アスベスト被害聞き取り調査―藤田佳弘氏、真田勝弘氏、丸川寿雄氏 [2007年7月17日] 松田毅 (神戸大学大学院人文学研究科教授): 今日は授業の一環ということで、三人の方にお越しいただいて、それで聞き取りといいますか、いろんな話を聞かせていただきます。 先日の尼崎での集会の時に、船員の方のアスベストの被害の問題というのがあるとのことで、お三方を紹介していただきました。「せっかくだから大学に行って話をしたい」ということになりましたので、今回はこのようなかたちで聞き取りを行いたいと思います。では自己紹介をお願いしてよろしいですか。 真田勝弘: こんにちは、日本郵船OBの真田勝弘と申します。こういう所に立つのは初めてなので、宜しくお願い致します。 昨日は中越沖地震で新潟地方は相当な被害があったと報道されていましたが、今日は12年半前、阪神大震災が起きて、この神戸大学でも職員さんや学生さん41名が亡くなられました。改めてご冥福をお祈り致します。 私は、日本郵船に1957年4月海上社員として入社、1987年5月に退社しました。その間、蒸気船レシプロ、タービン船、ディーゼル船。延べ24隻に乗船しました。現在は機関部(西部地区)OB会の世話役をしております。 本日同席をお願いした藤田佳弘さんと丸川寿雄さんを紹介します。 藤田佳弘: こんにちは、藤田です。この両人と同じように郵船のOBです。またおいおい自己紹介がてらアスベストに関わるお話をしたいと思いますのでよろしくお願いします。 丸川寿雄: 丸川と申します。私も日本郵船、昭和26年に入社して、60年に退職いたしました。現在は西部地区の機関部、OBのOB会長をしております。名古屋から沖縄までの退職者に、一年間に一回みんな連絡を取り合って、ここいらで会合を開催することを旨として、いろいろと話し合いをしたりしております。 そして現在のアスベスト問題、これをほとんど真田君にやってもらっています。また後でお話しすることもたくさんあると思いますのでよろしくお願いします。 松田: アスベストの問題というのはわれわれもあまり今までよく知らなかったというのもありますし、それからそもそも船の中の様子だとか、いわゆる船員の方のキャリアであったり、どういう仕事をされているのかということも、私も含めて、この教室にいるほぼ全員が、あまりよく分からない状態です。 最初はアスベストと船員生活というようなかたちで、少しどういうふうなキャリアでこういうお仕事されてて、どういうところでアスベストと接触する機会があったのか、といったところから、お話を伺いたいと思います。学生の皆さんも、お話の途中であっても、もし質問があればその都度してもらう、というかたちですすめていきます。大体、今日二時間ちょっとくらいの予定で聞き取りをすすめますので、積極的に発言してください。 それでは、お話していただいてよろしいでしょうか。 藤田: では私から最初にお話させていただきます。今日はアスベストと船員社会ということでお話せよということでしたけれど、さあ、皆さんのご期待に沿えるようなお話ができるかどうか、心許ないんですけど。私の過去とそして昔の船のお話などしながら、アスベストに絡んだことをもっとご理解願えれば嬉しいかなと思っています。 それでまず、先ほども申しましたけれど、自己紹介からはじめたいと思います。わたくしは、現在アスベスト疾患の患者の一人です。症病名はなにかといいますと両側胸膜肥厚斑、つまり両側の胸膜にプラークを持っている、ということなんですね。 それがわかったのは本当に偶然なんです。今から5年前です。2002年ですね。6月7月ごろですねえ、どうも風邪ひいたんじゃないかなぁ。疲労――非常にこの疲労感が強い。そして、朝起きて、顔を洗うとき鼻水が出る。そして痰が出る。痰がそんなに青い痰じゃないんですよね。透明な、透き通ったのがタラタラッとこう出るくらいなんですよ。そして軽作業すると、ちょっと息切れが早い。早足で歩くと、ちょっと息切れするなあ、年かなあ、老化かなぁと思ってたんですね。 それで症状が少しも良くならないもんですから、近所のお医者さんに行って、「風邪らしいんだけど」と言ったら、お医者さんが胸部のレントゲン写真撮ってくれました。 医師:「ちょっと影があるけど」 藤田:「先生それは去年もあったじゃないの」 医師:「そしたら詳しく調べてみようか」 ということで、西宮のほうの診療所を紹介されまして、CTを撮りました。そしてCTの写真が返送されてきて、先生が言うには、「ちょっと正常なアレじゃないんで、専門医に見てもらったほうがいいんじゃないか」とのことで、六甲アイランド病院を紹介されました。 そして、六甲アイランド病院に行きまして、担当の先生が「うちの最新式のやつで撮りましょう」っていうことで、写真を撮りました。スパイラル式で詳細に写真が撮れるわけですね。撮りましたら、「うーん、どうも胸膜に腫瘤がある」と。「腫瘤ちゅったら、え、ガンか?」と思ったわけですね。そして先生曰く、「その一部組織を採ってきて生体検査したほうがいいんじゃないか」と。 私も「じゃあ、やりましょう」ということで急遽ですね、5年前、今でも覚えてますけれども9月2日に入院しまして、あくる日の3日に全身麻酔で手術しました。胸腔鏡下胸膜腫瘤摘出術です。鏡と道具使って採るわけですね。背中からわき腹にかけて2cmくらいの穴を三箇所開けて、一ヶ所は手術によって生じる体液の排出、もう2ヶ所は鏡と道具を挿入するための穴ですね。それで腫瘍組織の一部を採り出されました。手術が終わって、夕方から24時間集中治療室に入りました。 ちょっと余分な話だけどいいですかね。 松田: どうぞどうぞ。 藤田: 集中治療室では、全裸でじっとしたまま動けません。そして24時間後、一般病室に戻りました。そして就寝前、10m程離れたトイレに行き戻る途中、エコノミークラス症候群を発症し、術後2日目に肺動脈造影。この首からカテーテル入れて、血栓溶解療法・抗凝固療法そして下大静脈にステント挿入を行うなど、二、三日バタバタしました。集中治療室は常時監視・完全看護ですから、何となく安心感がありましたが、出室してからが大変でした。 ま、そんなことがありまして、結果が出たのがですね、9月10日ごろですか。先生が、「胸膜の表面に細胞ではなくて、繊維状の組織物が点々と、あるいは面状に付着しているように見える」と。私が「先生、どんなものですか」と聞きましたら、先生は「色は碁石に似た白色。硬さはガムのようなものだ」って言うんですね。 それで「藤田さん、あなた何かアスベストに関係した仕事してませんでしたか」って言われまして、私は、「さあ…。新聞では建築物の解体業者がなんかアスベストの害をっていうことは新聞で見ましたけどそれ以外は…」。全然意識してないんですよね。アスベストについては。そんなもんです。それで「仕事は何してましたか」って聞かれましたから、「船員、機関部で働いてました」。そしたらその担当医がですね、「それです!」と。すぐだったですね。「アスベストを吸って発症するには、30年以上経たないとわからない。ですから、気がつくのが非常に遅いんです。」そういうことを言われましたね。 発症原因がすぐ判明したのは、私の運が良かったのかどうか分かりませんけれど、その先生が、当時珍しく、アスベストの研修を受けていたようです。「先生よく知ってますね」って言ったらそんなこと言ってました。 それで、「もう、何で俺だけがそんなアスベストなんや」っていうことですね。不満というか不安というか。周囲の誰も知らないわけです。話しても「ええ、そんなことあるの」って言うぐらいで、どこに訴えようもなかったですね。 そうしましたら、2004年の4月ですか、新聞で船員保険の、第一号認定者、労災認定者が出たのを知りました。ご存知のように笠原さんです。それなら俺と一緒じゃないかと思ったわけです。で、新聞に東京亀戸のひまわり診療所ですか、そこの名取先生っていう方がいらっしゃるんですけれど、その電話番号が載っていたもんですから。電話しまして、いろいろお話してたら、「まあ、平地を歩いててなんでもなかったら大丈夫ですよ、しかし将来、プラークに隣接している細胞がガン化する恐れがあるかもしれませんね。」と言われ、「エッ!ガンになったら一大事だな」と思いましたら、「おたくの会社でも何か相談の窓口ができたようですよ」っていうことを聞いたわけです。 それで、元勤めていた本社の窓口に電話しまして、「これこれなんだけれど、労災申請したい」と。そうすると、その窓口は、東京の社会保険事務所であること、郵船本社が東京ですから一括して船員は全部東京の社会保険事務所で扱ってるわけです。で、聞いた電話番号をもとに、社会保健事務所に電話しまして、「これこれで労災申請したい」ということを言いましたら、必要書類を送ってきました。それでその際にですね、何言われたかというと、アスベストを吸ったと思われる年月日、それと作業名、作業の内容を提出してもらうと。そしてその作業に対して、証言者2人を立てて、証言書を送ってくれというわけですね。それで「ええ、そんな何十年も前のことを」となってですね。自分がいつ、どの船でアスベストを吸ったかなんてことは直ぐにはわかんないわけですよ。 私は昭和27年に郵船に入りまして35年勤務して、昭和62年ですか、会社を退職するまで、35年間。そしてですね、乗った船が31隻です。そして、実際の乗船期間というのは22年なんですね。各船の乗下船日を元に合計すると22年間ということです。あと13年間は有給休暇、自宅待機、各種研修、陸上勤務等です。 それでどの船選ぶか、といったって、「そんなー」と思うわけですね。そのうち、31隻のうちタービン船は3隻でした。ま、機関室の中でアスベストの使用量がどっちが多いかと言えばディーゼル船よりかタービン船のほうが多い。しかしディーゼル船にもアスベストの使用箇所は多数あります。燃料油タンク、暖気用蒸気、各種ヒーターなど船内の加熱用エネルギーはほとんど蒸気です。タービン船は主機がタービンで、蒸気を使用して運航しますが、発電機をはじめ多数のポンプ、ヒーターなど補助機器にはすべて蒸気を使用しています。ここで蒸気の流れを説明しますと、まずボイラーで発生した蒸気を、その頂部に設けられた主蒸気止弁から大口径の主蒸気管、中間弁を経て主機操縦弁へ供給して主タービンを運転します。 補機器用蒸気は主蒸気止弁と同様に取付けられた補(副)蒸気止弁からボイラー室に近いエンジンルームの壁に設置されたスチームレシーバーに導入されます。レシーバーには多数の補機器の蒸気元弁が取付けられ、各機器へ別個に配管して蒸気を供給します。 エンジンルームは中央に主機、その両側に1、2号発電機、周囲の側面には多数のポンプ類が配置されています。各機駆動後の蒸気をエキゾーストスチームと言いますが、船にとって蒸気の元の清水は貴重ですから捨てることはできません。これを主・補復水器に導き冷却し、再びボイラーに給水します。従って蒸排気管は天井・側面に沿って機関室を囲むように配管されています。これらのパイプ、多数の蒸排気弁、各ポンプのシリンダーも全てアスベストを使用して断熱保温されています。 またスチームレシーバーから各機器、ポンプまで何十メートルもあり、1本が5~6mのパイプをつないで配管しますが、このジョイントのフレンジ部にはシート状パッキンを使用して蒸気洩れを防止しています。このジョイントシートもアスベスト製品です。これは現在も未だ船舶に使用されていると思いますけど。劣化して蒸気が洩れるようなことがあれば、予備品の大きなシートから手作業で切り取って形状に合わせてパッキンを作り、新替します。また各諸弁はバルブカバーとスピンドルの間に流体の漏洩防止のためグランドパッキンと称するアスベスト製パッキンを装備していますが、これは損耗がはげしく、たびたびの新替が必要です。 パイプの修理、取替そして各弁、機器の開放点検、整備、修理にはそのたびごとにアスベストマット等の取外し、復旧後の取付け、アスベストシートの新替を伴います。当然、保温材も傷みますから補修用のアスベストセメント、シート、テープ、ロープ等が多量に機関室倉庫の棚に、他の機器用予備品と共に保管されています。機関の整備、修理作業時には当倉庫への出入りは常時あるし、機関部員は四六時中、アスベストに囲まれた環境の機関室内で働いています。 機器の整備、修理作業は停泊中が多いですけれど、乗組員は航海中3直制の航海当直に入ります。0時から4時までは二等機関士、4~8時は一等機関士、8~12時は三等機関士が担当し、それぞれの当直時に操機手1名、機関員1名の計3人が組になって午前と午後、1日2回入直します。ボイラーが石炭焚きの船だとボイラールームにファイアマンとコロッパス(石炭運び)が別に入直します。当直中はエンジン、ボイラー各部の圧力、温度等を計測記録します。その他当直中は常に機関の運転状況を点検して廻りますが、当直時に最も重要なのは、機器の故障の前兆をいち早く感じ取り、発見して機関の事故発生を未然に防止することにあります。そのため、当直員は人間の五感を総動員して機関室内をチェックして廻りますが、機器の異常をすばやく気づけるのは五感を鍛錬して得られる鋭い第六感だと思います。 蒸排気管は機関室だけではありません。甲板蒸気として機関室外に使用する蒸気元弁があります。甲板上には艏(オモテ)に揚錨機、船倉付近は数台の揚貸機、船尾(トモ)に繋船機、操舵機室があります。これらの甲板機はすべて往復動式の蒸気機械です。これらの蒸排気管はほとんど甲板上に配管され、アスベストにより断熱保温しています。甲板蒸気は甲板上だけではなく、居住区内にも多数ヶ所に使用されています。昔の船室の暖房は蒸気式ラジエーターですから、部屋の中に蒸排気管が入っています。 風呂場の浴槽は蒸気を吹き込んで、お湯を沸かします。調理室には50人ほどの乗組員のご飯を炊いたり、味噌汁を作る大きな釜がありますが、これも釜が二重になっていて、熱源は蒸気です。それにパントリーの湯沸器も蒸気で加熱しています。ですから船全体に蒸排気が配管されていましたね。 あとで申し上げますが、船員にも2005年12月に健康管理手帳制度が発足しました。これは真田君に教えてもらったのですが。これは今年6月頃の数値ですが、元郵船船員の労災認定者は7名ですね。そしてこの手帳を取得した元船員は45名います。その内訳は元船長が2名、甲板部員2名、機関長士あわせて11名、機関部員が26名、事務員3名、通信士1名ということです。まあ機関部が一番多いのはそれ相当ですが、全職種の乗組員、全員がアスベストに曝露されていたと言えるのではないでしょうか。 しかしですね、労災申請にどの船を特定したかと言いますと、先ほど31隻乗船したと話しましたけど、やはりタービン船そして親船なんですね。親船とは入社後、初めて乗船する第一船のことです。最初の船で今風に言えば、OJT(ON THE JOB TRAINING)でしょうか。この船で社船の運航管理技術を厳しく教育され、船員としての技術習得の第一歩ですから、一番記憶に残っています。私の親船は函館丸でしたけど、他に姉妹船が3隻、小樽丸、室蘭丸、釧路丸ですね。 丸川: 千歳丸。 藤田: 千歳もそうだったかな。いや千歳丸違う。あれはレシプロエンジン。 丸川: ああ、レシプロエンジン。 藤田: 同じ貨客船だけど、船型が違う。そしてホールドが艏のほうに二つありました。 丸川: 二つだったかね。 藤田: うん。そして後方は客室になってるわけです。まぁ戦後造ったんですけれど、どこ走ったかというと北海道と東京、名古屋、関西それから門司。この間をお客さんと荷物を運んでたんですね。昭和23年にできた船です。私の親船が昭和27年3月に乗船した函館丸だったんです。当時呉に英連邦軍が進駐していまして、英連邦軍に傭船されて、呉と門司と、それから韓国の釜山、蔚山の間を航海していました。ちょうど朝鮮戦争の時代ですね。 傭船中は兵員や日用品、食料それに弾丸、薬莢まで輸送していました。特殊な船でしたし、通常は乗組員ではなくてドックハンド(=造船所作業員)でやる仕事を2回も経験しましたから非常に印象があります。船は4年に1回の定期検査、その間一年毎に第一種、第二種中間検査を受検するよう義務づけられています。 ですから、ほぼ一年毎に入渠して機器全部を4年でひとまわりするように順次開放して整備受検します。ボイラーはもっと短期で受検しますが。受検工事量は入渠期間に比べて多量なので、ほとんどドックハンドにより施工されますが、簡単なものは乗組員も担当します。 先ほどお話した2回の作業は主蒸気止弁の開放点検とボイラーの長期休缶工事です。蔚山停泊中に機関長の命令で、この蒸気弁が減っている傾向があるから開放して点検しようということになりましたけど、この作業は長時間の工程が必要です。ボイラー圧力を大気圧まで下げなければなりませんから、開放前日から作業を始め、翌日昼までに終了しましたが、この時もアスベストの布団の取外し取付けがあります。 もう一つボイラーの作業ですけれど、戦争もおさまってきて当年11月に傭船解除されまして呉港から東京港へ回航し長期係船されることになりました。係船しますと、電気は陸から給電して、全機器を運転停止します。しかし次の運航に備えて何時でも機器を異常なく運転再開できるように防錆工事など、たくさんの作業が必要です。ボイラー担当の私はボイラーの内部掃除をして乾燥剤を入れる作業に従事しましたが、この作業にはボイラー内に出入りするためマンホールの開放復旧作業がありますが、これもアスベストマットの取外し取付けがあります。ボイラー内部掃除は先ほどの話のように通常はドックハンドで施工されるものなので、私は特異なっていうか、希少な経験を函館丸で二回もやったわけですね。 「函館丸かなー」と思ってて、「しかしまたそういうのごちゃごちゃして面倒くさいし、もう今なんともないからもう労災の申請もやめようかな」とも思ったんですね。そしたら、毎年の10月1日に会社の創立記念日がありまして。創立記念日にはですね、郵船を退職した人が任意で入る游仙会がありますけれど、終身会員制です。退職したときに入会金5,000円かな…。 真田: 私の時は3,000円でした。 藤田: 3,000円?3,000円だった?俺、5,000円だったような気がする。そして10月1日がくると、東京、名古屋、神戸、北九州かな、各地の游仙会会員に招待状が来て、我々は会費無料でパーティーに参加します。支店長さんから会社の現状を聞いたりしますけれど、まあみんな古い顔に出会えるわけです。帰りにはケーキのお土産まで持たせてくれるんですね。 その時にこの二人に出くわしたんです。 「いやあ、しばらくだなぁ」、「おれ労災やろうと思ったけど面倒くさいからやめようかほんとに」そしたら真田君が「何言ってんの。そんなことしないでやんなさいよ!」って発破かけられましてね、そしてこの関西の、中皮腫・アスベスト患者と家族の会の古川さんの電話番号を初めてそのとき教えてもらったんです。それから、「労災を、改めてやろうか、・・・おい証言に立ってくれるか」。そのとき世話になったのが丸川君です。「そのときだれそれが乗ってたよ。頼んでみたら?」ということでわざわざ紹介してくれて。そして電話して、「証言してくれないか」っていうことで快く、二人の証言が得られました。それで、最初の労災申請にこぎつけることができたわけです。古川さんにもずい分、お世話になりました。 それで、労災の申請は2004年の12月にやりまして、そして不承認になりました。これが2005年の7月27日でした。何で不承認かといいますと、療養を要するほどの肺機能障害に至っていないため不承認であるっていうわけですね。で、「船に乗ってて、アスベストを吸ったというのは明確なのに、労働上の、職務上の災害じゃないか」と。 東京とは電話でしかやり取りしてないんですけれど、「制度上のことで、仕方ないんですよ。不服なら審査請求やってください。それでも駄目だったら、まだ再申請っていう方法もあります。そしてそれでも駄目だったら裁判しかありません」と。 それでは再申請しかないなと思いましたけど。それには理由が要るっていうわけですね。それで、2005年の8月に再申請しました。理由はやはり乗船中の作業、業務上アスベストを吸ったのは明確であるということ。それからお医者さんに、半年ごとに経過をみるためにCTの検査が必要であると。中皮腫の疑いもなきにしもあらずです、と言われてること。それから船員労働安全衛生規則っていうのがあります。これは法律です。船員労働安全衛生規則にはじん肺は載ってるけれどアスベストのアの字も載ってないじゃないか。そうなれば、別途考慮すべきであるという三つの理由をつけて、再申請したわけです。それも全く最初とおんなじ理由で不承認になりました。不承認になったのが2005年の11月ですね。おんなじ理由です。で、電話で文句を言いましたけど、「制度上のこと」で終わりました。 そしたら、すぐに前に申し上げた2005年の12月15日に船員健康管理手帳制度っていうのが始まりまして。始まりましたけれど、実際の診断開始は翌年の4月1日からなんです。わたしは2月と8月に健康診断受けてますから。手帳は2006年1月に受領しましたけれど、その年の2月は、手帳は使えなくて、8月から、兵庫医科大学病院へ行って、診てもらうようになって、現在もずっと半年ごとに診ていただいてます。少し長くなりましたけれど、これが自己紹介です。 そして、ここにアスベスト被害に関する全日本海員組合の取組の様子とありますが、私共には全く不明でした。全日海は月刊紙の海員新聞とか『海員』という季刊誌を発行していますが、これはほとんど現役船員向けに配布されるものでして、我々船会社を定年退職した元組合員へはありませんので、組合の活動状況は全く知り得ません。 私は自分のアスベスト労災申請でモタモタしていた頃「もしかしたら、元船乗り達は船のアスベスト問題について何も知らないのでは?」との思いで、2005年6月海技大学校同窓会誌に投稿しました。それを見たらしく全日海広報部2名の方に、10月に真田君と共に取材を受けました。その時に現在アスベスト問題が社会的な話題になっているとき、一般新聞には造船労組とか、港湾労働者関係の組合の動きなどが掲載されているのに、これらに比べて全日海の対応は非常に鈍いとか、全日海の動きは船員社会外では見ることも聞くこともできない等々を話したりしました。 それでここにある資料や『海員新聞』、『海員』等を送ってくれました。これらの資料によりますと、2004年3月に東京亀戸の名取先生、4月に笠原氏を取材して初めて船員新聞にアスベスト関連の記事が載ったようです。そして組合のアスベスト対応の活動が正式に決定されたのは2004年11月です。 2005年9月には組合本部から各地の支部に対しアスベスト問題に関するアンケート調査を各地の各船会社の船員OB会に連絡して実施するよう指示していますね。しかしこれは各OB会が日常的に組合とコンタクトしていることはないだろうし、実施は非常に困難で実効もあがってないと思います。私も知りませんでした。 次にアスベストについて海外で知ることはなかったか、ということですけれど、外航船は停泊中、日本国内外の港を問わず港湾事情により、着岸して荷役したり、港内に錨泊のまま沖荷役だったりします。そして停泊中の機関部は機器整備作業に忙しく外国の人々と会話することはほとんどありません。ましてアスベストに関心もない時代ですから何もありませんでした。 で、ある郵船OB会で顔見知りの元船長に久しぶりに会いまして、彼の話ですと、若い頃、アフリカ東岸(?)にアスベストを積みに行ったとか、その時の荷役中は船倉内がモウモウと煙っていたとか。荷役労働者は全員マスクをしていたそうです。荷役当直していた彼は「お前、なんでマスクしてないんだよ?」と言われたそうです。 それで、「俺も健康管理手帳申請する」とか言ってました。 松田: アフリカ東海岸、南アフリカですかね。 藤田: ええ、そうです、南です。 松田: 輸出元はよく記憶されてないですか。 藤田: ちょっと記憶がないですけれどね。 丸川: カナダからみたいなことだったね。 藤田: カナダですか。 丸川: モントリオールから。あっちからもだいぶ会社は積んできたんですよ。五大湖航路がありましてね。だから機関室にもたくさん使っていますけど、積荷として我々が運んできた…何にも知らずに運んできたんですからね。昔々ですから、私らのころはそんなアスベストなんて何にも考えずにね、自分で手で練って、それで耐火レンガを築いとったんですからね。 で、レンガだけだと火で全部真っ赤に焼けて落ちますから、そのアスベストを袋からバケツにあけて、それで水で練って、耐火レンガをずうっと築いていく。そのレンガをまたきれいにアスベストで、手で囲ってしまうわけです。そうすると真っ赤になってもそのレンガは落ちないわけですよね。 松田: そういう作業というのは、職階でいうと、大体、誰でもやったっていうわけじゃないんですよね。 丸川: いやもう皆順番でやっていました。だから入社して、まあ一番下のほうですよね。それから順番に上がっていくからね。 松田: 今思ったときに一番そういう意味で危険だったというか、曝露される可能性の大きかったんじゃないかというところが、やっぱりそういう手作業ですか。 丸川: そうそう。手作業と、それからマットをね、機関部の倉庫に、こんな大きな、マットが巻いてるのがあるんですよ。…パイプやなんか巻いたのが破れたらそれをハサミで摘んで、それを縫うて、またそのパイプにのせて縫い付けるわけですよね。 松田: それが布団というやつですか。 丸川: 布団です、布団作るわけですよ。自分らでもう、布団作って持っていってまたかぶせて、縫い付けるわけですよね。そういうのはもうみんな、みんなやってきとる。順番にやってきとるからみな、吸うとるわけです。 松田: それは、船全体で考えた時に、35年間で22年間船で暮らしたっておっしゃってたんですけれども、外国航路みたいな長い期間乗ってる船の場合と、同じ船でも日本の中で動いてる船とあんまり違いはないんでしょうか。 丸川: ああ、それは違わないです。 藤田: 30年くらい前だったね…。 藤田: さきほどタービン船だけじゃなくてディーゼル船もだって言いましたけれど、ディーゼル機関そのものにはアスベストはそれほど使われておりません。シリンダは水を循環させて冷却しますから。 昔のディーゼル船の燃料油はすべてディーゼルオイルです。燃料油の規格は粘度によってA、B、C油に分けられます。A油が最低粘度のディーゼル油です。ところが運航費を下げるために、より安価な重油B油からC油へと移行していきました。各ディーゼルエンジンメーカーはエンジンに最良の燃焼状態を得られるよう、燃料噴射弁に最適の燃料油粘度を要求していますし、また必要です。ですから燃料油が低質化するに従って、燃料油の加熱温度がどんどん上昇します。こうなってくると、燃料油噴射管にアスベストを巻く必要が出てきました。後代に造られるエンジンは改良されて噴射管は二重管になって、その必要がなくなりましたが、私の経験では油温を98℃まで上げた船がありました。 ディーゼル船の主機および発電機の排気管はそれぞれ煙突につながれます。これらの排気管の外周すべてにアスベストが使用されています。1955年に船を大型化した交流の第一船が竣工しました。それまで、船の電気は直流を使用していました。船を大型にし、スピードアップしますと、主機も当然大馬力化し、過給機が設けられます。そして発電機も4台になりました。 航海中、主機のエキゾーストガスは大径、長尺の排気集合管へ、そして過給機から排気ガスボイラーに導入され、航海中に必要な蒸気を作ります。その後のガスは煙突から船外へ排出されます。停泊中はドンキーボイラーに切り替えて重油を炊き、蒸気を作ります。先ほど言いましたように、煙突までのこれらの排気管はアスベストを使って断熱し、薄い鉄板で覆われています。 そしてエンジン、船体の振動、当然排気管も振動しますからメタルカバーの隙間からアスベストの粉末がもれてきますね。 当直中とか作業中には、スカイライキが開いてます。エンジンルームの天窓ですね。そこから日が射す。そうすると…キラキラ光るんですよ。船ってのは常に振動してます。波に叩かれます。そうすると、アスベストの粉がパラパラ落ちてくるわけですね。それで作業やって、「今日はえらい体がかゆいなぁ」なんてことしょっちゅうありました。あれこれ思い出すとタービン船もディーゼル船もアスベストに曝露されてる度合いは同じかな、とも思ったりします。 松田: その大きさの問題はあまり関係ないんでしょうか。大きな船と小さな船、例えば外国のほうへ行くような大きな船と、極端に言えば漁船みたいな船を考えた時に、度合いに違いがあるのかという…。 藤田: 漁船のことはあんまり知りません。漁船も大小様々ですし、ちょっとエンジンが違いますから。こんな小さい、例えば一番簡単なのは船外機ってありますね。 松田: 先ほどまでのお話というのは、大きな、ある程度の規模の船以上のお話ということですね。 藤田: はい、そうですね。 丸川: だから自動車のピストンいうたらこんなですよ。 松田: 詳しくはわからないですけど…。 丸川: まあ自動車のピストンはこれぐらいの大きさですよね。自動車の場合ね。それで我々の乗っとるのはね、ピストンだけで直径1mあるんですよ。ピストンの大きさが。 松田: 大きいですね。 丸川: シリンダー内をピストンが給気(空気)を圧縮して燃料を噴射して爆発させ、高温の排気が出ます。その排気管もアスベストの布団とかアスベストクロスでパイプを巻いて機関室が熱くならない様にしています。 航海中はその排気をボイラーの中に通して蒸気を作っています。廃熱を利用しないとね。 松田: はい。手作業で実際、触って直されたっていうのは作業しなきゃいけない船と、作業してない船もあるんですか。 丸川: いやいやそれはもう、どの船でも。 松田: 小さい船でも。 丸川: まあ小さな船は振動が違いますからね。大きいほうに乗るとやっぱり爆発の周りで振動が大きくなりますからね。小さい船だったら瀬戸内海とか、そんなとこ走るんだったら波なんかはね、全然ほとんどないですよ。 松田: 例えばその、それこそフェリーボートみたいなのだとか、あんな船だとそれほどのことはないってわけですか。 丸川: いや、それでもやっぱりフェリーとかあれぐらいになるとやっぱり巻いていますからね、全部。おんなじように巻いていますから、アスベストは飛んでいくんですよね。船の場合はね、陸上で労働しとる人は、家帰れるでしょう。海の場合はもう出港したが最後、家なんか帰れません。だからもうずうっと船にいますからね。だから、部屋ん中だってそのなんか飛んで、いつも舞っとるわけですよね。 松田: 確か、船長まで二人そういう方がおられると…。 藤田: そうです。船長になるまでの全航海士、それから甲板部員というのはですね。停泊して荷役しますと荷役当直に立つんですね。荷役が順調に行なわれているかどうか、間違いないか、煙草吸ったりする者がいたら注意したりとか、いろんな仕事がありますけれど、やはり時間、時間に決められて荷役当直に立つわけですね。ですから先ほど言いましたように、アスベストなどの荷役があると、当然、影響は受けてると思いますね。 松田: 職階のことはよくわからないのですが、年とともに、経験とともに上がっていくという風に考えてよろしいですか。航海士、あるいは機関部、甲板とかでも、最初は一番下のところから始めて、だからみんながそういう風に危険にさらされていたと考えてよろしいですか。 丸川: そうですね。みんながさらされていますよね。その後、上へあがっても我々エンジンの場合は必ずエンジンルームに降りてきて、回りますから、だから、皆、平等ですよ。皆、平等です。 加藤憲治 (神戸大学大学院人文学研究科准教授): 私、神戸商船大学で教えてたこともあったんで、教え子というか学生さんが郵船に就職できたとかっていう話を聞いたりして、良かったね、といったやりとりをした、そういうのが経験としてございます。 今、お話を伺ったところ、1950年と言おうか朝鮮戦争と言いますか、その近辺からの船っていうのはアスベストをはじめとした、いろいろな危険な状態にさらされてたと仰ってましたね。タービン船とディーゼル船もまあ若干の違いがあるとしてもそういう状態だったということでしたが、そういった状況は今はもうほとんど改善されていると考えていいんですか。 藤田: それがですね、私、今の船全然知らないんです。会社を定年退職してから外航船を訪船したことがありません。アスベストは使用禁止にされているはずなんですが、まだ先ほどのパイプのジョイントの間に入っているシートパッキンは、アスベスト製品ですけど、それはまだ残ってるんじゃないかなぁ。 加藤: ではやはり、普通の人よりは危険性の高い職場ということになるんですかね。ドック(造船所)で働いている方たちっていうのはアスベストに曝露する確率っていうのはあるんでしょうか。 丸川: それはかかります。その人がその船を作るんだから。造るときに必ずアスベスト使って船を造るから。造船所の人が造ったのをまたわれわれが運行するんですから。 加藤: だから知らずに被曝してしまうという…。 丸川: それはもちろん。 藤田: ですから、全日海よりかですね、造船労組のほうが対応策は進んでると思いますよ。 加藤: だから必ずマスクするようにっていうのは、例えば、だいぶ徹底されていると…。 藤田: 昔、ドックに入っても工員さんのマスク姿ってのは見た覚えがありませんけど。ドックへ入ると、必ず機器の開放・復旧がありますから。そうするとアスベストの粉じんに曝露されることが多くなってくるわけですね。で、そのドックでも乗組員は機関室の中で仕事しています。エンジニアはドックハンドでやっている検査、工事あるいは整備工事に立ち会いながら、仕事するわけですね。ですから常にドックを経験すればするほど、アスベストを吸入する量っていいますかねえ、被曝量は増えると思いますね。 松田: 今日は、付録としてある記事のコピーを用意しております。Harriesという有名な研究者だそうですが、造船所の作業過程でどれぐらいアスベストの濃度が違うのか、について調査した有名な実験があります1。それが1940年頃の造船作業を再現していまして、造船の方ではこの段階で明らかにわかっていたということがあると思います。 船の寿命のことなのですが、どれくらいの期間使用するのでしょうか。 丸川: そうねえ、昔作った船をずっと使っておれば全部巻いていますからね。 藤田: 港行って我々がときどき目にするんですけれど、横文字の船名が書いてある。その下のほうにですね、何々丸なんていうのがあって、溶接でなぞった跡が見えるんですよ。ああ、昔の日本船やな、なんて思います。大体造って20年もすると売るんじゃないかな。そうすると、買った船会社はまだ動かせるとなると運航するわけですね。 丸川: 大体15年から20年くらいで、会社によって違いますけどね、うちの会社の場合は売ったり、子会社へ落としたり、無くなっていくんですよね。 松田: 20年使われて、売られた船はさらにどれくらい使われるんでしょうね。 丸川: それはまだまだですよね。すぐスクラップにする会社もあれば、そのままずっと使うところもある。 真田: 外国に売却したら日本の法律が適用されなくなるから。もう向こうの国の船になるから、全然わからない。 松田: そうですね。その先どこに所属、どこの国に属するかによって決まるのですか。 丸川: 決まりますよね。太平洋戦争勃発時113隻くらいあったの全部沈められたですからね。照国とかああいう船は全部戦争中に、客船が空母になったりね、ほとんど沈められて、残ったのは、氷川丸くらい。戦争中にとにかく軍の荷物を積んで向こうへ行けばいい、だから行きだけ行って帰ってこんでもいいような船を作って、まあわれわれ入社したときは、そのころは戦時標準型船、戦標船やったんですよ。 松田: 「帰ってこんでいい」というのはどういう意味なのでしょうか。 丸川: 沈められるから。 松田: 帰り沈んでもいいと。 真田: 死ぬんですよ。 丸川: それでも各社の船、沢山沈んだんですよ。 藤田: 戦争中にですね、乗組員の亡くなったパーセンテージは48パーセントなんですよ。6万人いたそうです、戦時中。48パーセント死んでます。陸軍は何パーセントくらいだと思いますか。 藤田: 23パーセントです。海軍はどのくらいだと思います? 松田: 怖いですね。海軍はもっと多いんじゃないですか。 藤田: 18パーセント。輸送船団を海軍は守ってくれないんですね。裸で出されて、すぐ飛行機に…。 丸川: だから、船員が船を沈められて死んでも、戦死じゃないわけです。 藤田: その神戸にですね、全日本海員組合の建物があるんですけど、そこに全部資料があります。 丸川: 海員組合の二階にね、沈んだ船の写真がずうっとありますから、いっぺん見に行ってください。たくさんの先輩が太平洋の藻屑になったんです。インド洋、太平洋で。たくさん死んだんです。 松田: 戦標船の話が出ましたが、資料を用意していただいております。さきほどの、労災申請の際に2名の証人が必要という話題がありましたが、実態証言というものが二種類、記載されております。 若い人間は戦標船について何もわからないのですが、いかに労働が過酷であったかも書かれていますし、このあたりをご説明いただくとありがたいのですが。 丸川: そうですね、戦標船に延長丸に乗ったんです。これが6900トンぐらいの船なんですけどね。それで、馬力が2800馬力です。この船はその当時戦争中に作って荷物を運んで日本に帰ってくる会社が運行しとった船で、助かったんですよね、戦争中に。そのころにやっと計画造船で平安丸とか、国が援助してくれて船を造りだしたところ。それまではそんないい船はなかったです。戦時標準型の船が40杯ぐらいあったかな、うちの会社にね。延長丸はボイラーを3缶、それで蒸気で動かすレシプロいうんですね。あれと一緒です、機関車とね。あれの大きな、縦にして、それで蒸気ピストンを動かして、スクリューを回して走ってたんですよ。 で、だいたいこの船は1日に石炭を30トンぐらい焚くんですよ。ボイラーが三つあり、この船は30トンぐらい焚いて、一時間のスピードが7~8マイルです。船の割りに馬力が小さいですから。走らないわけですよね。1日30トン焚いたところでたいしたスピードが出ないわけですよね。 いっぺんフィリピン沖で台風に遭うたことがありまして、この船で。それで一日30トン石炭焚いて、あの台湾海峡のとこにね、ガランピンって島があるんですよ。その島が・・・朝に見たらすぐ横にあるんですよ。それで一昼夜経ってですね、前から台風で煽られて風受けて、それであくる日の朝見たらまだ見えとるんですよ。で、3等航海士に「一日何マイル走った?」言うたら、「2マイルしか走ってない」言うんですよ。馬力が小さいからね、台風に会うたら全然進まないんですよ。30トンも石炭焚いても。戦時標準型いうたら、そういうような船なんですよ。 だから要するに戦争中に荷物を敵地へ持っていくだけで帰らなくてもいいいうような船やからお金はかけてないね。船そのものに大きなエンジンもつけてない。だから、向こうの潜水艦とか飛行機に追いかけられて、我々の先輩がみんな沈められて死んでるわけなんですよ。 そういう船が戦後に残って・・・働いて、新造船を国から援助してもらって、援助してもらっといて、今まで欧州航路とか客船がたくさんあったのが全部改装されて、空母とかそんなんになって全部沈められたでしょ。会社の損害だってものすごい損害だから。 松田: 戦標船にもアスベストの問題がありますか。 丸川: ボイラーに石炭を焚いて蒸気を作るのですが、丸缶では(会社の船は)一つの缶に石炭を焚く口が三ヶ所あります。その奥に、有効に火力を働かすために、火を直送りしない様に邪魔をするようにして、耐火レンガでファイアーブリッジ(火の堰)を築き上げます。それが航海中に壊れたり、火で真っ赤になり、ボロボロ落ちるので、停泊したらアスベストセメントで(水で練って)耐火レンガを築き直します。 松田: 戦争前からやってたってことですか。それで外国でも船で同じ作業をしてたと考えてよろしいですか。 丸川: そうそうそう、戦争前からやってた。そうですよ。外国でも同じ作業してたわけです。 藤田: 丸釜が基本ですね。正面から見ると円形です。 丸川: これがボイラーですね。丸いボイラー。 藤田: 丸缶を構成する三大要素を燃焼ガスの流れから説明しますと、まず石炭を投入し、燃やす(ファーネッスfurnace=炉)。その奥に隣接してガスを完全燃焼させ、流れる方向を転換するコンバッションチャンバー(combustion chamber=燃焼室)。そしてガスの熱エネルギーを缶水に最後に伝達するスモークチューブ群です。それからガスは缶前部上方に設けられた煙突に集まり、煙室に排出されます。 燃焼ガスがファーネッスからあまりに速くコンバッションチャンバーに逃げてしまうと燃焼効率が悪くなりますから、この境い目のガス通路を狭くするために、耐火レンガとアスベストセメントで構築した土手のようなファイアーブリッジが造られています。これがよく損傷し壊れます。そうすると、ボイラーを休缶しまして、ここを修理するのは火夫とか。コロッパスとか。 丸川: だから入社して、2,3年まではその仕事させられるわけですよ、皆。若いときにね。 藤田: 丸缶はコンバッションチャンバーの位置によって湿燃式と乾燃式があります。チャンバーを本体内部に設けたのが湿燃式、本体後面に密接して外部に設けられたのが乾燃式ですけれど、耐火レンガで造られ、これも損傷することがあります。 スモークチューブは全て水面下にありますが、その上方ボイラー上部はスチームスペースでして、その頂部には先ほど言った主、補蒸気止弁、安全弁があり、そして頂部附近にマンホールがあります。マンホールはもう一ヶ所、水室下部にも設けられています。 松田: 先ほど言われたのだと、このマンホールの中からその中に入られた。 藤田、真田、丸川: はい。そうです。 真田: 熱いです。 藤田: こん中入っていったら、狭いですからね。そんなに人間が自由に動けるわけじゃないですから、横になったり、もうしゃがむのも苦労するぐらいで。 丸川: 100本以上のパイプが走っていますからね。そのパイプの中を燃えたアレが通るわけですよ。そのまわりは水ですから。それで蒸気を作るんですよね。これが壊れたら、ここら辺の壁が落ちたりしたら、はしごを持ってきてここへ耐火レンガを、アスベスト、自分らで手で練ったやつを引っ付けて、それでまたアスベストで…ですよ。耐火レンガだってすぐに、熱が高いから崩れ落ちるわけです。 藤田: で、結局こういう周りは全部アスベストで覆われてるんですね。 丸川: ボイラーが全部アスベストで覆われてる。 藤田: アスベストで覆って、それをトタン板のような薄い鉄板でカバーしてる。それで、この先は煙突につながりますから、この周りはずうっとアスベストで巻いてある。われわれに言わすと、エンジンルームはアスベストだらけやったな。あんまり気にしてなかったけど。 丸川: 三十年過ぎくらいからですね、もう石炭を焚かずに油を焚く船になって来ました。 藤田: 戦標船にはA型、B、Cとか、あったんかなあ、僕が知ってるのはA型とE型、A型のいうたら永徳丸、これはタービン船です。これがですね、戦時中は短期間に作ってどんどん送り出さないと、全部船沈められてアウトになりますから、要するに効率よく船体を作ろうということで、船尾は三角形です。これを戦後改装しまして、改A型とするわけですね、石炭焚きを油焚きに最初にしたのが永徳丸かな、これは昭和25年頃かな、26年か、わたくしが乗っていく時は「日本郵船の最優秀船であるから、しっかり勉強してこい」なんて言われて、戦標船ですけど。実習生の時、昭和26年の話。 丸川: 26年言ったら、氷川丸が戦時中に残った船で、あとは戦標船しかなかった様に思います。 太平洋戦争勃発時、133隻あり、多くの客船が沈められたので、会社も大変だったでしょう。26年頃から計画造船で平安丸、平洋丸が出来て一年、一年、新造船が出来、欧州、アメリカ航路等行く国が多くなりました。 藤田: 蒸気駆動の甲板機を使用していた頃、揚錨機、繋船機、ウィンチなどにはハンドブレーキが付いてます。ブレーキパッドは全部アスベスト製ですから、これらを運転するたびに、アスベストの害を受けていたと思いますね。 丸川: あの大きな錨を止めるんですからね。チェーンだけでもこれぐらいの大きさありますからね。チェーンの太さはこれぐらいで。大きさがこんなのがずーっと。・・・mくらいあるんですからね。それをドーンと、アンカー下ろしたり、チェーンを止めなあかんのですから、ブレーキだってすごい。 松田: すみません。手書きの資料で渡辺さんが書かれている、「最後に」という箇所で、外国人船員の話が挙げられています。『海員』のほうにも外国人の船員という話が問題点として書かれております。 先ほど話題になった、船が外国に引き渡される、それから、そもそもみなさんが船に乗られていた時代に、外国人にとって船のアスベストの問題が何か気付かれていたか、ご存知のことがあったら、話していただけますか。 丸川: 外国人の船員はおりました。ただ外国は、どうかなあ。 松田: それはいつごろのことでしょう。何年ぐらい。 丸川: ええっとねえ。ちょっと待ってくださいよ、船員手帳見たらわかるわ。 松田: 船員手帳っていうのはさっきの。 真田: それはですね、労災認められた人のなんですけれど、それは入社当時からの船員手帳のコピーです。 松田: 船員手帳は、旅券と健康保険兼ねたような手帳とお聞きしました。いつどの船に乗ったか全部書いてあるそうですが、実際はどういったものでしょうか。 藤田: 船員は入社してから退職するまで会社の命令によって乗船、下船します。乗船時は雇入れ、下船時は雇止めの手続きをします。昔はその時の本船乗組員の事務員が乗下船時の各港の海運局へ手帳を持参して公認してもらいます。ですから手帳には全ての乗下船の年月日が記載されています。 丸川: 船員手帳でもこういうふうに健康の証明が全部載ってるわけです。医者の合格の証明がなかったら船に乗れないです。必ずこの健康手帳に全部載ってるんです。それで、乗船した時に、こういうふうに。これが雇い入れ、こっちが雇い止め。雇い入れしてなかったら船に乗れない。雇い止めしてなかったら船から降りられないんですよ。だから日本に着いたっていっても、船員手帳がなかったら不法入国なんですよ。 松田: 雇うというのは、その場合は日本郵船が雇っているということでいいのでしょうか。 丸川: そうです。で、その証明を海運局が、国がするわけですよね。 松田: 一応形の上で一回船に乗って出るまでで、間に区切りがある。そういうことですね。 丸川: そうですね。 松田: 外国人の方が船員になったときも、そういうシステム自体は変わりはないんですか。 丸川: 変わりないですね。 松田: 日本郵船の職員、スタッフとして雇われている、そういう形ですか。 藤田: 期間契約なんです。入社っていうことじゃないんです。今も派遣とかなんとかっていうみたいな、雇用契約するわけです。1年とか1年半とか。それを代理店とか派遣会社を介して、フィリピンならフィリピンに手配して、それで乗船してくるわけです。 松田: その人たちが日本の船に乗る場合、日本の船員手帳を持つんですか、それともフィリピンで管理するんですか。 真田: 日本の船籍じゃないです。 丸川: 日本の船じゃないんですよ。あのね、船籍港がリベリアにあるんですよ。私が乗った船はね。フィリピン人が30人。最初の時は日本人が6人。2杯目は、2杯乗りましたから。 松田: じゃあリベリアの船員手帳みたいなのもあるんですか。 丸川: そうそう。 松田: で、そのフィリピンの人たちはリベリアの船員手帳かなんか持ってる。丸川さんの場合は日本の船員手帳でいいんですか。 丸川: いやこれもね、その船のアレが載ってないからね、向こうの船員手帳・・・。日本の法律が適用外になるんですよね。 松田: そのあたりで、例えば、フィリピンの船に乗られた方が中皮腫になるということはあるわけで、そうなった場合には日本の法律はもう関係ないと。 丸川: うーん、どうでしょうね、ないと思う。問題はありますよね、それは。 真田: 日本の船員法が効かないでしょう、効くんですか。 丸川: 日本の船員法は効かんのやろなあ。その辺はちょっとわからないですけどね。 真田: みんな船籍の国が発行する手帳を持っている。 丸川: 向こうの派遣会社のあれで来ますからね。2年か、2年半ぐらいフィリピンと一緒に乗りました。2杯乗ったですからね。 羽地亮 (神戸大学大学院人文学研究科准教授): 外国の船員というのは、フィリピンの他にどういう国の人たちが。 藤田: 混乗船始めたころはフィリピンだけじゃなかったです。フィリピン人が多いですけれど、始めたころは中国人もいました。これは中国本国からではなくて、香港とか。中国人、それから韓国人もいました。それからインド人もいたのかな。 丸川: インドもおった。 藤田: だけど、混乗船で残ったのは、フィリピン船員だけだったね。他の国の人との混乗船はいつの間にかなくなったようだけど。戦中戦前の歴史上の想いからか、民族的プライドからか、あるいは雇用契約上の問題があったからのか、噂だけのことで我々にはわかりませんが。 私の経験した混乗船のフィリピン船員の多くは性格の明るい人達だったし、命令には非常に従順だし、一緒に仕事しやすかったですね。 羽地: その外国船員との会話って言うのは英語でするんですか。 藤田: そうです、英語です。得手、不得手なんて言ってられません。 丸川: あのね、仕事はね、一つしか命令できないんですよ。二つとか三つとか仕事を言っても一つしかしないんですよ。だからもう必ず仕事する時は「終わったら知らせに来い」と。言わなかったら、もう終わったら遊んどんですよ。 藤田: ですから、さっきも言ったように、期間雇用ですからもう下船してしまったらわかんないわけですね。ですから給料もですね船内で計算するんですよ。それで毎月の明細を本社に電報入れる。そうすると、ドル計算された給料の、60パーセントだったか、70パーセント、数字は忘れましたけれど必ず本国への送金を義務づけられています。そして各家族のいる銀行へ送られるんじゃないですかね。そういうふうに船でもらうのは、ですから送金した後残りを船内で支給されます。 丸川: 後の30パーセントくらいやな。 藤田: やっぱり少なくてブーブー言ってたような。 丸川: 30パーセントが本人のになって、あとは全部国へ送られるわけです。そういう契約で、強制的に送らないと国から出られんわけですよ。 藤田: 50年ぐらいから始まって、そして混乗船がどんどん増えてですね。超合理化船を造る言うて、乗組員数12人の計画だったかな。でも超合理化船というのは船価が非常に高いわけですね。ですからそこまで結局行きませんでした。ずっと混乗船で続けてきて、もうどんどん日本人の乗船は減って、職員もほとんどなし。日本人は船長と機関長だけ。それで船長・機関長いないかって会社で探してるんですからね。船長、機関長になるのにたいていは20年くらいかかるんですよ。 結局、超合理化船ていうのは船価が高くて採算が取れないっていうことで、船籍を変えたり、外人の乗組員にしたりして。ですから日本人の船員ていうのはほとんどいなくなっていきましたね。 松田: では、今若い方は非常に少ないんですね。 丸川: 少ないどころかおらないです。 藤田: 会社が船員の採用やめたの、何年だろ。50年代終りくらいですかね。 松田: 昭和の50年代? 藤田: はい。少し記憶があやふやですけど。 真田: 外航に乗る船員ていうのは少ないですね。 藤田: 外航に乗る、外航船で部員になって乗るっていうことは、海員学校を卒業しないといけないんですけれど、海員学校の制度そのものが変ってしまったよね。 真田: 海技教育機構には海上技術学校(本科・実習科3年制中学卒業者)と海上技術短期大学(専修科2年制高校卒業者と同等以上)、海技大学校(海技士教育科・技術教育科。船員・船員になろうとする者)があります。 藤田: そして3級の免状を取るようになったんかな。そして遠洋、外航に乗れないもんですから近海船の職員というふうに変わってきてますね。 藤田: 我々の時代はですね、外国へ行こうと思ったら船に乗ったほうが手っ取り早いですね、すぐ外国行けますから。1960年かな、今の天皇陛下がたしか皇太子のときにアメリカを訪問されたと思うんですが、そのときの新聞記事は、たしか横浜からアメリカン・プレジデントラインの客船で訪米されたというふうなことがちょっと記憶の端っこにあるんですがね。 当時大型旅客機はなかったんです。そして、我々が運行している貨物船ていうのは、客室が6室ありまして、1部屋2人ずつ、それでお客さんを12名まで乗せられるわけですね。 当時、ですから、日本の方が欧州へ行こうと思ったら、シベリア鉄道を通っていくか、船に乗っていくかです。シベリア鉄道通ったほうが早いと思うんですけれど、冷戦時代ですから手続きとか何とか難しいんですよね。 有名人の方が結構、留学生もそうですけど、船に乗って欧州に行かれましたね。帰りもそれだったですけれど。よくお客さん乗っけたよね。 丸川: うん。あそこ、イタリーのゼノアとフランスのマルセイユで下船して。後は汽車で欧州各国に。大体フランスのマルセイユでみなたくさん降りて。帰りはフランスのマルセイユで船に乗って日本に帰ってくる。 藤田: そして、今、商船大学の人たちの、船に乗ろうっていう人が少なくて、昔は航海科と機関科しかなくて、今、学部がいっぱいあると思うんです。ですから、わざわざ苦労してですね、難儀な職業につこうとしないんじゃないですかね。ですから郵船がフィリピンに商船大学つくって、人を採用するっていう。 松田: 学生がいるのですか。それとも、これからですか? 丸川: これからです。 藤田: 今年の6月に発足したはずだから。もうそのニュースは去年。「郵船、郵船、マニラに商船大学」、「ええっ」なんて。それだけ船に乗ろうっていう人がいなくなりました。 真田: 日本郵船がフィリピンに商船大学を設立。大阪商船・三井船舶はマグサイサイとトレーニングセンターを開設。川崎汽船は、私立商船大学のe-Collegeと船舶職員育成に関する提携を結んでいます。 藤田: 養成所は結構作ってるんですね。優秀な人たちを囲い込みたいわけですから。そういう所で勉強させて採用するっていうようなことをやってるようです。 真田: 日本の企業でも採用しているのじゃないですか? 一般大学卒、あるいは中途採用して、2年ぐらい専門学そして乗船実習(乗船履歴)をつけて海技免許の受験資格を得て、免許を取得させて乗船させる。 藤田: 一般大学から採用して、船長、機関長つくるって言ってますけれど。 真田: 商船学部があるのに何でこんなことを企業がやるのか、矛盾してますよね。 藤田: 海大には、すでにその制度、コースが始まっていますね。 丸川: 船に乗るっていう人がね、50年代の頃は若い人がね、両方の免許とらないけなかったんですよ。機関士と航海士と。 藤田: 混乗船になる前に、合理化と言いますが、乗組員数を減らすために甲機両用船員て言いまして、甲板部の仕事も機関部の仕事も両方できる。それが非常に多くなったのが、50年代の終わりごろまでですね。60年ごろになるとほとんどなくなってますね。それでどんどん外国人船員に入れ替わっていったんです。混乗船がどんどん増えてきたんですね。 丸川: だから両方勉強させられたのが、私が第一期生なんですよ。第一期生で私は機関部でしたので、甲板部の勉強しました。 加藤: 今の50年代60年代っていうのは、昭和50年代ということですか? 丸川: そうそうそう。昭和です。昭和の50年代に第一回の郵船が合理化のためにG.PC教育を始めたんですよ。 藤田: 教えるほうも苦労する。 丸川: そう。教えるほうも苦労するよ。 松田: 藤田さんは、海技大学校で教鞭を執られたとお聞きしていますが、安全教育については海でどんなことをされていたのでしょう。アスベストについては全くされてなかったと思うんですけれども…。 藤田: おっしゃる通り、アスベストとは、とか、アスベストについての安全対策などの教育は全くやっていませんでした。まだアスベストに対する意識・関心そのものがありませんでしたから。 丸川: 知ってたらね、手でこねたりね、そういうことしなかった。そういうのはもう、全然、退職してから十何年経ってから、問題になったから。びっくりした後ですよ。 藤田: 私が学校行きだした時は、昭和60年ですね。当時、いくつかの科目を担当しましたけど、先ほど言われたようにアスベストについては何もやっていません。 松田: 会場の皆さんのほうからもどうぞ。 藤田: 船っていうのもずいぶん変わりましてですね、これが今の船なんですよ。人が点みたいに小さく写ってる。これは昔のゼネラルカーゴボートっていう、あらゆる雑貨を積む船で、今はもう全然ないです。全て専用船です。 丸川: みんなもうコンテナ、ね。 藤田: 昔の船っていったら、三島型って言いまして、ここにブリッジがあります。それからアンカー、こっちは係船機、操舵機なんかもここにありまして、島が3つあるように見えるでしょ。それで三島型っていいますけれど、これは一般貨物、何でも積みます。鉱石類、羊毛、鉄板、電線、電化製品、自動車までみんな積みます。今はこう船は全然ありません。 これから全部専用船。コンテナも、コンテナしか積みません。こういう船はもう見ることできません。このディーゼル船でここへウインドラスがありますけれど、1番ハッチ、2番ハッチ、3、4、5番ハッチまでありますけれど、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、ウインチが12台ですか、マストがここにありまして、このウインチで荷物を積んだり降ろしたりするわけです。この荷役時間を極力少なくして、停泊日数を短くして運航効率を上げるためにコンテナ船になってきたんですね。 松田: 大体、何人くらいの人が乗るのですか。 丸川: えーと、だいたい15人か。私乗っとったときはね。 藤田: 昔の外航船は、52人とか53人乗りの船もありましたね。 丸川: 50人近く乗っとったですよ。昔はね。それでその、お金をかけて15人くらいにするために、ものすごいお金をかけてね、だいたい、船の一番上のブリッジで航海士と二人が見張りして動かしてるんですよ。それが、誰もおらなくても、前から来る船が5杯ぐらいまでは自動でかわしてくれるんです。その代わり、1台、レーダーと連動して舵が動くように、それ2台ついとるわけですよ。1台が大体、1億なんぼかかる。だから2台あるから2億なんぼかかるんですよ。 松田: その機械だけで? 丸川: 機械だけで。その代わり50人ぐらい乗ったんが、14、5人で動かせるようになった。 藤田: これ先生、私が海員組合から送ってもらった『海員』ですけれど、お持ちではないかと思いますけれど、よろしかったらこれどうぞ。アスベストに関するニュースがこれ見ればお分かりになると思います。 松田: 本日は貴重なお話をお聞かせ頂き、ありがとうございました。 藤田、真田、丸川: ありがとうございました。 1 PG Harries. Asbestos dust concentrations in ship repairing: a practical approach to improving asbestos hygiene in naval dockyards. The Annals of occupational hygiene, Vol. 14, No. 3, pp.241-254, 1971. --------------- ------------------------------------------------------------ --------------- ------------------------------------------------------------ 7