アスベスト被害聞き取り調査−平田忠男氏[2007年5月9日] 平田忠男: お役に立てますかねえ。 松田毅(神戸大学大学院人文学研究科教授): どうも、本当にありがとうございます。去年5月に尼崎のアスベスト問題に関するシンポジウムを行い、秋には泉南の問題で弁護士、薬害研究者などにお話いただきました。私たちは哲学・倫理学の観点でアスベスト問題を考えております。 平田: 直接ね、あれはないけどね。 松田: 科学技術の問題と絡めて重要な問題として取り組んでいます。神戸大学は阪神大震災以来、地域の問題を歴史、社会学などが取り組んで来ました、哲学、倫理学も尼崎は近い場所なので、身近な問題として取り上げていくべきであると考えております。学生や大学院生には被害者の方、現場の方から直接お話を聞く機会はありません。書かれた物を通して聞くことが多いので、良い経験であるので、お話を聞かせて頂いております。昨年度も5人ほどの方からお話を聞きし、同じ形で記録を録らせていただいます。長い時で4時間ぐらいお話を聞いたこともあります。 平田: まぁ一応、被害者の方? 松田: そうですね、前回は武澤さんからお話をうかがいました。武澤さんは弟さんが亡くなられてますので、お母様とお兄さんの二人から、ツバメ団地でお話を一度聞きました。ありがとうございます。 わたしたちは文学部の人間です。医者でもマスコミや法律家でもないので、一番基本的なところでアスベストの被害がどう現れているのか、被害者の方、ご家族の方のライフヒストリー、生活史の中に位置づけるような形でお聞きしたいと考えています。あまりマスコミに語られていない部分についてもお聞きできる機会ですので、是非お話し頂き、歴史的記録としたいと思います。 お住まいはクボタの工場の近くでしたね? 平田: そうなんですよ、端的にいいますとね、これは昭和36年頃の航空写真らしいんですけどね、これがねクボタがここですね。尼崎の駅がここですよね、こう、こうだからあって、それでここの前ですね、郵政の角田寮というのがあったんですよ、ここにね。ちょうどこの、道路、道を挟んで北側です。こちら、この辺の地理はご存じですか。 松田: たしかこれがツバメ団地ですね。 平田: ここですね。市営住宅、県営住宅ですね。それからマンション、団地なんですね。昔はこれみな平屋の市営住宅で。 松田: そうですね、ここにあるわけですね。 平田: 今はスーパーになってるんですけどね、写真がね、この間行ってきて、このアスベストの関係で訪ねてきたりして。こうした方が見やすいですね。これはあれですわ、NHKの放送記者が家に来たときですね、母親が一応。これは朝日新聞の記者です。これは一番最初に取り上げた毎日の記者ですね。この人は新聞記者です。これはご存じですね。 松田: ああ、分かります。今の写真ですね。 平田: これがクボタですね。 松田: 今日見たでしょう、電車から。 杉川綾、高野翔(ともに神戸大学人文学研究科博士前期課程): はい。 平田: それで、これがクボタ、前はここにあったんですね、ここにね。それで今、我々はこの角田寮というのがね、この丸八スーパーだったんですね、これクボタの方から撮った写真です、スーパーね。 松田: 弟さんがお生まれになったのは何年ですか? 平田: 昭和22年です。 松田: で、お兄さんは? 平田: 私が18年。 松田: 生まれたときからそこにお住まいだったのですか? 平田: じゃないです。生まれたのは私は大阪市の方で、戦後、戦争中やからね、岡山に疎開しとって私が小学校に入るときにここに移ってきたんですわ。昭和25年です。そのときは弟も一緒でしたけど。それまでは郵政の、西淀川の、塚本の駅前の寮に半年ぐらいおったんかな。それで寮ができたというんでかわってきたんです、だから塚本の小学校には一ヶ月ぐらいしか行ってないです。それですぐ4月の終わりぐらいに転校してきて、だから昭和25年から43年まで。就職して2年目のときまでですわ。 松田: 昭和36年頃に粉じんがものすごくたくさん飛んでいてお母様の方が苦情を言ったというお話をお聞きしています。 平田: ええ、奥さん連中5、6人で行ってますわ、事務所の方ですかね、工場のです、伝えとくぐらいの返事やったんちゃいますか。 松田: それほど危険意識はまだ当時としてはなかったのでしょうか?一般の何か埃がたっていると。 平田: ええ、埃が立って、窓ガラスの桟がね、白い綿埃みたいなもので、それから雨上がりの日に黒いこうもり傘を干すと真っ白やったりとかいうことも何回もありましたね。 松田: 真っ白い? 平田: ええ、雪が積もってますよね、ふわふわした、ああいう感じ、それが傘の上に白く。白と黒やからコントラストははっきりとしてますよね、白いコンクリの上に積もったって分かりませんから。それで印象に残っているんです。 松田: 今から考えてみた時に積もっていたのが、どの種類のアスベストだったかは? 平田: そんな知識はあるわけなかったです。アスベスト自体の存在もね。白っぽい綿埃みたいなのが飛んできているというのは確かに[分かりましたが]。 松田: 子供の小学校一年生、二年生のときにそこに住まれ、昭和35年だと10年ぐらいたっているわけですが、その間の10年間で白い綿埃が積もっているというのはずっとあったのでしょうか?それともある時期から非常に増えたとか? 平田: 区切りというのは意識してはないですね、やっぱり30年代を過ぎてから意識しだしたというかね。 松田: 逆にそれはもうよくあることだった? 平田: ええ、クボタの記録によれば昭和29年から使い出したというのは。こっちはもう一昨年の6月のクボタの発表で気がつきましたね、全然気がつきませんでしたね。まあこんなに飛んできたら体に悪いだろうなあとは思っていたけども。それがアスベストだというのは知識もなかったし。当時自体、工業地帯でね、日本触媒や製鋼会社やそういう日常、当たり前だったからね。 松田: 私が小学校の時から尼崎は公害の町というイメージははっきりありました。 平田: ああ、知っているんですか?何年生まれですか? 松田: 私は昭和31年ですので、一世代ぐらい若いです。 平田: どこでお生まれになったんですか? 松田: 私は岡山です。田舎です。さっき疎開されていたのが。 平田: 岡山のね、久米というところですわ。備前白石というところで岡山から国道二号線の倉敷へ行く途中の真ん中らへんのです。 松田: じゃあ近いですね。 平田: 私もクボタショックでね、新聞記事を見てうちの弟もアスベストの影響を受けているのではないかなあと思って、電話したんです。そこに片岡さんと古川さんがいてはって、話を聞いてもらって、色々と資料を出したら、そうだということで。それで家族の会を通して交渉してもらったということですわ。 松田: 郵政省の寮の関係では平田さんのケースが最初ですか? 平田: そうですね。もうすでに一昨年の時点では、二人亡くなってたんですよ。二人、三人か。うちの弟が平成元年の5月に亡くなったんですよ。それからうちの隣にいた人、三つ上の男性が平成9年に亡くなっているんですよ。この人は私より三つ年上だから昭和15年生まれだと思うんですよ。 松田: 弟さんが元年に亡くなられたということは何歳でお亡くなりになられたのですか? 平田: 41ですね。 松田: 早いですね。 平田: それからもう一人が私と同学年なんだけども、この人は早行きで実質的には年は一つ下になると思うんだけれども。同じ組やったんでね。この人が亡くなったのが平成17年二月ですね、一昨年の二月やから、クボタショックの年ですね。60ぐらいやったんちゃいますかね。それで私のところに朝日新聞がきましてね、北島さんという亡くなった私より三つ年上の男性の奥さんが毎日新聞をとっていたんですよ。それで毎日新聞にこんなのが出ていたよって電話があって、それだから私のところは半日ずれたんです、それで次の日に朝刊にパッと載ったんですね。 松田: それは新聞に労働者安全センターの話として載ったのでしょうか? 平田: そうそう。だからそこで話を聞いてね、どっちにしろこれはクボタが絡んでいるなあと思ったので、その通りだったんですけども。それでクボタと交渉するのは安全センターが中心になった家族の会がね、窓口になりますということで。それで窓口になってもらってそこを通じて交渉してもらったんですよ。これが大島さんの新聞記事ですね、大島さんが最初に来てそれから朝日新聞で載って、これが土井さんですね、私より三歳ぐらい年下ですね。 松田: 去年の冬に話をお伺いしました。 平田: 武澤さんより先に聞きましたか? 松田: そうです。一番最初に中村さん、次に土井さん、武澤さん、その間にもう一人、胸膜プラークが重い建設関係の方。クボタとは直接関係ない方です。中村さんもですね。さっき寮の方で[亡くなった方がいるという話を伺ったんですが]。 平田: 奥さんから電話があって次の日に私が新聞を見て、それで電話したんですよ。それで寮の中ではうちの隣の人も実は中皮腫で亡くなったということで、北島さんというんですけどね、それで北島さんの奥さんと私と二人で安全センターの事務所の方に行ったんですよ、資料を持って。そうしたら早速クボタに申請しますんで資料を集めてくださいと。それで資料を集めて、それで寮から昭和44年だったかな、老朽化して、廃止になったんかな、もうみんなばらばらになったんですよ、昭和44年で全国あちこちに分散して。もう(交際は)ないですわ、一部の人とはありますけど。 松田: (角田寮には)何世帯ぐらい住まれていましたか? 平田: 26世帯ですね。これも世帯の構成の情報が、片岡さんの方からね。私の字で書いてるのですけれど。こういう感じでした。こっちがクボタでね。こっちが正門があって、私らもここでした、一番南側で、北島さんは定年で出た人の後に私の隣にかわってきたんです。それで北島さんとふたりで、そうこうしているうちに私と同じ学年の方が兵庫医大に入院されていてその部屋の人から古川さんに電話があったみたいで、この人も郵政寮に住んでらっしゃったみたいだから知らないかということで。それで私が確認したんですよ。そしたらやっぱり寮に住んでいたということが分かって。それですぐ電話して奥さんと連絡して、そしたら奥さんも安全センターに資料を持って行きますということで。だから三人が安全センターに資料を持って行ったわけですよ。 松田: お話では弟さんが亡くなられた時は肺ガンと言われ、その後、中皮腫が分かったとお聞しました。いつの時点で中皮腫と診断が変わったのでしょう? 平田: 中皮腫は珍しいので私らも肺ガンと言われてそうかなあと。それでクボタのがあってから、肺ガンと言っていたけれど中皮腫ではないかということで資料や入院中のカルテを片岡さんがとってくださいということで、これは車谷先生にも見てもらいながら。もう外来の写真とか残っていませんよ、だいたいもうみんな5年で処分するんで。たまたま残っていたものです。病理所見、細胞検査結果はないわけなんです。だからクボタは認めなかった。主治医は一年で変わったんです。片岡さんから最初の主治医に連絡してもらって。それで主治医に意見書を書いてもらって。 松田: すごい偶然ですね。 平田: 病院に資料を請求したんですが、これだけしか残っていないんです。これだけ見たら、中皮腫とは断言しにくいんでしょうね。 松田: では主治医の意見書の力はやっぱり大きかったと。意見書を拝見してよろしいですか。 平田: こんなに書いてくださいました。今は白浜にいらっしゃる方なんです。その次の担当の先生と亡くなった時の先生には連絡がうまくつかなかったんですがね。 松田: 偶然性というのは大きいですね。 平田: 本当に偶然証明されたということです。他の二人は最初から中皮腫と診断されたんですが。 松田: 平成9年に亡くなられた方は最初から中皮腫ということだったのでしょうか? 平田: ええ、その人は京大で手術されました。手術してから4年後に亡くなりました。 松田: 弟さんのご病気についてお伺いしてもよろしいですか?41才とはずいぶんお若い。武澤さんの場合も、突然症状が出たとお聞きしました。 平田: 若い人は早いですね。早い人は2年ぐらいで。 松田: 昭和22年生まれで昭和25年に尼崎の寮に入られ、7、8才の時から曝露され、30年ちょっとで発症ですか。煙草は吸われていたのですか? 平田: いえ、吸っていません。 松田: どういう感じで発症されたのですか? 平田: 急に微熱が続いたりしました。私も高校の時に胸膜炎を発症しまして。私が17才の時です。アスベストが影響していてもおかしくはないと思います。それから慢性膿胸になりまして、今年の4月に手術しました。 松田: 慢性膿胸とはどういう病気ですか? 平田: 胸膜に水が溜まって、そこに細菌が入って、炎症をおこして膿が溜まります。それが肺から広がってきて呼吸が苦しくなります。胸膜が破れて血管や気管にいって肺炎になったりもします。 松田: 胸膜プラークとはまた別の病気ですか? 平田: ええ。 松田: 健康診断は毎年受けていらっしゃったのですか? 平田: ええ。 松田: 騒がれる前から? 平田: そうです。肋膜の後遺症かなと思っていました。 松田: 26世帯あったということですが、建物の配置から見ると、クボタの工場からの距離というのは病気の発症にあまり関係がないようですね。 平田: そうですね。寮には常時120人以上はいましたね。私の知る範囲では、親御さんの世代はうちの母ともう一人か二人の方が存命しているだけで後は子どもの世代だけです。私らがいなくなったら寮について知る人はいなくなります。 松田: 寮の入れ替わりに関して、最初からずっと20年間おられた方もいるのですか? 平田: そういう人の方が多いですよ。だからよく覚えているのです。子供は一世帯平均3〜4人ぐらいはいましたね。 松田: 寮に住まれていた方の追跡調査はされたのですか? 平田: 向こうから電話してきた人もいましたが、残りの人は分かりませんね。郵政省(現総務省)に行ったのですが資料は残っていなかったですね。みんな忙しくて手が回らないのでしょうね。これが当時の写真です。これが寮の南側、これが私、これが弟です。これが亡くなられた方です。この同級生の女の子も中皮腫で闘病中です。この寮だけで4人の石綿被害者ですよ。ほぼ35人に一人の発症率です。 松田: 残りの方とは連絡をとっているのですか? 平田: この人とは月一回連絡を取っています。これが寮の庭でね、広かったですよ。これが門の前ですね。これが私で、これが北島さん、これが弟ですね。これは弟が中学校へ入ったときの写真。35年頃ですね。たまたまこれだけ写真が残っていました、あとは引っ越しやらなんやらでなくなりましたが。 松田: 昭和36年の話に戻るのですが、お母様がクボタに苦情を言いに行った時のことをもう少し詳しくお願いします。どんなふうに言われたのですか? 平田: 洗濯物に綿埃のようなものがつくので何とかならないかと。 松田: 向こうはどのような感じだったのですか? 平田: 上の者に伝えておきます、と。そんなに真剣には取り扱ってくれなかった。尼崎は当時そういう町でしたから。 松田: クボタから白いものが飛んでくるとはどういう感じだったのですか? 平田: 目に見えるわけではないのですが、気がついたら積もっているという具合でしね。光に当たると反射してキラキラ光っていたらしいですね。 松田: それはご自身でも気が付かれましたか? 平田: あまり記憶には残っていませんが、そういうキラキラしたものを見たという人は多くいましたね。そういうこともあったのかなと思います。それから白い綿埃、石鹸の泡みたいなものが工場の排水溝から出ていて、周りの草が白くなっていました。 松田: それが下流に流れ、乾燥し綿埃になって、それでアスベストを吸ったという人がいることは考えられますか? 平田: 十分考えられますね。ここにも川があったんですよ。ここにもドブ川があったんですよ、今は道になってしまいましたが。昭和25年ぐらいかな、ジェーン台風でここら辺が水浸しになったこともありましたね。怖かったですね。私の経験上最大の台風でしたね。 松田: クボタとの交渉にも直接参加にされたのですか? 平田: いやいや、資料を古川さんと飯田さんに渡しただけで、直接クボタと交渉したことはないです。 松田: お任せしているという感じですか? 平田: ええ。 松田: 弟さんの件に関してはお話としてはもう完了しているということですか? 平田: ええ、クボタは認定しましたしね。国の方も認定してくれました。 松田: それは法律でいえばどういった方が適用されたのでしょうか? 平田: 弔慰金ですね。環境再生保全機構から。 松田: それは新法の適用ということですか? 平田: そうです、弔慰金という形で。本人が亡くなっている場合はね。 松田: 平田さんと弟さんの場合は完全に環境曝露ですね? 平田: ええ、そうですね。私はまだ中皮腫までではないですが。中皮腫にならない方がそりゃいいね。 松田: 非常に重い病気です。法律に関しては石綿新法は範囲が限られていますが、そのあたりについてはいかがお考えですか? 平田: クボタの近くにいた人については石綿手帳というか、そういうのを発行してもらって、国の責任で定期的にレントゲンやCTを撮ったりなど検査をして欲しいですね。今は自己負担なんでね。 松田: 尼崎市に住んでいる場合は市が負担しますが、離れると対象にはならないのですね? 平田: ええ。わざわざ尼崎市にまで行くのもね。 松田: 武澤さんがNHKに出られ、家族の会のことを話されていましたが、参加されているのですか? 平田: はい、全部は出席できていないのですが。調子がいいときには出席します。 松田: どれくらいの頻度で開かれるのですか? 平田: 決まってはいないですね。 松田: 武澤さんはセンターないし事務所を作るとおっしゃっていましたね? 平田: ええ、JR尼崎駅の南側にね。 松田: そろそろ時間です。今日は貴重な話を聞かせて頂き、ありがとうございました。