第108回地理思想研究部会

2012年5月19日 於新大阪丸ビル本館401号室

 

■技術と人間の言語的・非言語的インタフェース―ハラウェイの「サイボーグ宣言」から四半世紀を経て―

高橋さきの (翻訳家)

 本報告はダナ・ハラウェイが『サイボーグ宣言』で提起したサイボーグ状況の現状を参照しつつ、技術と人間の言語的・非言語的インタフェースという視座について、特に、《自然・環境と人間》、《マシンと人間》、《動物と人間》の3つのインタフェースをめぐって検討した。

 《自然・環境と人間》に関しては、いくつかの事例をふまえ、自然環境という場の性格について検討した。すなわち、日本では、多くの自然環境が林業技術との均衡の結果形成されたものであり、予定調和ではなく、技術と自然・環境との荒々しいせめぎあいの現場であったこと、最近の報道では、渡良瀬川遊水池が谷中村という現場を離れて報道されがちなこと、米国ノースカロライナ州William B. Ulmstead州立公園の事例では、農地から回復されCCC(民間環境保全部隊)によって造営された自然環境が、一方で都市においてウィルダネスと位置づけられつつ、他方で人種隔離の現場でもあった経緯などを検討した。

 自然環境を、自然と技術の双方のせめぎあいの場として見るのでなく、「技術の余事象としての自然」として扱う二元論的議論では、オートナー・パラダイムのように男性と女性を自然と文化に配当する議論が醸成されがちであった点についても指摘し、《ポリティクスの場としての「自然」》ではなく、《「技術の現場としての自然」のポリティクス》、すなわちテクノバイオポリティクスが要請されていることを確認した。

 《マシンと人間》については、自然環境よりは技術が濃密に存在する「サイボーグ状況」(状況としてのサイボーグ)の現状について検討し、ハラウェイが『サイボーグ宣言』で提起したプラットホームの有効性と広がりについて再確認した。

 まず、パソコンと協働するような、「思考のやりもらいの現場」でもある労働現場において、労働の自律性が浸食されてきている状況について検討した。仕事をする者が自ら共同してツールを開発するシェアウェア・フリーウェア的状況と、近年のように仕事をする当事者とは関わりのない事情で選択されたツールの使用を余儀なくされるようになった状況では、《サイボーグ状況》のあり方は大きく異なる。

 また今回の原発事故でパックボットやグローバルホークを通じて大きく可視可されることになったUGV(無人車両)、UAV(無人機)といったロボットが、従来のロボット概念を超えてサイボーグ状況そのものというべき存在となっていることを確認し、そうした現場での労働の実態についても検討した。さらに、脳死状態をはじめとする機械と人体との接続状況についても、そうした状態を近年招来されたサイボーグ状況として把握することで、事態の奥行きが看取しやすくなる点について言及した。

 《動物と人間》については、自分が《生きもの》だという、ごくごくあたりまえの言明さえしにくい状況が存在すること、つまり、自らが《生きもの》だと言い切ったとたん、生物学決定論、言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションの異同、「生きる」ことと「働く」ことの異同、過去から現在にいたる「人種」概念という存在、「種」概念と「品種」概念の扱いなどを引き受けざるをえなくなることについて確認した。また、こうしたことがらのそれぞれについて現状を検討し、これらについて目処をたてることで、《生きもの》宣言が容易となることを指摘した。また、こうしたことがらを考えるうえで、ハラウェイの近著、When Species Meet が示唆的であることについても確認した。

 

■コメント、質疑応答及び司会所見

コメンテーターの中島弘二氏より、@ハラウェイの議論ではサイボーグ的状況が持つ、異種混淆性の肯定的評価と権力の布置という二面性が提示されており、こうした問題をどのようにハラウェイは考えているのか、Aアガンベンが議論する主権権力による命の囲い込みを考えれば、ハラウェイや高橋氏は人も動物も「生きもの」のとすることの積極的な意味をどのように考えているのかについてコメントを含めた質問があった。

これに対して高橋氏は、当面の方針として「人間」「動物」の分断線が自明のものでないということを検証する作業が不可欠だと考える。人も動物も生きものだと言うことで見えてくるものがあり、そこを出発点にするよりほかはないと考えているという旨を回答した。

こののちのフリーディスカッションにおいて、ハイブリッドやサイボーグ的状況としての自然の議論の林学における受容、非言語的コミュニケーションへのアプローチ方法についてなどが議論された。

本発表は人間/動物/機械の区分が自明ではなく、相互の分断線はつねに揺れ動くと同時に、その局面において何が生まれるのかを考えるために多くの話題を提供するものだった。それは身体という空間がどこまで延長するのか、それが自然や動物に出会うことによってどのような空間性がその都度立ち上がるのかという地理的な議論でもあった。

(出席者:12名、司会・記録:森 正人、コメンテーター:中島弘二)