アスベスト被害聞き取り調査―田尻五郎氏 [2007年6月12日] イントロダクション:アスベスト被害から現状まで 松田毅(神戸大学大学院人文学研究科教授): 今回の聞き取り調査の目的から、今日は医学的なことに限らず、人生の中でアスベストの被害がどう表れ、それをどう感じられたかなど、そういったお話を具体的にして頂けたら、ありがたいと考えております。 特に、田尻さんは尼崎市の総評(*1)で事務局長を勤められた経歴をお持ちとのことですので、そのあたりのお話も伺いたいと思います。まずは、田尻さんのお歳や、出身地に関することを聞かせて頂けますか。 *1 編者注:日本労働組合総評議会尼崎地方評議会 田尻五郎: 私は1932年11月生まれで、現在74才です。出身地は、鹿児島県知覧(ちらん)町です。18才の時に上阪しまして、尼崎の大同鋼板(*2)に就職しました。 その頃朝鮮戦争が終結しまして、不況に突入しました。その煽りを受け、日本の基幹産業である鉄鋼業界の再編が起こったのですが、その真っ只中でした。日鋼室蘭や大同鋼板、尼崎製鋼など、あっちこっちで解雇反対の大きな労働争議が展開されていた時期です。 私が大同鋼板に入社したのは昭和26年で、詳しくは話できませんが、労働組合の執行委員に選出され、昭和30年に大同鋼板を解雇されました。 *2 編者注:現日鉄住金鋼板株式会社 松田: それは何故ですか? 田尻: 業界再編と、労働組合の活動が理由です。私だけではなく、組合の活動に参加していない多くの人達も解雇されました。私が入社した時分、2100人くらいいた従業員が、年々百人単位で従業員が解雇され、昭和30年の闘争時には1400人でした。そして、その闘争の結果は全員解雇という形で終結したわけです。 解雇されて、いわゆる「飯が食えない」状態ですから、今で言うアルバイトのようなもので、昭和31年の夏、日雇いの臨時工として野沢石綿セメント(株)神戸工場(*3)で、約2ヶ月間アスベストをほぐす作業をしました。当時はアスベストといえど危険物質でもなんでもありません。しかも、一応法律はありましたが、労働者に対する安全衛生対策は無きに等しい状態です。マスクも手袋もせず、直接触っていました。 その後しばらくすると、鉄道の枕木や橋梁がセメントでコンクリート化されて、セメントを扱う労働者がじん肺になるということがあった。私がアルバイトに行っていた野沢は、石綿とセメントを混ぜてスレートを作っていた会社ですから、同じようなものです。作業が終わって風呂に入り退門する頃には、体からジワーッとセメントが染み出してくるんですよ。 それでも毎年の健康診断で異常も無く、今日までやってきました。ところが、2005年の6月にクボタの会見、いわゆるクボタショックを機会に、(野沢でのアルバイトの件もあったので)精密検査を考えるようになった。あれこれ考えているうちに、去年の三月に熱を出しましてね。いつもは二、三日で下がるのに、その時は全然下がらなかったんです。 それで、県立塚口病院に行ったところ、即入院となり、発熱の原因を探る検査をしていたのですが、「胸膜に腫瘍の疑い有り」と言われ、呼吸器科で精密検査を受け、一度短い退院をはさんで、5月のゴールデンウィーク明けに再度入院し、入院の翌日に病理検査手術を行い、5月16日に悪性胸膜中皮腫が判明しましたが、「年齢的に手術自体は困難である」と言われました。 中皮腫が判明するまで、自覚症状というのが全く無かった。咳をするわけでもなければ、気分が悪くなるわけでもない。ずっと元気だったんです。私にとっては本当に突然のことでしたが、症状の推移をみながら対症療法で対処しようという事でしたが、担当医から「セカンドオピニオンという意味で、他の病院での診察を受けることも可能ですよ」と言われたんですね。私自身は心当たりが無かったのですが、その担当医に「京都大学で診察を一度受けてみてはどうか」と言われましてね。 それで、私は京大病院(*4)に行きました。そして京大病院に入院の上、家族を含めて説明を受け、6月26日に手術を受けました。それから2ヶ月の経過観察と、3週間ほどの静養を目的とした退院をはさみ、12月26日に退院するまで、3月の県立病院への入院から起算して、ちょうど200日入院の闘病生活になりました。一度の退院を経て、二度目の入院は、抗ガン治療です。化学療法は副作用が出ると副作用の治療をしないといけないので、私の場合は通常の半分の量で行い、治療計画書の半分で打ち切りました。 *3 編者注:現日鉄住金鋼板株式会社 *4 編者注:京都大学医学部付属病院 田尻夫人: 抗ガン治療に関しては、抗ガン剤を投与するか否か、先生方の間でも意見は様々だったようです。それで、「体にダメージを与えることになるが、全量投与するか」というように意見を求められたのですが、「わからないので、お任せします」とお伝えしました。結局は、医師の判断で(投与は)途中で打ち切られたようです。 田尻: 私はあまり詳しくは知りませんが、今、アメリカなどではガンの治療は手術から放射線治療に主流が移りつつあるそうですね。日本の場合も放射線治療はあるみたいですが、ガンの治療を目的とした放射線治療用の機器は少ないようです。そこで、目的に適う機器をアメリカから三台買い入れる計画をたて、うち一台が京大病院に割り当てられて、中皮腫に対して放射線治療を行う、という運びになった。つまり、中皮腫に対する放射線治療として、私が国内第一号に選ばれた様な結果で、これは非常に身体にだるさなどがでるきつい治療でした。他の種類のガンに対しては既に放射線治療を行われておりましたので、健康保険が利いたのですが、中皮腫に対しては、新方式の治療でまだ利かなかった。しかし、(治療自体は)私が頼んだわけではないので、(治療費は)大学側の研究費用で、治療を受けました。 退院当初は100mも歩いたら息切れがして、小休止を入れなければ、すぐには歩き出せない。精確に計測したわけではありませんが、今は300m程度なら大丈夫だと思います。毎日自分の足で歩くわけですが、介護保険の適用を受けて、五月から週三回の頻度でリハビリに通うようにもなりました。 松田: リハビリは、どのようなところへ通われているのですか。 田尻: 介護保険のデイサービスです。 田尻夫人: 整形外科がやっておりますので、スポーツジムにあるようなエアバイクやボート漕ぎのような器具を使って運動を行っています。 田尻: 入院中に弱った筋力の回復が主目的です。日常生活には一向差し支えない、という(医師の)説明の下に手術を受けて、右肺の全摘出に踏み切ったわけですが、日常生活へ復帰するのに、こんなに長くかかるとは思わなかった(笑)。 外出する機会があれば、なるべく外に出るようにしているのですが、なかなか出歩きが出来ないんですよね。今度、6月30日、7月1日とシンポジウム(*5)がありますが、なんとか出席はしたいと思っていますが。奈良医科大学の車谷先生も、飯田さんも、組合運動をしていた関係で面識はあるので、もしアスベストに関するお話で私に協力できることがあれば、協力は惜しみません、と伝えておきました。 *5 編者注:『クボタ・ショックから2年 ― 写真と報告でつづるアスベスト被害尼崎集会』 松田: 現在は経過観察のような感じで通われている、ということでしょうか。治療そのものはもうされていないのですか? 田尻: はい、治療はしておりません。若干飛ばしたところもありますが、大体のあらすじはこのようなものです。 野沢での労働実態とその後 松田: 少し遡って、昭和31年にアスベストを用いたスレートの製造に携わった時のことをお伺いしてもよろしいですか。例えば、アスベストの種類や、作業の内容などはどのようなものだったのでしょうか。 田尻: アスベストの種類は白石綿(クリソタイル)です。確か、青石綿(クロシドライト)は日本では発掘されないんですよね。全て輸入に頼っていたはずです。ですから、青を使いだしたのは、もう少し後ではないでしょうか。私は7〜8年、クボタの救済金支払い対象となる地域にも居住しておりました。 田尻夫人: (資料を参照しながら)えぇと、野沢石綿で働いていたのは、昭和31年の6月16日から8月28日までですね。そして、クボタ1km圏内に住んだのは昭和33年の10月から、昭和40年の11月までですね。 田尻: 今は救済の対象範囲が徐々に広がりつつあるようですが、1km圏内には入っているはずです。 松田: ということは、環境曝露の可能性もあるかもしれませんね。 田尻: そうですね。ですが、病院の病理検査の分析時に石綿の種類までは調べていないんです。アスベストが出た、ということははっきりしているものの、その種類まではわからない。そこで、その分析を(奈良医科大学の)車谷先生がする様ですので、協力して分析していきたいと思っています。 松田: 分析の結果は出ているのですか? 田尻: まだ出ておりません。青石綿という結果が出れば、クボタの環境曝露ということになるし、白石綿であれば野沢石綿が原因ですから、労災の申請が出来る。 松田: 野沢石綿で働かれていた証拠は残っているのですか? 田尻: その件でも、野沢から「うちで働いていた証拠はありますか」と電話がかかってきました。そう言われても、こっちは野沢石綿の労務係長の風貌くらいしか記憶にない。名前すらわからない。そう伝えたら、野沢石綿は、労働基準監督署に、証拠が無いと連絡したようです。しかし、労働基準監督署が調査したら、記録が出てきた。ですから、働いていたという証拠はあるのですが、野沢石綿が認めるかどうか…。 田尻夫人: 野沢石綿という会社自体が(労災という制度上では)無くなっていますから。 田尻: ただ、「ノザワ」と名前を変えて、今度はアスベストが使用された建造物の解体の方で、大きなメーカーになっているようですね。 松田: 野沢で行っていた作業ですが、どのような様子で行われていたかを教えて頂けますか? 田尻: 石綿は、「ドンゴロス」といって、麻袋に詰められた状態で、トラックに積まれて運ばれてきます。荷降ろしの段階から私たちが手伝って、そこからベルトコンベアで二階に上げられます。上げられた先に、石綿とセメントを混合する作業場があるのですが、そこでスレートに加工します。それがまた、簡単な装置なんです。ドラム缶のような容器に、プロペラのような攪拌機がついているだけで。そこに石綿を放り込むんですが、しっとりとして塊状になっているので、そう簡単にはほぐれない。だから、それを直接手でほぐしながら攪拌機に放り込んで、セメントと混合する別の機械に入れるんです。 松田: 石綿が舞い上がるといったことは? 田尻: それはもう、舞い上がりますよ。ですから、(野沢石綿周辺で)クボタのように被害がそれほど出てこないのは、従業員、周辺住民の被害者の皆さんが亡くなられて、被害実態がわからなくなっているだけではないかと思います。 松田: 同じ職場で何人くらい働かれていたのでしょうか? 田尻: 20人程度ではないでしょうか。その内、私のようなアルバイトは5〜6人です。 松田: その頃はまだご結婚はされてなかったのですか? 田尻: しておりませんね。野沢石綿で働いていたのは今から52年前、ですから実際に働いてから51年目にして初めて病気が判明したわけです。 松田: その間、全く気にしたことはなかった? 田尻: 気にはなっていたのですが、健康診断では常に異常なしで、最近では風邪程度でもレントゲンを撮りますが、そのレントゲンでも異常がでたことはなかった。胸に異常がある、と言われたことも一度もなかった。危険物質であるかどうかはともかく、石綿はじん肺に関係がある、といったことは認識しておりましたので、クボタショックが起きてから、精密検査の必要性は感じていました。実際には、自主的に精密検査を受ける前に判明したのですが。(自覚症状が無いので)中皮腫という病気は、そうとわかった時にはもう手遅れの場合が多いと思います。 松田: 以前、聞き取り調査でお話を伺った方の中に大工さんがおられまして、その方の場合は、淀川で健康診断を受けた際に、たまたま担当の医師が目利きだったようで、レントゲン写真に写った白い影に気づかれたそうです。その結果を持って、済生会病院にて精密検査を行ったところ、(中皮腫が)明らかになったというお話でした。ですから、健康診断で明らかになるケースもあるようです。ただ、医師がそのような目で見ないと見つけられないといったこともまた、事実のようです。 田尻: 医師から説明を受けたことがありますが、説明を受けた後でも、私たちの目では、レントゲン写真からではわからない。CTスキャンの画像ならばわかりますが。 松田: 本当に、青天の霹靂(へきれき)ですね。 田尻: 50年間、手術するまで何の自覚症状もありませんでしたからね。体がだるいわけでも、咳や痰が出るわけでもありませんから。 田尻夫人: 今でも、咳は出ませんね。他の肺ガン患者の方なんかは咳もして、痰も出しておられるようですが。 藤木篤(神戸大学大学院人文学研究科博士課程後期課程): タバコは吸われないのですか? 田尻: 22、23歳頃から、タバコは吸っていました。兄が肺ガンにかかったのをきっかけに止めたのですが、現在は禁煙して6年目に入ります。一本たりとも吸えないというのは、最初は辛かったですよ(笑)。 クボタ以前の労災について 松田: 少し話題を変えます。田尻さんは、これまでずっと労働組合関連のお仕事をされていたということですが、クボタの発表以前に、尼崎の方でそのような問題が出たということはなかったのでしょうか。 田尻: アスベストが使用禁止になったのは、つい最近なんですよね。じん肺に関しては、現在はもうありませんが、コンクリート製の枕木などを製造する、日本PSコンクリートという会社が尼崎にありました。そこで、「あんたのところは気をつけておかないと、セメントでじん肺が出てくるよ」という話をしたことがあります。アスベストについては、1980年代に、国鉄の労働組合が取上げたのではないですが、国鉄がアスベストの問題を取上げておりましたが…。ただ、そこでも中皮腫という病気を引き起こすという風に聞いたことはなかったと思います。 松田: 尼崎地区の総評傘下の組合の中で、そのような話題が出たということはなかったということでしょうか。 田尻: クボタ以外にも、関西スレートという会社もありましたし、こちらは現在でもあるのですが、日本ヒュームという会社があります。これらの会社(の労働組合)は、総評傘下ではなかった。クボタが水道管を作っているということは認識していたが、アスベストが入っているとは認識していなかった。クボタは水道管を製造しており、その水道管は鋳管(ちゅうかん)、つまり鋳鉄製である、と。我々にはそれ以上の認識はなかった。 松田: 組合全体として、安全と言いますか、いわゆる事故にはうるさいと聞きます。例えば極端な話ですが、労働者が工事現場で怪我をしても、工場側は労災を出したくないので、工場の敷地の外に出て行ってから救急車を呼ぶように指示される、といった話を耳にします。組合としては、どのような点に注意をするのでしょうか。 田尻: 尼崎は、産業構造が生産工場が主になっておりますが、職業病的な災害は無い方なんでしょう。現にクボタの件があるじゃないか、と言われますが、少なくとも総評系の組合では、職業病が発生するような職場は少なかった。例えば、市バスの運転手が腰を痛めるというようなことがあっても、(その症状の表れ方には)個人差がありますから、非常に難しい。そういった意味で、職業病を起こすような職場環境は少なかった。 松田: 一般的に、どのような病気を典型的職業病と考えるのでしょうか? 田尻: コンピューターを扱う人間が腱鞘炎になったりすると、それは職業病だと言えますね。今はどうかわかりませんが。それともう一つ、老人や身体障害者の施設で入浴介護を行う際に、腰痛を患ったり…。ただそれは職業病として認定がむずかしく、なんとも言えません。 とにかく、総評系の労働組合では職業病として闘争して、認定を受けなければならないといったことは無かったんです。じん肺なんかは炭鉱が舞台になることが多いですよね。我々はそのような認識の元で、セメントも危ないのではないかと考え、日本PSコンクリートなどは気をつけていた方がいいという認識は持っていた。ただじん肺は、いざ診断が出たら、原因がすぐに特定出来ますからね。 松田: 今は、国家賠償訴訟も、じん肺系の弁護士の方が担当しておられるようです。泉南地域の国家賠償訴訟でも、トンネルじん肺など、じん肺系の公害問題をずっとやっておられた弁護士のグループが担当しているようです。 田尻: 建設・土木従事者の中には必ずいるでしょうが、あまり多くはなっていないと思います。炭鉱だとか鉱山だとか、また日常的にセメントを扱っている会社などはじん肺はでやすいと思う。 松田: 先ほど国鉄労働組合のお話が出ましたが、国労のアスベストに対する取り組みは(総評と)何か関係があるのですか? 田尻: いえ、関係ありません。国労としての斗いは知りませんから。今は入っていないでしょうが、列車のトイレや壁といったものには、アスベストが入っていた。他には蒸気機関車の耐熱部とかブレーキのライニングなどにも使われていますね。それらを数年に一度、交換しなければいけないという決まりがある。交換や解体の際に、飛散したアスベストを吸うことがある。ですから、国鉄は石綿を使用するということがあるはずです。中皮腫は発生して当然でしょう。 なんにせよ、国労として認定闘争を起こすといったことは知りません。 労災申請の中での苦労 松田: 労災の申請の件なのですが、いつ頃、申請を出されて、現在どのような状況にあるのでしょうか?少しお話して頂けますか。 田尻夫人: 申請自体は2006年の9月頃です。西宮の労働基準監督署に申請を出しました。当時の担当者は非常に熱心に対応して下さったのですが、「中央(*6)で審査が止まってなかなか進まない」とおっしゃってまして。「私に任せて下さい」と言われましたので、私も疲れていたこともあり、お任せしたんです。 今年の4月に電話を入れたところ、担当者が変わっておられて、その方に聞くと「(書類は)中央へ行ったきりわかりません」と言われました。 *6 編者注:おそらく、厚生労働省のことを指すが、はっきりとはわからない。後述。 田尻: 野沢石綿は白石綿を使用しておりましたので、「(分析の結果)白石綿が出てきたかどうか」を問う電話が、私の方に直接かかってきたことがあります。そこで、京都大学の担当医に聞いたところ、「こちらに問い合わせをすれば、隠し立てせずに答えるのに、なぜ患者に直接聞くのか」と、機嫌を悪くしておりました(笑)。 それで、私の経歴上、白石綿が出てきたら、原因は野沢石綿しかないわけです。反対に、青石綿が出ればクボタの環境曝露であるということがはっきりする。 田尻夫人: 事の真相は、中央でなかなか決まらないから、(少しでも話を進ませるための)データを揃えるために、担当の方が私に直接聞かれたということらしいのですが。京大病院は中央とのやり取りなもので、気を悪くされたのかもしれませんね。担当の方の言う、「中央」というのは東京の方らしいのですが、どこを指すのかははっきりわかりません。 松田: 現在、(申請書は)中央で停滞している状態ですか? 田尻夫人: 京大病院の先生は、「でも、断わるということはせずに、結果を待ち続けて下さい」とおっしゃってましたが…。 田尻: こっちもこのような状態で待たされ続けてはかなわないので、早く結論を出して欲しいですね。 田尻夫人: 労災申請をしたら病院の方が労災扱いとなり、病院が、最初は県立塚口病院で京大病院に移り、そして県立尼崎病院に変わって、そして薬局は薬局で病院ごとに変わるので、手続きが煩雑になってしまって大変です。せめて病院がひとつだったら、手続きが楽なのですが。 支払いや手続きも、病院や薬局によってさまざまなんです。ここからここまでは自費で支払うという、その範囲が異なりますし、とにかく手続きが大変です。 田尻: 私は労働運動をしていたからよくわかるのですが、労災というのは、本来ならば組織が申請するわけです。中小企業や個人企業であれば、個人でやらざるを得ないところもあったけれど、それでも認定されるまでは個人でいろいろな費用を負担するということは無かった。 ところが、現在では労災申請をしますと、「あなたは労災扱いになっているから、病院の経費は請求しません」となる。ということは、もし労災認定されなかった場合、患者側が負担する費用は莫大な額になる。いつからこういうことになったのか。 松田: 今伺ったお話ですと、病院代と薬の費用、その時点で払わねばならないものと、そうでないものの二種類ある、ということでしょうか? 田尻夫人: いえ、そうではありません。労災になるまでは自費で支払っておりました。そして、労災扱いになってから、病院でとまっておりますでしょう。ですから、今度もし労災に認定された場合がややこしいんですよ。自費で支払った塚口病院での費用などは、支払った分を返還してくれるんです。ただ、そのためにはもう一度手続きをしなければならない。その書類がまたややこしいんです。また一から申請することを考えると、気が遠くなります。 田尻: 多分、過去に亡くなられた方も含め、被害者の皆さん、中皮腫に気づいた時には手遅れで、それでも一定の補償があるということで、いざ申請しようと思い立っても、大変な数の書類が必要なんです。それで諦める方も多いのではないでしょうか。 田尻夫人: 野沢石綿も、何があったのかと思うような変わり方でした。最初の方は熱心に応対して下さって、定期的に電話も頂いていたのに、ある時を境に、「会社自体が無くなっていますので、そのように書いて下さい」と言うようになって。それから連絡が途絶えたきりです。 なぜそうなったのかは私たちにはわかりませんが。 田尻: 飯田さんなんかは、(野沢石綿があった)東灘の方の出身だそうですね。その関係で、住民の方から、問題が起こったら協力して下さい、と言われているようです。私は、必ず被害は出ていると考えています。防塵対策など、対策をなにもしていなかったわけですから。ただ、亡くなられた方もおられるでしょうし、住民の顔ぶれも変わっているから立証は難しいと思いますが。 クボタなんかは、すんなりと認めていますが、あれが一番賢いやり方かもしれませんね。結局、対クボタ闘争といったものも起こっておりませんし。 松田: 野沢石綿は、どの程度の規模の会社でしょうか。これまで伺ったお話からですと、かなり大きな会社だったように思えます。 田尻: 個人的には、当時、相当大きな会社だったと思っておりますが、詳しくは知りません。ただ、いくつかセメントの山も所有しておりましたから。 田尻夫人: 現在も、ノザワが「日本の環境に寄与しております」という風にテレビCMも流していますね。 田尻: 社会的には、一生懸命関係ないという顔をしているようです。関係はあるものの、昔の会社(野沢石綿)は閉鎖しておりますし、既に業態が違いますからね。野沢石綿の頃は生産会社だったのに、今のノザワは環境整備に移っているでしょう。 松田: 先ほど環境省のことをおっしゃってましたが、それは労災とは別のものですか? 田尻夫人: はい、環境再生保全機構で石綿の健康被害が認められたら、医療費と月額10万円とを支給されるんです。それは、病理検査で悪性中皮腫が判明した時、つまり2006年5月に申請して、今年2007年1月1日に認定されました。その時に手帳を送ってきました。 田尻: いずれにせよ、たとえ労災が認定されなかったとしても、医療費は出ることになりました。国のアスベスト新法の認定患者になったのだから、労災もはっきりしてくれ、という気持ちはあります。京大病院の主治医は、「労災が結論出すまでゆっくり待てばいい」と言いますが(笑)。 松田: アスベスト新法の方では認定はされており、労災は現在申請中ということですね。 田尻: それに加えて、クボタとも関係がありますから。 田尻夫人: 不幸中の幸いといいますか、うちはすべて、つまりクボタ・アスベスト新法・労災に引っかかっているんです。三つ手続きするのは大変ですが。 田尻: 手続きは本当に大変ですよ。診断書、病理検査の分析表、レントゲン写真などは20枚以上要りますから。私の場合は、申請数が多いから、国の認定に時間がかかっておりますが、それらのデータは揃っている。しかし、病院での診断のされ方によっては、それらのデータが出てこないことがある。そうなるとまた大変です。 私自身も、国に「少し時間がかかりすぎではないか」といって、電話したことがあるんです。「現在、2007年3月までに申請されたものを審査中である」と言われました。権威のある先生方を集めるなどして、かなり厳密な審査を行っていることは間違いないようです。新聞などで時々発表されていますが、千数百件中、三百件前後の審査が終了した、というようなレベルのようです。 このような感じで、一旦中皮腫にかかってしまうと大変です。まあ、それでも私はかなりラッキーな方です。 京大病院での手術 松田: 最初に行かれた塚口病院の先生と京大病院の先生が知り合いで、京大病院を紹介されたということですか? 田尻夫人: もう、年齢が年齢ということで、ここで手術することは無理だと言われたんです。それで、セカンドオピニオンとして、どこかかかりたいところがあれば言って下さいと言われたんです。ただ、「どこかと言われても・・・」と言ったら、自分の恩師が京大病院の先生ということで、紹介されたんです。 年齢が年齢なので、手術ということになったら、すぐに手術しますよ、と私たちは聞かされたんです。病気が進んだら、もう手術はできないんです。 田尻: 中皮腫というのはね、胸膜や腹膜に出来るそうですね。これの手術は非常に難しいんです。だから手術できる医療機関も限られているわけですよ。 松田: 手術の時間は長かったのですか? 田尻夫人: この大きな手術としては、普通やったと思います。 松田: 先生の腕がよかったんですね。 田尻夫人: すごい先生だったと思います。手術の翌日には立たせたり、毎日のように酸素ボンベを携帯しての歩行練習だとか、携帯式の心電機器にしたりして寝たきりにならないような治療の連続でした。 本人は寝たフリしても、先生は起こさず、ジーっと起きるまで待っておられるんです。まぁ、本人は根負けですわ。 田尻: 手術後、3日目から1週間くらいは酸素ボンベを携帯しての歩く練習でしたよ。とてもしんどかったですよ。 松田: 呼吸の問題ですか? 田尻: そうです。最初は、この部屋の端から端まで歩けなかったかもしれません。 田尻夫人: すごい先生でした。 田尻: 最初の塚口病院の先生が京大出身で、京大病院の先生を紹介してもらって、本当に幸せなめぐり合わせです。そんな、セカンドオピニオンだなんだと言われても、こちらは権威のあるお医者さんなんて知らんわけですからね。本当によい人に恵まれて感謝しています。 松田: 以前、弟さんが中皮腫で亡くなられた方にお話をお聞しました。その方も、最初は、アスベスト原因だと分からなかったのですが、関西の労働安全センターの片岡さんに京大医学部の友人がおられて、弟さんを診ておられたらしいのです。しばらく経って別の病院に移られたんですけれど、死亡診断書を見られたら、これは中皮腫だということが証明されて、労災が認定されたんです。お話を聞いてみると、やっぱりこういうことには、偶然ということがありますね。 田尻夫人: 石綿で中皮腫ということがわかったのは、病理検査結果の説明で、病変の写真を示され、「白くなっているのが石綿が石灰化したもの、赤くもりあがっているのがガンだ」と聞きました。それですぐに申請できたんです。この説明がなければもっと遅れていたと思います。石綿で中皮腫いうことはね、レントゲンで撮って、白いのが石綿だと分かるんです。石灰化してるんです、いうことですね。だから、すぐに申請できたんです。分かってなかったらもっと遅れていたと思います。 松田: 京大病院では、他にも中皮腫の方はいらっしゃったんですか? 田尻: いや、私以外には一人も聞きませんでした。中皮腫の癌という人は一人もいませんでした。しかし、肺ガンいうのは多いですよ。呼吸器外科で来る患者はほとんどがガンですからね。 松田: 中皮腫の肺ガンかどうか、という検査は難しいと聞きます。 田尻夫人: 小さい病院だとわからないでしょうが、病理検査すればわかると思います。 田尻: ただ、今では検査の器具がたくさんありますし、大変な進歩ですから、わかると思います。まず検診ですよ。 田尻夫人: 今は、体中にガンは一つもないといわれましたよ。ちなみに、70歳以上なので医療費は1割負担で済みましたが、若い人は大変ですよ。認定されるまでは自費で払わないといけませんからね。 松田: 患者さんの被害者の会にも参加されておられますか? 田尻: いや、私は手術してまだ間がないので、参加していませんが、協力はしますと言っています。まだ、会員でも何でもないです。でも、話があれば、協力致しますよ。 松田: ご家族の方が亡くなられた方もいらっしゃいます。中皮腫の患者は統計的にも大阪、兵庫が多く、やはり建設作業、解体工事の労働者などにたくさんいらっしゃるようです。 田尻: 石綿が多い作業場でも、防護服も何にもなくて、やっているんだから、それはすごいですよ。それでも、石綿が原因だと分からずに命を落とす人が多いでしょうね。 松田: これから問題が出てくる可能性がありますね。 田尻: 私は詳しい事情は分からないですが、いろんな課題が提起されるでしょうね。 松田: 戦前から石綿を手で持って作業することがあったらしいです。耐熱のために石綿を使い、軍需産業でも使われていたそうです。国も石綿の危険性には気づいていたようです。それがクボタの問題で、全国で大きく騒がれたので、泉南でも運動が始まりました。ただ、泉南にはクボタの工場のようなものはありませんから、国しか訴えるところこがなかったようです。国家賠償を待っているわけです。 田尻: 国も責任があるんですよ。消防服にしても昔は石綿が使われていたんです。防火関係はほとんど石綿でした。みんな曝露していると思います。国も隠していたんではないでしょうか。 田尻夫人: 外国ではもう早くに石綿の対策があったでしょう。 松田: 例えば、日本やアメリカで被害があるように、中国やタイでも被害が出てくるでしょう。ただ、経済発展のために石綿を使うことをやめられないのです。1960年の段階ですでに医学の学会で石綿の危険性の報告がありますが、それでも、クボタは石綿を輸入していました。 田尻: 何で青石綿が大量に入ってたかというと、使いやすい原材料ということでしょう。 田尻夫人: 潜伏期間が長いのも怖いですね。 松田: すぐ出ないと分からないですよね。科学技術には良い面もあれば悪い面もあります。アスベスト問題は一つの教訓を与えてくれます。 田尻: 神戸の造船会社でも多いんじゃないかな。 田尻夫人: 生きているから、原因を聞けるけれども、亡くなってしまったら聞けませんからね。でも、亡くなる方が多いですから、中々分からないですよね。 松田: そういうことも考えると、色々な手続きにどれくらい時間がかかるのか、を知ることも大事なのですね。 田尻夫人: 古い証明書を探すのは大変でした。問い合わせたところに、過去のデータそのものが無いと言われる場合もありましたよ。社会保険事務所に頼み込んだりしましたよ。数ヶ月かかって、書類が出てきたんです。私も必死でした。 田尻: 昔のおぼろげな記憶は何の役にもたちませんからね。 信田尚久(神戸大学大学院文化学研究科博士課程): 一つお伺いしたいのですが、アスベストで中皮腫になったということは、塚口病院ですでに分かったんですか? 田尻: 塚口病院の呼吸器科で、悪性胸膜中皮腫と診断されました。中皮腫は石綿でなるものですからね。 信田: これは白石綿によるものなのか、青石綿によるものなのか、それが分かれば、どこでアスベストに曝露したのか分かると思うんです。医師の方から、白石綿によるものか、青石綿によるものか、調べようというような話は出なかったんですか? 田尻: そこまでの話は出なかったんです。病院では、何と言う病気か分かればいいわけですからね。病気が分かれば治療法が分かるわけで、青石綿でも白石綿でも治療法は変わらないので、病院からそこまでの検査をしようという話は出なかったんです。 松田: 今、青石綿による中皮腫か、白石綿による中皮腫か調べることのできる機械があるそうです。ただ、その機械が少ないらしいです。 田尻: 他にも聞きたいことがあれば、メモに書いて送ってもらってもいいよ。お答えできる範囲で、お答えしますよ。 松田: どうも長時間ありがとうございました。