神戸大学大学院人文学研究科倫理創成プロジェクト

アスベスト問題に関連する研究成果や情報

アスベスト被害聞き取り調査—近藤喜明氏 他 [2008-06-12]

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松田

作業はどれぐらいの期間続いたのでしょうか?

岩佐

最初、現場を見たときには、神戸は復興までに十年くらいかかるのと違うかというような被害状況だったですね。それがこんなに早く復興するのかなと思うぐらいのスピードで復興しましたね。

松田

一年くらいかかったということでよろしいのでしょうか?

岩佐

そうですね、はい。

松田

実際の作業も一年くらいされたのですか?

岩佐

いや、一年もしてないですけどね。

松田

何ヶ月か?

岩佐

はい。

片岡

県か神戸市が解体費用を公的に持つ申請期間がありました。それがたしか一年だったという記憶があります。その期間に一斉にしました。以降は自費で解体して業者に頼まなければいけませんので。

岩佐

そうですね、僕らも役所に交渉へ行きました。金額的交渉をね。役所もやっぱり緊急ですから、「めいっぱい出しますからやって下さい」という形で言っていましたね。

片岡

そのときアスベストの危険性は一言も?

岩佐

そうです。ないですね。

片岡

当局は言いませんね。まあ、その人たちも専門外かもしれませんけどね、書類申請だけで。

松田

そういう意味では、震災だけでなく、アスベストの危険性の問題は、どの時期にもあったと思うのですが、やはり2005年の「クボタショック」以後、認識されたと言ってよいのでしょうか?

松枝

僕らはあのとき市民運動をやっていたのですが、すべての市民運動が行政、つまり国や神戸市に対して、アスベスト対策を取るべきだと一項目は入れていました。その危険について知識を持っている人はいたわけです。朦々とした粉塵の中で生活していたわけで、最初は撒水もなかったが、解体現場で、撒水を始めるとかありました。撒水がどれぐらい効果があるかはわかりませんよ。それからマスクが増え出す。そういうことは行政もしただろうと思います。ただ、それがどれぐらいの効果があったか。

僕らも同じですが、復旧復興が大前提です。「アスベストなんか構っていられるか」という状況です。知ってはいても実際は、復旧復興の方が優先されたというのが実情じゃないでしょうかね。

岩佐

私も作業していました。最初は道路でも車が走って廃材を落とす。すごく荒れた状態で作業は進んでいました。そしてある程度進んだときに、道路がだんだん美しくなって、解体する前にも色々養生し、撒水し、しだいにきれいな状態で作業が進むように、段階を追って進んでいきましたね。まあ、それは行政の指導だったのだろうと思います。でないとそういう風な形で作業が変わりませんから。まず道路が美しくなりました。道路が美しくなれば、現場でも整理された状態で解体されていくようになりました。

松田

それはそのさきほど言われた申し入れの効果ですか。

岩佐

そうですね。

松田

そのときは、アスベスト以外に例えばどんなことも言われたのでしょうか?

松枝

「慌てるな」とだいぶ言いました。仮設住宅も慌てる必要はない。地元で地元らしく生きていくためにはどうするかを最優先させようということでした。しかし、これを期に復旧から再開発へ行政としては最優先だったのじゃなかったのですか。あとはもう後手にまわったというのが率直なところでしょう。そのへんもいろんな問題ありますよね、食事一つにしてもね、防腐剤が山ほど入っている食料品を、おばちゃんなんかが冷蔵庫に十個二十個入れといて、それを食べながら生活しているような時ですからね。

片岡

私たちにも行政から復興上の住宅無料相談などをそれぞれ立ち上げてくれ、という要望がありました。震災前から神戸市役所の住宅無料相談で私たちの建築のプロが呼ばれ、相談を受けてきたという経緯があったからです。本部の建物玄関に「相談室」という看板を掛け、地域の人たちの住宅復興の相談をよく受け付けていました。そのころ出てきたのは、同業者仲間を悪く言いたくないのですけが、「悪徳業者」といわれる人々です。わぁとどっかから来てぼったくりの値段をふっかけ、基本的作業も手抜きをして、あとはもうばぁと帰ってしまう、そういう業者も一部ですが、ありました。

欠陥があっても請求できない、要求できない。そういうことも含め色んな苦情が出たのだと思います。相談センターを地元で立ち上げてほしいという要望を受けてやってきたという経過もあります。目が向いていたのは、解体か危険性かというと、それは緊急避難状態だったのだと思うのです。

近藤さんのお話

松田

では、近藤さんの場合、震災時の解体作業をどんな形でされていたのかをお話しいただきたいと思います。

近藤

最初に言っておきたいのは、私は家があんまりいい家じゃなかったから、中学校を出て、そのあとは自分で働き夜間高校を卒業したということです。15、6の時分から一応仕事には入っておりました。だから、今からお話しすることについて、きれいな話の仕方ができるかどうかは疑問ですが、みなさんとは違って私は現場の中にいました。自分は仕事している。だから、その観点で間違いがあるかも知れませんが、説明させてもらいます。

まず、震災当日ですが、とにかく急にピカーッと光ったのです。「あれなんか光ったやないの」と感じたのが早朝5時頃だったと思います。「光ったな」と言ったら、どどどどっと地震が来て、これが横揺れでした。それで、家屋の耐震強度が、うやぁ〜いと弱くなったのです。「地震止まったなと」と言っている瞬間に、ぼんぼんぼんぼん飛び上がるような状況で完全に縦揺れになりました。とにかく頭の中で、家の中にどういう道具を置いているかなと思いました。「この壁に逃げたら、なんとかなるやろうと」というわけで壁にもたれ、しのいだのです。そしたら女房が家の下から「なんとか降りてきて」と言います。ところがこっちも下に降りるにも真っ暗でね。階段まで行こうたってみな倒れている。「ちょっと待っていろ」というような感じで、やっと降りて、扉をこじ開けて外へ行きました。自分の家がそういう状況だったのです。

長田の神社の裏に住んでおりました。一番ひどい場所だと思います。それでその後ですが、とりあえず、食べ物がない。水が一滴も出ない。もちろん、電気なんかない。ならばどうしよう。何かないかって、家の表に出ました。自分の家でも表に出るには、よその家のところを回らないと、そこへ行けないのです。外に出るまでに自転車を跨いだり、濡れながら、なんとかしのいだような状況です。その辺のことは話の現場の話として聞いて下さい。そこにゼネコンから、「これは緊急事態だから、あんたは建物のことは、よく研究して知っているから、何とか来てくれ」と言われました。しかし、「来てくれいうたって、ここから動かれへんのに、どうするのや」と答えました。そうすると、軽トラを持ってきたら、それに乗って行って、それで仕事に行けるようになったのですよ。これがまあ震災の全体の話です。

最初に行って一番びっくりしたのは、この言い方が一番わかりやすいと思うのですが、私の自動車、当時1リッターでふだんは13キロくらい走れました。ところが、現場に行った最初の日は、4キロしか走れない。ぶすぶすぶすぶす言い出すし、「はぁ、なんや、どっか故障かい」。エアーフィルターとかついています。自動車には必ず。これがもう詰まってしまってね、通らないのですよ。しょうがないから木切れでエアーフィルターを叩いて埃を落としてから、またちょっと走るというような状況でありました。

だから、もちろんアスベストどころではなかったのです。自動車でさえそんな状態なので、人間はそんなところやなかったというのは確かです。そんな状況で「そしたらマスクせんかい、こうせんかい」と言われても、売っているとこがないのにどうしようもないのです。だから、どうしたかと言うと、タオルを三、四枚持ってきて、それをとにかく口にしました。ところが、30分ほどしたら真っ黒です。だからまたタオルを変える。で、真っ黒なタオルを洗いたいと言っても、水が出ません。だから、洗えない。そういうような状況です。

西山さんもおっしゃったように、アスベストや粉塵のことを考えている暇はなかったです。解体現場の奥の方から、お母さん方が付いてくるのです。「頼むからうちの家の前だけでも取り除いてほしい。外へ出られない。私、いま塀乗り越えて外へ出てきたんや」と。ところが、当時の、先ほど言われたように、お金がどこから出るかもわからない状況なので、「悪いけど、あんたんとこちょっと何か申請出してくれないと無理や」とこちらは言います。「申請はどうしたらいいの?」「どうにもこうにも」「そしたらそこまで行くのにはどうしたらいいの?」って。こういうことで堂々巡りですわ。我々としては、それを取らないとどうしようもないわ、ということで。「金なんかいらない、やったれと」。と言うような事です。

これが最大のことで、だから、アスベストとか粉じんの話は、出たとしても、我々現場に聞こえてくることはありません。ただ、僕らが言えたことは、「神戸市、兵庫県は解体のお金を出すだろう。今出すとは言い切れなくても、多分出してくれるはずやから、とりあえず今、少々のお金出せるのであれば、とりあえず解体すれば、後でお金は返ってくると思いますよ」、と言って、解体作業したわけです。それしか方法がないからですね、この家を取り除かないと、この奥へは行かれないのだから。だから、「なんとか頑張って取り除いてよ」というのが実情でした。

嫌なことですが、私のこの手、震えてきているのですわ。疲れをとってもこの調子です。これも震災の後から、「肺気腫と違うか」というようなことを言われ、薬を飲んでいましたね。呼吸がおかしいからということで。あれを飲んだら、このような後遺症が出るのです。けれども、その当時はそんなことはわかりません。後で、「先生これはどないになっているのか、なんや苦しくなってしょうがない」と。飲んだらそういう人もおるというのがまず一つです。

それから、アスベストとかいう名称のものは、我々の耳には聞こえてこなかったのです。「尼崎の工場で、なんかそんなもん出ていて、騒ぎになっているらしいで」というような感じです。震災のころには私らにはもちろん、そんなアスベストが危険というような話は入ってきてないし、ただ「マスクしてくれー、マスクしてくれー」と。「ないもんどないすんねん」その言い合いばっかりですわ。だからと言って、作業をしなかったら解決しないのです。まあ、そのことにすべてをかけて、やったと。いうのが現状です。

だから、ちょっと質問させて下さいね。いいですか?皆さん、自分たちの家の中でここが一番大事な場所いうのは、どこだと思います?誰かちょっと、思ったとおり言ってくれて結構です。毎日住んでいる家でね。

学生

仏壇とかですか?

近藤

だれか他には何か思うことない?

というより私が基本的な言い方をしてみます。間違っていたら、もちろん言って下さい。皆さん、家を見たら、「立派な家建てたな、立派やな、この柱、ごっつい金がしたやろな。この畳、すごいの入れたな」。これは言いますよね?しかし、一番大事な基礎とその下の捨て石、これ褒めた人いないでしょう。見えないから。

今度の震災があって初めて、基礎がもっと頑丈だったらと。手抜きとかじゃないんです。というのは、我々は、勉強し覚えているのは、まず神戸には地震はない、地震はありえない。火事はものすごくある可能性があるというのが出発点です。家の計算の仕方は、縦に対しては全然、計算をしなかったのです。地震は、横に揺れるものや。だから、横に対する強さは計算したけど、縦は計算していなかった。こういうことが全部、今回、影響したのですわ。

僕が今言った、基礎とか捨て石とかに目がいかない。捨て石とか基礎。僕が自分なりに言えることは、震災の時に。それを行ったのは俺らやいうことです。でも、壊れた家をきれいにし、道を通れるようにして、それから13年でね、こんな復興なんか誰も考えなかったと思います。だから自分なりに誇りは持っていますわ。しかし、アスベストを吸うて、体がこないになったということは、マンガみたいな話や。

松田

今、作業時にマスクの代わりにタオルを使用したというお話されたのですが、当時作業時にマスクをつけろ、と言われたことがあったのでしょうか?

近藤

あのね、ありました。一、二度あったと思います。ただ言われた時に、「ほんじゃ、支給してよ」と言うことです。自分が、そっちから次のとこ行かれないような状況でね、だからと言ってやりようがないなぁ。だから、まぁ、極端な言い方したらね、やりようがない極限の状況で、何もなかった。だから、みなさんがいろんな意味で、広報を流したり、色々したと思いますよ。だけど、それが入ってくるような状況とは違うのですよ。電話も通じない何も通じない。だから、まあ、これはどちらがええとか、悪いとかいう以前の問題で、出来なかったということです。

片岡

クボタの旧神崎工場の石綿被害の問題が出なければ、国も厚生省、今の厚生労働省ね、県も市も、これが危険だとかマスクをしないといかんとかね、水を撒いてとかいうことをね、ずっと先延ばしたと思うのですよ。そこが一つものすごいポイントやと思うのですよ。僕の発言は国寄せ的なことをつい言ってしまっていますけどね。以前からも色んな警告が出たりしていましたけど、本当にそれがスタートやと思います。本当の危険性を一人一人が、ましてや建設に従事する者たちが、知ってということになると難しかった。

松田

近藤さんご自身はどうですか?石綿、アスベストという形で、これが危険だ、と認識されたのはいつ頃からですか?

近藤

認識がなかったというのは、嘘になるからいやですけが、対岸のこと、クボタのところでやっていることぐらいでした。自分の身に降りかかってくるとは思いませんでした。だから、西山さんも言ったように、西山さんたちが動き始め、われわれみたいな者にも入ってきたのは、17、8年のころです。完全に入ってきたんはね。それまでは、福祉課へ行っても、「これは、肺気腫の疑いとあるけど。だからと言っても、なってしまったら、もう治らない。だから、この薬をあげる」。そういう形できた。だから、個人的です。

「もっと、はよ言わんかい、人の命なんやと思とんねん。」という憤りはあります。でも、あのときの状況がどうか言われたら、お水は全くない。水を撒くくらいなら、飲みます。コップ一杯でもね、水がほしいです。だから、理屈はわかっている。わしら、わかってる。でも、ないのだから。言う方も、「マスクせえよ」言っても、出来るわけないわな、いうような気持ちで言ってると思います。

松田

平成17、8年ごろからでしょうか?

近藤

もちろん、このぐらい騒ぎ始めたのは。

松田

この3、4年ですか?

近藤

その間いうのは、肺気腫の疑いがあるといっても、それがアスベストやとか、粉塵を、仰山吸うっているからとかの返事はもらっていない。

松田

肺気腫の病気は、いつごろ、わかったのでしょうか?

近藤

えーとね、これは震災後6、7年だったと思います。レントゲンが「なんかえらい黒いなと。陰があると言われたことがあります」。ただ、自分自身では歳か、何かによるのかいな、くらいの気持ちでした。お医者さんと話しても、「まあ、なんや言うても、70やそこら過ぎているからな、ある程度体も弱ってくるわな」と言われて、「まあそうでっか」ちゅう感じです。

松田

失礼だとお許しいただきたいのですが、震災前からのお仕事と、震災時のお仕事は、基本的に同じなのでしょうか?

近藤

そのへんですが、同じと言ったら、ちょっと語弊があるのですが、昔は、何もかもやらいといかん時代やったから。わしは溶接しか出来ない。わしはこれしか出来ないと言う時代じゃないから、現場の先端にいた、先ほど言ったように、基礎をやるときも、基礎なんか経験ないけど、ここへ来て、基礎のセメントを「十分煉れ」と言われたら練り、このパイプ取り替え言われたら、それを外して、それで働いたという。その時に、昔はほとんどアスベストやと思いませんでしたわ、今、考えたらね。けど、そんなこと考えてないし、知らんから。「ほいほい」っちゅうようなものです。だから、全然関係ないことに、この前のことをいうと20年近くですわ、色々やってきて。

ただ、もう一つだけ言えるとしたら、この震災の時に解体で、建築のプロが何人も来ていました。今からここを解体するのですだけど、「どっからやったらよろしい」って言うて、「わかりません。そらそうですわな、きちっと建っとるもん、この柱から取れと言っているけれど、こないなっとる、いうやつをね」。「どうですか」言います。専門家ほど逆にわかりませんわな。そしたら、僕らは「しゃあないな」と長年の勘で、「おい、こっち側からとりあえず取れと。ここまでは、ちょっと今日一日やめとけと。こっちやっとこと。まあ、普通の家で、僕の範囲で6軒ぐらいは、もう今日は、ここでやめておこう。もうこれ以上やると危ない」と言って、あくる日来たら、ぺちゃんこになってたんが6軒か7軒くらいあります。計算とかそんなものと違う、計算しようがない、計算できるわけがない。また、一級建築士が、どこから解体したらよいか、教えてほしいと言われたこともあります。

松田

学生、院生の方で、今までのお話で何か質問したいことはありませんか?

早坂

建物解体する時に、一応、養生をしたって聞いたのですけども、具体的にどういう形でしたのですか?

岩佐

具体的に言いますと、枠組足場か、単管足場を組み立てて、シート養生ですね。

早坂

あのビニールシート?

岩佐

はい。ビニールシートからだんだんと防音シート、防音パネル変わってきましたね。はい。

早坂

わかりました、ありがとうございます。

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