第94回 地理思想研究部会 2008年9月20日(土)於 キャンパスプラザ京都
(共催:「グローバル化時代における公共空間と場所アイデンティティの再編成に関する研究」科研グループ)
■日本の人文地理学における『文化地理学の系譜』の位置付けと次世代への遺言
野間晴雄(関西大)
久武哲也氏(1947〜2007)は熊本県菊池郡鹿本町に生まれ,京都大学文学研究科博士課程を満期退学の後,京都大学助手,甲南大学文学部講師(1977〜80)・助教授(1980〜90)を経て,教授(1990〜2007)職のまま胃癌のため逝去された。本報告の目的は氏の主著『文化地理学の系譜』(2000)を生涯の全著作の文脈のなかで位置づけ,そこに流れる一貫した思想を考察して,やり残したことを次世代へのメッセージとして伝えることである。
氏の業績は生涯,著書7,論文94,その他81,書評・文献解題71,発表67の多きを数える。しかも論文1編が膨大な注と文献を付した長大なものが多い。報告では,書評・文献解題を除いた業績を次の7分野にわけて年表形式で示した。@アメリカ文化地理学史(16/10),Aアメリカ先住民・海外地図研究(31/17),B日本の古地図研究(11/7),C地誌・地域研究(12/20),D日本の歴史地理(13/6),E日本の地理思想(9/3),F森林資源論(9/4)。なお,以上の( )の左数字は著書・論文,右数字は学会発表を示す。
氏の主著『文化地理学の系譜』(2000)は,上の@とEの一部をとりまとめた学位論文をもとにしている。アメリカ文化地理学の華を,カリフォリニアの地で,ゲーテの形態学や博物学(自然誌)の伝統に文化を接ぎ木してバークレー学派を牽引してきた,ドイツ移民二世のサウアーに据える。その前史ではカップの文化地理学を重視し,のちの展開では景観の解釈学の系譜に注目する。後半は日本の文化地理学の系譜を戦前から1980年代まで膨大な原著論文の読み込みから,バランスよく論評する。600頁を超える大冊のため,出版に際して人名・事項索引を準備しながら断念したことが後書きに記されている。その人名索引の原稿がご家族のご尽力で自宅から発見された。
そこにあがった591人のリストではC. O.
Sauerが最も多いのは当然として,6回以上出現したのは,外国人(五十音順)では,C. Wissler,C. J. Glacken,E. Kapp,A. L. Kroeber,G. Klemm,J. W. Goethe,F. J. Simoons,W. W. Speth,J. E. Spencer,O. Schluter,W. D. Jones,O. Schmieder,J. H. Steward,J. S. Duncan,R. D. Salisbury,A. Durer,F. B. Kniffen,G. Pfeifer,E. Hahn,H. H. Barrows,F. Boas,R. C. Bowman,S. Passarge,J. J. Parsons,R. Hartshorne,P. V. de la Blache,G. Brawn,A. von Humboldt,L. Frobenius,A. Hettner,J. G. Herder,J. O. M. Broek,H. Berghaus,D. S. Whittlesey,W. M. Mikesell,G. P. Marsh,F. Ratzel,J. B. Leighly,E. Rostlund,C. Ritter,P.L.Wagner,日本人では,小川徹,小川琢治,小田内通敏,小寺廉吉,佐々木高明,佐々木彦一郎,千葉徳爾,辻村太郎,新渡戸稲造,牧口常三郎,山口貞夫,柳田国男となる。この人選からみえてくるのは,環境・人間関係,民俗学,民族学,文化人類学,ドイツ景観学との親和性と,地理学の本流ではない異端・周辺の学者が多いことである。
氏の真骨頂は,その膨大かつ広範な読書の蓄積と律儀なノートをもとにした的確な論点の把握,系譜・背景へのこだわりである。主著は,制度,教科書,学位論文の検索,書誌学の手法,家族関係,出生地などおよそオーソドックスな学史研究のあらゆる方法を駆使した,日本語で書かれた最大の近代地理学史となっている。その誠実さは,時として大幅な紙数超過となる。寛容な『甲南大學紀要』に一貫して書き継がれた味わいの深い一連の論攷は,いずれも徹底したアナログ思考の産物である。
氏は郷土肥後の綿密な歴史地理から出発し(上述のDの業績),アメリカ先住民の歴史地理研究の途次に,サウアーを介してアメリカ文化地理学史(@)の系譜論と表象としての地図(A)という2つのテーマに出会い,生涯二兎を追われた。しかも氏の関心はそこにとどまらず,環境史の系譜論へ向かっていった。岡山の埋もれた林学者で水源枯渇論を主張した山本徳三郎に関わる一連の共著論文は,特定の人物に的を絞った系譜論(F)である。戦間期の地政学や近代地図のポリティックス(B・E)とともに,氏の徹底した実証的な学史系譜論の特論にあたる。偉ぶらず謙虚な姿勢で,ほとばしる該博な知識を,出身や分野を問わず若き研究者へ発信しつづけた氏の人柄は,サウアーの磁場と饗応する。
コメント:野間報告に関して
神田孝治(和歌山大)
久武氏の研究は,サウアーの文化地理学を中心に,文化地理学史をコンテクストとの関係に注目しながら丁寧に検討したものであった。この業績は,他の文化地理学者が自身の研究を位置づける際の重要な道標になるものであり,その意義は文化地理学における研究の進展に伴いますます大きくなると考えられる。また,彼の丁寧な研究スタイルや,新しい研究に対する寛容な姿勢,そして周縁的な立場の人々への配慮といったものは,若手研究者の手本となり励みとなるものであった。こうした久武氏の研究成果や研究者としての態度に学びながら,より文化地理学の研究・教育を推進していくことが,後に続く我々の責務であると言える。
■古地図研究と久武先生―葛川絵図研究会の活動を通して―
岩鼻通明(山形大)
本報告では,1981〜1993年にかけて,古地図研究の新しい方向性を模索した葛川絵図研究会の活動を回顧しながら,その中で久武哲也先生の果たした役割を検討することから,古地図研究における久武先生の業績を展望することを試みた。
さて,葛川絵図研究会の活動経過を整理すると,久武先生は1984年度に下坂守氏,松尾容孝氏とともに世話役に就かれた。この年は,月刊誌『地理』(古今書院)に「絵図を読む」を6回にわたり連載したり,日本中世史の研究者と共同で科研費総合(A)「荘園絵図の史料学および解読に関する総合的研究」を遂行し,葛川絵図に関する調査研究を世に問い,次の次元に歩み始めた時期であった。
次いで,上原秀明,吉田敏弘,小野寺淳,松尾容孝,五十嵐勉の各氏とともに,1990年度の世話役に就かれ,「国絵図」を活動方針とされた。この際の活動が,その後に国絵図研究会に継承され,『国絵図の世界』の出版へと結実した。
一方,末期を除いては,ほぼ毎月のように開かれた例会の場で,何度も久武先生は次のような報告を行われた。1982年7月例会「報告タイトル不明」,1985年4月「聖なる絵巻物―オジブワ族の絵図とコスモロジー」,1986年10月「スクールクラフト収集の北米原住民の絵地図」,1988年5月「地図学史とプリミティブな地図の位置」,1990年3月「他者のイメージ―新大陸図におけるインディアン像」,1990年8月「他者のイメージ―新大陸におけるインディアン像(再考)」,1990年11月「近世における測絵図の系譜と官撰国絵図」,1991年12月「国絵図研究の成果のとりまとめ」。
以上のような葛川絵図研究会の活動経過から,久武先生の研究歴を抽出すると,当初の未開民族の絵図研究から出発して,大陸発見時代における欧米人と未開民族の接触を通した視点が加わり,さらに新大陸図に描かれたインディアン像の変化の考察から,測量図の有する意味へと関心が拡がり,その関心は日本国内における測量図および国絵図の調査へと向けられたとみることができよう。
また,研究会の中での役割としては,海外研究から日本の絵図研究を相対化する視点や,とりわけ『絵図のコスモロジー』の編集に際して,理論化の面での貢献をあげることができる。研究会活動の初期の部分を十分に明らかにできなかったので,今後の課題としたい。
コメント:岩鼻報告に関して
三好唯義(神戸市立博物館)
久武先生の地図に関する主要な研究テーマが,アメリカ先住民の絵地図研究であることに異論はないだろう。さらには,『絵図のコスモロジー(上)』(1988年)で「絵図研究の視点と方法」を共同執筆しているように,わが国の古地図研究の上で大きなインパクトを与えた葛川絵図研究会の主要メンバーでもあった。
今回の報告は,葛川絵図研究会の発足時(1981年)からの経緯や例会における発表や見学記をたどりつつ,その中での久武先生の関わりを抽出し,例会などではアメリカ先住民の絵図に関する発表が多かったが,徐々に測量図や官撰国絵図などの研究に関わってきたことを説明された。後に外邦図や伊能図,自治体史の絵図類編さんなど,古地図の研究領域を広げてゆくが,その前提が葛川絵図研究会における活動の中にあったことが考えられる。
1970年代から80年代は,現存する古地図資料の確認に加え,日本史学など他分野からのアプローチ,人文主義地理学を受けた研究方法の議論が起こるなど,古地図研究においては画期となった時期である。それは久武先生自身が古地図研究に取り組み始めた時期でもあり,葛川絵図研究会の中で具体的にどのような役割を果たしてきたのか,そのことは研究史において重要な意味を持つ問題ではなかろうか。
■地理学史・地理思想史研究における久武さんの貢献
山野正彦(大阪市立大)
久武哲也さんの学問を把握する上でのキーワードは,@カール・サウアーの歴史・文化地理学,A北米先住民の砂絵・岩絵などに表されたコスモロジー,そして,B対象とする主題についての執拗な(注釈の多い)「深く没頭している記述deep description」の3つであるだろう。主著『文化地理学の系譜』を通覧すれば,このことは容易に見てとれる。ここでは,主に彼の大学院生時代から甲南大学助教授昇任ごろまでの若手研究者時代の研究志向について,若干の事実を記すことにしたい。
現在の地理思想研究部会の前身である,地理学史部会の開催時の報告者・報告主題および参会者名を記した「地理学史部会記録簿」というノートがある。このノートは1971年7月3日開催の第9回例会から第34回終了時までの記録であるが,その第9回例会「飯塚浩二と人文地理学」(報告者は水津一朗・松田信,於:京都大学人文科学研究所)の参会者38名の中に,久武さんの名前が見える。この年,彼は京都大学大学院修士課程に入学したばかりであった。ちなみに筆者が初めて久武さんに出会ったのはこの会のときであった。まもなく久武さんは1976年9月25日開催の同部会の第19回例会で,報告者として登場した。テーマは「C. O. サウアーとBerkeley School―景観論をめぐって」,参会者は22名であった。
これより前の1973年12月1日,彼はすでに人文地理学会歴史地理部会において,「Barrio,PuebloとPresidio?とくにアメリカ南西部地域について」という最初の学会報告を試みている。1980年6月28日開催の第28回地理学史部会でも「造形としての地図」というタイトルで報告者となっている。また1981〜82年度から同部会世話人は世代交代して,千田稔・山野正彦・久武哲也となり,新たな企画案に従ってこの3名が皮切りの報告者を務め,1982年5月8日に第31回例会「テキストとしての景観」というテーマで,景観論の新しい方向を探ろうとする試みを行った。このような機運が生じた背景として,次に述べるIGU東京大会のプレ会議として開催された地理思想史京都Commissionの刺激があった。
この1980年夏のIGUプレ会議の準備を兼ねて結成された,1978〜79年度文部省科学研究費総合(A)「地理学的ランガージュ(表現とその手段)の思想史―その東西比較」(研究代表者・水津一朗)の研究グループは,文字通りその研究集会のタイトルを研究課題としたものであり,地理学史・地図学史を専攻する20名の関東・関西の研究者から組織された。この地理思想史科研はその後も代表者やメンバーの形を変えつつ,現在に至るまで継続されているが,久武さんはこの科研グループに最初から加わり,研究集会で何度もdeepな報告を行った。
たとえば,1980年10月9日八王子セミナーハウスで開かれた研究集会では,「文化景観のランガージュ―バークレー学派の場合」というタイトルで,景観論の意味論・語義論とイデオロギーを的確に整理した。また1983年9月25日の八王子集会では,「砂絵図再考―モジュール思考」と題して,北米原住民の空間構造と砂絵地図との関係を詳細に論じた。いずれの報告時も多くの参考文献リストと独自に工夫されたチャートのような図が掲載されたレジュメが配布され,長時間にわたる熱のこもった語りが展開された。科研研究会の名物は深夜にわたる討議・懇談・情報交換であったが,久武さんの知識と説得力には多士済々のメンバーも感嘆することが多かった。彼のような,その言葉の本来の意味でのオーセンティックな研究者に出会うことは稀なことであると思う。
コメント:兵庫地理学協会と久武哲也先生(山野報告に関して)
大城直樹(神戸大)
コメントというよりは,学会への貢献という点での補足として,地方学会の一つである兵庫地理学協会での久武先生の活動について若干の報告を行った。兵庫地理学協会は1947年に設立され,機関紙『兵庫地理』は53号を数える。先生は,その8代目の会長であった。関西圏にも教育学部系も含めていくつか地方学会はあるが,それぞれの活動についてはそれほど知られているわけではない。兵庫地理学協会は戦後間もなく神戸大経済学部の田中薫教授を中心に,アカデミアの内にも外にも開いた学会として結成された。久武先生はそのなかにあって,まさになくてはならない存在であった。
『兵庫地理』に掲載された先生に関する記事を挙げていくと,まず第23号(1978年)で,「協会通信 会員消息」の項に「甲南大学地理学研究室へ久武哲也(京大助手)氏が昭和52年10月1日付着任」とある。これがデビューである。彙報に掲載された先生の学会での役職を記すと以下のようになる。評議員(1982〜87年),集会・庶務委員(1988〜89年),集会委員(1990〜92年),評議員(1993〜96年),副会長(1999年),協議委員(2000〜02年),会長(2003〜06年)。着任早々の時期と在外研究でハワイにおられた時期前後を除いて,ほぼすべて何らかの役職を担当されていたわけである。
発表・コメント等をみると,1977年12月(第203回例会)に「インディアンの石臼」,1982年12月(第254回例会)に「アメリカインディアンの絵図―オジブワ族の場合」,さらに1998年8月(夏季研究大会)には「ハワイにおけるさとうきびプランテーションとエスニック構造―マウイ島を事例に」と題する発表を行われた。この大会後,「甲南大学周辺の震災復興状況」を視察するミニ巡検が行われた。案内者は久武先生である。巡検後の懇親会では,阪神間の大学院生や若手研究者を相手に大いに気炎を吐かれ,叱咤激励された。これは幾度となく繰り返されたが,昼の部でも夜の部でも,先生はまさに重要(要注意?)人物であったのである。2003年5月には「文化地理学の発展とその課題」(第49号に要旨掲載)なる発表をされたが,これは,この報告後の総会で会長に就任されたため,実質的には会長就任講演のようなものであった。バークレー学派のみならず,英語圏の文化地理学の最新の潮流まで読みこなされていた先生の学への執念には,本当に敬服せざるを得ない。
会長になって熱心に取り組まれたのが,地域連携事業であった。2004年10月には協会の「溜池研究グループ」による巡検(明石市村崎疎水〜江井ヶ島)の案内を田中眞吾元会長・南埜会員・森下会員とともにされた。協会では2003年から「いなみ野ため池ミュージアム創設プロジェクト」を推進している。『兵庫地理』第51号は「兵庫のため池」特集となっている。2006年11月の特別例会は,シンポジウム「ため池の維持・保存に地理学はいかなる役割を果たせるか」であり,岸本一幸会員の報告「稲美町におけるため池群の保全に向けての問題点」へのコメンテーターとして,先生は近世絵図を示しながら熱く語っておられたが,これが協会では最後の発表(報告)となってしまった。なお第53号には長谷川孝治現会長による紙碑「久武哲也 前会長の逝去を悼む」が掲載されている。こちらも参照されたい。
■旧久武研究室架蔵図書の整理状況について
鳴海邦匡(甲南大)
2007年7月27日,久武哲也先生が他界された。多くの研究が途上のまま残されてしまったように,旧久武研究室(甲南大学10号館5階501号)には,書籍を中心とした数多くの資料が残された。研究室に置かれた15本の書架には手前から三重に書籍が収められ,また,床にも書籍や資料が高く積まれる状態であった。校費で購入された書籍以外にも,私費で購入された書籍を数多く含んでいた。文学部歴史文化学科では,まず,校費購入分の書籍の図書館への還流作業から着手し,図書館の請求記号ラベルの付された書籍を抜き出して目録の作成を行った。この作業は,同学科で東洋史を担当する堀直教授(当時,2008年度末退職)を中心に,学科事務員や学生が2007年度中に実施し,約1千冊が同学科の共同図書室などに移管された。
私費で購入された残る資料群については,ご遺族の信子夫人は研究資料として活用されることを望まれた。その意志をうけて同学科では,私費購入分の書籍の整理に2008年度から着手した。新書・文庫・雑誌類を除いた書籍の目録を作成しながら,残る全資料の整理をすすめた。この作業は報告者を中心として学生らが担当した。作業は2008年8月末に終わり,約7千冊にのぼる書籍の目録が作成された。これにより,先の還流本のリストとあわせて旧久武研究室に架蔵されていた図書のリストが一応の完成をみることとなった。これらの書籍については,現在,別館の書庫室の書架に配置され,学科と図書館との間で寄贈に向けた協議をすすめているところである。
■所見
発表者3名・コメンテーター4名のミニシンポジウム形式で行われ,質疑応答では,葛川絵図研究会の時代背景と当時の人文主義地理学へのスタンス,文化地理学の国ごとの多元性あるいは普遍性に対する久武氏の貢献の如何,マルクスやカップらの思想と久武氏の批判的・複眼的な視点とのつながり,「表象としての地図」への継続的な関心と京大の歴史地理学的視点の実質的な継承,志半ばで遺された研究構想の具体的内容,といった諸点が議論・指摘された。参加者はシニア世代から大学院生まで幅広く,哲学者も含まれるなど非常に盛況であった。
とはいえ,単なる回顧や懐旧ではなく文化地理学の将来展望へつなげるという当初の企画が,発表時間の制約もあって必ずしも十分に達せられなかったことは,やや残念であった。フロアや司会者から出された,久武氏の著書『文化地理学の系譜』には日本の文化地理学への批判がないこと,日本の文化地理学の一つの転換点は1982年であり久武氏が大きな役割を果たしたこと,などの指摘はこの点から重要であったが,久武の論点や関心を我々自身が批判的に,実のある形で体系的に再検討し継承していくことが,今後に残された課題であろう。それは,我々後進の者が久武氏の深遠な学識に,少しでも近づこうとする苦闘を意味するのであるが。
(参加者45名,司会:島津俊之・福田珠己・上杉和央・荒山正彦,記録:今里悟之)