花岡光義 (芦屋市立上宮川文化センター 館長): 全国隣保館連絡協議会(略して全隣協)、こういう全国規模の隣保館組織があるんですよ。 松田毅 (神戸大学大学院人文学研究科教授): 全国組織ですか? 花岡館長: はい、全国組織です。まあ、公民館とは違い、隣保館は公的にね、設置義務があるかいうと別にないんですよ。地域があれば、地域いうのも、補助金もらおうと思えば、地域の指定を受けないと補助金が受けられないんですよ。まあ沖縄や北海道以外ほとんど日本中あると思うんですけど、関西が多いんですけどね。関西から西。で、そういう隣保館が全国になんぼあるのかな。約950くらいあるんかな?   隣保館はいろいろ大型館からちっちゃいとこまでいっぱいありますけどね。そういう中で、いろいろ地域の中に住民が市役所の本庁に行く前に相談する現場ですから、そこで保健師がおったり、そういう保健衛生の受け皿あるとこもあれば、もう館長と職員一人、二人のとこも何ぼでもあります。まあ、そういうところで聞いた相談を、労働面、就労面をきちっとおさえて相談事業してくださいっていう、別にそれは国みたいに指令や通達を出すわけではないですけどね。去年、アスベスト関係の冊子作ったんです。 松田: ここはかなり大きな隣保館ですね。 花岡館長: そうですね、ここは、二階が児童厚生施設なんですよ。児童センターって言って児童館よりちょっと大きいんですけど。神戸なんかは中学校区単位で児童館があるでしょ。そういう中、神戸は学童保育も一緒にやってるんですよ。芦屋は小学校の中に留守家庭児童会を作っている。まあ、市によって違うんですけどね。神戸で児童館といえば留守家庭とイコールに近いイメージがあるんですけどね。ここは地域の相談、隣保館はこのエリア中心ですけどね。芦屋市内には公的な児童センターはここだけですので、児童センターは市内全域が対象です。 もう一つは浜風の家という民間が建てた児童館があります。震災以降に建設されました。児童館には市内エリア全域からきますので結構、利用率も高いですけどね。それ以外にここでは貸館業務をやってますんで。またそのパンフレットもお持ちしますけど。 そんな感じで、アスベストの問題が起こる前から労働災害、労災の関係は、過労死とかいろいろ職業病も含めて、ずっと取り組んでたんです。先言ったアスベストの原石を運んで病気になった事例についても、それほどびっくりして対応したわけではないんですよ。川本さんの場合はクボタのアスベストの問題が起こった直後でしたからね。 (労働基準)監督署の対応も早かったですね。兵庫は割と監督署の職員もね、全国から見るとアスベスト申請件数が多いし、慣れているので対応が早いんですよ。慣れない監督署だったら、県の局に聞いたり、東京の本省に聞くとかいう対応が多いけどね。この辺は件数で言っても患者数でも言っても全国で二番目か三番目でしょ。まだ潜在患者もいっぱいまだおりますけどね。 だから、川本さんなんかはよう言ってはるけど、造船やら鉄鋼やら金属やらゴム産業やらも、いっぱいそういうね、アスベストをあつかってた。出稼ぎの人ももっと田舎におるやろうということも含めて、掘り起しが大切やと言うことを前から言うてはるわけです。隣保館経由でも十件くらい労災の認定があります。 松田: この地区でですか? 花岡館長: はい、この芦屋の中でね、芦屋市民が十件くらい、亡くなった人も含めてね。遺族補償とか。だからわりと職種的にはものすごく広範囲ですね。また今度の土曜日に兵庫の家族会あるから、いろんな職種でなった人がいっぱい来ると思います。 川本さんは一応造船だけど、さっき言うたみたいに造船が多いです。そういった環境でほとんどやめてから発病するという特殊な病気のためにね、会社の本工の組合が、いわゆる本工主義でしょ。組合員ではないということで、現行組合員に合わせた労働協定しか作らないんですよ。 見舞金といって、一時金的にポーンと100万円やらそこらで自分たちの現職は2000万とかなんとかであまりにもおかしいんやないかいうことで、退職した人も含めて造船と鉄鋼で名刺で書いてある会を作って、「造船、鉄鋼、アスベスト被害者の会」か、そういうの作ってもう二年目くらいかな。 川本正男 (造船・鉄鋼アスベスト被害者の会 代表): 三年やね。 花岡館長: だから、それがね労働法規上は、事業主も交渉対象とする相手と、初め協議してたんですよ。遺族と企業とは労働を介しての接点がないでしょ。労働法規上で言うところの、交渉相手でないって蹴ってたんですけどね。そんなら全造船とかそういう組合に入ったら交渉権あるんちゃうんか言うて、東京の方の全造船の組合に遺族として加入した。 この間、全港湾は誰でも入れるんで、いっしょですわ。昔は全国一般といって社会党の時代はその、組織、産業別労働組織でね、どこにも入れない人は全国一般いう枠があってそこに入っていたんです。今で言うユニオンみたいなものですけどね。川本さんが全造船の東京のほうの組合に加入した。というのは関西のほうの造船の組合が全造船関係の組合がないもので。 川本: 二年ちょっとやな 。 花岡館長: そういうことがあって、これはまだ二年くらいですね。クボタの事件があって、そのあとわーって世間的にアスベストのいろんな問題がクローズアップされてから患者がいろいろ、川崎だけではなくて神戸製鋼もあり、石川島播磨があったり三菱があったり、たくさん出てきたから。 一つの企業だけだったら、広がりがないからね。それで広く数を集めようという趣旨もあるし、芋づる式にわしの同僚や、後輩や、先輩やら言うて、マスコミと、そういう口コミで増えてきたんですね。そのときに造船だけやったらあかんから鉄鋼も入れて。まあ、そういう経緯ですわ。会員は何人おるかしらんけど、多いときで50〜60人おったんちゃうかな。 だから、普通の町の顔もあればね、いわゆる生活保護でしんどいとこもあるしね。労働の中でどうしても、今は非正規職員がいっぱい出てきたけどどうでしょう、昔はもっと単純な構造だったんですけど。それで病気や怪我で傷ついた人が労働現場ではじかれたら、退職したら大体が国民健康保険いう保険しかないんですよ、社会保険制度のなかでね。 国民健康保険いうのは今、ほとんどの市町村が赤字で、それを救うために後期高齢者医療制度ができたりして、そういう二重構造となっていますけれど。私、国民健康保険の職場に十年ほどおって、そのとき、窓口に来られる人が、保険料払われへんねんて来はるんやね。何でですねんと聞くと、だんなさんが病気で療養しているからと。何の仕事してたんと。まあ、本人にしてみたらうるさい職員と思ってたんか知らないけれど。ほんなら出稼ぎで芦屋に今おってとかね。胸の病気やねんと言われると、それならレントゲンフィルムを持参してもらい専門医に読影してもらっていました。塵肺が関係してたもんで。 それは今と同じなんです、構図がアスベストとね。だから聞き出す人みんな、そういうしんどい仕事していた人で。それを安全センターとかに協力してくれる人とかドクターとかがいてたから、そのころの全港湾という労働組合が港で働く人たちの健康問題やってたんですよ。で、いわゆる塵肺という病気は、塵肺法という法律があるんですけど、その法律に定めている職種というのが限定されていて、港湾の仕事がなかなか入らないんですよ。ま、そんなんは余談ですけど。 国民健康保険のほうで仕事してると、労災や職業病の方が救済されないまま放置されているということが分かって、全国の国民健康保険の担当者向けに、財政効果もあるし、本人も救済されるし、市の財政も助かるからということで、そういうの書いたことがありましたが、反響はなかったです。 それは今のアスベストとまったく同じなんですね。退職してから発病している六十代、七十代の人が圧倒的に多いでしょ。その人たちがどこの保険に入っているかといったら、ほとんど国民健康保険と老人医療で市町村の財政を圧迫しているんです。本来ならこれは労働災害だから、労災保険で払わないといけない。そのときに認定になったら、「ああ、良かった、良かった。」と言ってそれ以降は国民健康保険には、請求は来ないんですけどね。発病してから認定の間にどうしても時間的なタイムラグがあるんですよね。申請してから認定なるまでの間早くて約四、五ヶ月かな。 伊藤郁子 (ひょうご労働安全衛生センター): 平均で約三ヶ月です。 花岡館長: まあ、三ヶ月のもあるけどね。三、四ヶ月から、半年かかるのもあるんですよ。亡くなっている人とかのも、もっとやったらなかなかですけど。それが時効の関係で二年とか三年とか、レセプトを追跡して。うちのほうでも、国民健康保険のほうから患者にお金を返してもらって、それを自分の自己負担と加えて、労災へ請求してもらいます。ま、本人も助かるんですけどね。で、市の財政も助かる。そういう取り組みをしたらいいんですけど、あんまりそういう行政指導もできてないですね。市町村ももっとアスベストの患者を探して医療費を節減したらええのにと、ずっと言うてるんですけどね。 伊藤: そういう観点はね。 花岡館長: 毎日新聞の大島記者が一回、僕言うてることを取り上げて書いてくれたこともあるんですけどね。もっと構造的な問題で、どんどん時効で消えていくし、新法はその、保険の自己負担の分と療養手当て十万円しか支給されません。 白黒はっきりしないやつなんかなんぼでもあるんですよ。肺ガンとか。どんどんやれば労災になるのはなんぼでもあると思います。 伊藤: グレーゾーンがものすごいですよね。 花岡館長: 中皮腫はそれこそ認定率が高くなってますけど、肺ガンは、以前ならタバコの吸いすぎで終わっちゃってましたから。肺ガンとアスベストの因果関係がまだ中皮腫ほど実証されていないから、監督署のほうも大変ですけどね。だんだんと認定率が上がってはきているのですがね。 伊藤: 中皮腫の患者の十倍は肺ガンの患者がいると言われてますからね。 花岡館長: 東京、大阪、兵庫などの認定数が多いのはやはり、エリア的に救援運動が活発だからです。造船の多い瀬戸内の周辺とか、九州北部などもっともっとあるはずなんですがね。それは疫学の人らもそんなん言ってるひと多いでしょ。なかなか、アスベストだけのそういう疫学調査は過去にデータないと思うんですけどね。 というのは僕のこれまでの前置きで、これからお待たせしました。 松田: 今日はよろしくお願いします。どんな形でお話していただいてもかまいません。 川本: ほんなら私の話しようか。 松田: よろしくお願いします。 花岡館長: では生年月日から。 川本: 昭和6年11月20日、名前は川本。76歳、もうすぐ誕生日来たら、77や。誕生日のちょっと前やけどね、今は。76歳。 松田: ずっとこちらにお住まいですか? 川本: うん、私な、ここで生まれて、結婚してちょっと外に出とってけど、また帰ってきた。ほとんどここや。生まれたのもここやしね。ずーっとここ。 ほんでな、前やったらどういうかな。今みたいに高校いうて行きよらなんだ、昔はな。小学校から、この付近の人はほとんど小学校六年生を上がったら、高等小学校いうのがあった。そこへ行きよった。その時分はほとんどの人がそうやった。たまに何人かちょっとお金持った家の子やったらその当時の中学か、そんなとこ行く人もおったけど。私らは高等小学校です。そんでその高等小学校が、私が二年生のときに、あそこ、一年、二年しかないねん。二年生のときに終戦になったんや。 それで終戦で、私はそのあと、家が焼けてしもたし、学校に行ったり行かなんだりして。空襲で家が焼けたのが8月や。家が焼けたのは終戦の前や、家焼けたの何月や。5、6月ころやったのかな。忘れたわ。それからすぐ終戦になったんや。終戦の時にはもう家焼けとったわ。 それから8月に終戦やから、あくる年の3月かもう卒業や。その時分はこれという仕事もあらへんし、学校をぷらぷらして、3月卒業したら、私ちょっとの間、ぷらぷらしとったん。そんなら私と同級生の子がおって、「川本さん、あんたどこか勤めてんの?」言うて、いやどこも勤めてへんねん。勤められへん。いっぺん川崎な、募集しとうから、行きましょうかいうて、神戸の職業安定所に行ってん。神戸駅近くにありましたわ。 伊藤: 今でもあります。 川本: あんの?ほー。そこに行ったら、川崎造船が来てくださいということで会社に入社したんがね、昭和21年の5月13日や。ほんで造船いうのは今の新開地から南へ下がって突き当ったとこ南の突き当りが川崎造船やったんや。神戸駅から歩いて十数分で行けました。うちはそこやし、芦屋駅近いやん。ほんなら歩いて行って。私ね入ったとき、造船部船装課の外業係やった。終戦直後は大きい船は作らなんだわ。 松田: 作れなかったんですね。 川本: 近くで漁業をするような小さな船を作ってたんや。だからその時分はアスベストは使っていなかったと思うんや、私は。それから朝鮮戦争が始まりだして、マッカーサーが日本に油を運んでもええよ、大きな船を作れ、外洋へ出てもええと言い出して、大きな船。そうして外洋へ出て行くいうたら、太平洋やインド洋へやらと行かんならんから、日中でも船はずっと走っとる。夜昼なしに。日がかんかんだからものすごく暑いらしいわ。船員さんが言うには。それでアスベストを使い出したんや、たくさん。ほんで、どんなとこに使ったかね。 (注)ここで、船の図を川本さんが書いている様子。船首と船員室、居住区、機械室、エンジン室、倉庫、船尾や、船底が二重構造であることなどを説明。 ほんでこっちが船の前や。こっちが後ろや。ほんで大概の船はね、荷物こことここに積むんやけど、船員さんの部屋がこの付近にあんねん。船員さんの部屋ほとんど。これが上下して、この辺にあるときもあるけれど、普通はここらが多いねん。なんぼ、四段、五段くらいか。ほんでここ居住区いうねんな、人の住むとこや。ほんでこの辺にエンジン場があったわ。で、この辺が倉庫で、荷物積むとこね。この辺は別に何もない。この辺は一番、二番と倉庫があって。ほんで底が二重になっとる。 まあ、ざっと書いたら船いうたらこんなん。ここが荷物積む倉庫で、船の大体真ん中付近に居住区のちょっと後ろのこの辺に機械場があって、その後ろにまた荷物積むとこがあって。 私の職場、居住区、ここや。それでこの中にね、船員さんの部屋がずーっと分かれてある。この一番上が舵とるとこや、操舵室言うて。これはどんな船でもそう決まっとる。船長さんやこの辺におったんや。機械長はこのうえにとかね。 そうすると外洋へ出て行きますやん。太陽がぼんぼん照りよう。だからこれが一番前の居住区の鉄板や。これが船の一番上の屋根や、言うたら。ほんで、ここで舵取る場所があってまたちょっと後ろへ下がって、この辺に無線室とかそんなんがあるん。ほいからここらに船員さんの部屋がずーっと。とにかくこの赤いのは外側の鉄板。だからここが屋根になってるとこやで、順番に。ほんで、この中にある鉄板にはアスベスト貼らへんねん。ほんんでこんなとこにアスベスト貼って。ここも話を聞いたら熱くなるパイプに巻きよった。ものすごくパイプ暑くなるねんて。 ほいでね、その時分は吹き付けはせえへんねん。 松田: 吹きつけじゃないんですか? 川本: 8cm〜9cmの厚みで長さ1m位の布団みたいなものを何枚も使ってあってん。うん、固めて、こうこう、1m四方くらい。厚みも8cmから10cmくらいや。仮にこの部屋が一番上としますわな、そうするとこの部屋、日が当たります。ならアスベスト貼らなあかん。鉄板そのものにアスベストをとめられる様に、締め金をつけとんねん。鉄板に締め金がついとんねん。その締め金にアスベストをぎゅっと、下から脚立で、あの端なら端からその1メーターのやつをくっと押したらぴゅっと入んねん。そら簡単にいきます。力みたいなのなんぼもいらん。ほんで終わったら、次、次と下は足場がひいて歩けるな。順番にずーっと貼っていくねん。 松田: はめ込みみたいな形ですか? 川本: そうそう、はめ込み。そんで、締め金があって外からワイヤーをつけてとめよんねん、アスベストが落ちんように。壁は壁でそういうふうに貼りよった。だから中のこういう部屋の壁は貼らへんで、直接太陽が当たらんから。外の部屋だけ。仮に端から貼っていきますやん、んで向こうに来てきれいに1mかなんぼか、そのアスベストの長さ空いたらいけんども、あわへん、こうなる。そんで、アスベストを切るん。切らな入らへんから。そのときに、立つゴミがぶわーっと。 伊藤: どのように切りました? 川本: 機械の丸い鋸(のこ)があるねん。そこへ近づけるとザザザーと切れんねん。 伊藤: 木材を切るような。 川本: そうそう、そんなん。ほんのわずかやったら、のこぎりで切っておる人もおったわ。ちょっとやで、わずかなとこやったら。柔いねん。簡単に切れんねん。 伊藤: じゃあ、もう木の加工みたいな。 川本: そうそう。そのときにごみがたくさんたつ。だからな作業しとる人だけやない、それが部屋へ回って、部屋の入り口からそのごみが出て行きますやん。アスベストは軽い、軽い。周りは大概通路や、人の通り道や。通路へ出て行って、通路から船の外のほうへ出たりしよんねん。だから直接アスベストを触ってないでもこの辺へ行く人はみんなついとん。 ほんでこの中は知らんけども、私らその当時な、あんまり危険やいう認識はなかった。ま、普通のごみのつもりでおんねん。船が汚れたら掃除しますわな、そんなごみでしとるような感じやから。普通の風邪ひきのときにするマスクあるやん。あんなん貸してくれよった。ゴミがたつからいうことでみんなそのマスクを交代でしよった。それだけや。夏なったら暑いでしょ、マスクなんかしてられへんいうて、取りよる人がいくらでもおった。 伊藤: それは何人くらいで一つの作業をされるのですか。 川本: 大概、一つの部屋に一人か二人。たくさん固まってやるとものすごいゴミがたって他の人も吸うから。大概一部屋一人やったわ。そんでものすごく急がな、早く部屋を作ってしまわないかんときなんかあったら、二人おるかな。アスベスト貼るだけやったら、一人で一部屋、二日あったら貼っとったわ。部屋の大きさにもよるね。天井の面積とか壁の面積とかにもよるけど。そんでアスベストをそういうふうに天井とか壁とかに貼ったらその上から板を貼りよる。それを部屋の天井とか壁とかにしよる。鉄板と板との間にアスベストが入っとうから、部屋ができていったらアスベスト見えへんわな。 松田: さらされてはいないんですね。板が隠しているということで。 川本: うん。隠しとる。板で部屋中を覆っている。だからわからへんわな、知らん人が来たら、アスベストが入っとるんこと。川崎造船はほとんどの船でこないしとった。 松田: これは貨物船などですか? 川本: うん、とにかく居住区で言ったら、貨物船であろうが客船であろうがみんな、そう。川崎造船ね、客船はあんまり作ってなんだわ。貨物船が多かった。それとタンカー。中東のほうへ油を採りに行きよった、あのころ。アメリカに「持って来い」っちゅうのあったんやろ。タンカーが多かった。 松田: その「外業部」で川本さんと同じような仕事を当時されていた方は何人ぐらいおられたのでしょうか。 川本: さあ。川崎に直接雇われてたそんな人はあんまり危険な仕事はせえへんねん。下請けのほうに出しよんねん。このアスベストを張る職場は木工職場やったわ。私は造船に20年いて、新しい船を作りよった。 それから私、修繕へかわったんや。ほんでこれは新造やな、さらの船を作るときにこないしよんねん。ほんで船も最低4年に一回は検査をしなあかん。大事なエンジン場なんかは2年に一回ちょっと見てもらう。ほんでよかったらもう出て行くねん。4年に一回はあっちこっち見なあかん。そのときにこの部屋(アスベストを貼った部屋)が不便や。 この部屋をもう少しこうしましょうかとか言うよんねん。こんだけ削って、もうこんなんいらんと。もうこの部屋いらんと。そうするとここについとる部屋の中の板をばらして、アスベストをばらして鉄板を切りよんねん。ほんで修繕は修理のときにものすごくアスベストのごみがたつねん。 川崎の従業員では、修繕部に私はあと20年おったわ。おったけんども、あまりせへんねんこの仕事。組長が分かっとんねん、上が。自分の部下をえらい目にささんと。外注に出して下請けにさせとう。私はそれは知らんけど、上の言うよんやもん、もう従業員にさすなと。こんなん(アスベスト)貼る下請けの会社が5社くらいあったわ。下請けの会社の名前は覚えてないねんけどな。 松田: それは昭和の何年くらいが主でしたか。 川本: 昭和の42、3年から10年、20年やな。 松田: ちょうど高度経済成長期のころですね。 川本: 私はそのころ修繕に代わったからな。41年に修繕にかわったんや。私、修繕にかわってからは新造へは行かなんだわ。私が修繕に行ってすぐに、ちょっとあいつはうるさいから上の位にあげておけと言うて、私は役員になっとった。 それで下請けへと委託と。下請けは一服しとったら金にならへんやん。そんで上の人がごっつい部下を怒るやん。「やらんかいっ!」と。だから一生懸命しよんねん。今思たらかわしそうなもんや下請けは。 ほんで下請けいうのはね、あんまりこの付近の、この都会の人、阪神間とか、神戸の人は少なかったんや。下請けは姫路の奥のほうとか、兵庫県の上の日本海側とか、そんな人が多いねん。四国から来たとか、九州から来たとか、そんな田舎のところから来とる。二男、三男や。長男がお父さんから田んぼや畑をもろうて耕して、あんたらにわけたる分はないさかい、どっかに行って働けやと、そんな人が多かった。 仕事がまだあるのにいっぺん帰る人が出よたんわ。ほんで、「あんたまだ仕事あんのになんで今日、今から帰るんかい?」と聞くと、「ああ、帰るんです」と。「なんでや、まだあんた半分仕事残っとんやろ」と、ほんなら本人は「一万円もらえるところ、半分やから五千円もらったらええねん。」と。「終わらしてからやめや。」というと、「兄貴がな、はよ帰って来いと。田んぼが忙しくて」、「えー、田んぼしに行くのか?」、「そうや」、「家どこや?」言うたらどこか田舎と言うとったわ。兄貴とお父さんの仕事を手伝うねんとか。ほんで「田んぼが終わったら、川本さん、また来るから、頼まっせい。」って。まあ、それはそれでええねん。その人らは忙しいときには田んぼや畑を手伝えと、暇になったら川崎にいって働けと、そんな人が多かった。 松田: 下請けの方はどれ位の期間働いていたのですか? 川本: アスベストを貼る時期になったら来たりな。時々、船が時々計画通りにいかんとちょっと早く出来上がって、船会社へ渡すやん。ほんで次の船を作るのにもう少し早よ作ればいいのに、十五日すくとかな。そんなんやった、その人たちは要らんやん。十五日も置いておかれへん、会社。ほんでまた貼り出すようなとこ行って。この人ら、向こうに居ったって仕事ないし、ほんなら川崎行こうかと。本人たちもあんな仕事はあんまりしとうないのにという気持ちはあったと思うわ。 私らでもな、仕事がどこまで進んどうか、見回る役あったんや。川崎の一般の従業員がおって、その上に役があんねん。それが組長いいよんねん。だから、皆さん私のこと川本組長、川本組長と呼ぶ。ほんで、組長の中でも上と下とがあんねん。私は始めは下の組長やったけど、辞めるだいぶ前やわな、上の組長になった。この上の組長は会社の命令が出たらいつでも下と上の位につける試験も通っとったんや。 松田: 怖かったのですね。 川本: そやで。口がぱぱー言うからな。私より上に偉い、専門学校を出てきて、造船学校なんか出てきて、その人らまじめにやっとたら二十年くらいで部長になる、私らの三年間も四年間も上になるような人でも、言わなんだな。入ったとき、船のことは分からへん、ちょっとでもないらんこと言うたら、「あんた何言いよんねん、横から言うな、この仕事は俺が監視しとんや、黙ったらええ。」と。 ほんでだいたい船いうたら、この赤のこういうとこを天井と壁と貼っとった。で私はそのこの監督しとったんやわ。船とめる岸壁から、クレーンのとこで吊るもんがあって、石綿をその中へ入れて、デッキのこの辺へ降ろしよんねん。もしも天気が悪うて、今晩雨かなと思たら、外へ置いとかれへん。部屋の中へ運んで濡れんようしとかなあかん。運ぶときなんかは、軽いからね一人で二枚も三枚ほどか持って部屋へ運んどった。 藤木篤 (神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程): パネルは一枚でどれくらいの重さなのですか? 川本: なんぼやったか、軽かったで。軽い、軽い。 藤木: さっきおっしゃった、三枚、四枚というのは。 川本: ぐぐーっと、こう持って、ほんで部屋へ入れて、雨が降りそうやったら。もう絶対にええ思たら外へやって、量が減ったら中へ入れたんわな。 それでね、私、新造船に20年おって、それから職場を変えられて、修繕部船装課外業係に20年おった。川崎造船は40年。だから40年のうちのはじめはアメリカが大きい船を作れいう、3、4年は私、石綿吸うてないと思うんや。知らんもん、石綿、小さな船やから。漁船なんかを作っとうから。その後にこないなってきたから、私、自分で貼らへんから、貼ってる人みたいに吸わへんわな。だけども37、8年の間、ちびちび吸うとってんやもん。それがばーっ重なってきたんやと思いますわ。 松田: 最初の新造船にいたころはある程度、ご自身でも作業されていたのですか。組長とか監督になる前は。 川本: だけどもそのときはこんなアスベスト触らない。私は直接な、アスベストを触らなんだわ。私が命じんの、あんたがしなさいって。 松田: 他に同じ職場で働いていた方はずっと、例えば、切るなら切るといった同じ仕事を何年も何年もやっているという感じですか? 川本: そう、そう、そう。長いで。ただし、それは下請けの人たちやで。貼るのもそうや、外注やねん。私らはしとったけれどもほんのわずかや。初めての人が来ますやん、ほんで教えよんねん。こういう風に貼れよと。こんなとこ隙空けたらあかんでと。こうしなさいよ言うて教えて、その人はもう終わるんやから。 んで、はいはい言うてその人に教えられたとおりに貼って、天井と壁と。ほんで、終わったらな言うて来いと、その人が検査して見よる。今思たら見とるときでもものすごい立っとったわ、ゴミ。私は、もう長年やから分かるん。あの辺はアスベストきついぞと。 藤木: 今まで船員さんたちにお話を聞いてきた中では、ひどいときは、そこの流し台(およそ3m先)が見えないくらいアスベストの粉が舞っていたという話を聞いたのですが、そのような感じですか? 川本: もうちょっと先までは見えるわ。5mくらいかな。そんな近いことないと思うわ。それやったらな、一部屋で三人くらい入っとる。そこでやったら、普通の三倍たつわな、ゴミ、そういう時はきついけど、普通一人や。ほんで急ぐとき、二人。だけども、特にそういうときやったら、急いどるときやったら三人ぐらいにしとったかもしれん。 松田: 扱っていたアスベストの種類は分かりますか? 川本: いろいろな色があって、でも船員さんの部屋は、白。一番軽いやつ。白以外のアスベストを張っとるの見たことない。エンジン場なんかは他の色のも巻いとったみたいや。 松田: 他の色の巻いているのを見られたわけですか? 川本: いや、私、見てないけどな、そのいう言う人がいたわ。部屋はないわ、私、白しか覚えてない。 今も言うたように、この仕事をするのは田舎から出てきた人や。奥さんやお子さんがおったらな、「お父さん、川崎で大きな会社へ入って、何の仕事をしとんの」言いよる。私、後で人に聞いたら、「ほんまのこと言わん。」、言うよんねん。絶対に自分らがえらい目とか苦しい思いとかしとる言わへんねん。いい仕事をしとうと嘘を言いよんねんて、奥さんや子供さんに。ほんで安心さしようねん。ほんなら、奥さんや子供さん、お父さん、いい仕事をしとんのなや、それやったら暇になったらまた川崎に行ってやとなるねん。 これがもし私がやめた後で今みたいな、アスベストでばーっとなって田舎にまで分かってきたら、これ分かっとったら、奥さん、子供さん、川崎行け言わへんで。お父さん、早く死ぬとか思たら。知れへんからな、もう一度川崎行って、おじいさん、お父さん仕事してきてくれ言いよんねん。ほんで自分がはじめ嘘でいい仕事や言うたから今さら悪い仕事や言われへんから来よんねん、また田んぼが暇になったら。 伊藤: 下請けの人は何年ぐらいされていきましたか?次の年も、次の年も来ました? 川本: アスベストを貼る人は、平均5年くらい来とったんちゃう。中には、川崎をやめて三菱に行く人もおったわな。九州やったら長崎にも造船所あんねん。それやったら神戸までわざわざ行くのやったら長崎の造船所でおんなじ仕事あんのやったら、それしよかいう人もおったと思う。 松田: その方のしゃべり方などから、どこから来たか、などと尋ねることがあったのですか。 川本: 聞くよ。「あんた、どこから来たん?」とかな。ほんなら「私、家、ほんまどこそこや。」まあ、直接言うたら、四国の香川県のどこそこや、とか。「何でそんな遠いとこから来るの」と聞いたら、「向こうに仕事ないんや、だからここに来とんねん」とか言いよる。 私、前に川崎の人にな、神戸の人、何人も病気にかかんのに、なんで坂出の人は誰も言わへんのやって、「いや、坂出は罹ってませんねん。」て。よう考えたら、坂出にこの会社ができたんだいぶ遅かったわ。だから、これから患者が出てくると思うわ。 松田: 何年くらい遅かったのですか? 川本: 私が修繕におったから、昭和43、4年にできたんかなあ。仮にそのころから石綿を使うとると思うんやわ。だけどもまだ期間が短いから、出てきてないのかも。それとも発症しとってもな、今の会社は賢いねん。ただで診たるから、会社直系の病院で見たるから、来い来いって。会社定年になった人呼びよんねん。 神戸にも川崎の大きな病院があんねん、そこでただで行くやん。そこのお医者さんも看護師さんもみんな川崎重工の従業員や。でね、一人、言うたらあかんのをポロリもらしたんやろな。私が修繕部におるときに良く知っとる人にね、川崎、今どないや石綿言うて、話聞いとったやん。なら、「川本さんな、会社の中に保健室があって、そこの看護師さんがな、女の人やな、一人石綿の病気になったひと、おるんやで。」って 松田: 看護師さん? 川本: うん。「そんなん、何でなるん?看護師さん、船からごっつい離れたとこに病院あってやな、そこでいつも患者を診とる人がなんでそんな病気になんねん。」て聞いたら、その白いのを肩や腰やズボンとかにつけたまま、何かあったら保健室に行くねんて。 「川本さん、あれはだいぶ回っとうで、石綿が。」て、「どないしてまわりよんねん?」、「そこで診てもらうのに服脱ぐんや」って。服の肩とか襟とか、ズボンのこんなとこにようけ付いたまま行くやん。ちょっとは掃っとるやけど。 松田: 割と最近ですか? 川本: うん。その人と話したのもう2年程前やからな。みんな服が汚れると、家に持って帰って洗濯するん。会社の中にクリーニング屋があったんや。安かったんや、一枚くらい洗うの。それ持ち帰りするんやったら、私はズボンも服も三着も四着も交代でに出しとった。今考えたら良かった思う。あれ持って帰っとってみい、家の誰かにうつる恐れがある。 だから、私はずーっとクリーニングに出しよった。一着200円くらいかな、安かってん、作業着のクリーニングやから。月に上下二回出して1000円くらい。 松田: 川崎重工がやっている病院は神戸だけですか。坂出にもあったのですか? 川本: 坂出には病院はないけど、診療所はあった。 松田: 造船所の中にですか? 川本: そうそう、会社の中にあんねん。会社の門の中にあんねん。これはあかん、ちょっと重いなと思たら川崎病院に行けと。この川崎病院は湊川公園の北のちょっと西にあった。四階か、五階の大きい病院やった。 松田: そこに行かれた方で、中皮腫になってる方がおられるかもしれないですね。 川本: 分からへん。 松田: 病院が言わなければ、外に出ない可能性があるわけですか? 川本: うん。私が勝手に探るんやけど、そんな病気の人がおったら、会社からすぐに行って、その人と交渉。初めから言いよった、川崎も、「私ら誠意を持って患者さんと交渉させてもらいます。」と。何が誠意や思たけどな。そう言いよった。 私が初めてアスベストに罹った2年前か3年前に、この組合を作った当時、三菱にしろ川崎にしろそら冷たいもんやった。まだ世の中が今みたいにアスベストのことわんわん言うてない。いいかけや。尼崎のクボタが出てきて、新聞やらテレビにあがってきたころやから、そんなん横向いて抑えておけって。 私、三菱で腹立ったんはな、工場に10人で行ったときに、三菱の人が「全員、部屋に入ったらあかん。」言いよんねん。なんでやと聞くと、「あかん。」と。ほんで、東京の早川さんがおって、この人がだいたい責任者やな。早川さんがおって私がおったんやわ。ほいでこれ、奥さん主人で三菱で働いとって、主人がなっとんねん。そいで奥さんや。 松田: 奥さんも病気になったのですか? 川本: いいや、奥さんはなってない。家族やから一緒に来とったんや。もう1人、これも主人が亡くなって。5人や、5人しか部屋に入れへんねん。 伊藤: 人数制限をされたのですね。 川本: 制限するねん。ほんでね、なんでここの人、声だして言わへんのやろうと見とったら、1人は話をするんや。一番責任者や、この人は言うけんども。向こうも3人くらいおったんやわ。このあとの2人はもの言わへんねん。手でこないすんねん。おっかしいなあ、何でやろうな、私らが訪ねたっても、返事せえへん。「違う」いうことやろな。そんなん違うとか。 自分たちがこんな病気あるいうことを下のもんに教えたらんかい。もう後のほうは、川崎の上の人らは早うから知っとんのやからな。私がやめるちょっと前、マスクがちょっと良うなっとたわ。 伊藤: 粉塵用のマスクですか? 川本: うん、ちょっとゴミ通しにくいマスクにはなっとった。だから、会社は分かっとん。一番最初は風邪ひいたみたいなマスク。 それで、川崎も暇になってきたから、韓国とか台湾にどんどん造船を作りだしたんや。だから日本の造船所ちょっと暇になってきたんやわ。 松田: ええ、不況になりましたね。 川本: 「川本さん、悪いけどな、出向にいってくれ」言われたんや。5年間、出向に行ったんや。この5年間はアスベストを吸うてない。だからアスベストを吸っていたのは、造船部にいた20年間と修繕部にいた20年間の40年間。 松田: それでは本社に40年いてその後5年間は出向していたのですか? 川本: うん、出向。川崎不動産に行っとった。それは川崎重工の命令やで、あんたはそこへ行ってくださいと。もう、あんたは、修繕の船が来えへんから。私は川崎の従業員の組長もしとったんや。一番多いときは30人以上部下がおった。もう最後は3人か4人やったもん。だから最後の5年ほどは、私、アスベストを吸うてない。川崎不動産に行っとったからな。 松田: その5年で、後は退職ですか? 川本: その5年目の年が60歳やったんや。もう61になる手前で、「もう3年おれ」、言われたけど、辞める言うて。こういう会社はね一番良く動くのは50歳前や。言われたこら「はい、はい。」と。私みたいになったら動かへん。口は上手やしな。 松田: それでは次に被害者の会をお作りになった経緯を教えていただきたいのですが。 (花岡館長が資料を探している) 川本: 結成するときやから、入院しとったんや。この人とうちの娘が交渉して、私が退院してきたときその会はもうできよったんや。「お父さん、入りなさいよ。」言うから入ったんや。 松田: 病気が分かった経緯は? 川本: 年に一回、芦屋市の巡回健康診断があんねん。私、だいぶ前からずーっと健康診断は受けよったんや。「川本さん、あんたあと20年は大丈夫」とずっと言われよったんや。まだそのとき、孫こんな小さかったんや。「あのあんたのお孫さんがやな、お嫁にいくまであんた大丈夫や。あと20年ええ」、毎年言われとってんねん。 それが急に「川本さんあんたちょっとおかしいわ。あんたもっぺん検査するわ。」言うて、調べてみたら、肺がちょっとおかしかったらしいわ。あんだけこれまで20年大丈夫って、それがなんで今度あかんねんやと。「いや、ちょっとこの映りが悪いんや。」と。ほんで「うちでは、これ以上調べようないから、紹介状書くから芦屋病院行って来い」って。 松田: その当時は、ご自身は体調不良を感じなかったのですか? 川本: 痛くもかゆくもなく何にも。分からへん。言われたとき、そんな病気かいなってぐらいや、自分はな。ほいで芦屋病院行って、検査しましょういうて、胸の横に3箇所穴空けて調べてもろうた。で、その調べた結果をどこかの医大に送りよったんや。 送り先は兵庫医大やと思うんや。ほんでその兵庫医大が「あかん、この人は中皮腫や。芦屋病院に入院させぇ。」と。入院三ヶ月くらいやった。ほんで帰ってしょっちゅう病院通いよった、退院しても。芦屋病院、そこ近いからな。今それでちょっと元気になってきようねんやろ。そのころは帰ってきてもものすごいしんどいねん、一週間が。 松田: 薬の副作用ですか? 川本: うん。薬をたくさん打つしな。ほんで一週間はえらい、ほんで二週間目もしんどい。また一週間きたら打つねん。それが二週間、二週間の繰り返しやった、一年くらい。たまらんわもう、家から出て動き歩かれん。そすると、良くなってきよったんやろな、「三週間に一回にしてくれ」って。ほんなら最後の一週間だいぶよくなった。打った週とあくる週はちょっとえらいけど、だいぶ楽。今年から四週間に一回。ほんで今、お宅らと話しとんは、二週間目や。だいぶ楽になってん。これが一週目やったらえらいわ。 藤木: 薬を打って一週目は立っているのもつらく、ずっと寝ているような状態なのですか? 川本: しんどいときは、やで。打ったその週はえらいで。もう最近、薬の量も少なくなってるんや。薬を打つのは月曜日って決まっとんねん。だから月、火、水曜日はしんどい。歩いて帰るのに5、60mがえらい。 花岡館長: では、被害者の会ができた経緯ですが、できたのは2005年5月6日です。被害者が本人や家族への謝罪と、亡くなった方も含めて見舞金や謝罪金の充実を求める会合という趣旨で始まりました。誠意ある謝罪を含めた対応を求めるということで。今としてはこういうのといっしょだけど、会の位置づけをちょっと変えています。いろいろとこれは一般新聞と新社会か。川本さんの娘さんは芦屋市の市会議員を今も3期目で頑張っておられます。 松田: そうなんですか。 花岡館長: だから市会に質問して、アスベストの被害のね。芦屋市は阪神間に先駆けてかもしれませんが、この何がなにらや分からん被害者や家族が、行政が縦割りでしょ、今。建物のことだったら建築に行きなさい、病気の診断・検査なら病院とか保健センターへ行きなさい、そして補償だったら監督に行きなさいだとか。分からないから、ある程度一般常識的なことをまとめた冊子を作った。 一番早いんですよ安全センターに患者をつないだほうが。本人に有利な情報をたくさん出してくれるし指導してくれるし、医者も紹介してくれるしね。職歴聞いたって、亡くなった人の職歴なかなか分からないでしょ、家族も。転々としているから、40年も50年前のこと聞かれても。そんなら聞き取りのコツも分かっているしね。 (以下、数分資料を探している様子) これが、冊子「アスベスト被害者を救え」というもので、去年6月に作って全国組織が配布した。アスベスト問題は隣保館の今日的な課題ですということで作った。 松田: 時系列で書かれているのですね。 花岡館長: はい、Cさん、Dさんと2枚目いくんだけどね。長くなるんで。これ、神戸新聞の記事が載ってて。これもね、患者会さんと。 伊藤: 「入ってください」ね。兵庫支部に入ってください。 松田: アスベストで難しいと思うのは、責任が重なっている点です。国が一番大本で管理責任があったと思いますが、実際に使った企業もあるし、個人単位にどこまで及ぶのかという問題があり、どこで責任を問うかが、錯綜しています。ビジネス倫理でも企業か個人かです。企業も人間の集まりなので、あなたが悪いって言うこと、なかなか言いにくい。それをどう整理するかは、学問の分野でも議論のあるところです。 伊藤: いつ知ったかというのも裁判で重要になるでしょうしね。 松田: それも重要です。 花岡館長: 昔は水俣、最近はエイズといろいろとね、こういう対応しくじるとね、企業の存亡に関わるでしょ。今回の新法も水俣のときの補償水準などを参考に作ってね。アスベスト扱う企業も一社じゃないしね。規範がないもんね。 松田: そうですね。環境再生保全機構は、実際にアスベスト使ったか、使わないか、とは関係なしに基金を求めているという理解でよいのですか。 伊藤: 石綿を使った企業に対して国が出資金みたいな感じで。 松田: 使った量とかに比例しているんですかね。 花岡館長: いや、それをすると業界、反対しているんですね。 伊藤: なんかそれ簡単に書いたのありますよね。 松田: すみません、勉強不足で。 伊藤: 再生保全機構の冊子が。 松田: ああ、冊子の中にあるんですか。 花岡館長: 再生保全機構は以前からあってね、結局、自治体の環境教育とかあんなのにもいろいろ金出してんですよ。だから割とアスベストはあとでくっつけてね。はじめこういうの一年のうちにばーっと決めちゃってからなんで保健所やねということになったんです、受付がね。 伊藤: 保健所ってほんっと何もしませんよ。もう私は受けるだけです。後は回しますと。 花岡館長: 受付した書類を転送するだけかもしれませんね。 伊藤: 相談にいっても、私のほうが知ってるじゃないという本当にそんなので。でも環境再生保全機構の方は教育が行き届いているから、すごく親切に対応されてますね。 松田: 環境暴露の場合、誰が責任あるか。労災であれば比較的はっきりするが、環境になったときは国になってしまいます。国のお金が機構を通して出ているわけですね。 花岡館長: 国も多少出しているでしょうね。 松田: 責任を負うときの割合の問題もアスベストにはあると思います。特定企業ではないとすれば、誰がどれくらいの割合で負担するかという問題です。 伊藤: 責任を作っている会社が悪いって言うことで今度は除去作業と化して今度はまたお金も受けして、またそういう団体を作って、作っているところがお金をいただいてというのが。会社の名前も分からないように、石綿という言葉が出ないように変えたりとか。 花岡館長: これをまとめてまた冊子みたいのにしはるんですか。 松田: 昨年11月の横浜の会議でお会いしたフランスのジョバンさん。日本学と社会学がご専門ですが、水俣や横浜の鶴見区の公害問題の研究をされた方で、アスベスト問題にも関心持っておられる。日本語がお上手なので環境や公害問題について集中講義していただくことになりました。11月に来られる方と共同研究を行うことになりました。そこで一番の問題は、被害の広がりを地理学者や疫学者も一緒になって調べることです。今のお話を聞いていても、どこに患者さん、被害者がおられるのかということのデータ集めがすごく難しいことが分かります。 花岡館長: それね、市町村が一番つかんでいるんですよ。市町村でも、昔は簡単に聞けたんやけど。疾病別統計があるんですね。死亡診断書でも中皮腫という病名を何年か前から取るようになったけど。 昔は保健所なんかで塵肺の人おりませんかとかね、患者さんの救済とかそういうのが目的だと、今ほどプライバシーを前面に出して情報を隠すということはなかったんですよ。 保健所の結核判定会のときに塵肺の人のレントゲンフィルムとか出てくるんやけど、判定医は癌とか、結核とかばかり関心があり、一番汚れた肺の陰影飛ばしちゃうんですね。飛ばしちゃうというか補償に結びつくということとか、そういう人たち関係ないですからね。だから保健所の人に言うたりしてたんですけどね。重症の肺気腫とかね、肺がんやら結核やら、そういう病気の人のことを。以前保険証の交換を窓口でしていたんです。2年に1回とか。そのときにそんな胸の病気を持つ人には直接窓口で職歴を聞いてたんですよ。 松田: そういう過去のデータはどこかではお持ちですか。死亡個票を使おうとしてもなかなかできないという話になります。 花岡館長: できないですよ。 松田: 結局、データそのものを集めようとするところで躓いてしまうという議論になっていまして。 花岡館長: 大きな市は自分の死で保健所を持っているから。死亡診断の死亡の病名のとこだけが保健所へ回ってくるようになってんちゃいます。市の方は死亡診断書受け付けたら、10日か二週間以内に法務局のほうにまわしちゃうんだよね。 伊藤: 一ヶ月。 花岡館長: 病名、いわゆる死亡別統計とか言うのを国が作るからね、保健所にデータ集める。リサーチとかね。呼吸系疾患がとかいってそんな大きいジャンルね。その中に塵肺とか入ってるんですよ、項目がね。今、中皮腫も入りだしたんだけどね。昔は中皮腫なんかその他の閉塞性肺疾患とかに含まれていたのでは。 伊藤: ほとんど肺がんとかね。95年からですかね。 花岡館長: 今でも、現場の市町村の保健婦さんとかね、そういう人たちは地域で、胸の病気ある人がね、どこにいるか知っている。 京都府の日吉町なんかで、昔マンガンの鉱山がいっぱいあって、塵肺以外にマンガン中毒の人がたくさんおるんゆうのは地元の保健婦さんなんかが掘り起こしたりして。また、九州、大分のほうやったら、出稼ぎ労働者、豊後土工いうて、映画にもなったけどね、だいたい親方、まあ、ゼネコンが入ってきて、トンネル堀りの専門集団がおるんですよ。映画俳優忘れたけど。その人の出身地から仕事あるから出てこーい言うてね、その人ら、ダムやらトンネル堀りを転々としていくんですね。 その出稼ぎトンネル堀り集団、大分県のほうにあるんですけどね。そこは昔の女工哀史と同じで病気になれば田舎に帰ってくるんですよ。療養のために。そこの市町村には職業病で労災認定受けた人ばっかり集まってきて。そういう出稼ぎ集団が富山にもあり、大分県にもあるとか。 そのへんの保健所の人とかよう知ってんですよ。保健婦さんとか。最終的に住んでるとこの市町村の現場の人が一番知ってるんですよ。 松田: 看護学者とこの期間話す機会があり、今の話がちょうど出ました。保健師の中にはプロフェッショナルの意識を持って、地域診断をしている人が少ない、というようなことを言われていました。 花岡館長: いわゆる診断マニュアルがなかったから、医師会がクボタの事故以降、近くの地方医師会でにわかにアスベスト、中皮腫の勉強会開いたりしてるくらいで、大学教育の中でも、アスベストなんかすっと流すくらいしか教えてなかったと思いますよ。 伊藤: 医師会の会合の、今年の1月ですか、こういう患者さんが増えているから、そういう職業もそういう名で診察するようにと。今は症状、レントゲンに写っとらんくても、職歴を聞いて、もしかしたらっていうことで・・・ 松田: 尼崎でも保健師さんは見てたわけですよね。時間を追って。それがどうだったのかという問題があるのではないでしょうか。 花岡館長: ありますよ。あの辺ではね、現役の先生も中皮腫は、これは尼崎病やいうてたんですって。 伊藤: 公害病とか言うて。 松田: 時間的にもうそろそろという感じはあるのですが。今日聞き足りなかったところがありますので、またお伺いできたら。 川本: 土日の会議に来れるんやったら、あそこに来てくれたらまた会えますよ。 藤木: 今日聞ききれなかったところも土曜日にお聞きすると思います。よろしくお願いします。 川本: よろしいよ。分からんとこあったらまた聞いて。 藤木: ありがとうございます。 伊藤: またいつでも来てください。