92回 地理思想研究部会

2008315日(土) 於:関西学院大学大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア大阪


近年のイギリスの人文地理におけるトピックと思想的背景
マテリアリティ,ポスト・ヒューマン,異種混淆性,情動

森 正人(三重大)

 

近年のイギリスの人文地理学界においては,マテリアリティ,異種混淆性,ポスト・ヒューマニズム,情動という語が盛んに用いられている。そして,これは隣接諸分野においても認められる傾向である。これは,言説や表象などの言語を中心とする分析概念と方法論によって一元的に説明するのではなく,またそれに対して現実社会やら意味の世界やらを対置させるのでもなく,言語に還元できない生成の複雑なプロセスに関心を寄せる。この態度は複雑論的転回complexity turnと呼ばれ,存在論的転回ontological turnを伴っている。本発表は,ドゥルーズ(器官なき身体,襞,ダイアグラム,事件)とデリダ(差延作用,痕跡,代補など)をより糸としながら,こうしたイギリスの人文地理における(をめぐる)新たな問題構制を跡づけることを目的とした。

 これらの転回では,物質や感情に再び関心が向けられ,あたかも物質や人間の感情に注目した過去の研究群に再転回しているように見える。しかし,それは言説の代わりに物質,理性の代わりに感情に注目することでは決してない。なぜなら,それは人間/自然,精神/物質といった西洋形而上学的二項対立を反復する身振りになるからである。たとえばデリダは,物質が問題になるのは超越論的なシニフィエになるときだと明言している。つまり,精神/物質の二項対立が立ち現れる瞬間が問題なのであり,精神に対置される物質は代補としてそこに過剰な意味を記してしまう。

 マテリアリティの議論の契機の第一は,アパデュライである。彼は事物がどのような社会的文脈と場所において客体や商品となるのか,その複雑なプロセスに注目した。しかしそこでは依然として人間と物質の間に切断線が引かれている。第二に挙げたのはラトゥールらによるANTActor-Network Theory)である。この理論は近年,あまりに安易に用いられる傾向にあるが,ラトゥールが強調したのは非人間を含むアクタントがネットワーク化される過程に注目することで,人間/非人間という区分がローカルな場で決定され生成される過程を捉えることができるということであった。近代は常にエージェンシーによって人間と事物が媒介され,その意味ではわれわれは一度も近代に生きたことはない。第三に挙げたのがイリガライに注目しそれを発展させたジェンダー研究である。女性の身体を表象に還元する男性主義的な視点から逃れるイリガライの思想に注目したジリアン・ローズは,有型性という分析概念を展開する。またバトラーの行為の遂行性の概念に触発され,その後に行為内性という概念にまで展開している。女性の身体の有型性,物質性は,男性/女性の二分法を過剰なものとして代補し,二分法の痕跡となる。

 物質性の議論は異種混淆性の議論と交差してもいる。異種混淆性をサイボーグという形象で示したのがダナ・ハラウェイである。また,ハラウェイやデリダの議論をポスト・コロニアルの文脈で展開したのが,ホミ・バーバである。彼が展開する翻訳や模倣という概念は,植民者/被植民者という二分法を繋ぐものでありながら,どうしてもはみ出してしまう様相を捉えるもので,過剰によって立ち現れる「第三空間」は異種混淆的な空間である。こうした異種混淆性の議論の中で,地理学者のサラ・ワットモアはラトゥールに依拠しながら,関係的な生成の(非)場に注目する。

 マテリアリティも異種混淆性も人間/非人間という区分,人間中心主義の前提を問い直すポスト・ヒューマニズムの議論において理解されるべきであろう。ポスト・ヒューマニズムは長い議論の歴史を有しており,ニーチェやフーコー,デリダを通して今日にまで届けられている。近年の日本で紹介され,例外状況,剥き出しの生,開かれといった言葉で知られるジョルジョ・アガンベンもまた,この議論のラインにある。地理学者のブルース・ブラウンは,現在のポスト・ヒューマニズムには二つの読みがあり,それはデリダやアガンベンに代表される脱構築的応答責任とドゥルーズに代表される存在論的戯れだと指摘する。そして,生成の側面に注視する存在論的戯れの議論においては,最終局面において人間へと回帰する傾向にあることを警告している。

 それゆえ,近年とくに盛んに議論されるようになっている情動の問題も,ポスト・ヒューマニズムの問いの構造にある。現在用いられている意味での情動(アフェクト)という語は,スピノザの感情と精神の同一性の議論,および固体への刺激・変状(アフェクト)から来ており,とりわけ,固体のダイアグラムにおける刺激による生成を肯定的に捉えるドゥルーズがそれを積極的に評価している。emotionという語の語源が示すように,それはある主体から湧き出るものではなく,動き,出て行き,さらに言えば,情動を通して主体が立ち現れる。主体も主観も現象学的還元によって反省的に捉えられない。情動の研究で有名なサラ・アフメッドは,嫌悪や愛や不安といった感情がどのように循環し,それによって主体なるものが立ち上がるのかに注目し,それを「感情のエコノミー」と名づけている。また,人文地理学だけでなく文化研究などにも影響を与えるナイジェル・スリフトは情動という語をさらに拡大させ,動物やコンピューター技術などがどのように刺激しながら,人間の日常的な感情を作り上げ,主体を立ち上げているのかを問うことで,「情動の政治学」へと介入する。

 精神/物質,人間/非人間の切断線において決定不可能なものとして残ってしまい,その切断線の原暴力を暴き出してしまうものは,記号の横滑りを時間的かつ空間的に印づける。物質化される記号は差延であり痕跡である。それゆえ,感情も異種混淆性も物質「性」であり,その生成の断面において内と外がねじれながら出来事を決定していくプロセスは,人文地理「学」ではないかもしれないが,人文地理の問題構制で議論されることになる。

 

コメント

中島弘二(金沢大)

 

 2000年以降の英語圏の人文地理学が言説から実践へ,意味から物質性へ,ヒューマンからポスト・ヒューマンへという言葉で表されるようなある種の「転回」を示してきたことは,評者自身もいくつかの国際学会に参加して実感してきたことである。そのような「転回」が意味するものを考えるうえで,本日の報告はたいへん示唆的な視点を提供してくれたと言える。そのことをふまえたうえで,以下にいくつかの質問を述べたい。

1)報告者は「表象や言説をめぐる議論はすでに10年以上前に終わっている」と述べたが,個々の研究レベルでは依然として言説分析や表象分析が用いられており,むしろ一般的な分析トゥールとなっている感じさえある。その意味では,表象や言説をめぐる議論が「終わった」というよりも,むしろそうした議論をふまえて言説分析や表象分析が受容され,内部化されたと考えた方がよいのではないか。

2)報告者は近年の英語圏の人文地理学における「転回」が,ドゥルーズやデリダ,バーバ,ラトゥールなどの現代思想と不可分に結びついていることを示唆しているが,それらの現代思想の展開と人文地理学における「転回」とは時代的にも必ずしも一致しているわけではない。むしろどのような文脈において英語圏の人文地理学がこのような現代思想と節合していったのかを問う必要があるのではないか。

3)近年の「社会的自然」研究において自然の「異種混淆性」が強調されることの背景の一つには,自然が文字通り現実の「本性」にかかわる問題としてとらえられることで人種主義や,民族主義,性差別などの社会的排除の構造が再生産されることに対する批判と反省があった。その意味で,英語圏の人文地理学における近年の「転回」はどのようなポリティクスと結びついていると考えられるのか。

 

〔所見〕

 ここ数年では最も寒さが感じられた2007/8年の冬もようやく過ぎ去り,暖かな春の陽射しに包まれた315(),大阪梅田の高層ビルの14階の一室で,報告者とコメンテータを含めた29名の(若手を中心とした)参加者が,英国人文地理学の先鋭な議論の余波をそれぞれのやり方で消費しつつ180分の時を過ごした。難解な用語に満ちた報告内容を,報告者の森氏が90分間難易度を一切下げることなく一気に語り,暫時休憩の後,コメンテータの中島氏から上述の質問が呈示された。森氏は(1)に対して,表象分析や言説分析が「終わっている」というのは確かに言い過ぎではあるが,それらが唯一絶対的な分析トゥールとして幅を利かせていた時代は英国人文地理学界ではすでに終わっていると答えられた。(2)と(3)に関しては,必ずしも森氏からストレートな回答がなされたわけではなかったように思われるが,英国人文地理学の「転回」を巡るコンテクストは極めて複雑で混乱している(らしい)こと,ニュー・カルチュラル・ジオグラフィなどにみられる表象・言説分析の陳腐化が新たな展開/転回を促す一契機ともなっている(らしい)こと,そこには研究者世界の「世代間闘争」的な側面も少しはみられる(らしい)こと,などがフロアとのフリーディスカッションめいた議論のなかで示唆された。とにかく難解としか言いようのない報告内容に直面して,ディスカッションも一問一答めいた整然たる形式では進行しようがなかったが,フロアから出された印象的な質問や感想のなかには,次のようなものが含まれていた。@GISやアーバンプランニング系の議論も盛んな英国人文地理学界にあって,マテリアリティだのポスト・ヒューマンだのといった難解系議論はどれほどの位置を占めているのか,Aドゥルーズやデリダといった所謂現代思想は日本では1980年代の「ニューアカデミズム」のブームで流行ったわけだし,英国での流行は「何を今更」感が拭えないが人文地理学との接合は巧い,Bポストコロニアリズムの流れとマテリアリティ云々の議論はどう繋がるのか,C何が森氏をマテリアリティ云々の議論に駆り立てるのか,D森氏が呈示した難解系議論は英国ではどのように「実証」されているのか,E本日の報告内容はアンソニー・ギデンズがかつて辿った道に似ているのではないか。これらの質問に対する森氏の回答を全て明確な形でここに記すことは控えるが,記録者にとって印象的であった回答の一部は,森氏が滞在されたダーラム大学の人文地理学者間ではマテリアリティに代表される議論が盛んであること,表象と物質を切り分ける言説実践それ自体を近代西洋形而上学の一部として対象化し,かかる実践が遂行されてはじめて浮上する「物質性」が重要なのであること,英国人文地理学では「実証」の意味合いが日本と異なり同列には論じられないこと,等々である。たっぷり70分はあったはずの総合討論時間はそれではとても足りず,参加者の過半が懇親会になだれ込む毎度お馴染みの光景が今回もまたもや大阪梅田で現出し,ドゥルーズやらデリダやらを肴に銘酒/迷酒を酌み交わす光景は,二昔前のニューアカブームの再来か,はたまた澱か残滓か。記録者の感想を一言記すことが許されるならば,森氏が呈示された英国の研究事例において,表象/物質の二分法が真に超克されていると果たしていえるのか。表象/物質の二文法が形而上学の一部であるにせよ,それは科学的/分析的思考の原初形態としてある程度は有効なはずではなかったのか。それを「西洋形而上学」として一気に流し去ってしまうことに逆に問題はないのか。これは森氏に対する感想というより,むしろ森氏が紹介された英国人文地理学界の喧しさに対する感想といえるかもしれない。ともあれ,新体制の第1回部会は盛況裡に幕を閉じることになり,難解な理論バナシへの需要が根強く存在していることを改めて実感させられた。数年に一度あるかないかの貴重な「頭の体操」の場を共同で創造していただいた,報告者の森氏,コメンテータの中島氏,司会者の福田氏,そしてフロアの諸氏に改めて感謝申し上げたい。

云わずもがなのことではあるが,最後に付け加えておくと,当部会の一義的な目的は必ずしも集客それ自体に在るのではなく,むしろ報告者・コメンテータ・司会者・フロアの四者間に繰り広げられるべき,中身の濃い充実したディスカッションにこそ在る。この観点からすれば,今回も部会の目的はひとまず達成されたというべきであるし,逆に参加者数は半分の15名程度でも充分であったといいうる。もちろん,報告者や報告内容,そしてコメンテータの魅力に加えて,事前の周到な準備と必要かつ適切な広報が,結果として30名近くの集客へと繋がったのであれば,それはそれで否定されるべき事柄ではない。今回集った人々がそれぞれに「生食」した先鋭な議論の食材を,もう少し食べやすい形に「調理」し,人文地理学会/界の食卓に提供しうる良策が何かあればとも思う。

(参加者29名,司会:福田珠己,記録:島津俊之)