アスベスト被害聞き取り調査—平田忠男氏 [2007-05-09]
松田
(角田寮には)何世帯ぐらい住まれていましたか?
平田
26世帯ですね。これも世帯の構成の情報が、片岡さんの方からね。私の字で書いてるのですけれど。こういう感じでした。こっちがクボタでね。こっちが正門があって、私らもここでした、一番南側で、北島さんは定年で出た人の後に私の隣にかわってきたんです。それで北島さんとふたりで、そうこうしているうちに私と同じ学年の方が兵庫医大に入院されていてその部屋の人から古川さんに電話があったみたいで、この人も郵政寮に住んでらっしゃったみたいだから知らないかということで。それで私が確認したんですよ。そしたらやっぱり寮に住んでいたということが分かって。それですぐ電話して奥さんと連絡して、そしたら奥さんも安全センターに資料を持って行きますということで。だから三人が安全センターに資料を持って行ったわけですよ。
松田
お話では弟さんが亡くなられた時は肺ガンと言われ、その後、中皮腫が分かったとお聞しました。いつの時点で中皮腫と診断が変わったのでしょう?
平田
中皮腫は珍しいので私らも肺ガンと言われてそうかなあと。それでクボタのがあってから、肺ガンと言っていたけれど中皮腫ではないかということで資料や入院中のカルテを片岡さんがとってくださいということで、これは車谷先生にも見てもらいながら。もう外来の写真とか残っていませんよ、だいたいもうみんな5年で処分するんで。たまたま残っていたものです。病理所見、細胞検査結果はないわけなんです。だからクボタは認めなかった。主治医は一年で変わったんです。片岡さんから最初の主治医に連絡してもらって。それで主治医に意見書を書いてもらって。
松田
すごい偶然ですね。
平田
病院に資料を請求したんですが、これだけしか残っていないんです。これだけ見たら、中皮腫とは断言しにくいんでしょうね。
松田
では主治医の意見書の力はやっぱり大きかったと。意見書を拝見してよろしいですか。
平田
こんなに書いてくださいました。今は白浜にいらっしゃる方なんです。その次の担当の先生と亡くなった時の先生には連絡がうまくつかなかったんですがね。
松田
偶然性というのは大きいですね。
平田
本当に偶然証明されたということです。他の二人は最初から中皮腫と診断されたんですが。
松田
平成9年に亡くなられた方は最初から中皮腫ということだったのでしょうか?
平田
ええ、その人は京大で手術されました。手術してから4年後に亡くなりました。
松田
弟さんのご病気についてお伺いしてもよろしいですか?41才とはずいぶんお若い。武澤さんの場合も、突然症状が出たとお聞きしました。
平田
若い人は早いですね。早い人は2年ぐらいで。
松田
昭和22年生まれで昭和25年に尼崎の寮に入られ、7、8才の時から曝露され、30年ちょっとで発症ですか。煙草は吸われていたのですか?
平田
いえ、吸っていません。
松田
どういう感じで発症されたのですか?
平田
急に微熱が続いたりしました。私も高校の時に胸膜炎を発症しまして。私が17才の時です。アスベストが影響していてもおかしくはないと思います。それから慢性膿胸になりまして、今年の4月に手術しました。
松田
慢性膿胸とはどういう病気ですか?
平田
胸膜に水が溜まって、そこに細菌が入って、炎症をおこして膿が溜まります。それが肺から広がってきて呼吸が苦しくなります。胸膜が破れて血管や気管にいって肺炎になったりもします。
松田
胸膜プラークとはまた別の病気ですか?
平田
ええ。
松田
健康診断は毎年受けていらっしゃったのですか?
平田
ええ。
松田
騒がれる前から?
平田
そうです。肋膜の後遺症かなと思っていました。
松田
26世帯あったということですが、建物の配置から見ると、クボタの工場からの距離というのは病気の発症にあまり関係がないようですね。
平田
そうですね。寮には常時120人以上はいましたね。私の知る範囲では、親御さんの世代はうちの母ともう一人か二人の方が存命しているだけで後は子どもの世代だけです。私らがいなくなったら寮について知る人はいなくなります。
松田
寮の入れ替わりに関して、最初からずっと20年間おられた方もいるのですか?
平田
そういう人の方が多いですよ。だからよく覚えているのです。子供は一世帯平均3〜4人ぐらいはいましたね。
松田
寮に住まれていた方の追跡調査はされたのですか?
平田
向こうから電話してきた人もいましたが、残りの人は分かりませんね。郵政省(現総務省)に行ったのですが資料は残っていなかったですね。みんな忙しくて手が回らないのでしょうね。これが当時の写真です。これが寮の南側、これが私、これが弟です。これが亡くなられた方です。この同級生の女の子も中皮腫で闘病中です。この寮だけで4人の石綿被害者ですよ。ほぼ35人に一人の発症率です。
松田
残りの方とは連絡をとっているのですか?
平田
この人とは月一回連絡を取っています。これが寮の庭でね、広かったですよ。これが門の前ですね。これが私で、これが北島さん、これが弟ですね。これは弟が中学校へ入ったときの写真。35年頃ですね。たまたまこれだけ写真が残っていました、あとは引っ越しやらなんやらでなくなりましたが。
松田
昭和36年の話に戻るのですが、お母様がクボタに苦情を言いに行った時のことをもう少し詳しくお願いします。どんなふうに言われたのですか?
平田
洗濯物に綿埃のようなものがつくので何とかならないかと。
松田
向こうはどのような感じだったのですか?
平田
上の者に伝えておきます、と。そんなに真剣には取り扱ってくれなかった。尼崎は当時そういう町でしたから。
松田
クボタから白いものが飛んでくるとはどういう感じだったのですか?
平田
目に見えるわけではないのですが、気がついたら積もっているという具合でしね。光に当たると反射してキラキラ光っていたらしいですね。
松田
それはご自身でも気が付かれましたか?
平田
あまり記憶には残っていませんが、そういうキラキラしたものを見たという人は多くいましたね。そういうこともあったのかなと思います。それから白い綿埃、石鹸の泡みたいなものが工場の排水溝から出ていて、周りの草が白くなっていました。
松田
それが下流に流れ、乾燥し綿埃になって、それでアスベストを吸ったという人がいることは考えられますか?
平田
十分考えられますね。ここにも川があったんですよ。ここにもドブ川があったんですよ、今は道になってしまいましたが。昭和25年ぐらいかな、ジェーン台風でここら辺が水浸しになったこともありましたね。怖かったですね。私の経験上最大の台風でしたね。
松田
クボタとの交渉にも直接参加にされたのですか?
平田
いやいや、資料を古川さんと飯田さんに渡しただけで、直接クボタと交渉したことはないです。
松田
お任せしているという感じですか?
平田
ええ。
松田
弟さんの件に関してはお話としてはもう完了しているということですか?
平田
ええ、クボタは認定しましたしね。国の方も認定してくれました。
松田
それは法律でいえばどういった方が適用されたのでしょうか?
平田
弔慰金ですね。環境再生保全機構から。
松田
それは新法の適用ということですか?
平田
そうです、弔慰金という形で。本人が亡くなっている場合はね。
松田
平田さんと弟さんの場合は完全に環境曝露ですね?
平田
ええ、そうですね。私はまだ中皮腫までではないですが。中皮腫にならない方がそりゃいいね。
松田
非常に重い病気です。法律に関しては石綿新法は範囲が限られていますが、そのあたりについてはいかがお考えですか?
平田
クボタの近くにいた人については石綿手帳というか、そういうのを発行してもらって、国の責任で定期的にレントゲンやCTを撮ったりなど検査をして欲しいですね。今は自己負担なんでね。
松田
尼崎市に住んでいる場合は市が負担しますが、離れると対象にはならないのですね?
平田
ええ。わざわざ尼崎市にまで行くのもね。
松田
武澤さんがNHKに出られ、家族の会のことを話されていましたが、参加されているのですか?
平田
はい、全部は出席できていないのですが。調子がいいときには出席します。
松田
どれくらいの頻度で開かれるのですか?
平田
決まってはいないですね。
松田
武澤さんはセンターないし事務所を作るとおっしゃっていましたね?
平田
ええ、JR尼崎駅の南側にね。
松田
そろそろ時間です。今日は貴重な話を聞かせて頂き、ありがとうございました。
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