中国西南部(雲南省)における「地方的世界」を考える際の重要な観点のひとつは、その地理・風土である。本年度は、雲南省特有の地理的条件に影響された民族間交流と、伝統的な輸送手段であった馬幇による族際交易によって構築される「地方的世界」に注目して現地調査・資料収集を実施した。
雲南省の地理および風土について概要を記すと、東西864.9キロメートル、南北990キロメートルで、面積は39.4万平方キロメートル(日本37.7万平方キロメートル)で、山地が全省の約84パーセント、高原が約10パーセントを占める。特徴的なのは、農耕に適した「?子(はし)」と呼ばれる山間盆地と河谷盆地はわずか約6パーセントという点である。
地形は北高南低で、西北から東南に向けて傾斜しており、高度差をみると大きく三つの段階に分けられる。第一は省西北の徳欽・中甸地域で、省内最高の梅里雪山(6740メートル)があり、また中甸とその周辺はおおよそ3500メートルの高度がある。第二は大理から省都昆明、そして曲靖あたりまで比較的平坦な準平原であり、海抜は平均2000メートル前後。そして第三は西南部と南部であり、最低点はベトナム国境にある河口県で、海抜67メートルまで下がる。
雲南省には大小あわせて600あまりの河川がある。大河に限定しても、西からイラワジ川、怒江(サルウィン川)、メコン川、金沙江、紅河、南盤江というように六大河川が流れる。また上述のとおり高低差が大きいため、急流河川が多いことも特徴である。
雲南省の土地は、高い山々のひろがりのなかに無数の?子が点在する山?構造となっている。人びとの多くは一つの?子を中心にして生活をなしているが、?子から他の?子に行くには、多くの高山や急流河川をこえて行かねばならないため、人の移動・物資の輸送には大きな困難がともなう。そうしたことから、一つの?子とその周辺山区は相対的に独立した、自給自足の小型地域会を構成していると言われている。各地域社会では、漢族および諸少数民族がともに生活しており、民族間の交流・互助がつよくはたらくとともに、各民族文化が保持されやすいとも言われる。
こうした地理・風土の雲南省における伝統的な輸送手段は、荷馬を利用したキャラバン「馬幇」、そして人が荷かつぐ「背夫」であった。中継市場のいちばんの中心は省都昆明であったが、西部の中継点として発達していたのが大理、そして保山などである。
馬幇に携わる主要な民族は、漢族、イ族、白族、ムスリム(回教)、チベット族、ナシ族、プミ族などである。漢族は昆明―大理という主要路線で大きな組織を構成していた。西部で活躍していたのが大理の白族、麗江のナシ族などである。白族は大理ジ海を中心にして周囲の集落に馬幇組織をつくっていた。ムスリムは雲南省内のひろいエリアにひろがって生活していたが、それでも街道沿いに集住する傾向があった。ムスリムは、ミャンマー、ベトナム、タイ、ラオス、インドといった諸国との交易において重要な役割を果たしていた。
馬幇稼業は大きな危険がともなうものであった。数多くの関所・検問で税金を徴収されるため、たくさんの商品を長距離運んだとしても、対処を誤れば負債を抱えることさえあった。また匪賊からの被害を避けるために、武装私兵を雇用しなければならないこともある。こうしたことからも有力な馬幇主を頂点とした馬幇組織が構成され、また組織どうしがネットワークを形成する。キャラバンを泊める宿の「馬店」は、こうした異文化間ネットワークの結び目として位置づけられる。
抗日戦争時期には公路や鉄道が敷設され、交通網は整備されたが、それでも自動車やガソリンの不足から陸上輸送の中心は馬と人力によるものであり続けた。ただおなじ時期、中国西南部の雲南省は抗戦拠点であり、それにより近代化・工業化が大きく進展したのは事実であり、このときの変化が雲南の一元的支配の強化・同質化、少数民族の漢化をともなったという点も指摘されなければならない。
雲南省における地方的世界を考察する場合に、その風土・伝統のなかで醸成され、他の地域とは相対的に独立した小型地域社会、そして馬幇による民族間接触という側面は大きな手がかりとなる。ただし戦中・戦後の政治的・経済的中心とつよい結びつきを見せる歴史的変化にも十分に目を向けなければならない。
参考文献 石島紀之、2004、『雲南と近代中国――“周辺”の視点から』青木書店。

写真)大理市古城。奥に見えるのがジ海である。
田村 周一(神戸大学 学術研究員)
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