アスベスト被害聞き取り調査―東京都文京区さしがや保育園保護者の方々[2009年2月28日] 松田毅 (神戸大学大学院人文学研究科教授): 去年(2008年)の3月ですけれども、震災時の解体工事をしていた30代の労働者が、中皮腫で労災認定されています。震災から13年しか経っていないのに、普通の潜伏期間からいうと、はるかに短い期間で発症したわけです。震災だけが原因ではないかもしれないが、当時、震災時にアスベスト用マスクを付けるべきことはほとんど言われていませんでした。そういう問題を踏まえ、子どももそうですが、災害時のアスベストリスクに対する予防の観点からいろいろな話をお聞きしたいと思います。 この冊子『パパ・ママ 子供とアスベスト さしがや保育園 アスベスト災害の軌跡』(飯田橋パピルス、2008年12月刊行)を読ませていただきました。Nさんといろいろお話をさせていただきましたが、最初の10ページから事件の経緯が時系列で書かれているので、それを追う形でお話をうかがえれば、と思います。特に、被害が出ていない段階で、リスク評価をされ、病気になっていない段階で補償をどうするかという問題、あるいは子どもの健康相談、メンタルケアも総合的に行われているという印象を持ちましたので、そのあたりを時系列でお聞きしたいと思います。特に専門家と当事者の間でいろいろなやりとりがあったと思います。その点、昨日もIさんから少しお話をうかがいましたが、どういうやりとりがあったのか、何が問題であったのか、今の時点で振り返られてお話して頂くと、専門家といわゆる素人の関係を考える上で参考になると思っていますので、よろしくお願い致します。 最初、非常に興味深かったのは、一番初めにアスベストのことに気づかれた方がいらっしゃったという点です。1999年の段階なので、そんなにまだアスベストの問題は世間に認識されていなかったと思います。日本でも何回かアスベストの問題は騒がれ、パニックが起こりましたが、下火になって忘れ去られていったわけです。昨日もIさんにお聞きしたのですが、よくわからなかったので、どういう方がどういう背景でアスベストを調べ、危険性に気づかれて、皆さんに問題提起されたのか、そのあたりからお聞きできたらと思います。 Mさん(女性): 私たちの年代に学校にアスベストがあるというようなことは、うすうす認識がありました。ただどういう形状のもので、どういう状態のものかは知らなかったのですが、たまたま知っているお母さんがいたんですよね。それで、天井を見たら「アスベストじゃないか」ということで、園長先生に指摘されたところから話はスタートしているはずです。 Nさん: でも、言葉はなんとなく聞けば聞いたことがあるけれど、それがなんで問題になっているのかとか、そういうことはまったく知りませんでした。 Yさん: 私はNさんから教えてもらって、「危険なんだよ」というのを教えてもらったので、そこで「ああ、そういうものなんだ」というのを信じたぐらいだったので。 Mさん(女性): 一番強く認識したのは、NさんとAさんが開いてくれた説明会です。あれで、とんでもないことになっているという認識がはっきりわかりました。 Mさん(男性): キーワードで危険だという言葉だけがあって僕たちにはわからない。それで、長松さんと安藤さんが説明会を行ってくれたという感じです。 Mさん(女性): 「どの程度だと危険なのか」というふうにしか思っていなかったし、できればなんでもないことになるほうがいいのになというぐらいにしか最初は受けとめていないから、おそらく開いている窓から発見した人は相当びっくりして言ったことだと思うんですけれど、その度合いが、一般の保護者には伝わりづらかった。温度差の違いは最初からストレスになっていました。 保護者の心配の度合いや内容がまちまちなので、園長先生の対応も曖昧になってくるわけです。大ごとにしたら、もしかしたら登園できなくなるかもしれない。そう考える父母もいました。そのあたりで温度差があったのかなと思います。 Mさん(男性): アスベストは危険だというキーワードだけで、中身はわからないけれど、それに反応した父母と、「行政が行うことだから大丈夫」と反応しない父母。危険という言葉の認識にもものすごく差があった。 Mさん(女性): 普通何かとんでもないことだったら、絶対保育園に来てはいけないというふうになるはずだろうとしか思っていなかった。工事前に発見したお母さんと園長先生のあいだでは結構議論があったのではないでしょうか? 松田: そうすると、工事前からそういう議論はあったわけですか。 Nさん: そうです。工事が6月25日に始まる前に、4回ぐらいこの方が園長先生を通して聞いてきました。 Mさん(男性): 他の父母たちは誰も知らない。 Mさん(女性): 0歳児の保護者は入園後すぐの出来事だったので、だれにどのように質問していいのかさえわからない。着任したばかりの園長先生だったこともありました。それよりも、最初の頃は、そのすぐ後にある運動会が中止になってしまうんじゃないかとか、そっちのほうを心配しているという感じで。今考えれば、それどころじゃないんですけれど。 Yさん: それで保育園生活が崩れるんじゃないかということもかなりあったと思います。生活が崩れるとか。 Mさん(女性): そっちのほうを恐れていたよね。預かってくれなくなったらどうなってしまうんだろうとか。実際、区の人もちょっと圧力をかけてくるようなこともあったから。 Mさん(男性): そう、場所を移動するとなると通常の保育は出来ない様なことをすでに言っていた。 松田: かなり早い段階で区の方がそのように。 Mさん(女性): 圧力というか、一番印象に残っているのはお弁当問題。区の人が「給食の出ない避難場所に行ったら、お母さんたち毎日お弁当ですよ」と言われました。それはちょっとびっくりしましたね。「このままのほうがお弁当を作らなくていいですよ」というような言い方をされて、びっくりしました。そこからだんだん不信感が出てきました。 松田: NさんとAさんが開かれた説明会というのはどの時点にあったのでしょうか。 Nさん: 7月14日に大きいのがあって、その週末の父母会で問題になりました。それで、「これは大変だ」と思って、16日くらいに工事を止めたんです。その後に17日に説明会があってたくさんの保護者が来たので、その前にアスベストのことを予習しましょうということで予習をしました。この頃は吹き付けがあるとは思っていなかったので、そんなに深刻ではないと思っていたのですが、私自身は専門知識がなかったので結構シリアスに話をした覚えがあります。 私たちは子どもが小さいので、保育園に思い入れがなくて、安全のほうが大事だと思っていました。長く子どもを保育園に預けていた方たちにとってみれば、保育園には今までの楽しい思い出があるし「どうせ私たち保育園を出ちゃうのに」という思う方も正直いたと思う。また子どもを預かってもらって両親が働いているひとは、それを乱されるということに恐怖を覚えた方もいた。それぞれが、事故によって生活を乱され、受け入れられない中で、現状がつかめないまま、区の対応も一転二転してとても混乱していました。 Mさん(男性): まして1階と2階に園児の居る場所が分かれていて、年少者が2階だったんですよ。そういう条件も重なった。そこで温度差が生まれたというのがあると思います。 Nさん: 「私たちは吸っていないから」ということで。 Mさん(男性): 「うちの子は大丈夫」という認識をしている父母はいました。 松田: 父母会の中でも、その辺はかなり学年によって認識に違いがあったということでしょうか。 Mさん(男性): 学年というより、個人の捉え方だと思います。 Nさん: 6月の工事前に一度父母会の議題になったのですが、5〜6歳のお母さんたちが「そんなことよりも夕涼み会のほうが大事だから」と言って却下してしまったんです。働いている親からすると、子どもと一緒の行事は滅多にないから。でも、その次の父母会にやっぱり心配だと思ったあるお母さんが再度提案してくれて、これはすぐに取り組まなくてはということになったんです。 Mさん(女性): 理論的になるまでに時間がかかったよね。感情的な考えが優先していたから。あと、アスベストに対する知名度とか認識みたいなものが。今聞けば、一般の人だって認識は違いますからね。今と10年前では社会的なバックグラウンドの違いが相当大きかったと思います。 Nさん: あと私たちが知らないところでやっていたんです。 Mさん(男性): 保育園に入園したばかりで、どういう対応をしていいのか、時間があったら知識を得たいという気持ちが強かったんですよね。どうして危ないのか自分で納得しようと思っていた気持ちが強かった。自分の子は大丈夫という気には当然なれなかったし、園の生活にも慣れないというのがあった。 Nさん: 区側の態度も最初は酷かったですね。でもああいう対決がなければ、うやむやになったまま解決せずに終わっていたと思います。 Mさん(女性): いろいろな方向からいくこと、感情的な人も絶対必要なんだと思います。マスコミ的なアプローチも必要だったし、個人的な感情も必要だったし、理論的な説得も必要だった。その全部がそろわないと皆を納得させることはできなかったと思います。それだけ個人の事件に対する受け取り方にすごく差がありました。 でもやっぱりテレビが一番わかりやすくて、父母連という文京区全体の保護者連絡会があるんですけれど、そこで協力してもらって、父母連でもこの問題が風化しないように、さしがやのことを支援してくださいということを話しました。内容が分かりづらかったので、今まで放映されたテレビの内容をダイジェストで収録したものを作りました。それをお貸しすると「こんな大変なことがあったの?」という反応が多数ありました。その後の父母連の流れにもつながったと思います。 松田: それはいつごろの話でしょうか。 Mさん(男性): 2000年の秋です。 Mさん(女性): 保育園の中だけで話していると、当事者どうしなので重苦しい空気にどうしてもなります。なんとかしなければと思い父母連の方たちに話を広げたら少し楽になったんですね。要するに被害にあっていない人の方が気楽に聞いてくれる。 Mさん(男性): 保育園の中での閉塞感というのがあったんですよね。 Mさん(女性): 被害にあっていない子育て仲間も応援してくれるんだなと。そっちに話を広げていくうちに、だんだん「まだ続けられる」という気になりました。圧力があったら、逃げたくなるような気分はいつもありましたね。でもそれを続けないと検討委員会も終わりませんし。あれはプレッシャーでした。 Nさん: いつまで経っても計測値が出ないっていう。 Mさん(女性): このまま委員会そのものが終わっちゃったらどうなるんだろうと。 松田: 今言われた委員会というのは健康対策委員会のことでしょうか。 Mさん(男性): その前に父母が入らない専門家だけの委員会が3年〜4年ありまして、僕たちは傍聴だけでしたが、環境の方とか記者の方とかが出席するものがありました。そこで報告書を作りましょうということになって、それで3〜4年かかっていると思います。 松田: その委員会の傍聴にはどれくらいの方が参加されていたのですか。 Mさん(男性): 5、6名程度ですね。 Mさん(女性): そのうちなかなか話が進まないというのが見えてきたので、N生が直接お母さんたちから話を聴く機会を作ろうと言ってくださいました。それで委員会で親が発言してもいいという機会ができて、そのとき4〜5人だったでしょうか、お母さんたちが来て、「こんなことになっています」というようなことを話す場面を作っていただきました。そのときに私がビデオカメラを持っていってお母さんたちの涙ながらのお話を撮って、座長のU先生にビデオテープをお送りしました。それで現状で委員会がなかなか進まないので保護者も心配していることを、父母会長のIさんがU先生に直接電話で話しをしてくださって、それからだんだん事態が動くようになって来たわけです。 Mさん(男性): それまで専門家の先生は今までの数値のことが頭にあって安全だと言っていたわけなんですが、でもこういう考え方もあるという話を出しても委員会の中ではなかなか譲らないので本当に硬直しちゃうんですよね。 Mさん(女性): でも今思えば、保護者は危険性が0%じゃないのであれば100%だと思うという気持ちがあるわけだから、被害者救済にすすめなければ議論は収束しないということをU先生はそのとき感じていらした。導いてくださる気がしました。 松田: U先生がそういうふうに導いている感じを持たれたのですね。 Mさん(女性): やはり被害を受けた人の心理的な状況っていうのを、すごくリスクの面で重く見ていたように感じます。だから話がだんだん保護者よりに好転してきた。最初は「安全ですよ」ということを言うための委員会にしか見えなかった。「この程度で心配しないでください」と言うために、委員会って作られているなって、それはもう直感でわかりました。でも、それをそうじゃないってひっくり返さなきゃいけないんだというのを被害者の立場に立つ委員の先生方がおっしゃっていた。 松田: 委員会には区が選んだ人以外にも推薦で入った方がいらっしゃると聞いたんですけれども。 Nさん: NさんとFさん、あとM先生も一時期入っていてくださっていて。皆、私たちの代わりに闘ってくれた方たちなんですよね。 Mさん(女性): 被害者寄りのほうにちゃんと論調を持っていける方たちに知識をもらいつつ考えました、当事者である保護者の態度や行動がない限りは動きようがないこともわかりました。それを逆転させるのが如何に大変なことなのか、世の中の問題というのがすごくリアルにわかってきました。原爆問題や公害病など全部に共通するものがあるということです。 松田: その委員会は一応、一区切りがついたということで。 Mさん(男性): 報告書ということで、提出が終わったんです。それで、その後に父母を集めて報告書の説明会を行いました。 松田: 検討委員会は最終的に議論が分かれたままだった。 Mさん(男性): すごく異例なことですけどね。委員会の内容は未だに理解するのが相当難しい。 Nさん: シミュレーションをしたんですが、この建物の中にアスベストがあるのだとしたらその周りをもうひとつ大きな器で密封して安全にしておいて、その中でアスベストをとるときにどうなるか、同じ事をやってみようということで、やってもらったんですよ。そこでとんでもない数値が出てしまって、それを見た本人がびっくりして「こんなわけがない」と言って、0を勝手に削ってしまうんです。だったらこんなことやらなければいいのに。そこをFさんが突っ込んで、Fさんは引かず、調査した彼も引かず、ということがずっと続いたんです。あの頃は名取さんが、議事録を全部チェックしていました。でないと大事なところが抜けてるんです。 Iさんに文書を作ったり、また別に弁護士さんのほうからプッシュしてもらったり、他の父母の方たちに新聞記事にしてもらったり、それぞれが分かれて動き始めた頃なんですよ。皆でやるのも大事なんですけど、それだけだと煮詰まってしまう。 Mさん(女性): あまりにも経験が濃いから、被害が一緒だから、つらいんですよね。 松田: ある種のトラウマのような。 Mさん(男性): というのもあるんでしょうし、すべての人が同じ気持ちで同調するということはかなり難しいことだと思います。 Mさん(女性): 保護者同士に軋轢が生まれるというのが嫌でしたね。 Nさん: 子どもがまだ小さくて幼稚園に行く前というのはすごく大変ですよね。 Mさん(女性): 毎日保育園の送り迎えで保護者同士顔を合わせるから、何かと話をする。 Nさん: 皆、この地域ですから。そして同じ小学校に上がり、「お兄ちゃんはあそこで一緒で」というように。生活をぐちゃぐちゃにされてしまったんですよ。 松田: こういう問題が起きなくても保育園というのはわりと人間関係が難しいところがありますよね。その上にこのような問題が起こってしまった。その辺のことは実はかなり大きいということですよね。 Mさん(女性): そうです。それで、同じ学年の中に区役所に勤めている方もいるわけでだから、そこで「区がやっていることはおかしい」と言って良い気持ちになるわけもなく。「一緒にやりましょう」と言ったって、区役所に勤めている人が区役所に対して物申すことはできるわけもなく。でも、普段は生活をしているわけだから、そこは結構気を遣ってというか、すごく考えました。 松田: 後で心理相談をやられるのも、そのこととは全く無関係ではないのですか。 Mさん(女性): でも、遅すぎましたね。その時点で皆かなり傷ついていますよね。 Nさん: もう掘り返す元気もないときに、心理相談をしてもらっても、悪いんですけどもう手遅れです。今まで一緒に闘ってきた人たち以外にはわかってもらえない。今までの苦しみを知らない偉い先生に来てもらっても、しらけたものになる。 Mさん(女性): 今みたいに何か事件が起きると、もう次の日からちゃんとカウンセリングが実施されるなんて、あの頃はありえない。早くにやることが絶対に大事。 Nさん: 皆、傷ついているんです。子供がリスクを負ったことで、子どものお父さんお母さんも、その周りにいるおじいちゃんおばあちゃん、皆がとっても深い傷を負った。ただその傷に気がつかないだけだった。傷ついてしまった苦しみから、保育園で親や先生が傷つけあって、それが何重にも起こってくることによって、普通だったら仲良くできるようなことも仲良くできない。皆がフラストレーションを抱えていることがつらかった。「これは皆さんの一時的な正当なリアクションであって、本当の思いではない」ということを諭してくれる人がいなかった。 小児科に行って「先生、この子は死なないですよね」と聞いても、「大丈夫でしょうか。大丈夫と言ってください」と頼んでも「それはわかりません」と言われるんです。たとえお医者さんじゃなくても、「大丈夫だよ。信じて頑張っていこう」と言って頂ければ、今を乗り越えられるのに誰もしてくれなかった。30年後ぐらいに何かあったとしても文句は言わないんですけれども。ずっと後になって心理相談をやってもらっても遅かった。早期の心理相談はどうしても必要だと思います。 Mさん(女性): 私は実はごく数名の保護者の方たちと一年間リスク相談と心理相談に通い続けていました。それですごく立ち直れた感があります。心理相談とリスク相談があって、両方とも行っていました。リスク相談のU先生やA先生と一年間話せたことも、心理相談のM先生と話せたことも私にとってはすごく救いになっています。 Mさん(男性): 僕たちはそこで直接話ができますし、一対一ですから、父母の感情もそのままに、本当にカウンセリングですよね。その後の協定問題も進まないのが心の負担だというのを先生方に聴いてもらえて、それを進める原動力にもなって、それは大きかった。 Mさん(男性): 僕は保護者代表の専門委員になっていたのですが専門知識が少ないので戸惑うことも多く父母で参加する委員会リスク相談や心理相談で、細かい内容の疑問点も相談することが出来ました。 Mさん(女性): 「私の気持ちはどうやったら伝わるんですかね」というふうに。ああいう専門家の中で一般人が発言するというのはものすごく負担なんですよ。説得力があるように説明するというのは。こっちも弁護士の先生に相談しているから、弁護士の先生に「こういうふうに言ってください」と言われたところで、専門家の法律用語なんか言えたものではないし、どうやって言えばいいのかとか、それは心理的にはすごく負担は大きいだろうなというのを夫を見ていて感じたので、参加させてもらえるのは大変ありがたいですけれど、専門家集団の中の一般人のあり方というのはすごくきつい難しいなと。 あとは、心理相談の先生には励ましてもらえるというのがすごくあった。かなり勉強してくださっていて、アスベストのことは新聞も全部取り寄せてくれてくださっているし、「続けることが一番大事」だということがだんだんわかってきて、自分が頑張れるだけでなく、それを周りの人にも知らせなくてはいけないことがすごく負担なんだということをお話したらたら「世の中が変わってくると、変わる人は出てくるから」という助言をいただき救われました。本当に去年まで「私は関係ない」と言っていた人にも、変わる人が出てくるからと。だから、今ここで結果を出すのではなくて、周りが結果を出してくるときもありますよということを先生から言われて、ああそうかと。 やはり保護者同士のむだな軋轢は最初に心理相談をやれば良くなるし、それは子どもにとっても良いと思います。 松田: 一般の人が参加できるようになった委員会にはメンバーとして入られていたのですか。 Mさん(男性): 僕とIさんが二年間担当しました。 Nさん: それで、去年の4月から私ともう一人。 松田: そのあたりは現在進行形なわけですね。 Mさん(男性): 僕とIさんが担当していたときには、問題解決っていうことが焦点だったわけですが、今後は世の中の流れに添った形で新たな問題があれば、話していきましょうということになっています。 Nさん: MさんとIさんのときにほとんど問題は解決したんです。まず事件が起こって、子どもの避難ですよね。子どもが避難したら、長期的に子どもの保育をどうしていくかと。それが終わって、子どもたちに何が起こったかを明らかにしたいからと言って専門委員会を作ってもらい、その科学的根拠をもとに子どもたちに将来何を保障として残していくかを考えたかった。 私たちのゴールはあくまでも、なって欲しくないけれども子どもたちが中皮腫や肺がん発症時の医療補償で、それを保証するものを協定として今欲しかった。向こうはそれを受け入れるのにすごく時間がかかって。最初は「何ともない」と言っていたけれど、それが難しくなってくると、「わかった、何かあったときには面倒を見るよ」と要綱という一方的な提案をする。それでは向こうが勝手に変えられるから、私たちはもっと確かな保証が欲しいというところですごく時間がかかったんです。 松田: 二回目の委員会の他の構成メンバーというのはどういう顔ぶれだったのでしょうか。 Mさん(男性): ほぼ変わっていません。 Nさん: 区の小児科医が入るんですけど、それが任期でやや変わり。 Mさん(女性): 被害者を救済するというのが目的の委員会の流れになってきた感じがしました。 Mさん(男性): 父母にどういったフォローをするかという事で、委員会の中で子どもたちのための冊子を作りました。 Mさん(女性): その委員会に協定問題を乗せるまでが、手間のかかることでした。その協定とかいうのは裁判と同じレベルだというふうに区も受け取っているので、「委員会で話すべき内容ではありません」という感じで、区と保護者は直接話さなければいけない状況があったんです。相談している弁護士さんと区が和解ではなくてどうしても対決姿勢になってしまうんですよ。それで、対決姿勢になってどんどん話がまとまらなくなってしまう。それをリスク相談に何人かの保護者で行き、U先生やA先生にもこの状態こそがリスクの一つになっていると言うことをご相談しました、委員会レベルの話にして、「親御さんたちが困っています。この話も委員会で皆で検討してみましょう」というので協定の内容を委員会の議題にしていただく流れになっていきました、委員会で細かくチェックして、何十年経っても子どもが困らないような言い回しになっているかどうか検討を重ねました。 松田: 訴訟された方がいらっしゃって、和解された。そのことがかなり区の動きを変えたんじゃないかということを昨日お話された方がいらっしゃいました。 Mさん(女性): それは絶対ありますね。裁判までされるとは向こうも思っていないところに、ちゃんと裁判しないと40年後の保障はないということまでわかっていたから。そこでもやはり裁判に行く人と行かない人と、分かれますよね。その訴訟がベースになっているんですよ。同じ弁護士さんに私たちも相談してますから。裁判の傍聴には行っていましたけれど、裁判しなかった私たちはどうなってしまうんだろうというのがあって。それには協定しかないというのは分かっていたんですけれど、協定をとるにはどうやったらできるのだろうというのが大変なことでした。裁判の和解内容も40年後はきついかなというのがあったので、それ以上をとりたいというのが弁護士さんにもあった。 Nさん: その間に時間が経っているので、だんだんアスベストのことがだんだん解明されてきました。今後も10年後、20年後、もっといろいろなことが分かるでしょう。だからあまり確定的なことを入れてしまうとかえって損をしてしまうことがある。なかなかそれも難しくて。 N先生が司令塔なんですけれど、結構いろいろな形でせきたてられたんです。裁判が大事なことは分かるけど、そこまでしたくない気持ちがありました。今よりもっと傷ついていたんです。小さい子どもを抱えて、明日を乗り越えるのに精一杯の私たちにとって、裁判を押し付けられるのはつらいことだったんです。結果的にはN先生の言うとおりに動いてきたメンバーですけれど、正直つらかった。もうできればやめてしまいたいと思っていながら、仕方なくやっていた私たちです。 もうひとつはこの中の人間関係を穏便に保つことが大切でした。裁判する人たちだって私たちのサポートがなければできないわけです。議員さんのところへ行ったり、文書を作ったり、傍聴に出てくださったり、とそれぞれができるところで10年間がんばった結果だと思うんです。子供たちが暴露した親としては、アスベスト問題にかかわること自体が、辛い現実を見つめることでした。どの親も傷ついていました。区との交渉の過程で、傷ついた親同士の関係が悪くなることもありました。それはまた新たな苦しみを生みました。たくさんの困難や絶望を感じながら、自分たちを奮い立たせて交渉してきました。辛い気持ちを出すこともエネルギーがいるんです。皆が辛いと分かっているけど、今を乗り切ることに精一杯でそういうことを話す余裕がない。言葉にしたら崩れてしまいそうなすごくもろい関係の中で、Iさんの人柄を頼って何とか頑張ってこられたのです。 Mさん(女性): リスク相談のU先生やA先生は素人の父母がわけが分からない質問をしても誠実に答えてくださる。そこがすごいと思います。リスク・コミュニケーションの学問自体が外国で作られているので、それを日本に適用させるにはどうすればいいかということを探っていらっしゃる。日本人の感覚とか感性に合ったリスク・コミュニケーションというのは、先生たちが学んできたものとは違うというのをすごく認識なさっているから話をよく聴いてくださる。それで、どうすべきかと。 あと、もうひとつ私が協定でこれはこだわらなければだめだなと思ったのは、リスク相談のときに先生が、アスベストによって発症しないとしても、日本の肺がんの発症率で言うと、108人いるお子さんの中で5人は確実に肺がんになりますよという話をされたんです。そのときに、もし肺がんになった方が、あのときのことと関係ないと思って生きていけるかどうか、そういうときにどうなるか。それはこの問題とは別に考えても確実に肺がんの発症者がいるということですよね。ということは、それが結果として分かっているとしたら、その件に関しての保障が絶対に必要なんだなというのは分かっていたんです。だから、それをはっきりさせる必要がある。だから40年後に何も起きないということはないということです。 Nさん: 私たち最後まで見届けられないですよね。例えば、天寿を全うしてくれるかもしれないし、それが良いことだけれども、私たちはそのとき確実にいないですよね。区長に「がたがた騒ぐのは子どもの教育に悪い」「死ぬとしても30年後だ」と目の前で言われたんですよ。うちの子は1歳ですから、そのとき31歳ですよ。そういう想像力が政治家の人にはないんです。30歳で死ぬということは、結婚して子どもが生まれて、お父さんやお母さんが死ぬということじゃないですか。 だからそういうことが起こらないように、たぶん起こらないとは思うけれども、そういうものをリスクとして抱えてしまっているわけです。それをどういうふうに生きていくか。何年後かに医療費が欲しいとか、保障が欲しいんじゃなくて、そういうものを抱えた自分の人生を前向きに明日へ一歩踏み出すためには、やはりこれを10年やらなければいけなかった人たちが私たちなんです。 松田: 裁判を担当されていた弁護士さんが言われていることで、「この裁判というのはアスベストを吸った人がまだ病気になっていなくても、責任を負わなければならないと認められた画期的な裁判である」と。このあたりの議論は裁判を傍聴されていたと思いますけれど、どんな感じで展開されて、それについてどんなふうに思われたのかということをお聞きしたいのですが。協定の中でもそのことは踏み込まれていたのでしょうか。 Mさん(女性): もちろん、協定でも踏み込まれていました。弁護士さんは前例を気にしない姿勢がありましたね。今までにないことをやるという強い意志、それをすごく感じたけれど、私たちにとってみれば前例も何も知りませんからね。うちの子たちを守るというやり方だけを探っているだけだから。 Nさん: 今、保障が欲しいと私たちは言ったんじゃないんですよ。見舞金が全員に10万円ずつぐらい出たんですよね。それは私たちが欲しいと言ったのではなくて、ただその10万円を出すということで一種の過失を認めると。ただ名前が見舞金になってしまったんですよね。私たちの精神的苦痛に対する。でも、そこに被害と加害のかたちをとるということと、もうひとつどうして将来の確約が必要かということは、ひとつ先ほど言ったように私たちが最後まで見届けられないということ。もうひとつは子どもたちに過失はないですよね。他のアメリカだとかオーストラリアとか世界中の保障の対象というのはほとんどが労働者ですよね。働いていて、リスクは知らされているかもしれないし、知らされていないかもしれないけれども、長期に大量に高濃度のアスベストに暴露して、その結果一部の方が亡くなったと。でも、大人だし、その人たちには職業の選択の余地があったんだと思うんですよね。その労働者の問題とは違って、子どもたちはたくさんの大人がいながら、守りきれなかった。そういったものに関してこの子たちは何の責任もないんだから、将来何かあったときのために今から約束するのは当たり前だろうということが前提にありました。 松田: 子どもさん自身がどう考えているのかということが気になるのですが。 Nさん: 昨日の夜、アスベストの話になったんです。今6年生なので、やはり何となく分かるじゃないですか。まだ子ども用のパンフレットはきちんと読ませてはいないんですけれど、中学生ぐらいになって本人が見たいと言ったら、見せようと思っています。現時点では簡単に説明し、「もしそれでも不安になったら、もっとうまく説明してくれる人たちがいるから、ちゃんと話を聴こうね」、と話しています。 あまり変に不安にさせるのもいけないので、きちんとレントゲンも見てもらうような態勢もできているから大丈夫だということを説明していこうと思っています。娘は、あそこの保育園にいた自分たちは皆、被害に遭っているんだなというのは感じていると思います。 Mさん(女性): 今度委員会で引き継いでいくときに、ネットワークを作っていくためにうまく子どもたちを導いていかないと。ただ、今はあまりごちゃごちゃ言わないで、当時友だちだった人たちと仲良しでいることが一番のリスク・コミュニケーションになっているだろうなと思って。 Nさん: それはすごく大事なんですよね。うちの子は、私が「死んじゃう」と言って泣いているのを見ているから、「私死んじゃうんだな」と思っていたんですね。このあいだ、子どもと一緒に保護者と子ども向けアスベストのサイトを作ったんです。その過程で、アスベストについていろいろ質問されました。今まで聞きたくても、お母さんが心配するから言えなかったのだとわかりました。サイトを作る作業のなかで、娘は心配だった情報を淡々と得ることができました。同時に周りに同じ保育園でアスベストを吸った子がにこにこ歩いているとことにものすごく励まされるんです。どのお母さんも今笑っている。そういうふうに周りの人が大丈夫だという反応を見て、「私も大丈夫だ」ときっと思っていると思うんですよ。ですから、この地域にいて皆と一緒にいるということはすごくうちの子どもにとって大事なことだと思っています。 藤木篤 (神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程): アスベスト関連の書籍やパンフレットなどを読んでいると、被害者の方の心の問題にはほとんど触れられていませんね。「アスベストを吸うと、こうなってこうなります」とか「発症率はこれぐらいです」という感じで、 事実関係が記載されているのみです。 裁判の結果などに関しても、いついつ訴訟が起きて、何年にこういう判決が下されましたというように、これもまた同じようなものです。 被害者の方にお話を伺っている中でも、肉体的にも精神的にも相当消耗されたという印象を持ちました。しかしその一方でアスベストセンターの永倉さんからは、こういったメンタルなところに関しては(ケアに対する)態勢がまだまだ不十分だと伺いました。被害者の方のケアというのはとても重要なことだと思うのですが…。 Mさん(女性): その方法が問題なんですよね。 松田: 裁判を担当されていた弁護士の方が、この裁判あるいは協定では発症していない場合でも、行政は責任を持たなければならないということを言っていたと思うのですが、それが裁判だとか協定を結んでいく段階の中でどういうかたちで議論として出てきたのかということ、今振り返ってみてどういう評価をされているかということをお話して頂ければと思います。 Aさん: 裁判は1年半ぐらいやったのかな。平成15年の7月に提訴をして、平成16年に和解というかたちになっています。現時点では因果関係や将来についての予想ができないわけですが、とは言え調査の中で10万人に6人という数字が現実として出ているわけですから、その数字や僕たち保護者の訴えや心情をかなり理解してくれた判決だったかなという気がしました。あと、リスクを知っていながらやっていたということは明らかだったので、未知の犠牲を強いられたというのは甚だ反社会的だというニュアンスの和解判決だったと思います。そのプロセスにおいてはやはり勝てるのかなと思いながらやっていたのですけれど、問題提起という意味も大きかった。先生や支援者に助けてもらいながら続けることができたんですけれども、やはり僕らがやっていることは正しいと思っていたし、逆にあのまま誰も気づかなかったら提訴にはなっていないし、行政が和解するなんてこともできなかったと思います。もし負けても裁判のプロセスというのは残るわけですよね。それはすごく意味があることだったんだなと思っていて、気持ちを奮い立たせてやっていました。 松田: 裁判ではどういうやりとりをされたのでしょうか。例えば区側と提訴した原告側というのは。 Aさん: 弁護士の先生が活発に動いてくれて、区で当時工事の発注書に判を押した東という人を任意で呼び出して、当時のことを思い出してもらいながら、どうしてこんなことになったのですかということを個別に話を聞きました。そうしたら、「これは僕がやったんじゃなくて、区がやったことなんだ」と。「これは区の総意としてやっていることで、それを僕だけに責任を言われるのは甚だ遺憾である」みたいなことを言ったんですよ。それで、腹が立つのを堪えながら、全然わかっていないなあと思って。そういうこともやりました。 あと、行政の注意義務違反であるとか、あるいは縦割り行政から生まれた人災であるとかといった問題にも警鐘を鳴らすことができたので、その後のアスベスト対策もかなり良くなってきたんですよ。そういった意味でもすごく意味があったなと思います。今も被害が全く出ていないとは思わないけれども、かなりチェック機能が働いているんじゃないかなと。 個人的に今でも工事現場などを見ると、「ここ大丈夫かな」と思いますよね。そういうのは、すごく知識として蓄えてきたというのがものすごく大事なんだろうなと僕は思いますね。それをまた子どもたちにどう伝えていけるかということも含めて。僕たちの子どもも実際に被害に遭っているわけだから、彼らはそういう問題意識を持って、社会に対してそういう目を持ってくれれば、やった甲斐があるんじゃないかなと。 松田: その担当課長のHさんという方はそれ以前の段階で、工事の交渉にも出られていたのでしょうか。 Aさん: 最初に発覚した頃は説明会に必ず来ていて、頭をぺこぺこ下げるだけでした。それで「触っていない」とかいろいろと詭弁を言って責任逃れをしようとしていた典型的な役人で、そのあと処分が下って飛ばされて、そのまま他のところへ天下りのようなかたちになりました。 松田: その人はアスベストに関する知識を持っていたか持っていなかったかということに関してはどのような主張をされていたのでしょうか。 Aさん: 「一般的には持っていた」というようなことは言っていましたね。環境対策課というところがアスベスト除去工事の申請を受け付ける部署だったんですけれども、そこと全く連携が取れていなかった。工事を発注するのは保育課だから、そこともただ単に予算のことだけしか話していないという感じで、全くリスクに関しては効果がなかった。 だから、保育園の園長とか保育士さんたちというのは実際やはり知識がなかったと思うし、それが起きたときにも右往左往しているしかなくて、僕ら自身もそれはなかったし、周囲の大人の無知というか、無責任性が、子どもたちを結局被害に遭わせてしまったという典型的な人災でした。 Mさん(男性): 最初にお母さんが個人的に園長先生に話されていたというレベルでは園長先生も「区の担当はまともに取りあってくれない」というような対応だったのではなかったかと思います。 Aさん: 今考えるとそういう関係力学というのは変ですよね。それは学校でいうと教育委員会と先生の関係みたいなんだけれど、やはり保育現場の人と行政の関係性が悪かったんだろうなという感じがします。未然に防ぐチェックポイントは何回もあったんですよ。それをスルーしていて、気がついたらもう始まってしまっていたというような。それが後でわかって、やるせない感じがしました。 Nさん: 異常な状態だったんですよ。後でわかったのですが、皆、断片的に「変だ変だ」と思っていたんです。私たちが預けに行くときは工事をやっていなくて、いかにもちゃんとやっているように見えるんですよ。わざと入り口から通してくれなくて、外をぐるーっと回って。子どもを預けるときはちゃんと普通に仕切ってあったりするけれど、お母さんがいなくなると仕切りを開けてガンガンガンとやっていた。 松田: 業者はそれをある程度認識していてわざとそういうふうにしたのでしょうか。 Nさん: それはそうですよ。 Aさん: アスベストというのはどうかわからないですけれど、実際やっていたのは東南アジアから雇った日雇いの労働者だったから、彼らが一番アスベストを吸っていると思う。 Nさん: ただ、アスベストかどうかは別として、音と粉塵とっていうのは、保育の環境ではなかったです。たまたまその途中に早く迎えに来た親御さんは、煙がもうもうとするなか子どもたちがわーっとベランダに逃げるのを、先生たちが「危ないから行っちゃだめよ」とそこに行って、もうもうと煙がそこに出ているというのを見ている。もしこれが粉塵じゃなくて火事の煙だったら逃げると思うのに、子どもは本能に従うのに、それを止めちゃうというのが人災だと思うし、普通の感覚は麻痺していますよね。「こんなところにいられないよ」というのがなかったんですよ。ちゃんと看護師もいたけど、危機管理という面では無能だったと思います。あと、Aさんの部下もちゃんとその場にいたけど、黙認していたんですよね。 松田: アスベスト以前の問題としてもあったというわけですね。 Nさん: もちろんですよ。それをわざと隠していたわけですよね。迎えに行くと、綺麗になっているんですよ、また。何事もなかったかのように。 松田: それは業者にとって手間がかかるということだったのではないでしょうか。 Nさん: でも冗談じゃないですよ。お金なんか何百万円しか違わないのに。Aさんという人が判子を押したんですけれど、その下で実際にやっていた3人組の衛生課の職員がいたんですよ。それで、「どうしてこんなことしたの」って言っても「いや、わかりません」という感じで。でもきちんとそれをしようと思えばできたのだと思うんですけど、そういう能力がなかった。 Mさん(男性): Hさんに関しても、「Hじゃなくて、区がやったんです」というような説明になる訳です。なぜこんな人たちが行政の重要な仕事をやっているのかなと思いましたよね。 Nさん: 子どもたちがこんな大事になって親たちが死ぬほど苦しんでいるということが全然わかっていない。平気で保育園のどこかでたばこを吸っているし。なんでもそうですけれど、事故なり災害なりを最後に水際でせき止められるのはやっぱり人間なんですよ。システムがあって、マニュアルがあって、でもそれだけではだめで、一人ひとりが責任を持って。常識がないからこういうことになるわけで。 それを誰も責任を持たなかった。「自分はそういう仕事じゃない」とか「上司がこうだったから」とか、みんなが自分の責任から逃れていたんです。残念なことに、日本の法律では何かをしたことに対しては責任を問えるけど、見殺しをしたことに対しては責任を問えないので。 Aさん: 無作為の行為に対するものがないんだよね。 Mさん(男性): そこをM先生がリスク・コミュニケーションの研究をされていて、何かリスクを生じさせるなということに対しては、きちんと説明会を開いて、情報を共有して。原発を作るときにも行うじゃないですか。保育園の建て替えに関しても同じようなリスクがあって、きちんと問題意識を持って子どもたちを守るとか知り合いを守るということを考えていかないといけなんじゃないかなということを学びました。今回、リスク・コミュニケーションという概念があるというのを始めて知りました。 松田: 最初の検討委員会があって、そのあとの対策委員会ではAさんも入られたわけですか。 Aさん: 傍聴はしていたけれども、訴訟していたので委員には入れませんでした。 松田: 私の関心から言うと、専門家とそうでない人たちとのコミュニケーションの問題があると思うのですが、傍聴されていてどんなことを感じられたのでしょうか。 Aさん: 最初に委員会のメンバーを決めるときも、区主導ではなくて、Fさんと名取先生たちがコメントをして、入れてくれということで。そこはやっぱり勝因のひとつなのかなという気はしますね。そこで黙って行政主導で彼らのそろえた人たちだけでやられていたら、結果としてどうなったのかなというのがあるし、もちろん皆さんいろいろな見識を持ってやってくれていたんだけれども、やはり現場でアスベスト問題に取り組んでいらっしゃる3名の方々の意見というのは相当影響力があったと思います。ミーティングの後にお茶やお酒飲みながらいろいろ関係ないことも話せたのはありがたかった。 Mさん(男性): 委員会後の気持ちの軌道修正みたいなものですよね。 Aさん: アスベスト以外でも親としての悩み相談なんかもしていたし、会議の場だけじゃないコミュニケーションもうまくいっていたっていうのは結構大きかったですよね。 松田: 前の段階で入れる、入れないのあたりはどういう議論をされたのですか。 Aさん: 10人の中で、構成をどうするかというのはかなりやり合いました。 松田: それはすんなり受け入れられたというわけではないですよね。 Aさん: ないです。ただ当時の状況はこちらにアドヴァンテージあったので、先方が要求を呑まざるを得ないみたいな感じではありました。 松田: マスコミ関係のことも全部、記者会見などされたということでしたが。 Aさん: 仕事柄そういうネットワークがあったので、関心を持ってくれそうな記者さんに情報を流したら、毎日新聞やテレビ朝日などで取り上げてくれました。 メディアで報道後、行政の態度もコロっと変わりましたよ。 Nさん: あの頃はメールとかもみんななくて。危ないといっても知らせる手立てがないんですよ。お知らせを貼っておくとか、子どもがかばんに入れておくとか、そういう時代だったので。しょっちゅう呼び出されて何度も説明会があったんですが、出たくても私たち出られないですもんね。両親が働いているので。夜遅くなってしまうし、次の日も仕事があるし。 Aさん: 夜にミーティングを開くときは保育園を夜間に開けてくれて、子どもたちを保育士さんが見てくれるということはやってくれましたけれどね。 Nさん: 当たり前と言えば当たり前だと私たちは思うけれど、あの人たちもつらかったと思いますよ。朝7時ぐらいから行ってずっと夜10時ぐらいまでやっていて。自分たちも吸っているけれど、一応「ごめんなさい」の立場ですよね。だから文句は一言も言えないですよ。私たちにも言えないし、区の人たちにも言えない。 Aさん: 子どもたちへのしょく罪の意識は感じられました。職員組合もバックアップしていたからね。職場でのアスベスト曝露で組合員の健康を害したわけだから。 Nさん: 親同士、親と子ども、親と先生、親と区というのがいろんなところであって、先生たちもすごくつらかったと思います。 藤木: 訴訟に関して、最初から組織だっていたわけではないと考えていたのですが、最初から最後まで訴訟に関わられた人の人数というのは変わらなかったのでしょうか。 Mさん(女性): 変わらなかったですね。 藤木: 訴訟で争点になったのはどういう点だったのでしょうか。 Aさん: 揉めたというような展開はなかったですね。保護者が冒頭陳述をやらせてもらって。多少こちらが言っていることと区とのズレみたいなものもありましたけれども。やっぱり争点は因果関係を予想できない将来的な被害に対しての責任があったかどうかというところが最大だったと思います。 藤木: それに対して区側はどういう反応だったのでしょうか。 Aさん: 本来的には区としては揉めないと思っていたと思うけれども、ただ実際問題行政的には明らかな不正があったのだからそれについての謝罪と慰謝料と子どもたちが将来発症したときの健康対策を確保するというのは飲まざるを得ない状況だったと思いますね。それで僕らとしても勝訴が目的だったのではなくて、弁護士の先生も「勝訴をしてもたかだか何十万の慰謝料であまり得るものがないので、和解に持ち込んで条件を出したほうがいいよ」というように。つまり原告の子どもたちだけでなくすべての子どもたちのための健康対策に関して、区との和解条例に繋がり、約束を果たせるようなものというのをやってほしいというのを出しました。 Mさん(男性): その後、保育課の対応が全く変わりまして。 Aさん: その頃には保育課の担当も反対派ではなかった。 Mさん(男性): それまでは「検討させてください」というような感じで話は聴くのですが、結局却下でした。 藤木: それは11月の関係者処分を境に変わったのですか。 Mさん(男性): 和解の後ですね。それが基準になり見舞金とか協定とかを結ぶことができました。 松田: 他の方にもすでにお聞きしたのですが、子どもさんの将来的なリスクをどう子どもさんに説明していくのかということがあると思います。先ほどもMさんの奥さんが言われていたことですが、108人の子どもがいるとアスベストに関係しない場合でも、そのうち3〜5人が肺がんを発症するというデータが出ていますが、タバコの問題などもあるので、子ども向けの冊子もできているわけですね。そのあたり、Aさんはお子さんに、どういうふうに伝えていくかということについて何かお考えになっていますか。 Aさん: もう5年生なのでそろそろわかるかなと思いますが、まだ事故について改めて何か教えるということはしていないですね。もうちょっと経ったら喫煙の可能性だって出てくるだろうし、それは追々伝えていかなければならないと思います。あとはやっぱり、僕自身の意識の中に子どもが一緒のときになるべく喫煙席から離れたところに座ろうみたいなことは根付いていますね。そういうときに、ちゃんと伝えればいいのかなと。「君はこういうリスクを持っているから、例えば付き合う男性もあんまり喫煙者じゃないほうがいいよ」とかね。それを本人がハンディキャップを感じないようにっていうことですよね。前向きに考えて理解できるような伝え方をしたいなと。事実とそれをどう捉えて自分で健康管理をしていくかというように持っていければいいなと思いますね。Mさんのところはやっているの? Mさん(男性): 断片的にだけれども、冊子はもう作っていたんで、ちゃんとは説明していないけれども、事実関係はたぶん認識しているだろうと思います。自分自身がどうだというのは、訊かれた部分で説明はしています。 Aさん: 親子で共通認識を持つことも大事ですが、子どもたち同士でも問題意識を共有できるようになればいいなと思います。起きたことを客観的にとらえて、子どもたちに語らせるような場ができたらいいなと。やっぱり中学生ぐらいになってからかな。子どもたちに対する教育の機会があれば、と僕は思っています。 Nさん: つらいことが言えない、うちの子はそうなんですけれど、そういうことがあっても親に訊けないと思うんですよ。何となく言うのも怖いと思っていると思うから、そういう機会を設けて子どもたち同士のレベルで、「私、こうでほんと大変だったのよ」っていうことがすごく必要だと思います。 Aさん: そういうネットワーク・カウンセリングみたいな、支え合いみたいなものを作っていかないと。将来的に誰か一人でも発症した場合には、そういう当事者同士の支えが必要になってくるし、同じ時間を過ごしてこういう事故に遭遇したということが強いと思うので。その頃には僕たちは死んでいるわけだから、子どもたちが自分たちでそれを継承していくというのがすごく大事だと思います。 Mさん(男性): 子どもの冊子を作ったときに今後説明会を行いましょうという提案をしています。 Nさん: シンポジウムとか、何かパーティーのようなものでいいから。 Aさん: もうちょっと、中学から高校ぐらいがいいんじゃないかな。 Nさん: あんまり時が経つと親のほうが難しくなってしまうから。他の子どもに会ってもきっとすごく変わってしまっているから、わからないかもしれない。 Mさん(男性): さっきも言ったように108人のうち3〜5人というような、保育園の中でそれが特定できるということでもないというところがね。別の原因で肺がんになる人もいるという。そのへんのことも、知識じゃないけれど、自分たちで理解していかなければいけない。 Nさん: それはあくまでも、日本の一般的な人の中の5人だから、喫煙をさせないことでものすごく減るわけです。 Aさん: 禁煙教育は、アスベスト被災者にとって基本的なリスクヘッジだと思います。 藤木: リスクの上塗りをしないということですね。 Aさん: そうですね。 Nさん: 最初、私は起こってしまったことはもう取り返しがつかないと思っていたんです。それは取り返しがつかないから、責任だけを追及していたんだけど、M夫妻が「いや、今からならないように」というのをずっと言ってらしたんです。私からしたら、アスベストは取れないからすごく違うと思ったんだけれども、でもだんだん私もそういうふうに考えるようになりましたね。そういう考え方、医学の中ではないですもん。 Mさん(男性): 専門家は「大丈夫です」とは言いません。 藤木: 専門家だからこそ言わない。 Mさん(男性): そう、プロフェッショナルなんですよね。 Nさん: 励ましてほしいときもあるよね。Fさんは「大丈夫ですよ。大丈夫だといいなって思うな」と何の根拠もなく言ってくれた。 Aさん: 他の災害地で亡くなられた方のお話を聴くと、やっぱり心配になりました。 Nさん: 私たちが、アスベストの原石とか写真とか肺を切ったのとかを見せられて、どれだけ傷つくかということが、この方たちにはわからないんですよ。そこに傷を負っている私たちがそれを目の当たりにするということがどれだけつらいかということが。 アスベストが医学だとか環境だとか建築の専門家だけで語られていると、リスク・コミュニケーションはうまくいかない。もっとレベルを下げて、ちょっと心配なお父さんお母さんや子ども自身でもアクセスできるような情報媒体が必要だと思う。そういう人たちと同じ目線で「この人にはどういうふうにアドヴァイスしたらいいかな」というような、心理的なものも含めた相談者がいないとだめです。 Aさん: 支援というと支援をする側の論理でやってはいけなくて、その支援を必要としている人のニーズ、あるいは支援が必要かどうかもわからない人に対する周知・啓蒙であったり、そこを考えないと、本当に広く支援をするということにはならないですね。当時は僕たちのように問題意識を持った人がまだ1割ぐらいしかいなかったんだけれども、気づいていない人たちに対しても、どういう情報発信をしていくかということが大きなテーマでした。そこは僕らも諦めずにやっていこうねと話していました。活動から離れていく人たちも多かったけれども、でもそこをやらずして自分たちだけの利益のために動いてしまったら、まったく意味がないことだから。そこは今後の課題としてもずっと残っていくんだろうなと思います。だから僕たちが要求したのは、転居した人もすべての人の住所を追いかけてくれと。カウンセリングについてもずっと実施し続けてほしいということです。 Nさん: 時代が変わって、当時は何とも思っていなかった人たちでも、今見たら大変だと思う人たちだっていると思うし。 Aさん: クボタショックが起きたときに、やっと自分の保育園でも大変な問題が起きていたことに気づいた人もいました。新聞の一面に出てから、「アスベストってそういえばうちの保育園にもあったよね」というような感じで当時の保護者の方に言われたことがあります。 Mさん(男性): 実際にクボタショックの後、N先生がNHKに出演されてそのことを当時の保護者の方が言っていましたね。