神戸大学大学院人文学研究科倫理創成プロジェクト

アスベスト問題に関連する研究成果や情報

アスベスト被害聞き取り調査—武澤泰氏、武澤一子氏 [2007-03-07]

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松田

日本でも、アスベスト問題が過去に何度か大きく騒がれたことがあるのですが、その度にすぐに止んでしまっています。あの時にもっとしっかり対策をやっていれば、と思います。

武澤泰

後から分かってもしょうがないんですよね。分かっていたなら、なぜ放っておいたのか。学校パニックの時だってそうです。あれだけ問題になっていたのに、パタッと止んでしまった。その場だけで終わらせてしまっています。それではいけない。

松田

NHKの別のドキュメンタリー放送(発言者註、2006年4月放送「調査法報告 アスベストなぜ放置されたか」)によれば、クボタの人間も、1980年代にアメリカで起きた一連のアスベスト訴訟を知っていたはずです。そのクボタと、国の役人が共同でアメリカへ調査に向かったといった話も出てきます。

武澤泰

国は明らかに分かっていました。これは確実です。企業はそれに少し遅れる形で知っていたと思います。被害がどの程度か、ということも外に出せるくらいは分かっていた。今の被害は、医師も患者も、誰も何も知らないという異常な状況で起きた。どこかひとつでも動いていれば、なんとかなったのかもしれません。それなのに、未だに分かっていなかったとするのはおかしい。

松田

国の責任という話がでましたが、責任追及という点ではいかがでしょうか。

武澤泰

今回事件に関しては、責任の所在は明らかです。訴訟には金も時間もかかる。解決は緊急を要するので、長期間にわたる訴訟をするというのは望ましくない。国の関係者の中には、問題の細部を知らない人が沢山いる。少し細かいことを突っ込んで聞いただけで、「そんなことがあったんですか」といったような反応をされたこともあります。上っ面の興味だけでは話になりません。

松田

聞き取り調査をして思うのは、被害者の方が一番良く知っておられるということです。自らの目で、耳で情報を調べているので、上っ面の知識ではない。そういった知識を生かせる形の政治になって欲しいと思います。

武澤泰

下の方から力をかけていけたら、そしてその力を徐々に大きくしていけたらいいですね。どこまで出来るか分かりませんが、頑張っていきたいと思います。

松田

お母さんのほうから何かお話していただけることはございますでしょうか。

武澤一子

私は田舎が新潟でして、山奥に住んでいたものですから、アスベストと言っても国や企業がどうなっているのかということは人の噂を聞いて知る程度でした。毎日新聞の記者の方が熱心に取材をされていたのをきっかけに、新聞を取って勉強するようになったのですけれど、最近ではアスベスト問題も下火になってきていますね。最初は毎日のように報道がなされていましたので、私も新聞の切抜きをして一生懸命に勉強していましたが、この頃は何度新聞に目を通してみてもどこにもアスベストの記事がありません。

イタイイタイ病のことが取り上げられていましたが、苦しみはみんな一緒です。やはり自分が苦しみを味わうと、苦しんでいる人の気持ちがわかるようになります。私は三十代のときに新潟から尼崎の公害のひどいところへ出てきて、そこですぐに結核を患いました。若い頃から苦労をしてきたので、子どもにはそんな苦労はさせたくないと息子たちを育ててきました。私はもう十分に生きましたから、「いつ死んでもいい」と思っていたのですけれど、息子のほうが先に逝ってしまった。

息子は親孝行な子で「将来、高齢になったらエレベーターのないこの県営住宅では上り降りが大変やろう」と高校を卒業してから結婚もせずに働き続け、亡くなる五、六年前にやっとエレベーター付きのマンションを買って準備をしてくれたんです。そして、食べていくために(鰻屋の)店を持とうと。私は「誰か(嫁に)来てくれたら」と思っていたのですが、息子は私を幸せにしてから結婚のことを考えようと思っていたのでしょう。それが、間に合わなかった。アスベストで、夢も命もみんな奪われてしまった。

新しいマンションに行けばいいのですが、私はここから離れられません。そこの戸を開けたらクボタ(旧神崎工場)が丸見えでしょう。ベランダで洗濯物を干していてふと見たら、「これでもってうちの子がやられたんや」ともう悔しくて。何度か杖をついてふらふらになりながら「社長に謝りに来てくれ」と一人で言いに行きましたが、「伝えてはおくけど、それはできない」と言われました。

うちの子は家族といっても私ぐらいで妻も子どももいませんでしたが、妻や子どもがあって苦しんでいる人もたくさんいます。早く助けてやってほしい。

ここ(県営住宅)が当たったとき、中学一年生だった眞治たちと「よかった。5階でもええわ。ええ空気や。ええ風が入るわ」と言って深呼吸をしていたのが、クボタの猛毒のアスベストを吸っていたのです。そんなことも知らず、親子で喜んでいたのが、30年経った今、こんなに悲しい想いをするとは思っていませんでした。もう、死ぬということは考えられません。「杖をついて、生きて、アスベスト問題、そして企業・国がどう移り変わっていくか、この目で見て、この耳で聴いて、お母さん生きていくからね」と。眞治は無念という言葉を残して死んでいきましたから。「無念や」と言って。

あの子は、お医者さんに一度も行ったことがなかったんです。それほど病気をしたことがない。一度、職場で釘を踏んで怪我をしたときには、化膿しているのに病院にも行かず、仕事も休まず、遅刻もしませんでした。周りの人は「病院に行ってこい」と言ったらしいのですが、「母ちゃん、病院に行ってこいってみんなが言うけど、病院ってどうやって行くんや」と言うくらい、病院を知らなかったのです。その一度だけしか病院に行ったことはありませんでした。ですから、アスベストのときも、すぐには病院に行きませんでした。温めれば治ると思ったのでしょう。有馬温泉に行って体を温めたりと、そんなことをしていましたから、兵庫医大に行ったときは「もう、手遅れや。今まで何しとったんや」と言われました。眞治が有馬温泉に行っていたことは(後になって)眞治の友達から聞いただけでしたので、「私には何で言ってくれんかったんや」と言いました。「そうしたら、有馬温泉には行かずにすぐ医者へ連れて行ってやったのに」と、そう思いました。

あの子が生まれたときから死ぬまで私はずっと見てきましたから、この子(眞治さんの兄)が知らないことはたくさんあると思います。だから、私が死ぬ前にいろいろと帳面に書き遺して、この子のために置いていこうかと思ったのですが、帳面と鉛筆はそこにあるのですけれど、書く気がしないんです。

国に対しても恨みはありますが、クボタに対しても「きれいなところになったなあ」と思って今まで見ていたのが、眞治がこの病気になってからはもう、恨みの目でみているというか。ベランダで洗濯物を干しているときも、クボタを憎しみの目で見ている自分が分かるのです。30年前に家を出たけれど、店を持たずして夢も命もみんな無くなってしまいましたからね。今は、「お前の無念を晴らしてやるまでは、母ちゃん死ぬ気はないからな!」と言っています。

アスベスト問題に決着が付いたら、私は「謝罪させた」「認めさせた」ということは、テレビや新聞では見たくもない、聞きたくもない。その気があるんだったら、うちの子の墓の前で土下座して欲しい。それが私の想いですね。私たちの。

クボタへ行ったときは、「謝りに来て欲しい」と言いましたが、一人のところにでも謝りに行ったことが分かれば、大変なことになるということは分かっています。それを承知の上で行ったのですから。もし私の家まで謝りに来たことが人に知られたらパニック状態になると思います。だから「(謝罪したことが他人に知れないように)黙って、夜中でもいいから来てください」と。「そうしないと、うちの子は窓を開けたらクボタが丸見えやから、浮かばれないから、頼みます」と言いましたけれど、駄目でした。

色々なことがありました。お医者さんの目の前では口に出しませんが、医者に対しても色々なことがありました。でも、親の私がでしゃばって出て行ったら、あの子(編者注:眞治さん)はみんなの前に出られないだろうなと思い、我慢していました。親でなかったらこの悔しさは分からない、ということはありますね。もう駄目(手遅れ)な子が、倒れて、目は紫色に腫れている。頭はパンパンに腫れている。それを何も治療してくれなかった。(病院の)事務所に怒鳴り込んでいこうかと思ったこともありました。ですが、駄目だということを分かって(看護を)やってくれているのだから、私がそんなことを言って「あんな子にはもう、やらず触らずにしとけ」ということになったら、可哀相なのは、惨めなのは、あの子だと思って私は我慢しようと思ったんです。死ぬことは分かっているのだから、尚更それだけのことをしてやってくれたらと思いました。

いろんなことがありましたよ。それは、友達に言えば、哀しそうに聴いてはくれますが、やはり他人は他人ですから。

「死んでしまった子どもに、なんであのときこうしてくれなかったんや」と思うことはありますね。してもらったとしても助かったわけではありませんけれど。だけど、もう駄目な子だからと思って手をつけなかったというのは、私は許すことができません。

松田

治療に関して、お医者さんに何か問題があったのですか。

武澤一子

治療といっても、できませんでしたけれど。死んだときは(兵庫医大とは)違う病院だったのですが、そこでは駄目だということが分かっていましたから。眞治が兵庫医大に入院していたとき、大部屋にいる患者同士で「俺はあそこの病院に行けって言われた。あそこの病院に行ったら、もう終わりや」「今度はおれの行く番や」と言っていたらしいのです。お医者さんは分かっているのか分かっていないのか…でも、お医者さんより患者さんのほうがみんなで話をする分、よく分かっているのではないでしょうか。そして、それをあの子は私に言って、はっきりと病院にこだわっていました。

(兵庫医大に通院しているときに)眞治が死んだ病院の婦長さんから「今すぐ迎えに行きます。兵庫医大から連絡がありましたから」と私に連絡がありました。けれど、「ちょっと待ってください。もう、目を開けることもできない、受話器を持つこともできない子やから、携帯電話を(眞治さんの)枕元に置いていますから、そこに掛けてくれませんか。そして、本人に訊いてみてください」と。そうしたら、(看護師長から眞治さんに電話が)掛かってきたらしいですが、苦しいので少しだけ話して「もう入院はせえへん」と言ったそうです。

(眞治さんが亡くなられた病院に行く前に入院していた)兵庫医大には労災で二ヶ月と少しだけ入院させてもらえることになりました。眞治は一人暮らしでしたが、入院から二ヶ月ちょっとして労災から「お母さん、もう手遅れで駄目ですよ。帰ってもらいますからね」と言われました。ですから「あんな子を帰してどうするんですか」と言ったのですが、「今はもう、部屋も無いし、ベッドが空くのを待っている人がいるんやから」と。

痛み止めか何かをもらうために通院しなければならなかったのですが、二、三回通院して駐車場で倒れたり診察室まで行くのに倒れたりしたのを私は実際に見ていました。そして、病院に着いたらすぐに待合室のベッドに横になるんです。人の前でそんなことをしたことのない子が、です。ですから、あの子は二回か三回行って「母ちゃん、兵庫医大行くのやめるわ。怖いから行かれへん」と言いました。

私は二回ほど一緒に付き添って行きましたが、自動車に乗るときは「もうこれが最後や」と思って死ぬ覚悟で乗っていました。あの子はどうしようもない体なのに、兵庫医大に行かなければならないから、自動車を自分が運転していたんです。私は自動車なんて全然知りませんから、横に乗っていました。うちの子は痛みで意識が遠くなることもありましたから、どこか土手へ落ちるか、どこかにぶつかるかするのではないかと思いました。だから、私はあの子と車に乗るときは死ぬ覚悟で乗っていましたね。

松田

そんな状態でも、自分で運転して行かれたのですか。

武澤一子

「母ちゃん、俺ちょっと休むわ」と、通りの横のほうで邪魔にならないように休みながら運転していましたね。三回目の通院のとき、お医者さんが「もう入院させますわ」と言うものですから、私は兵庫医大に入院させてくれるのかと思ったんです。本人が「兵庫医大に行きたい」と言っていましたから、「あの子の望むところで亡くなるんだったらしょうがないわ」と思ったのですが、(医師が)「僕のところと違いますよ。違う病院ですよ」と言うんです。「兵庫医大はもう駄目です。違う病院に行ってもらいます。そこへ電話しておきましたから」と。

それで、そこの病院の婦長さんが「今、兵庫医大から連絡がありましたらから、すぐ迎えに行きます」と電話を掛けてきて、それから先ほど言ったとおりのことになったんです。(眞治さんが)婦長さんに「いや、僕は行きません」と言って。もう自分が駄目だということが分かっていたのでしょうね。

「あんたお母さんが看てやっからな。頑張ろうな。病気に負けたらあかんねんで。弱気出したらあかんで」と、駄目だと分かっていても私は口では嘘を吐いていました。その前に、一言「母ちゃん俺、自殺しようか」と言ったことがあったんです。後から聞いたのですが、アスベストの被害者は自殺しようかと言う人が多いのだそうですね。うちの子もそうでした。確かに一回だけ言っていました。だから私は「何言ってんの、あんたは。病気に負けたらあかんねんで。頑張んねんで」と言って怒ったこともありました。

それでも、(退院後マンションで看病していたときに)私は隣の部屋に寝ていたのですが、(ベランダから飛び降りるのではないかと思って)眞治が寝ている部屋を毎晩そっと見に行っていました。十一階建てですので飛び降りたら終いですからね。そうしたら、今度は私が昼も夜も寝られないようになってしまったんです。あと何日かしたら、私のほうが先に死んだか分からないぐらいやつれてしまいました。

夜中に眞治が枕を抱えて部屋をうろうろと歩き回っているんです。「どないしたん。痛いんか」と訊くと、枕を抱えて立ったまま寝ないで「痛い。痛いねん」と。「どこが痛いんや。母ちゃんだって肺病抱えとって、肺のことよく分かってるから、横になろう」と言ったら、「母ちゃんになんか言うたかて、俺の痛みは分からへんねん。普通の結核とは違うねん。これはアスベストの人にしか分かれへん。肺に針が刺さるような痛さなんや。だから母ちゃん、悪いけど何も言わんといてくれ」と言っていました。私が何か言うと、それに応えるために話さなくてはなりませんから、それで呼吸が苦しくなるのです。ただ黙って、枕を抱えて苦しんでいる姿を私は見ているだけでした。

そんな状態が続き、私は眞治が寝ている部屋の入り口に布団を敷いて寝るようになりました。その姿を見ていたのでしょうね。一週間ほど経って「母ちゃん俺、入院するわ。病院に電話して」と言ってきたのです。「母ちゃんを家に帰さな、母ちゃんが死んでしまうわ」と思ったのでしょう。

電話をした翌日には病院から迎えのハイヤーが来ました。入院する部屋を見せてもらったら、改装したての特別にきれいな部屋でした。婦長さんに頭を下げてから、「婦長さん、この子は便所に行くのにも倒れるんです」と言うと、「お母さん、そんなこと心配せんでも、そのために便所に近いところをとったし、私が車椅子に乗せて連れて行ってあげますよ。そんなこと心配する必要ありませんよ」と言われたんです。それで、私は「そうですか、ありがとうございます。お願いしますね」と言って、病院に泊まることはできませんから、そのまま帰ったのです。

でも翌朝、(眞治さんのことを頼んでいた)知り合いの奥さんから「お母さん、昨日きれいな部屋に入ってた言うてたけど、今日は下の汚い部屋に入ってるよ」と電話で知らせがあったのです。なぜ一晩できれいな部屋から汚い部屋に移したのか、理由を訊くと、どうやら同じ部屋に入院している人が部屋の中で排泄してしまうため、「武澤君はまだ若いから、気の毒やから下に降ろした」ということらしいんです。

そのうちに、トイレに行くのにも一度も車椅子に乗せてもらっていないということも分かりました。ですから、結局はトイレに行く度に倒れていたのです。頭が腫れて、水枕をしていましたが、看護婦さんたちはそれに関しては何も言ってくれませんでした。そして、今度はお岩さんのように目が紫色に腫れているのです。眞治に訊くと「便所に行くときに倒れた」と言うのです。「痛くないのか」と訊くと、「痛くない」と。痛み止めが効いているため、倒れてばかりいるようになり、さらに頭を打っても目が腫れても、痛みを感じないのです。

昨日は頭が腫れている、今日は目が腫れている、そうなれば事務所に怒鳴り込んで行ってやろうかと思いました。でも、そんなことをすればあの子にみんなが冷たくなるだろうと思って、我慢をしていました。・・・本当にいろいろありましたね。

松田

長時間お話しいただきありがとうございました。

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