明治二十三年(一八九〇)に開催された、第三回内国勧業博覧会に、原田直次郎は「騎龍観音」と「毛利敬親肖像」の二作品を出品した。
 このうち、「騎龍観音」の観音が龍に乗るという図像に関しては、従来その典拠についてさまざまに考察され、三十三観音の一尊である龍頭観音が元になっていると言われいる。しかし、これについてはさらに特定の作品との図像的な類似が指摘できる。それは十七世紀から十八世紀にかけて活躍した、鶴洲霊●によって描かれた、一連の観音変相図(護国寺他所蔵)の中の一幅である。観音のポーズや持物、龍の動きなど、原田は図像そのものを忠実に写している。
 一方で、「騎龍観音」の表現には、橋本雅邦の「弁天」など、鑑画会で生まれた作品との関連も指摘できる。事実、明治二十年(一八八七)の帰国以降の原田の言動を振り返ってみると、同年に欧米の美術調査から帰国した、フェノロサや岡倉天心の活動に、原田は非常にビビッドに反応していることが分かる。しかし、原田は彼らのめざす方向に懐疑的であった。
 原田がこだわっているのは、彼らが日本画の中に洋画の要素を取り込み、日本画を革新するとした姿勢そのものであった。鑑画会では、狩野芳崖の「仁王捉鬼」や「不動明王」など、フェノロサや天心の主張を体現したような作品が次々と制作される。これに対して、原田は、表現そのものの中に彼らに対する批判をこめて「騎龍観音」を制作し博覧会に出品したのではないだろうか。原田は日本画の伝統的表現を評価していたし、洋画は洋画として学ぶべきであると考えていた。それゆえ、「騎龍観音」は、自らが学んだ純粋な油絵の技術を堂々と発揮しながらも、図像についてはあくまでも伝統的なのである。
 「騎龍観音」は博覧会という大規模な公開の場に展示された。原田がこの場を選んだのは偶然ではない。それは同時に「毛利敬親像」が出品されているからである。 当時、それ程主流であったとも言えない、フェノロサ・天心の鑑画会が、自らを主体とし東京美術学校開校にまでこぎつけることができたのには、当時最も政治的に影響力があった長州藩閥の伊藤博文らに接近したことにある。フェノロサや天心が日本画の向かう方向に指導的な役割を担うようになるのは、政治的な戦略が功を奏したためであった。原田が肖像画に描いた毛利敬親は、長州藩の最期の藩主であり、伊藤らにとっては旧主君であった。ここには、主題、表現、場のすべてがメッセージとして選ばれた可能性がある。
 本発表では、上記二作品の表現の特徴と図様の典拠を確認し、原田がドイツより帰国した後の活動や言論を振り返りつつ、これらが博覧会という場に提示された意味を探っていく。

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