2008/6/29 神戸研究会(「郷土」研究会ニューズレター第2号原稿)

 

徳島県立博物館企画展「郷土の発見」を観て

 

島津 俊之(和歌山大学教育学部)

 

 2008525日(日)に,その日が最終日であった徳島県立博物館の企画展「郷土の発見―小杉榲邨(すぎむら)と郷土史研究の曙」を観る機会を得た。大学院の非常勤講師としてお邪魔している関西学院大学の本年度の前期講義で,近世後期から明治中期にかけての郷土地理教育の展開を,島津(2005)をベースに「郷土」概念の構築性に執拗に言及しつつ跡付けている現在のわたしにとって,「郷土の発見」は見逃すことのできない展示であった。同行戴いたのは,郷土科研のメンバーである神戸大学の大城直樹さんと群馬大学の関戸明子さん,そしてわたしの呟きにも似た講義を毎週聴いて戴いている関西学院大学の大学院生の皆さん(6名)である。徳島県立博物館では展示を担当された長谷川賢二さんに詳しい説明を戴き,極めて有意義な時間を過ごすことができた。また,阿波国の地誌編纂に関して研究を進めておられる鳴門教育大学の立岡裕士さんも途中から来場され,有益な意見交換を行うことができた。充実した図録(徳島県立博物館 2008)が600円という安価で入手できたのも有難かった。

 展示を観てまず感じたのは,近世から近代にかけての阿波国における,地域の歴史や地理を書き誌す企ての豊富さである。自ら居住する/支配するローカルな範域に関係する/した種々のアイテムや,そこで生起する/した種々のイヴェントを,隈無く書き誌そうとする情熱を現代に伝える史料群を眼前にして,それらの意味するところが何であるのかを考えずにはいられなかった。地域意識の立ち上げや領域支配の象徴的強化,あるいはナショナリズムの序曲としてのリージョナリズムの顕現といった,今更の国民国家論に漸く染まった出遅れ研究者が発しがちな決まり文句でカタをつけることで果たして良いのか,そうではないとすれば逆に何をいえば良いのか,しばし考え込まざるをえなかった。

 二つ目に感じたのは,何気なく展示された一見地味な史料の研究的価値の高さである。長谷川さんの個人的努力とセンスに負うところが大きいと思われるが,例えば近世後期に企てられた地誌的調査の記録である『廻在録』は,従来は海部郡のものしか現存しないとされてきたが(立岡 2007),今回の展示では名東郡・勝浦郡・板野郡のものが新出史料として展示されている。謎の「阿波国那賀郡薩麻駅」の比定地をめぐる戦前の研究者の書簡なども,地味ではあるが,もしもわたしが薩麻駅比定の研究史を纏めるとすれば件の書簡などは唯一かつ超レアものの「先行文献」として立ち現れてくるわけで,研究者の心性をくすぐる展示ということができよう。さらに徳島大学附属図書館から借覧された阿波国出身の喜田貞吉(1871-1939の未公開史料などは,近年盛んになりつつある戦前の日本地理学史研究にとっては恰好の論文ネタと化すことであろう。長谷川さんによれば,この喜田貞吉関連史料群は現在一括して徳島県立博物館が預っていて,仮目録作成後に徳島大学附属図書館に返納される予定とのことである。日本歴史地理学会と『歴史地理』に関する論文(川合 2006)の著者は,果してこのことを知っておられるだろうか。

 三つ目の感想は,「郷土」という言表の再出現・再構築に執着するわたしの講義内容と,今回展示された多様な史料群との間に横たわる通底性と差異という問題に関わるものである。現時点での研究水準の半ば必然的な帰結として,「郷土」言表の再出現をめぐるわたしの講義は事実上,近世後期から明治中期における,ローカルな地理的知識を子どもに教える思想・実践に限定されてしまっている。その一方で,同じ「郷土」を対象としつつも,今回展示された史料群から立ち上がるものの多くは,ローカルな地理的・歴史的知識を収集・記載し,それらの一部を(子どもではなく)むしろ大人に発信するという思想・実践である。ローカルな知識の体系的集積・表象という点では無論通底するが,知識の発信対象とそれを取り巻く社会的コンテクストという点で,わたしの講義と今回の展示は一定の差異を孕まざるをえないのである。このことは,郷土科研のメンバーである大阪府立大学の福田珠己さんから事前に戴いていた展示資料目録から想定されたことでもあったが,講義の一環としても企画されたはずの今回の見学会の場で院生の皆さんに説明すべきであったと反省している。結果的に長谷川さんと展示品に丸投げしてしまった見学会への後ろめたさが,じつはこの雑文執筆の隠された(といってもここに書いてしまっているが)動機であったりする。

 この差異の問題は,じつはそれ自体で完結するものではなく,むしろ蔓草の如くネットワーク的に拡がってゆく「問題系」の様相を呈している。長谷川さんは,「郷土」を所与の前提とのみ捉える見方を注意深く避けつつ,図録のなかで次のように書いておられる。

 「郷土」がいかなるものかということが考えられ,追究され,あるいは説明しようとされることによって初めて認識され,実在することになるのではないだろうか。言い換えれば,「郷土」は「発見」されることによって初めて,固有の存在として立ち現れることになると考えられる(長谷川 2008: 5

この認識はいうまでもなく,当の図録にも参考文献として記載される,あの『郷土―表象と実践』(「郷土」研究会 2003)によってこの業界に広められた「表象論的転回」(島津 2008)の流れに棹さすものである。このソフトカバーの書物が業界に与えたインパクトの大きさを今更ながら思い知らされるが,かかる優れた認識のもとに,今回の「郷土の発見」と題する企画展が立ち上げられたことを踏まえるとき,我々が注意すべき問題が一つあるように思う。それは次のような問題である。すなわち,①あるローカルな範域に纏わるアイテムやイヴェントに固有の価値を認めてそれらを書き誌してゆくという思想・実践と,②その範域に固有の価値を認めてそれを「郷土」と名付け,それに纏わるアイテムやイヴェントをまさに〈郷土色〉に染めあげてゆくという思想・実践が,果して同一の振る舞いに属するものなのかという問題である。おそらく両者は,通底する思想・実践を含みつつも,「郷土」の言表を明示的に用いるかどうかに関わる,ある種の差異を孕むものでもあるはずだ。「郷土の発見」を広義に捉えるならば,そこには無論①と②の双方が入り込んでくるだろう。しかし狭義の「郷土の発見」とは,①よりもむしろ②に関わる振る舞いに他ならない。時代的にみるならば,島津(2005)などを踏まえた現時点でのわたしの大まかな見通しは,「①は②に先行して存在し,明治中期頃より②が出現し,昭和戦前期に至って②が席捲する。」というものである。この見方からすれば,今回の展示で扱われた近世中期~昭和戦前期という時代は,如上の①から②への転回が生じた時期を見事なまでに含むものということができる。では,今回の展示で出品された種々の史料群は,果して①に属するのか②に属するのか,はたまた両者の狭間に属するのか。この問題について思いをめぐらすことは,わたしにとって極めて興味深く,かつ重要なことのように思える。

問題の蔓草は,更にとぐろを巻きつつ延びてゆく。「郷土」をめぐる展示でまず想定されるのは,「我々の郷土はこんなふうであった/ある」ということを来場者に伝える,という主催者側の行いであるだろう。しかし今回の展示は,むしろ「『我々の郷土はこんなふうであった/ある』とされていた」ということを来場者に伝える,という行いに属するものである。これはでは自明とされたことを問う展示,すなわち「メタを問う」(苅谷 1996)展示である。長谷川さんとの会話でも示唆されたが,歴史研究における言語論的転回(前述の「表象論的転回」とほぼ同義)は確実に浸透しており,その流れにようやく追いついたばかりの出遅れ研究者としては極めて感慨深い展示であった。しかしこの「メタ展示」は,研究者には面白くとも,一般の来場者にとってはやや高度なものとなろう。しかし逆にいえば,大学と異なり多層的な社会の全体を相手にせねばならない博物館という装置にあって,社会の全ての人々を満足させる展示なるものは,予算の限られた地域博物館では至難の業であるだろう。この種のメタ展示で集客が見込めるとすれば,展示対象に纏わる言語や表象の担い手(=展示の対象人物)を誰もが知る著名人に設定することぐらいしか思いつかないが,小杉榲邨(1834-1910)という人物は,後述の如く「中央の偉い学者」ではあっても,残念ながら「誰もが知る」という域には達していない。来場者の少なさを嘆いておられた長谷川さんのジレンマは,多くの地域博物館の展示担当者に共通するものなのであろう(この意味で,「郷土」でないが,2006910月に和歌山県立近代美術館で開催された「森鷗外と美術」展は,晩年に帝室博物館総長兼図書頭に任じられた文豪の美術認識を問題化するものとして興味深かった)。

ここでわたしが書きたかったことは,じつはその先にある。前述の②,すなわち「ある範域に固有の価値を認めてそれを「郷土」と名付け,それに纏わるアイテムやイヴェントをまさに〈郷土色〉に染めあげてゆくという思想・実践」を狭義の「郷土の発見」とするならば,その展示はいかにして可能なのかという問題が,わたしがここでいちばん書きたかったことなのだ。それは,先のに倣っていえば,「我々の範域やそこに属する/した種々のアイテムやイヴェントが,こんなふうに『郷土』のコトバを(わざわざ)冠して価値付けられていた(『郷土地理』とか『郷土史』とか『郷土玩具』とか『郷土芸能』とか・・・)」ということを来場者に伝える,という行いになるはずだ。これはで自明とされたことを問う展示,すなわちの「メタを問う」展示となり,からすれば,自らのメタのメタを問う展示ということになる。この種の展示は恐らく可能であろうし,今のわたしの講義にとっては最も望ましい展示となるであろうが,かかる展示は一般の来場者にとっては,何が何だかよくわからない「滅多滅多展示」でしかないのかもしれない。

 余談になるが,わたしは小杉榲邨という人物を,これまで明示的にそれとして認識したことはなかった。今回の展示で,小杉榲邨は近代日本地理学史というわたしの現在の関心領域に周縁的にではあれ引っかかる人物であることがわかり,その意味で小杉に出会えたことは大きな悦びである。しかし,小杉(1913)に掲載されたその経歴を一瞥してわかったことは,次のようなことである。つまり,彼は確かに「郷土史家」として表象されうる一面を有してはいたであろうが,単にその枠に閉じ込めて済むような人物ではありえないということである。『古事類苑』の編纂専務として文部省に勤め,後に帝国博物館技手となり,帝大卒でないにも拘らず文学博士の学位を受け,最後には東京帝室博物館評議員として勅任待遇にまで登り詰め,兼職としては東京大学文学部附属古典講習科国書准講師を皮切りに,東京美術学校教授を経て東京帝国大学文科大学講師として国語学国文学国史第三講座職務分担を命ぜられるなど,その学者としての経歴は,例えば同時代を生き,同じく日本歴史地理研究会の賛成員であった地理学者の河田 (たけし)1842-1920)と比べても遥かに華麗である(島津 2004a,b)。その学問や業績の一端を眺めてみても(大沼 2001, 2003),小杉榲邨は「郷土史家」としての現在表象を遥かに超えた,「中央の偉い学者」と当時はみられていたのではないかというのがわたしの印象である。であるからこそ,長谷川さんもいわれたように,『山城国愛宕郡計帳』とか藤原定家の『明月記』とかいった古代・中世の第一級史料の断簡とはいえ「実物」が,静岡県立美術館に所蔵される「藤江家旧蔵小杉文庫」に何故か含まれるという事態も生じえたのであろう(その一方で,天平期や鎌倉期の実物史料を私的に持ち出して領有するという杉村の所行は,当時としても果してどうだったのか?)。それにしても小杉榲邨の名は,わたしがこれまで自らの論文執筆のために目を通した『歴史地理』などの史料に確実に出ていたはずなのに,その記憶は一切残っていないのであった。

 最後に,展覧会の情報を最初に教えて下さった福田珠己さんと,訪問当日に多忙な時間を割いてご案内下さった長谷川賢二さんに改めて深くお礼申し上げたい。

2008612日稿了)

〔文献〕

大沼宜規 2001. 小杉榲邨の蔵書形成と学問. 近代史料研究 1: 1-27.

大沼宜規 2003. 国立国会図書館所蔵小杉文庫について. 参考書誌研究59: 46-129.

苅谷剛彦1996.『知的複眼思考法』講談社.

川合一郎 2006. 明治・大正期における雑誌『歴史地理』―同時代の研究者による評価を中心に. 歴史地理学48(4): 19-42.

「郷土」研究会編 2003.『郷土表象と実践』嵯峨野書院.

小杉榲邨編 1913.『阿波国徴古雑抄』日本歴史地理学会.

島津俊之 2004a. 河田 羆の地理思想と実践―近世と近代のはざまで. 人文地理 56: 331-350.

島津俊之 2004b. 明治初年の地誌家・河田 羆の経歴と著作目録. 和歌山地理 24: 9-18.

島津俊之 2005. 明治前期の郷土概念と郷土地理教育. 和歌山地理 25: 30-63.

島津俊之 2008. 「郷土」に搦め取られて:十年間の回顧. 「郷土」研究会ニューズレター 1: 2-3.

立岡裕士 2007. 幕末~明治初年の阿波国風土記編纂. 人文地理学会編『2007年人文地理学会大会研究発表要旨』42-43. 人文地理学会.

徳島県立博物館編 2008.『郷土の発見―小杉榲邨と郷土史研究の曙』徳島県立博物館.

長谷川賢二2008. 総説 郷土史の世界への誘い. 徳島県立博物館編『郷土の発見―小杉榲邨と郷土史研究の曙』5-8. 徳島県立博物館.