91回地理思想研究部会

20071117():部会アワー 於 関西学院大学

近年の「空間スケール」研究に関する若干の紹介

                           遠城明雄(九州大)

 近年、人文地理学にとどまらず、歴史学、社会学、政治学、生態学などの諸分野において、「空間スケール」をめぐる諸問題に対する関心や議論が高まっている。その背景には、グローバリゼーションによって既存の空間スケールの再編成が進むなかで、世界の現実をいかに把握するかという問題意識があるように考えられる。多くの研究者は、ローカルからグローバルまでの複層的なスケールが複雑に絡み合い、「瞬時性」に覆われつつある現在の社会−時空間関係の変容に直面して、従来の空間スケール概念が現実の動態的な過程を理解するのに不十分であるばかりか、そこで働く権力作用を自然化してしまう役割を担っているのではないかという認識を共有するようになった。このスケール概念の批判的再考は、グローバリゼーションやネットワークをめぐる議論などとも交差しつつ、世界の現実をいかに認識し、概念化するかという認識論的問題(認識枠としてのスケール)、諸スケールはいかに生産、再生産されるのか、またそこではいかなる権力関係が作用しているのかという存在論的問題(社会的生産物としてのスケール)、社会的実践はスケールといかに関係するかという実践論的問題(行為主体間の抗争と協調の場としてのスケール)、という大きく三つの視点から論じられている。

まず、スケール問題が地理学者の間で積極的に議論されるようになったひとつの端緒として、1960年代の理論・計量地理学における「生態学的誤謬」や行動地理学におけるマクロ・ミクロ問題などが挙げられるだろう。技術的な問題に加えて、観察や抽象化がスケールに依存している点や、空間利用をめぐる個人と社会の関係性といった論点が、地理学者に認識されるようになったと思われる。

1980年代に入ると、スケールを地図学的概念としてのみ理解する立場や、個人、地域、国家、世界というような諸スケールの階層性を所与として自明視する立場がより明確に批判されるようになり、諸スケールの相関的な理解や、空間スケールと政治および社会分化の関係を問う「スケールの政治経済学」、さらに空間スケールの社会的生産というアプローチが提起されるようになった。その先鞭をつけたのがP.テイラーとN.スミスである。テイラーは世界システム論に依拠しながら、都市(経験のスケール)、国家(イデオロギーのスケール)、世界(現実のスケール)という図式を提案して、国家にとどまらない権力の問題の重要性を指摘し、またスミスは差異化と均等化という資本の矛盾する傾向から生じる地理的不均等発展という視点と、そうした矛盾に関わる複数の社会的行為者間の競争と協同の一時的な地理的解決という視点から、重層的なスケールの編成とその流動性、各スケールが有する役割と意味などを議論している。両者ともに階級間の抗争の空間化である「スケールの政治」という視点が、地理学研究に与える重要性を強調しているが、テイラーの議論がスケールの静態的な把握にとどまっていたのに対して、スミスは空間スケールの動態的な過程に着目しており、その後の議論の流れにより大きな影響力を持ったように思われる。

1990年代に入ると、これらの先駆的な検討を踏まえてスケールをめぐる議論はさらに活発なものとなった。N.ブレンナーは、スミスの議論に加えてD.ハーヴェイの「空間的回避・固定」や「構造的固有性」といった概念やH.ルフェーブルの空間の生産論と国家論などを援用して、空間的な移動性を高めるためには空間的な固定がより必要になるという資本流通の固定性と流動性の緊張から、空間スケールの構築と再構築の過程の理論化を試みており、特に国家と資本の関係に着目して19世紀末から現在にいたるまでの国家機構の変容を論じている。またレギュラシオン理論の立場からスインゲドゥやジェソップも、国家と経済活動の絶えざる緊張関係から現在の国家機能の再スケール化という現象を検討しているが、分権化と国際機関ないし地域ブロックの影響力の増加による国家機能の低下という議論に対しては、機能は必ずしも低下したわけではなく、むしろより権威主義的かつ抑圧的なものに変質しつつある点を強調している。

こうした諸研究によって空間スケール概念の刷新が図られてきたが、それに対して複数の立場から批判が出されている。たとえば、A.ヒロードやD.ミッチェルは、スミスらの議論が不均等発展の「内的必然」としてスケール編成を考える傾向が強かったとして、労働者(労働組合)とその政治闘争がスケールの生産と再編成に積極的に関与し自らの政治的な力を高めている点を明らかにした。またS.マルストンらは、先行研究が社会的再生産の領域(世帯)を軽視している点を取り上げて、資本主義と家父長制による不平等な社会関係の再生産がいかにスケール化されているかを分析している。さらにハーヴェイは、外部と内部の相互作用によって絶えず作り変えられる個人の身体とグローバルな賃労働化という異なったスケールで同時進行する資本蓄積の過程を、いかに統合的に理論化し、かつそれに抗していくかという問いから、あるスケールでの関係を抑圧せずに別のスケールに繋げるスケール間の諸関係の調停および「通訳」の重要性を指摘している。

スケールと社会的実践の関係をめぐるこの課題について、スミスらは労働者などがローカルな拠点において強力な組織を構築することできると考えながらも、さらにそれをいかにスケールアップさせていく(「スケールを飛び越える」)かが重要であると認識しているのに対して、ギブソン‐グラハムはローカルスケールの可能性を追究しており、グローバリゼーションへの抵抗あるいは介入のスケールをめぐる問題はひとつの争点となっている。この問いに対する簡単な答えは存在しないが、「スケールを飛び越える」という表現は理論的にも実践的に現実を単純化しすぎているし、またギブソン‐グラハムの実践もそれがどのような広がりをもつのかが定かでないように思われる。

さて以上の論争を踏まえて、現在多くの研究者によって共有されている空間スケール研究に対する視座は次のようにまとめられるだろう。

@スケール編成は、常に変動する社会、経済、文化、生態的な諸関係と過程の結果であり、固定したものではないこと。したがって、スケール内とスケール間の諸関係と過程を区別しつつ統合して分析する必要がある。

A特定のスケールをアプリオリに重視することは理論的にも実践的にも問題があること。「ローカルが具体的で、グローバルが抽象的である」という図式は、スケールと抽象化の問題を混同していると考えられる。

Bスケール編成は、社会的行為者の闘争と協調の結果であり、政治はスケール化されていること。スケールの再編成は管理や権限拡大のための社会的戦略の一環であり、またその権力関係をめぐる闘争の場となる。

Cスケール間の相互関係は階層的であるけれども、それは固定したものではないこと。重層的なスケールやネットワーク的なスケールといった複数の概念化が可能である。

さらにこれらの到達点の上に、スケール概念自体を放棄し別の概念によって世界を理解する方法も模索されている。マルストンらは、「スケールのない人文地理学」(2005)という論文において、多くの研究者が垂直的階層性というスケール概念に批判的でありながらも、それを暗黙の前提としていると批判して、スケール概念につきまとう類型的なカテゴリー化でもなく、また資本の流動性を称揚するような新自由主義者の夢想でもない、「フラットな存在論」という立場から、複数の「社会的な場site」の折りたたみとして世界を理解しようとしている。過程を重視する方向で刷新されてきたスケール概念と「平滑空間」やネットワーク論などに基づく新たな概念の関係について、発表者には理解の及ばない点が多くあり、今後さらに検討していきたい。

以上、「空間スケール」をめぐる最近30年間の議論は、地理学の研究対象の位置づけや、地理()的認識と社会実践の可能性と限界について、多くの重要な論点を提起していると考えられる。

<質疑応答>

島津(和歌山大学):スケールの物象化的錯視についてうかがいたい。スケール自体が 構築的な概念なのだから抽象的、物象的にならざるを得ないのではないか。

遠城:そう思う。日常生活でそれを考え始めると支障をきたす。ただしスケールとスケールを作り出す仕組みを反省的に考える必要がある。

小島(神戸市外大):日本の地理学におけるスケール理解は同心円的なものと思うが,今日の話で出た実践論ではこれが制約になっていると思う。具体的にどう考えればよいのか。

遠城:果たして同心円的なものが前提になっているのだろうか。日常的なレベルにおいて我々は外国製品に囲まれている。同心円で守られているわけではなく、日常生活はすでに相互浸透的な状態にある。ただし、たとえばアフリカの話をするといかにも遠い世界の話だと感じるのも事実だろう。このズレをどう考えるかが重要であると思う。同心円的認識は強いとしてもそれは我々の日常生活と切り離された認識なのではないか。

小島ego-centricな表象になってしまうことが問題ではないか。

遠城:そう考える。

上杉(京都大):ナショナルなスケールの機能は低下していると理解して良いのか。

遠城:スインゲドゥなどは、ナショナルなものは機能低下しているのではなく変質しつつ役割を変えてきていると指摘している。グローバルとローカルだけを考えるのは問題であり、ナショナルな機能の変質にこそ注目する必要があるように思う。

(三重大):空間スケールの問題は事後的に地理学者が表象するものだろうが,表象されざるものについてはどう考えるのか。

遠城:空間や時間はそのものとしてあるのではなく事後的に構築されているわけで,現実の政治や実践などで地理学者が作り出した概念がどう関わるのかについてなど批判的に考えるべきであろう。また地理学的営為のなかで表象されないものについては,表象できないものをどう表象するかにこだわることも必要ではないか。「表象されえない」という言葉を気軽に使うことに私はあまり賛成できない。地理的営為がどこまで有効かはさておき,今述べたような営為を続けることが重要だと思う。

泉谷(独立研究者):例えばフランス語圏の文献からスケール論への展開など,本日の報告で取り上げられた文献があげられてくる範囲についてピンと来ない。スケールの話をするときのスケールの設定についてもそう。自身のスケールについてセンシティヴであるべきというのであれば,文献の取り上げ方についてもそうあるべきでないか。それとは別に,これらの文献のなかに3050年後に有効な論文ないしは研究があるか。あればご教示いただきたい。

遠城:空間スケールに関する認識、存在、実践という視点から議論をまとめようと考え ていたが、きちんと練れていない部分が多々あったことはお詫びしたい。またフランス語文献に関しては私がそれしか読めないという語学上の限界にすぎない。3050年後に残るか残らないかは分からないが,敢えて言えばハーヴェイではないか。偶々、面識のある若い複数の地理学者が、ハーヴェイはもう古く読む必要はないと言っているのを聞いたことがあるが、そうした意見には賛成できない。もちろんハーヴェイをどう読むかが問題であり、その意味で個人的にはブレンナーの研究に共感を持った。

                  (司会:上杉,記録:大城、参加者:31人)