第98回 地理思想研究部会

2009年9月26日(土)於 関西学院大学大阪梅田キャンパスKGハブスクエア大阪


フランス植民都市計画とその遺産-衛生・万博・観光-

荒又美陽(恵泉女学園大)


発表要旨

 フランスの植民地支配に関して必読書となっている『フランス植民地主義の歴史』(人文書院2002)において、著者の平野千果子はラオスの独立記念碑がフランスの凱旋門をかたどったものであることに支配・被支配の関係の根深い痕跡を見ている。私はこの記述から、植民地支配による都市計画思想の伝達過程を明らかにすることは、地理学の重要な課題であると考えてきた。逆に宗主国の都市計画においても、植民地での経験をもった建築家がその知識を持ち帰ることがある。フランス本国、またその首都であるパリの都市計画について考察する上でも、植民地支配の歴史は避けては通れない。

 フランスでは、19世紀から大きく二つの都市計画思想の流れが形成され、現在まで継続している。それらは「衛生主義」と「歴史主義」とまとめうる。前者は、18世紀後半以降における公衆衛生認識の高まりに発する考え方であり、都市の密集地を解体し、衛生設備の整った住宅と広幅員の道路を建設する流れを作り出した。オスマンの都市改造として知られる19世紀後半の事業は、その最たるものである。「歴史主義」は、フランス革命以降、王侯貴族や教会が所有していた建造物を保護するための思想が展開したものであり、「歴史的モニュメント」の名で古い建造物を保護・修復する流れを作り出した。この二つの考え方は、植民都市計画においても採用されている。

 主要都市を含むモロッコの中央部がフランスの保護領となったのは、1912年のことである。第一次大戦後の再編による委任統治領を除けば、フランスにとって最後の植民地支配が行われた地域である。フランス本国はもちろん、アルジェリアをはじめとする多くの植民都市での経験が活かされる場となり、また最新の都市計画思想が実験される場となった。

 その主要な都市計画を立てたのは、アンリ・プロストという建築家である。初代保護領総監となったユベール・リヨテの意向を受け、現地の人々が住む場所を旧市街地(メディナ)に限定し、ヨーロッパからの入植者が住む地区を最新のデザインで設計した。それは、メディナの歴史性を保護するとともに、その衛生状態がヨーロッパ人地区に影響を与えないように構想されたものであった。また、ヨーロッパ人地区においては、工業地帯と住宅地を分けるゾーニングも行った。その手法は、本国で高く評価され、彼は後にパリ最初の地方計画(1934年)を作成することになる。

 プロストが都市計画に携わっていたころのカサブランカは、港湾都市として急速に発達したことから、メディナに現地民が入りきれない状態が続いていた。彼らを収容するため、この都市には「原住民ニュータウン(Nouvelle ville indigène)」が建設されることになった。新しく作られた地区であるにもかかわらず、そこはヨーロッパ人地区とは対比的に、あくまで現地のデザインで作られた。設計を担当した建築家アルベール・ラプラドは、ラバトやサレでのスケッチをもとに、衛生設備を完備させ、モロッコの歴史性とフランスの技術を融合した町を作ろうとした。こうして完成したハッブース地区の当時の写真を見ると、モロッコのメディナのデザインのなかに下水設備なども確認できる。支配・被支配の関係を視覚的に示したこの地区には、フランス都市計画の二つの思想の流れを見ることができる。

 ラプラドは、モロッコでの経験を直接的にパリに持ち帰っている。まず、1931年に行われた植民地博覧会において、モロッコ・パヴィリオンとともにメイン会場となった植民地宮を設計した。後者は、現在も移民史博物館として使用されている。学生寮の集まった大学都市と呼ばれる地区では、モロッコ寮の設計も行った。彼がパリに残したものは、ある地域の文化的な特徴を抽出し、それをデザイン化しようとしたものに偏っている。ハッブースも含め、彼が作ってきたものは万博の時代ゆえの産物であったといえる。それらは、一貫して宗主国の側からの一方的な視線によって形成された繊細さと「粗野さ」との対比の中で実現されたものであった。

 一方、同時代のパリでは、衛生主義的な考え方に基づいた新たな都市計画事業、「不衛生区画(îlot insalubre)」事業が1921年から進行中であった。ラプラドは、同事業を批判し、パリの中心部には「土着の精髄(génie autochtone)」があるため、モロッコで行われたように保護する必要があると主張した。モロッコでの経験は、ラプラドに宗主国の都市計画を新たな視点から見ることを可能にしたのである。彼のような事業への批判は徐々に高まり、1942年に、不衛生区画のひとつである第16区画の整備方針を転換させることにつながった。それは、それまでのスクラップ・アンド・ビルド式ではなく、街区の歴史的な外観を保護したまま内部を取り壊して衛生状態を改善する「掻爬的撤去」(curetage)の手法をとるものである。

 ラプラドは、第16区画の整備方針を策定する建築家の一人に選ばれ、大々的に掻爬的撤去を行って街区の外観を維持させる都市計画に成功した。それは1947年の都市計画・住居国際博覧会でも展示されるなど高く評価された。そのためラプラドは、その後、行政が歴史的街区を第16区画の北側まで大きく広げたときにも、計画を策定する建築家に選ばれた。この広い歴史的街区は、後に「マレ地区」の名で国家による保護の対象となる区画とほぼ一致している。

 ラプラドは、マレ地区においてもモロッコの都市計画を参照した形跡がある。それはたとえば、マレ地区に多かった第二次産業をパリの外に移動させるゾーニング計画図にも表れている。「モロッコのスークのように」構想されたそれは、パリ市内を「観光、商業、ビジネス、会議、居住、文化創造」の場に限定し、さらに郊外を服飾、食品、化学工業など業種別に細かく領域設定した工業地としている。また、入り組んだ街路を維持するための整備手法である掻爬的撤去についても、それがいかに街区の衛生状態に寄与するかをモロッコでの経験から引き出していた可能性がある。

 1964年にマレ地区が国家による保護の対象となったとき、ラプラドはその方針を策定する建築家には選ばれなかったが、彼の作った方針は1970年代まではかなりの部分引き継がれていく。その意味で、保護領モロッコでの経験は、パリの歴史的街区の保護にまでつながっている。

現在、カサブランカのハッブース地区、パリのマレ地区は、ジェントリフィケーションが進み、観光客が散策しながらそれぞれの都市の文化を楽しむ地区となっている。それはラプラドが「土着の精髄」と呼んだものの強調によって引き起こされた社会的な偏りの結果であり、植民地を経由してフランス本国に環流した都市計画思想の遺産なのである。

 

質疑応答

 90分間の発表ののち休憩をはさんで、部会の終了時刻まで途切れることのない質疑応答が続けられた。質問の多くは、荒又氏が提示した事例を通して、「衛生」と「歴史」という2つのキーワードに関わる諸実践の一般性へと向けられた。それは次の2点に整理される。

 まず第1には、「掻爬的撤去」(キュルタージュ)をめぐるものである。日本語の「掻爬的撤去」は荒又氏の訳語であるが、街区と建造物の外観だけを残して(歴史主義)、内部を取り壊し衛生状態の向上を計る(衛生主義)というこの手法が、いつのどこに歴史的・空間的な起源を持ち、どのような経緯でラプラドがパリの都市計画に導入したのか、またパリ以外での事例や19世紀におけるファサード主義との関連性、そして生物学的アナロジーの可能性についてなど、植民地・宗主国関係にとどまらない「遺産」の関係性に議論は及んだ。

 そして第2に、フランスが宗主国として都市計画をすすめたと考えられる他の植民地都市(たとえば上海やビエンチャンなど)での都市計画思想との関連性が質問された。本発表で事例とされたラプラドは、モロッコでのハッブース地区の開発計画と、パリのマレ地区などの歴史街区の整備に関わっていたが、同じような都市計画家の諸実践が他の植民地都市でもみられたのであろうか。つまりは、タイトルにある「植民都市計画とその遺産」というストーリーは、いかなる一般性を保証しうるのかが疑問として提示された。

 発表者の荒又氏が、事例報告というスタイルをとらず、普遍的な発表題目を掲げたゆえに、フロアからは逆に実証的視点からの意見が重なったという印象を持った。発表者には一般論を展開する十分な準備がないことをフロアはわかりつつも、この魅力的な命題の普遍化を探ろうとする雰囲気が感じられた。もちろん、提示された資料の解釈をめぐって、あるいは用意された関連年表の事実確認などの質疑応答もなされたが、ここでは省略したい。

 発表者を囲んでの懇親会では、荒又氏のリクエストに従って「新梅田食堂街」から「お初天神通り」をはしごして、再び歴史と衛生という2つのキーワードを肴に議論が続けられた。

(参加者:15名、司会:荒山正彦、記録:今里悟之)