2009年度日本地理学会春季学術大会シンポジウム@帝京大学(2009年3月29日)


地理思想としての「郷土」:ローカルな範域をめぐる諸実践:趣旨説明
*大城 直樹(神戸大学)・ 荒山 正彦(関西学院大学)

本シンポジウムの目的は、「郷土」という表象が、いかにして近代の日本において受容ないしは導入され、国民の地理的想像力の中で確固とした実在物として自明 化されていったのか、そもそも「郷土」なる概念ないしは着想はどこに由来するものなのか、さらに「郷土」表象をめぐる実践が、どのようなかたちで展開して いったのか、これらの事項について検討することにある。
藩政村レベルの共同体とその生活空間を越えて、行政村レベルで共同体意識をもたせるために 導入されたこの表象は、元来、19世紀に概念化されたものであり、日本に導入されて100年経った現在、その自明化および身体化を含めて批判的に再検討さ れるべきである。初等・中等教育における地理のプレゼンスの問題とも直結する肝要な表象=概念を、無反省に使い続けることは、比喩的に言えば、制度疲労に よる欠陥を見落としてしまうことにつながりかねない。自明化された「郷土」表象の相対化とその歴史的・政治的文脈の洗い出しを行うことが必要である。特定 の空間的範域への情動と表象の質の再検討を旨とする本シンポジウムの意義は、特にその批判性にあるといえる。自明視されすぎてしまった「地理」的現実の近 代的仕組みを、もう一度その初発の構築プロセスから問い直し、なぜ今なおそれが有効に機能しているのか、そのからくりを解き明かしてみたい。表には出ずと も、あるいは逆にそうであるからこそ、地理的表象とそれに連動する実践は、アンリ・ルフェーブルのいう「空間的実践」と同様、近代性そのもののなかに深く 介在しているといえるからである。
周知のように、この「郷土」なる概念ないしは観念が、日露戦争後の農村部の疲弊に対して内務省が主導した地方改 良運動と連動したものであるならば、内務省の行政資料に分け入って、その制度的導入・普及の様相を突き止める必要も出て来よう。無論,「郷土」なる表象に 当該するものが、前近代になかったかどうかの検証も行う必要があるだろう。
1930年代の文部省主導による郷土教育運動については、なお一層の検 討が必要である。小田内通敏のような在野かつ半官の研究者,文検などの教育をめぐる資格制度とそれを取り巻く出版社や大学教員の関係性などに関する研究 も、広く郷土研究を再考しようとする場合には必要となる。と同時に,同時代の民芸運動、民俗学、民具研究といったルーラルなものを対象とする知の体系の成 立および展開にも着目する必要がある。
郷土教育運動と民俗学・民藝運動・民具研究といった、等しく「郷土」ないしはルーラルなものに関わる知的運 動体の活動を問う際にネクサスとなるのは「表象の物象化」の問題である。郷土教育運動は、いうまでもなく文部省主導で1930年代に行われたものである が、郷土教育自体は無論それ以前からある。郷土教育の中でいかに「郷土なるもの」が表象され、学校教育の中で教え込まれていったかを、より多くの事例から 検討していく必要があるだろう。日本人の郷土表象の根幹がここにあるからである。また、これと同時期に柳田國男によって創始された日本民俗学、柳宗悦らの 民藝運動、澁澤敬三のアチックミュゼアムを中心に行われた民具研究、これらの知の運動体は多くの言説を生産していったが、まさにその言説の生産行為自体が 「郷土なるもの」を実体化せしめ、それを研究者や読者にとって自明なものとして刷り込み、さらにそういうものとして再生産していくことになった。本来、概 念ないしは着想に過ぎなかった「郷土」が表象であることを越えて実在物であるかのように物象化していくのは、まさにこのプロセスにおいてである。
だが、これまでのこの知の運動体に関する諸研究では、この「郷土なるもの」を実体として前提しすぎていた。柳田が言ったのとは異なる文脈ではあるが、「郷土を郷土たらしめるもの」、その諸契機に留意する必要があるし、それを突き止めることがおおきな課題となるだろう。
【参考文献】:荒山正彦・大城直樹編(1998):『空間から場所へ』,古今書院,「郷土」研究会編(2003):『郷土―表象と実践―』,嵯峨野書院、2003年,

郷土概念と地理教育の偶有的接合:明治19年「小学校ノ学科及其程度」をめぐって
島津 俊之(和歌山大学)

Googleで「郷土」を検索すると,2009年1月8日現在で約892万件となる。郷土の語それ自体は『列子』や『晉書』に出てくる漢語で,近代の産物 ではないが,前近代の日本でこの語が日常的に用いられたわけではない。郷土は,漢籍を読み下せる限られた知識人層のみが知る高尚な言葉だった。〈郷土教 育〉という概念から想起される,郷土の語と学校教育との結び付きも自明の事柄ではない。1871年刊行の『西国立志編』は,明治前期における郷土の数少な い用例を含む大ベストセラーで,モダンな洋書翻訳行為が高尚性を帯びた漢語の動員につながったと想定されるが,郷土の語と学校教育との結び付きは確認でき ない。郷土の語が学校教育と積極的に結び付けられる契機を最初に提供したのは,1886年に「小学校令」の付帯法令として出された「小学校ノ学科及其程 度」である。そこでは「地理」の教授内容が,「学校近傍ノ地形其郷土郡区府県本邦地理地球ノ形状昼夜四季ノ原由大洋大洲ノ名目等及外国地理ノ概略」と規定 され,郷土の語が初めて中央教育法令に登場した。児童の直接経験が可能な「学校近傍ノ地形」をまず教えるべしと説く直観教育思潮は,すでに1881年の 「小学校教則綱領」にみられるが,「小学校ノ学科及其程度」ではそれに郷土の語が接合された。この「郷土」とは,「学校近傍」より広域かつ「郡区」より狭 域の,町村あるいは郷庄スケールの限定的範域を指すと解される。郷土は後に「学校近傍」から「府県」までを含む地域概念として拡大解釈されてゆくが,本報 告の関心はむしろ郷土概念と学校地理教育の偶有的接合がなされるに至った諸条件を掘り起こすことにある。「小学校ノ学科及其程度」は,文部卿大木喬任 (1832-1899)と後任の文部大臣森 有礼(1847-1889)が任命した「小学校条例取調委員」が起案したとされる。当初のメンバーは文部権大書記官久保田譲(1847-1936),文部 少書記官手島精一(1849-1918),文部権少書記官野村 綱(1845-1906),文部権少書記官中川 元(1852-1913),文部省御用掛西村 貞(1854-1904),文部一等属山田行元(1851-?),文部一等属大窪 実(?-?)であり,後に文部権大書記官折田彦市(1850-1920),東京大学幹事服部一三(1851-1929)が加わった。このうち,「郷土」と の関わりで注目すべきは西村 貞と山田行元である。文部官僚となる前に,西村は足利藩貢進生として大学南校に学び,官立大阪師範学校長を経て「師範学科取調」の第二期留学生の一人とし て英国に派遣された。山田も米沢藩給費生として東京や横浜で英学を学び,千葉師範学校長などを歴任した。漢学・英学の双方に通じた西村と山田は,直観教育 思潮と地理教育の相関を鋭く見抜いていた。西村 貞はT. H. Huxleyの“Physiography”を翻案して『地文新篇』を著し,「地文ノ学ハ,日常ノ現象ニ就キテ,視察ノ常習ヲ薫陶シ,理学上ノ思想ト研究 トヲ馴練スルニ最適当ナル学科」とした。彼はまた,千葉教育会の席上で「小学科中ニ於イテ地文学ノ要用ナルコト」を説き,「地球自然ノ現象ト其ノ互ニ相関 スル所以」を理解させるには,まず「児童ノ日常接触経験スル所」の「村ノ地勢即陸地ノ高低ヤ用水ノ流レ方ヤ其ノ方向」から教えるべきとした。伊藤 (2006)は,「小学校ノ学科及其程度」で初めて「理科」が登場し,地文学的内容が多く盛り込まれた点に西村の寄与をみる。これは妥当な考察だが,「小 学校教則綱領」では地理に含まれていた地文学的内容が,「小学校ノ学科及其程度」では「地理ではなく理科で教えられることになった」とする理解は問題を孕 む。前述の「学校近傍ノ地形」や「地球ノ形状昼夜四季ノ原由」も地文学的内容に他ならず,西村は地理の条文起案にも関わった可能性が高い。一方,西村以上 に地理教育に深く関与したのが,1875年の『地学初歩』から1898年の『台湾地誌』に至る多数の地理書を著した山田行元である。山田は早くから地理教 育における「物躰示教object-lesson」の重要性を指摘し,「学問ハ徒ニ文字詞章ノ間ニアラスシテ近ク各人ノ眼前ニ集ル所ノ事物ノ理ヲ知ルニア ル」と喝破した。彼はまた,「地理ノ科ニ於テハ徒ラニ山河湖海ノ名目ヲ記憶セシムルコトヲ避ケ務メテ土地ノ形勢気候等ヨリ人事ニ及ホス所ノ感化」から教え るべきと説いた。郷土の語を含む地理の条文起案に,西村と山田が関与した可能性は高く,「郷土」の登場は必然ではないが全くの偶然でもない。「郷土」は必 然と偶然のはざまで,つまり偶有性のもとで登場した。直観教育思潮に基づくローカルな範域の教育的価値付けと,彼らが有した漢学・洋学の双方に亘る素養と が,「郷土」と学校地理教育の接合の前提条件をなした。そして,高尚性を帯びた漢語の語彙から,ローカルな特定の範域を指す語として「郷土」が選択された といえる。

明治43年の群馬県教育品展覧会と郷土誌編纂事業
関戸 明子(群馬大学)

明治43(1910)年、群馬県が主催し、関東1府6県、甲信越3県、秋田を除く東北5県が参加した1府14県連合共進会が前橋市を会場に開催された。この連合共進会は、関東地方で開催されたものとしては過去最大規模であった。
  この共進会に合わせて、群馬県教育品展覧会が開催された。この展覧会は、群馬県教育会の前身である上野教育会が主催したもので、会場は高崎中央尋常高等小 学校、開催期間は57日間、入場者は11万人を超えた。展覧会には、教具・器具・資料など25,689点が出品された。
 教育品展覧会の出品物は 「十の八九は教育者の熱心なる考案製作蒐集施設研究調査の結果にして、従来往々諸処の展覧会が生徒の成績品を以て場の大部分を填めたる如きと頗る其の趣を 異にせり。……本県全町村の郷土誌は学校職員と役場員との共同の編纂に成れるものにして、多大の労力と時間とを要せしものなり」(下平末蔵「明治四十三年 が与へたる活教訓」上野教育278、1910、pp.1-5)と位置づけられている。
 郷土誌は、修身・国語・算術・歴史・地理・理科といった初 等教育に設けられた19のカテゴリーの一つとして展示された。『群馬県教育品展覧会目録』には、市町村単位の郷土誌119点が記載されている。10月21 日と23日の『上毛新聞』に掲載された記事「展覧会場一巡」によれば、156点の郷土誌が出品されていたことが確認できる。こうした点数の違いは、郷土誌 の完成が遅れて追加出品されたことなどで生じたと思われる。
 これらの郷土誌は、明治42(1909)年9月の県知事の訓令によって編纂されたも ので、当時208あった市町村のうち、半数以上で所在が確認されている。この訓令には、市町村長・小学校長は別紙目次により明治43(1910)年6月 30日までに郷土誌を調製して市町村役場と市町村立小学校に備え付けることとあるだけで、目的などは明記されていない。郷土誌の目次としては、自然界が地 界・水界・気界・動物・植物・鉱物の6章と14節、人文界が戸口・教化・郷土ノ沿革・官公署・風俗習慣・村是規約条例等・経済の7章と29節39目を掲げ ている。
 この目次のうち、人文界の第7章「経済」・第8節「郷土ノ公経済」には、地租・耕地・小作料・生産額・消費額・基本財産などに関して 15目のデータの収録を求めており、編纂当初より単なる教授資料の調製だけを目的に、この事業が企図されたとは考えにくい。郷土誌は、県レベルや郡レベル でも作られてきた。そのなかで、この編纂事業が町村を範域としたことは、地方改良運動の展開期に行われたことと結びついていると考えられる。このことは、 郷土誌を県に提出するのではなく、小学校と役場に備え付けるように命じた点からも推察される。
 日露戦争後、地方の疲弊が顕在化するなか、明治 41(1908)年10月に戊申詔書が発せられた。これは、国運の発展のために、上下一致して勤勉倹約することなどを説き、地方改良運動を支える精神的な 柱となった。これを受けて群馬県では、翌年3月に戊申会が結成され、詔書の奉読が各地で行われた。戊申会成立の準備段階で作られた「群馬県斯民会準條」に は、精神教育の奨励、道徳と経済の調和、教育産業の発達、地方自治の向上を目的とすると記されている(『雑事綴(戊申会庶務係)』群馬県立文書館所蔵)。 明治42年9月に始まる郷土誌編纂事業もこうした流れを受けたものであろう。
 その後、明治45(1912)年6月に、郷土誌を初等教育と自治民 育とに活用するため県知事の訓令が出された。この訓令は、群馬県報で27頁にも及ぶ詳細なもので、郷土誌の利用方法として7点を掲げている。そのなかに は、市町村自治行政上の方針を立てるには資料を郷土誌に採ること、市町村民の指導教化の材料として郷土誌を十分に利用することなどとあり、教育だけでなく 地方自治にも活用することを求めている。さらに、「郷土ノ公経済」の項目には、町村の富の程度を他町村と比較し、生産・消費の額を明らかにし、輸出入の過 不足を調査し、町村民の自覚と発奮を促し、富の増加を計るべしとある。
 郷土誌の編纂とその展覧は、その出来不出来を一覧する機会となった。そこ で、町村相互の競争を求めつつ、郷土に役立つ人材の育成を期待したものと考えられる。この時期、国家を支える基盤となる地方行財政の強化を急務としていた ため、郷土は町村という具体的な範域をとったといえる。



「郷土」の視覚化:棚橋源太郎の博物館論を中心に
福田 珠己(大阪府立大学)

1 問題の所在
 「郷土」とは,所与の存在として「そこにある」ものなのであろうか。『郷土―表象と実践』(「郷土」研究会 2003)で議論されたのはそのような対象としての郷土ではない。むしろ,社会的実践の中で郷土なるものがどのように策定され具体化されているのか,その ことが問題とされたのである。
 本報告は,このような「郷土」の理解を継承するものである。具体的には,明治から昭和にかけて,ある意味で,郷土となるものとかかわり続けた人物,棚橋源太郎に焦点をあて,郷土なるものがどのように具体化・視覚化されたのか,彼の思想との関連から考察する。

2 棚橋源太郎と博物館
  棚橋源太郎(1869-1961)は,多様な顔を持つ。理科(博物学)教育を中心とした学校教育、社会教育(生活改善運動)、博物館と多岐にわたる活動を 精力的に展開してきた人物である。そのような人物を取り上げるのには理由がある。それは,地理学的知の実践が、狭い意味での学問分野の中に限定されるもの ではないからである。つまり,地理学者,あるいは地理教育者として名を連ねている者のみが地理学的知の実践者ではないのである。
 他方,棚橋の活 動期間が極めて長いことも,今回注目する理由の一つである。明治初期から昭和にかけて,様々な社会的状況の中で,郷土なるものに向かい合い続けてきたこと に注目することによって,学校教育(あるいは地理教育)の枠の中で郷土なるものを検討してきた従来の郷土研究とは異なった視点を提供できると考えるからで ある。
 棚橋源太郎の生涯を振り返ると,時期によってその活動にいくつかの特徴を見出すことができる。ここでは,棚橋の生涯を振り返りながら,特に,郷土との関連から説明していこう。
  第一に,博物学教育者として,理科教材や実科教授法について,思想や方法を展開した時期があげられよう。後の東京高等師範学校で学び,その後,附属小学校 に赴任する頃,明治30年頃までがそれにあたる。この時期の棚橋は,実物を重視した理科教育(博物学教育)の展開のみならず,当時導入された郷土教育の教 授法にも力を注いだ時期である。この時期の郷土教育については,地理学においても検討されているところである。
 第二は,教育博物館への関心が高 まった時期である。具体的には,東京高等師範学校附属東京教育博物館主事となった1906年(明治39)から,2年間のドイツ・アメリカ留学をへ て,1924年(大正13)に東京教育博物館を退職する頃までがそれに該当する。実科教授法や郷土教育を論じる中でも,学校博物館について言及していた が,この時期には,本格的な教育博物館を立ち上げることに力を注いだ。また,西洋の博物館事情を積極的に紹介した時期でもある。
 第三 は,1925年(大正14)の二度目のヨーロッパ留学を経て,日本赤十字博物館を拠点として博物館活動を展開する時期である。この時期,棚橋は,郷土博物 館設立の運動にも関与するが,通俗教育(社会教育)へと軸足を移していること,また,日本の博物館界の基盤形成を行い,同時に,国際的な視野で博物館を論 じたことも特筆すべきことである。

3 考察
 棚橋源太郎が実践しようとした,あるいは,視覚化しようとした「郷土」とはどのよう な存在なのだろうか。また,どのような思想や社会状況と関わっているのだろうか。本報告では,第一に,理科教育から郷土教育,通俗教育へと棚橋の活動の重 点が移動していく中で,「郷土」はどのような役割を果たしたのかという点,第二に,郷土なるものがいかなるスケールで思考・実践されてきたかという点,す なわち,様々なスケールで展開される思考・実践の中に「郷土」を位置づけることに焦点をあて,郷土なるものの具体化について論じていきたい。

【文献】
「郷土」研究会 2003. 『郷土―表象と実践』嵯峨野書院.


国家的なるものと地域的なるもののはざまで
1930年代の楠木正成をめぐるいくつかの出来事から

森 正人(三重大学)

本発表は、中世の武士である楠木正成が1930年代の日本においてどのように意味づけられ、彼に関する催事や事物が形作られていったのか、またそうした出 来事をとおしてどのように人びとのアイデンティティが刺激されたのかを論じる。よく知られるように、楠木正成と息子正季は後醍醐天皇に対する忠誠を、命を 賭して体現した人物として『太平記』に描かれているが、南北朝時代の南朝に与したため江戸時代にいたるまで朝敵と見なされていた。楠木正成の名誉回復がな され、江戸時代末期に尊皇攘夷運動が高まると、「忠君」楠木正成は顕彰の対象となる。各地で執り行われた鎮魂祭は招魂社の設立運動にいたり、後に靖国神社 と名を変える招魂社にまつられる英霊から区別された楠木正成はただ一人、湊川神社に祀られることになった。 国家を代表する偉人としてがぜん注目されるよ うになった楠木正成は、宮城前への銅像設置や、南北朝のどちらが正統であるかをめぐってなされた南北朝正閏論争をとおして完全なるナショナル・ヒーローの 座へ登りつめていった(森2007)。したがって、楠木正成の近代に注目することで、日本のナショナリズムや国家的アイデンティティの問題の一端が明らか になると思われるのだが、この楠木正成が見せた国家的偉人への軌跡を正面からあつかった研究は実はそれほど多くない。 近代日本のナショナリズム研究は、 1990年代に大きな興隆をみた。ベネディクト・アンダーソン(1997)の想像の共同体の議論を受けながら、近代史や法制史を中心に国家的諸制度の整備 が確認された。地理学においては近代における均質的な国家空間創出のためのさまざまな物質的基盤が解明された。それらの研究が一段落した後に残されたの は、国家的な諸制度や観念の形成に貢献したローカルなるものの役割の検討であった。すなわち、アイデンティティであれ諸制度であれ、それらは決して国家に よってのみ作動されたのではなく、地域や郷土などといったローカルな地理的範域での実践もまた国家的なものを下支えしていたことが確認されたのである (「郷土」研究会2003)。 ただし、国家的スケールに対して地域的スケールでの実践の重要性を強調するだけでは、国家と地域を二項の固定的なものと前 提してしまう。国家も地域も、首尾一貫性を持つ地理的スケールではない。それらは、相互の関係性のなかで認識されるべき地理的スケールであるだけでもな い。むしろ国家的スケールも地域的スケールも、後にそれと確認されるスケールでの諸実践をとおして認識される。したがって、一貫した地域も国家もなく、事 後的に確認される地域的なるものと国家的なるものととらえ、地域と国家というスケールの二分法の不可能性と、それが生成されるプロセスに取り組むことが重 要となろう。こうした空間への視座は、近年の英語圏人文地理学における空間の存在論の高まりと共鳴している(Massey 2003, 2005; アミン2008)。 国家/地域的なるものを、出来事をとおしてその都度に構成し直される関係的なものとすれば、国家や地域へのアイデンティティもまた、 自律的な人間主体の内側からの発露とすることも、あるいは人間主体の外側に措定される権力主体からのイデオロギー的呼びかけととらえることも困難になる。 すなわち、とある地理的範域に対するアイデンティティは、前提される地理的スケールの外部、人間主体の外部にある事物や自然や機械などの客体との折り重な りの中でつねに刺激され、形作られ続けているのである。アイデンティティを含む人間の感情や倫理は、つねに資本によっても多方向へ屈曲されている(スリフ ト2007)。 本発表はとくに1930年代に照準する。この時期、楠木正成は国家的偉人であると同時に、彼を輩出したり彼が最期を遂げたりした場では地 元の英雄として取り上げられた。それは楠木正成の死後600年を祝う1935年に一つのピークを魅せた。楠木に関わるイベントは郷土を確認させる出来事で あり、そのイベントは行政だけでなく新聞社やレコード会社やラジオ局などの資本によっても開催されたのである。

郷土とツーリズムの接合
荒山 正彦(関西学院大学)

1927(昭和2)年に,東京日日新聞社と大阪毎日新聞社の両社が主催した「日本新八景」選定のイベントは,沖縄県を除く全国46道府県において,「郷土 の風景」をめぐる大きなムーブメントをもたらした(荒山2003).東京日日・大阪毎日の両紙上では「郷土の熱狂」が報じられ,また田中(1981)はそ こに「郷土愛の発露」を指摘した.昭和の新時代を代表しうる風景地を選定するという新聞社の呼びかけに対して,ローカルな社会では地元の風景地を推薦する ことで,風景国日本を構成する具体的な一範域としてのアイデンティティを確認する契機となったのである.                        一方日本新八景選定のイベントは,鉄道や船舶を利用したツーリズムとも結びつき,風景地の選定は,あるいみ観光地の選定でもあった.すなわち地元を代表す る風景地は,その範域の構成員にとっての風景地というばかりではなく,範域の外部からもまなざされる風景地であった.鉄道や船舶のネットワークによって結 びつけられた日本国土の構成員にとっても,他所の「郷土の風景」は,その価値を共有し共感しうるものであった.   本シンポジウム「地理思想としての 「郷土」」の前半では,ある範域において「郷土」という表象と実践がどのようになされてきたかを検討してきた.そこで後半の本発表では,郷土がツーリズム と接合し,まなざしの対象や消費の対象としてさらなる意味を担っていく様相を検討したい.そもそもツーリズムのホスト(目的地)とは,どこにでもあるあり ふれた事物ではなく,ある場所に固有で特徴的な事物にほかならない.郷土をめぐる表象や実践において対象化される個別の出来事や物事は,ローカルな範域で の固有性や特徴であり,したがって,ツーリズムにおけるまなざしの対象として,両者はすぐれて親和的な関係にあるといえよう. しかしながら他方で,郷土 とツーリズムとは本来的に結びついていたものでもない.両者が親和的な関係性を持つからといって,本質的な結合関係にあると断じることはできない.郷土の 表象や実践と,ツーリズムの表象や実践とは,それぞれ異なる歴史的系譜を持っているのである.本発表の目的は,この郷土とツーリズムとの接合を検証してみ ることにある. ところで,郷土をめぐる諸実践は,明治初期から各地でさまざまなかたちをとってなされ,その結果,郷土なるものは全国各地に点在し分布す ることとなった.では,これらをパノラマ的に一望し,一覧し,個別の郷土がツーリズムの目的地として浮かびあがってくる契機はどこにあったのであろうか. 他所の郷土とは本来的には何の関わりもなかったツーリストが,全国スケールでの郷土の一覧のなかから消費の対象を(旅行の目的地を)選びだす.そして,こ のプロセスにおいて前提となるのが,ツーリスト(ゲスト)とホスト(目的地)を結びつけるメディアにほかならない.メディアを通してゲストはホストにめぐ りあうことができるのである(荒山2009).ツーリズムのメディアには,鉄道や船舶といったツーリズムの空間を物理的につくりだすものと,印刷物のよう に質的なツーリズム空間の形成を担うものとがある.ここでは,主として後者に注目してみたい. さて,いわゆる郷土研究の成果がプリントメディアとして形 をなすのは,1913(大正2)年に創刊された雑誌『郷土研究』からであるとされるが,郷土とツーリズムとの結びつきが明確に企図されたの は,1928(昭和3)年に創刊された『旅と伝説』においてであった.『旅と伝説』は,鉄道省が補助金を出し創刊されたもので(大藤1990),全国各地 の「郷土」を鉄道旅行によって経験するための案内書の役割を果たした.この系譜は,1932(昭和7)年に創刊された雑誌『郷土風景』や,1939(昭和 14)年から鉄道省によってシリーズ化された『郷土旅行叢書』へとつながっていると考えられる.また一方,ジャパン・ツーリスト・ビューローによって 1919(大正8)年から刊行がはじめられる『旅程と費用概算』では,旅行の目的地としての「郷土」との結びつきが次第に強まることとなる.発表において は,これらの雑誌メディアの分析を通して,「郷土」とツーリズムとの接合を検討してみたいと考える.



第一次世界大戦後の日本の地方都市における地域住民組織
遠城 明雄(九州大学)

第一次世界大戦前後からの工業化と都市化の進展によって、地方都市においても空間・社会の構造変容が進んだ。その結果、生活関連施設の整備が追いつかな かったことから、都市問題が深刻化し、民衆運動も活発化した。本報告の課題は、福岡県門司市における地域住民組織をめぐる動きを検討することによって、 「大衆社会」へと移行しつつあった当該期の都市社会の変動の一端を論じることにある。 門司市では、明治期から区長制度や衛生組合が行政の補助機関とし て、地域住民と市政を媒介する役割を果してきた。しかし、事務量の増加などを理由として、1925年度から「町総代制」を設置することが決定された。市会 で制定された町総代の主な取扱事項は、(1)隣保の親善皆和に務める事、(2)市行政事務の執行を援助し法令通達の普及を務める事、(3)教育自治其他公 共的観念の発達を務める事、(4)産業の振興、生活の改善其他住民の福利増進を図る事、(5)町内住民の納税其他義務観念の向上を務める事、(6)名簿を 備え付け町内の戸数及現在者を明らかにする事、などであった。 高岡(1995)によれば、第一次世界大戦後に町総代制を市政の補助機関としてにみなら ず、地域住民の「共同体」あるいは「自治」を身につける場とすることを目的として、その再編・整備が行われた。門司市の場合、労働者層を中心に住民の移動 性が高く、行政が把握できない人も多くいた。また市政に対する住民の関心も高いとは言えなかった。そのため、「公共事」に進んで参与する「市民」の創出 が、地域秩序の安定を図ると同時に、複雑化する都市行政の簡素化のために求められた。町総代制はこうした都市社会の状況に対応する装置としての役割を期待 されたのではないかと思われる。 そうした行政の意図は、『門司市民読本』(1933)にも表れており、そこでは「愛郷心」や「郷土への愛着」を涵養する ことによって、住民が「隣人との協同を通して」、「よき市民」となり、よき市民になることで、「よき国民」や「世界の門司市民」となることが目指されてい た。ただし、全体の約310地区のうち、2年たっても町総代を決めることができなかった地区が複数あった。その理由は町内での競争にあり、住民間の調整と 協同は容易に実現しなかった。 昭和初期になると全国各地で電燈料などの値下げ運動が頻発しており、北九州地方では1930〜31年にかけて、門司市、八 幡市、折尾町の二市一町による九州軌道株式会社に対する電燈料と電車運賃の値下げ運動が発生した。 門司市では当初、社会民衆党門司支部が主体となって運 動が始まり、その後市会議員が運動に関与し、交渉の中心となった。1930年12月に、従来の市会を中心とした運動では弱体であるとの反省から、町総代と 衛生組長を運動に参加させて「値下期成同盟会」が組織された。その後、二市一町の市会議員による連合協議会が九州軌道と交渉したが、解決に至らなかったた め、町総代会は料金不納などの実力行使に訴え、運動は「民衆化」し先鋭化することになった。 1931年2月に運動のこれ以上の拡大を懸念した門司市の警 察署長や松本学福岡県知事らが調停をはかり、市会議員らは署長への白紙一任を受けいれた。しかし町総代会はそれに反対し、市民大会を開催するなどしたが、 運動継続を主張した一部の町総代を除いて、大多数が一任を受け入れたことで問題は漸く収束に向った。この運動を通して、一部の町総代は市会議員の弱腰を批 判して、自分たちこそが市民の意見を代表する存在であると主張するようになっており、町総代会は町を通じて地域住民を掌握するのみならず、市民大会などに よって「大衆」を動員することで、市会と並ぶ力を行使しえる存在になったと言える。以上、町総代制は地域への行政国家の浸透の基盤となると同時に、地域住 民による政治への参加を実質化する基盤ともなったのであり、その役割を両義性をはらむものであったと思われる。