英訳聖書の授業

英訳聖書の授業

菱川英一
ぼくの手元に1枚のしおりがある。卒業記念に英国旅行をした教え子からもらったものだ。詩篇23番と書いてある。

彼はぼくの英訳聖書の授業に出席していた。全員に詩篇23の暗誦を課したので,彼も覚えていたのである。ぼくが授業で強調したのは,この詩篇くらいはそらで言えないといけないこと。英語英米文学のじつにさまざまな局面で,さらに,ひょっとすると人生のなにかの局面で,この詩は力になること,英国人なら一節をいうだけですぐにわかるほど有名なものであること,等々であった。

「先生,だれでも知っているのは本当でした」と,ロンドンの街を歩いていて偶然これを見つけた彼は,帰国後,ぼくにくれたのである。彼はぼくの授業内容を確かめるために,大英博物館にまで足を運んでいた。

教室で(あるいは研究室で)ぼくの知っている外国について話をし,それを参考に旅行をしてきた教え子は何人かいるが,授業を確認できたといって感激してくれたのは彼が初めてである。こちらも感激した。

さらに,別の教え子の場合は,授業には出られなかったが,出ていた人の録音したテープを聞いて勉強しているといってくれた。彼は教師になり,高校生にジョイスを教えたりしている。

後にも先にも,このような反応があった授業はない。だけど,手応えがあるとは予想していた。ある大学生対象の調査で,もっとも受けたい授業を聞いたところ聖書が1位であったとの話を読んでいたからである。

小学校から大学にいたるまで,神学校や神学部をのぞけば,聖書を学校で学ぶ機会は現在の日本にはほとんどない。英訳聖書がかつては日本の英学の重要な柱のひとつであったという痕跡は埋もれてしまっている。例外は齋藤勇の『イギリス文学史』や市河三喜の『聖書の英語』くらいか(どちらも研究社刊)。


インド人はなぜ英訳聖書を学ぶか。英語英米文学の根幹部分にそれがあることを知っているからである。語彙や語法のふかい部分にも入っている。だから,宗教の違いにかかわらず,英語の習得のために英訳聖書を学ぶ。

AV(欽定訳聖書)によれば,詩篇23はつぎのようなものだ。

 1 The Lord is my shepherd; I shall not want.
 2 He maketh me to lie down in green pastures: he leadeth me beside the
     still waters.
 3 He restoreth my soul: he leadeth me in the paths of righteousness for his
     name's sake.
 4 Yea, though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no
     evil: for thou art with me; thy rod and thy staff they comfort me.
 5 Thou preparest a table before me in the presence of mine enemies: thou
     anointest my head with oil; my cup runneth over.
 6 Surely goodness and mercy shall follow me all the days of my life: and I will
     dwell in the house of the Lord for ever.
これだけの文句が先のしおりには全部書き込まれている。いや,よく見ると,緑の糸で織り込まれている。上部には,木蔭で腰をおろすダビデのような羊飼いと羊の群れが見える。裏をかえすとスコットランドのBluehollow Weaving社製とある。

第1節。前半と後半の対照がおもしろい。原文のヘブライ語ではそれぞれ2語ずつだ。その2語め「ローイー」(私の羊飼い)を「羊飼い」とだけ訳した『新共同訳聖書』(日本聖書協会)はいただけない。「私の」が抜け落ちては,この偉大なメタファの威力は失せ,後半部「(それゆえ)私は欠乏しない」の必然性が消える。

第2節。みごとな並行法だ。前半と後半,ヘブライ語で3語ずつ。前半の「若草の野辺で」と後半の「憩いの水辺で」が意義深い並行をなしているのに,AVでは珍しくそれがよく見えない。そういえば,しおりは若草(デシェ)を思わせる色だ。

第2節があるからこそ,第3節の力強いことばがある。「私の魂を彼は生き返らせる」。「ネフェシュ」(魂,息,いのち)を蘇らせるとは,それまでの1〜2節が,単なる羊飼いと羊の関係の喩でなく,生命の根源を支えるものへのふかい認識に裏打ちされていることを示している。

いのちに満ち,元気百倍になった「私」は,もはや恐れるものはなく,渇くことがない。ゆえに,英和辞典のしるす"my cup runs over"(幸福が身に余る)とは,じつは存在の根底からほとばしる,このうえもない喜びをさすのである。


羊にとって,若草や水は休息を与えるのみならず,いのちの源そのものである。そのようなことを,まさに青草のような,萌えいずる学生諸君が想い起こさせてくれたことに,ぼくはふかく感謝している。あらゆる詩(俳句,漢詩,英詩,そしてもちろんヘブライ詩など)の根本原理と目される並行法。それを体現した詩のなかでも詩篇23ほどみずみずしい力にあふれたものはめずらしい。


『神戸大学教育学部英語科のあゆみ』(神英会,1997年11月)に発表したもの。