106回 地理思想研究部会(2011年度人文地理学会大会部会アワー)

20111113日(日)立教大学 14号館 D201

■植民地都市とジェンダー:日本統治下台北の日常空間

葉 倩?(茨城大学

旧植民地にとって、植民地としての過去は決して「過去」ではない。都市計画や建築などのインフラなど、現在も残存している可視化された「植民地的過去」だけではなく、可視化されない、しかし人々の記憶やアイデンティティに刻まれた「植民地的過去」がある。本報告では、台湾における植民地都市とジェンダーについて、植民地支配下の日常空間の分析から明らかにし、それがポストコロニアルの時代においてどのように残存したかを考察した。

 ポストコロニアル研究やカルチュラルスタディーズでは、植民地におけるジェンダーや女性への視角の欠如が指摘されている。植民地における女性は、支配者側女性の支配への加担、被支配者側女性の抑圧と抵抗など、植民地社会形成に深くかかわってきた。また植民地権力と女性の空間関係については、女性は私的空間に閉じ込められ、公的空間からは隔離されてきたとする二分法だけに集約できない重層的構造があることを認識する必要がある。

日本による台湾における同化政策は文化統合を目指し、日本語の普及と学校教育に力が入れられた。その結果、教育を受けた「同化された世代」と教育を受けなかった「非同化世代」の間の差異が明確になり、とくに急速に教育が普及した女性の世代間でその差異は顕著であった。一方、「真の同化は家庭から」推進すべきとして、主婦であり母である女性には、家庭における日本語の使用、日本的生活実践の責務が期待された。植民地政府は「国語家庭」、すなわち家庭での日本語使用、神棚や畳の部屋の設置など日本的生活を実践していると認定された家庭に特権を付与する制度を設けた。植民地主義の私的空間への介入である。その結果、植民地都市における公的空間だけでなく私的空間は日本化されていくことになった。しかし教育を受けなかった旧世代の女性は、日本化された私的空間においても中国的伝統を維持し続けた。結果として表出したのは、私的空間における同化された空間と非同化空間とのセグリゲーションであり、私的空間は重層性を呈することとなった。このように、日本の植民地主義は私的空間へも介入し、さらにその内部の差異化を促した。

植民地の旧世代の非同化女性たちは中国文化の維持という形で同化に抵抗し、ある意味、植民地化から逃れたが、それゆえに彼女らは社会でも家庭でも孤立することになった。それはポストコロニアルの時代においても、植民地支配の記憶として女性たちのなかに残存していくこととなった。

■質疑応答および司会所見

 葉倩?氏の発表は、近年公開された台湾映画への言及からはじまった。その一つ、「海角七号(Cape No.7)」は、日本統治下の恋愛について、60年の軌跡をへて綴られた作品である。葉氏の報告は、もちろん映画を扱ったものではない。映画の例は、台湾において「植民地」の問題は過去のことではなく、また、近年、その捉え方に変化がみられるという状況を示すものであり、そのような状況をみすえ、葉氏は、植民地/ジェンダー/空間に関する研究を展開された。ポストコロニアル研究に中で欠如しがちな「女性」の経験が、論の中心に置かれた。「女性」とは、スピヴァックが指摘するように、二重に植民地支配された存在なのである。

 女性の声に寄り添いながら展開された発表に対して、大きく二つの点から質疑がなされた。一つは、植民地研究という視点からである。台北という都市を対象にした事例は植民地全体の空間の有り様に直結するものであるのか、被支配者側、とりわけ女性の声を拾い上げることの困難さ、植民地時代の文献資料と言語の問題などが焦点となった。もう一つは、女性の抑圧と身体をめぐる問題であり、葉氏も言及されていたスピヴァックの議論ともかかわる。抑圧からの解放をどのようにとらえるかということ、女性の抗議(言葉を介してであれ身体を介してであれ)という点について、台湾女性は二重の抑圧の中で抵抗することができたのかどうかということ、さらには、結果的には抑圧的とみなされるかもしれない状況であるが、そこに女性のしたたかな選択を見出すことはできないのかということをめぐって、議論が重ねられていった。

 今回の報告は日本統治下に限定されたものであるが、冒頭の映画への言及が示すように、「植民地」の問題は決して過去に限定されるものではない。その後、台湾社会がたどったプロセスの中でも、再び、女性たちは重要な役割を果たしたのである。続編が期待される。
(出席者:42名,司会:福田珠己,記録:吉田容子)