99回 地理思想研究部会(大会部会アワー)

2009117日(土)於 名古屋大学

日本人の観光と「縮む島」――グアムにおける日本人観光とガイドブックの変化について――

山口 誠(関西大学)

 米領グアム島(以下グアム)は,淡路島とほぼ同じ面積(約549?)を有する,マリアナ諸島の最南端の島であり,年間観光者数の約8割を日本人が占めている。観光産業は同島経済の7割ちかくを稼ぎ出し,いわば日本人相手の観光産業がグアム経済の中心的存在となっている。

 こうした経済的要素に加え,歴史的にもグアムと日本のつながりは深い。たとえば中濱万次郎(ジョン万次郎)の寄港や,慶應4年の40名あまりの労働移民など,文書で確認できる範囲だけでも江戸時代には,すでに人の往来があった。また明治期に日本から移民した数百の日系人の子孫が,現在のグアムには多数,在住している。そのなかにはグアム大学総長,グアム警察総監,グアム議会議長などをはじめ,現地社会において重要な役割を果たしてきた日系人が多く含まれている。

 こうした長い歴史と独占的な観光産業の現状があるにもかかわらず,グアムにおける日本人観光において,あるいは日本におけるグアムに関する情報において,グアムと日本の長い交流の歴史や,現地社会で活躍する日系人たちの記憶が意識される場面は極めて少ない。むしろグアムを訪れる日本人観光者の多くは,グアムに日系人家族が生活していることを知らず,また日系人コミュニティをはじめとするグアムの人々と十分に交流しないまま,「グアム抜きのグアム観光」を行なっている。

 本報告では,(1)こうした「グアム抜きのグアム観光」が成立した歴史を社会学の視座から読み解き,(2)現在の日本人のグアム観を「縮む島」として指摘し,(3)現状に対する一つの方法として観光ガイドブックが持つ可能性について報告した。

 まず日本人のグアム観光は,1960年代後半に本格化した。それまでグアムは「玉砕の島」として語られることが多かった。それは194412月の真珠湾攻撃と同日に日本軍が航空爆撃を開始し,戦闘の末に同島を占領し,「大宮島」という名称で19447月まで統治した歴史が背景にある。1944721日,「大宮島」の日本軍と同島再上陸を図った米軍は,戦闘の末に2万を超える戦死者を出し,再び米国領土となったグアムは日本本土を爆撃する前線基地となった。

 戦後にグアムを訪れる日本人の大半が慰霊団であり,それは1964年の海外旅行の自由化を受けても変わらなかった。しかし60年代の後半に日本資本がグアムを「発見」し,リゾート・ホテルと免税店を中心とする観光施設を開発するに至って,日本人のグアム観光は一変した。ちょうどそのころ,「団塊の世代」が結婚適齢期に入り,新婚旅行先としてグアムが注目されたためである。グアム新婚旅行ブームは60年代末から70年代の中ごろまで続き,多くの日本人旅行者はポケット型ガイドブックを手に,添乗員や現地ガイドに案内されて島を周遊する観光を行なった。これが日本人のグアム観光における第1期である。

 85年のプラザ合意後になると,円高の影響から若者の海外旅行ブームがはじまり,グアムにも大学生を中心とする若い日本人旅行者が訪れた。「地球の歩き方」グアム編の初版は1987年であり,同書を代表とするマニュアル型ガイドブックを手に島を歩く日本人が増え始めた。これが日本人のグアム観光における第2期とすれば,第3期は1994年に観光施設が集中するタモン湾に誕生した大型免税店「DFSギャラリア」と同店を中心に運行された「ショッピング・バス」の出現によって引き起こされた。

 HISをはじめとする日本の旅行会社が積極的に販売したスケルトン・ツアー商品と連動した第3期のグアム観光は,34日のスケルトン・ツアーで「るるぶ」や「マップル」のようなカタログ型ガイドブックを片手に,DFSギャラリアを中心に運行する周遊バスに乗って移動する,消費中心の行動文法を確立した。

 本報告では,上述のポケット型ガイドブック(70年代),マニュアル型ガイドブック(80年代),カタログ型ガイドブック(90年代)の誌面分析によって,それぞれが紹介するグアムの地理を提示し,カタログ型ガイドブックでは「タモン湾」の外側がほとんど紹介されていないデータを図示した。

 2000年代以降もそうした特徴は続き,日本人観光客でレンタカーを使用する者は2割ほどで,多くは半径1キロ程度のタモン湾でほとんどの滞在期間を過ごす傾向にある。かつての「大宮島」であり,「玉砕の島」として知られたグアムは現在,ビーチ・リゾートと免税店が立ち並ぶ「タモン湾」に集約され,日本人観光者が訪れるグアムの地理は縮小傾向にある。

 こうした「縮む島」の現状に対して,本報告では,分析対象としたガイドブックを外在的に批判し検討することに加え,あえてその内側から同島の地理と歴史を拡げる試みを紹介した。

 その一つとして,報告者は「地球の歩き方」グアム編の2010-11年度版(200911月発刊)において「ハガニア時間旅行」と題した12ページの特集を執筆し,タモン湾の外にある首都ハガニアの街をめぐる人々の記憶を記した。

 この特集記事では,ハガニアの史跡や地元食材店などを実際に歩いて見て回ることで,グアムの先住民チャモロ人や明治期に移民した日系人の記憶を知り,「縮む島」の外部にある多様なグアムの文化と歴史と出会う「時間旅行」という観光文法の提示に努めた。

 既存の観光ガイドブックに発言の場を求め,カルチュラル・スタディーズやポストコロニアル地理学などの学術成果を活用して,戦略的に記述し提示する方法について,本報告では荒山正彦氏の論文「ガイドブックの可能性」(『地理』199912月号,p.65)を援用して提示し,最後に観光ガイドブック研究の課題を示して終えた(本報告の観光ガイドブックの3類型の詳細については,山口誠『グアムと日本人』岩波新書,2007年,を参照)。

 

■質疑

Q:「ゲスト=日本人」という点から問題提起すると,日本人がグアムを選ぶ必然性は何か。それによってホスト側も何を売るか変わらざるをえないのではないか。

A:グアムのオリジナリティ,ユニークネスは,逆説的だがグアムらしさを売り出さなかったこと,つまり,「ユニークさがないユニークさ」,「プラスチッキーな土地としての消費」であった。ただし,現在,米軍再編などの状況下で,それが曲がり角にきているかもしれない。

Q:日本統治領・南洋群島の中でのグアム観光と記憶の掘り起こしについてだが,埋もれる記憶と語られる記憶があるはず。また,日本と南洋群島との関係はどのように記憶されるのか。

A:戦争ジャーナリズムが戦闘ジャーナリズムになるなかで構築されていったものが南洋群島の記憶となっている。

Q:ガイドブックの違いについて。第一段階の観光形態はいかなるものか。

A:「はとバスツアー」的なものであった。

Q:南洋の楽園とそのようなツアー(戦跡も回るような)の間に齟齬はないのか。

A:グアムの場合,ハワイと同様である。

Q:なぜ「大宮島」という名称なのか。

A:マリアンナ→マリアナを日本語表記したなど,いくつかの説がある。

Q:日本語におけるGuamのパロールとエクリチュールの変化について。かつては「ガム島」と発音し,「グァム」と表記していた。このことは認識における変化と関係しているのか?

A:アジ歴のDB(戦前)では「グアム」とある。一般的にグアムと書くのは80年代からか。

Q:日本人以外の観光客はどのようであるか。

A:日本80%,韓国および台湾810%,中国(ビザウェーバー開始),米国12%。韓国と台湾については日本人客とほぼ同様の行動をとる。特徴として,韓国人は戦跡めぐりツアーに参加することが多い。

Q:観光を通したグアムの人たちとのかかわりは。また,日本人客と他に違いはあるのか。

Asegregateされている。タモンの労働者の大半はフィリピン人。チャモロは広告塔のようにフロントなどに配置されているが数は少ない。

Q:透明でプラスチッキーな島というのは,グアムの特徴なのか,それとも,利用メディアである「るるぶ」の類の特徴なのか。

A:「るるぶ」という媒体の特徴として「お金コミュニケーション」があげられる。ただし,「るるぶ」が力をもつのは90年代のことである。西ワイキキイメージと特徴ある「るるぶ」という媒体の出会いが生みだしたものと言える。

(参加者:27名,司会:上杉和央,記録:福田珠己)