当の思いではない」ということを諭してくれる人がいなかった。

小児科に行って「先生、この子は死なないですよね」と聞いても、「大丈夫でしょうか。大丈夫と言ってください」と頼んでも「それはわかりません」と言われるんです。たとえお医者さんじゃなくても、「大丈夫だよ。信じて頑張っていこう」と言って頂ければ、今を乗り越えられるのに誰もしてくれなかった。30年後ぐらいに何かあったとしても文句は言わないんですけれども。ずっと後になって心理相談をやってもらっても遅かった。早期の心理相談はどうしても必要だと思います。

Mさん(女性)

私は実はごく数名の保護者の方たちと一年間リスク相談と心理相談に通い続けていました。それですごく立ち直れた感があります。心理相談とリスク相談があって、両方とも行っていました。リスク相談のU先生やA先生と一年間話せたことも、心理相談のM先生と話せたことも私にとってはすごく救いになっています。

Mさん(男性)

僕たちはそこで直接話ができますし、一対一ですから、父母の感情もそのままに、本当にカウンセリングですよね。その後の協定問題も進まないのが心の負担だというのを先生方に聴いてもらえて、それを進める原動力にもなって、それは大きかった。

Mさん(男性)

僕は保護者代表の専門委員になっていたのですが専門知識が少ないので戸惑うことも多く父母で参加する委員会リスク相談や心理相談で、細かい内容の疑問点も相談することが出来ました。

Mさん(女性)

「私の気持ちはどうやったら伝わるんですかね」というふうに。ああいう専門家の中で一般人が発言するというのはものすごく負担なんですよ。説得力があるように説明するというのは。こっちも弁護士の先生に相談しているから、弁護士の先生に「こういうふうに言ってください」と言われたところで、専門家の法律用語なんか言えたものではないし、どうやって言えばいいのかとか、それは心理的にはすごく負担は大きいだろうなというのを夫を見ていて感じたので、参加させてもらえるのは大変ありがたいですけれど、専門家集団の中の一般人のあり方というのはすごくきつい難しいなと。

あとは、心理相談の先生には励ましてもらえるというのがすごくあった。かなり勉強してくださっていて、アスベストのことは新聞も全部取り寄せてくれてくださっているし、「続けることが一番大事」だということがだんだんわかってきて、自分が頑張れるだけでなく、それを周りの人にも知らせなくてはいけないことがすごく負担なんだということをお話したらたら「世の中が変わってくると、変わる人は出てくるから」という助言をいただき救われました。本当に去年まで「私は関係ない」と言っていた人にも、変わる人が出てくるからと。だから、今ここで結果を出すのではなくて、周りが結果を出してくるときもありますよということを先生から言われて、ああそうかと。

やはり保護者同士のむだな軋轢は最初に心理相談をやれば良くなるし、それは子どもにとっても良いと思います。

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