アスベスト被害聞き取り調査−武澤泰氏、武澤一子氏[2007年3月7日] 松田毅 (神戸大学大学院人文学研究科教授): 本日はどうもありがとうございます。私たちは文学部の人間ですが、約一年程前からクボタや泉南地域のアスベスト問題に取り組んでおりまして、二回にわたるシンポジウムを契機として関係者にお話を伺っています。その活動の一環として、今回のように患者の方への聞き取りを行っています。全体の趣旨としては、人間的レベルで、アスベストが人生にどのような影響を及ぼすかを調査することを目的としています。最初に眞治さん本人の生い立ちを伺いたいと思います。お生まれになった時からこの団地に住んでおられたのでしょうか。 武澤一子: いえ、中学校一年の時から(1968年)です。その時にこちらに引っ越してきました。それ以前も尼崎市内でした。 武澤泰: (現在は5階建ての建物ですが)当時は1階平屋建てでした。引っ越してくるまでにアスベストに携わった記憶はありません。後で分かったんですが、弟は高校生の時に、少しだけクボタで建材運搬のアルバイトをしていたそうです。クボタが目の前にあるので、アスベストの粉が目に見える形で舞い散っていました。 周辺の道路はアスベストで真っ白でした。アスベストであると知らない人間でも、このあたりを歩くときはハンカチなんかで口を覆っていたくらいです。トラックなんかが走ると、砂煙のようにアスベストが舞い上がってました。 松田: 工場の中で遊ばれたことは? 武澤泰: (青石綿が使用されている)土管が置かれている、塀のところの間際まで行って遊んだことはあります。 松田: お兄さんも学校に通われる時は口を覆っていたと仰いましたが、その時に気分が悪いとか感じられたことは? 武澤泰: 考えもしなかったですね。普通の工場と同じ感覚です。工場も、換気のために窓を開けていたので、当然周囲に(アスベストが)撒き散らされますね。 松田: 同時期に住まれていた方の中で、中皮腫を発症された方というのはご存知ですか? 武澤泰: この病気に関しては、クボタが発表するまで中皮腫なんて聞いたことも無かった。クボタの会見を聞いて、弟と一緒に、「中皮腫ってなんや」と話し合ったのを覚えています。病院にも行ったけれど、多くの病院ではアスベストや中皮腫という名前が出てこなかった。一番最初の病院では、カルテの最後に小さく「中皮腫の疑い有り」と書かれてはいましたが。ある医師は、「肺ガンか中皮腫のいずれかだが、確定をすることは難しい」と言っていました。(入院先の)兵庫医大に行った時には、もう手遅れでした。発表がもっと早くからあれば、皆がもっと知っていたら、医師もすぐに診断が下せたかもしれません。 松田: 以前お話を伺った被害者の中には、定期検診の中で中皮腫が発覚したという方もおられたのですが、個人差といいますか、医師の中には分かっていた人もいたのではないでしょうか。 武澤泰: ある程度の知識差はあったと思います。ただ、それをわかっていなければいけないのは、医療の現場以前に、まず国です。国からの情報公開があれば、医師だけでなく、我々のような患者も気づくことが出来たかもしれない。 松田: クボタとアスベスト関連の症状とを関連付けて考える医師はほとんどいなかったのでしょうか。 武澤泰: クボタの発表以前、そういった話は全く出なかった。おそらく、クボタでそういったことがあるということに気づいていた医師はほとんどいないでしょう。 松田: クボタ内部では当然認識していたと思われますが。 武澤泰: もちろんです。中では完全に認識していたはずです。内部での補償は充実していましたが、外部へはありませんでしたから。最終的にはクボタも関連性を認めているわけですが、問題は、その証明が困難なことです。「これはクボタから出たアスベストだ」なんて誰にも言えない。ただ、それを言い訳にはしないで欲しい。 松田: 補償の話が出ましたが、クボタとの交渉はどのようなものだったのでしょうか。 武澤泰: 交渉は、まずクボタに関連性を認めさせることから始めました。もともとクボタ内部では労災ということで補償がなされていた。交渉の過程はここではなかなかお話しにくいのですが、最終的に(クボタ・幡掛社長の声で)外部への補償が決定しました。 まだ正式な名称は未定ですが(編者注:聞き取り調査当時。現在は設立済み)、被害者の救済金から有志で寄付を募り、来年アスベストセンターを設立する予定です。尼崎を拠点とした、全国の被害者との交流を目指しています。 松田: 因果関係についてですが、クボタとはどの程度突っ込んだ議論が行われたのでしょうか。 武澤泰: さきほども話にでましたが、これはなにもクボタだけが悪いということではなくて、証明が不可能なんですね。極端な話で言えば、どこかの家の解体現場で吸ったものかもしれない。 松田: 常識的に考えれば明らかだと思われますが。 武澤泰: そうですね。ほぼ明らかだと思います。因果関係の証明に関しては、裁判などでは一番時間がかかります。幡掛社長は因果関係を認めましたが、全国でそこだけしかアスベストを扱っていない、などの特殊な事情でもない限り、因果関係を証明するということは相当難しいですね。また、アスベストはただ飛散するだけではありません。例えば、水路に流れ込んだアスベストが下流まで流れ、そこで溝さらいをしたとしたら、乾いた土からアスベストが飛散する可能性があります。それ以外にも様々な飛散経路が考えられます。 松田: 少し話は戻りますが、病気が明らかになる以前、アスベストに関してなにもご存じなかったのでしょうか。 武澤泰: クボタの発表があるまで全く知りませんでした。 松田: (こちらに越してきてから)約40年、眞治さんの場合は、何も知らない状態で突然起こった事件というわけですね。 武澤さん、お兄さんが出て、眞治さんの思い出のこと、また眞治さんの絵を描かれた様子などを語っていらっしゃる、NHK大阪のドキュメンタリー番組を拝見して思いました。アスベストの社会的問題も当然あるとは思うのですが、家族を亡くした者の、怒りというよりもむしろ、(アスベスト被害により実現出来なかった)被害者の夢や家族の悲しみを中心に紹介されており、それが視聴者の心情に訴えかける部分が大きい、と私自身は感じました。そういった点についてお話を伺いたいと思います。 武澤泰: 僕と弟は性格的に正反対なんですが、仲が良かったんです。弟はすごく真面目でですね。母を助けるために、結婚もせず、(鰻屋の)修行に励んでいました。後にわかったことなんですが、仲間がすごく多い。今回に限った話ではないのですが、人のために何かをする、ということが苦にならない人間でした。弟のことは未だに悔しさが残ります。弟も同じ気持ちだと思います。弟の夢も、まさにこれから、という時でしたから。 今回、我々家族が被害者として挙げられていますが、他の家族の方も、内容は違えど同じ苦しみを味わっています。我々の場合、クボタが相手だから、救済金ももらえていますが、泉南地域では事業者が倒産してしまって賠償請求さえ出来ないところがあります。地域ごとの差は仕方がないことなのかもしれませんが、そうなれば国を相手取るしかない。結局は、今までほったらかしにしていたツケでしょうね。そういったことも含め、これから訴えていきたいと思います。 松田: 私は今年50歳ですが、武澤さんの絵に同世代的な懐かしさを感じました。アスベスト報道を通じて、企業責任からアスベスト問題に入るよりも、こういった方面から、身近なものとして問題に興味を持ってもらうというやり方もあると思います。私はそういったやり方も重要なのではないか、と考えているのですが。 武澤泰: われわれは、いわば問題を一番奥から知っていった人間だと思います。身の回りに被害を受けてから、アスベストのことを知りましたから。(被害者以外に)口で訴えても、なかなか分かってもらえない部分も多々あります。だから、一番身近にあった絵の具を使って、絵を描いています。実際は上の方からやっていかなければいけないのですが、国は見ようともしませんね。 松田: 私たちは文学部の人間なので、表現としての絵や音楽は、いわば専門分野です。水俣病での石牟礼道子さんのように、そういった面からアプローチして、記録として残していくというのはすごく大事なことだと思います。歴史的に「こういったことを繰り返してはいけない」といったことをどこで感じるかといえば、他人が感じた痛みや苦しみにどれだけ共感できるか、にかかっていると思います。その共感を引き起こすための表現手段として、そういった面からのアプローチも必要だと思います。 藤木篤(神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程): 団地全体の被害はどの程度のものだったのでしょうか。より具体的に言いますと、他の住民でアスベストの被害にあわれた方をご存知でしょうか。 武澤泰: このあたりの団地は、五棟の内二棟が県、他三棟が市の管轄です。県の管轄の方は、もともとこのあたりに住まれていた方で、私たちが引っ越してくる以前から住まれていた方達です。住民の多くは外へ出ていっているのですが、今後もっとアスベスト被害に関する話は出てくるのではないでしょうか。もともとこのあたりに住んでいて、既に亡くなられた方の中でも、(そうだと判明していないだけで)アスベストが原因で亡くなられている方もいるでしょう。皆が全て検査するのが一番早いのですが、なかなかそうもいきません。ある医師は「この団地に住んでいて、健康上何の影響も無いということはありえない。今後もどんどん出てくるだろう」と言っていました。 松田: (疫学的調査のように)組織的に調査することは難しいのでしょうか。 武澤泰: 行政がその気になって動けば可能だと思います。ただ、調査のために当時の住民票を調べようにも、全て廃棄されており、もう手に入らない。学校の卒業証書など、わずかな手がかりを追いかけていけば調査することは出来るのですが、それには莫大な費用と時間がかかります。その問題は、個人で解消することは難しい。 松田: 今だと、個人情報の壁もありますね。 武澤泰: それも調査を難しくしている一因です。 松田: 環境省の中に、アスベスト被害者のための窓口はあるのでしょうか。 武澤泰: 議員の中には、真剣に取り組んでいる人間もいますが、やはりまだ壁はあります。 松田: 昨年十一月に、アスベスト被害との比較のために、薬害エイズの問題に関する話を聞いたのですが、薬の問題に関しては、厚生労働省内部に被害者の代表者が直接意見を言う場があるそうです。そうなれば、実際の当事者や被害者の声が行政に反映される可能性が高まると思います。アスベストの方でもそれが出来れば、かなり違ってくるのではないでしょうか。 薬害エイズの場合は、被害者に議員が含まれていたようで、おそらくそういった見えない力が働いているとは思いますが、病院や厚生省は比較的短期に非を認めました。今回も国民的事件という意味で、被害者側から強力に働きかければ、(そういった場の実現は)不可能ではないと思います。世界的傾向としては、当事者と被害者が実際に中に入って話を進めていく流れがあるように感じます。 お兄さん自身も、健康に関する不安はおありだと思いますが、その点に関してはいかがでしょうか。 武澤泰: 正直な話、アスベストを吸っている期間は、弟より私の方が長いんです。弟は高校を出てすぐに家を出て行きましたから。母が昔、結核で片肺を失っているのですが、その影響で小児結核を患ったことがあります。半年前に近くの病院へ行った時に、肺に影が映りました。医師は「小児結核の名残だ」と言っていたのですが、以前はそのような影はありませんでしたし、不安が残ります。 松田: 日本でも、アスベスト問題が過去に何度か大きく騒がれたことがあるのですが、その度にすぐに止んでしまっています。あの時にもっとしっかり対策をやっていれば、と思います。 武澤泰: 後から分かってもしょうがないんですよね。分かっていたなら、なぜ放っておいたのか。学校パニックの時だってそうです。あれだけ問題になっていたのに、パタッと止んでしまった。その場だけで終わらせてしまっています。それではいけない。 松田: NHKの別のドキュメンタリー放送(発言者註、2006年4月放送「調査法報告 アスベストなぜ放置されたか」)によれば、クボタの人間も、1980年代にアメリカで起きた一連のアスベスト訴訟を知っていたはずです。そのクボタと、国の役人が共同でアメリカへ調査に向かったといった話も出てきます。 武澤泰: 国は明らかに分かっていました。これは確実です。企業はそれに少し遅れる形で知っていたと思います。被害がどの程度か、ということも外に出せるくらいは分かっていた。今の被害は、医師も患者も、誰も何も知らないという異常な状況で起きた。どこかひとつでも動いていれば、なんとかなったのかもしれません。それなのに、未だに分かっていなかったとするのはおかしい。 松田: 国の責任という話がでましたが、責任追及という点ではいかがでしょうか。 武澤泰: 今回事件に関しては、責任の所在は明らかです。訴訟には金も時間もかかる。解決は緊急を要するので、長期間にわたる訴訟をするというのは望ましくない。国の関係者の中には、問題の細部を知らない人が沢山いる。少し細かいことを突っ込んで聞いただけで、「そんなことがあったんですか」といったような反応をされたこともあります。上っ面の興味だけでは話になりません。 松田: 聞き取り調査をして思うのは、被害者の方が一番良く知っておられるということです。自らの目で、耳で情報を調べているので、上っ面の知識ではない。そういった知識を生かせる形の政治になって欲しいと思います。 武澤泰: 下の方から力をかけていけたら、そしてその力を徐々に大きくしていけたらいいですね。どこまで出来るか分かりませんが、頑張っていきたいと思います。 松田: お母さんのほうから何かお話していただけることはございますでしょうか。 武澤一子: 私は田舎が新潟でして、山奥に住んでいたものですから、アスベストと言っても国や企業がどうなっているのかということは人の噂を聞いて知る程度でした。毎日新聞の記者の方が熱心に取材をされていたのをきっかけに、新聞を取って勉強するようになったのですけれど、最近ではアスベスト問題も下火になってきていますね。最初は毎日のように報道がなされていましたので、私も新聞の切抜きをして一生懸命に勉強していましたが、この頃は何度新聞に目を通してみてもどこにもアスベストの記事がありません。 イタイイタイ病のことが取り上げられていましたが、苦しみはみんな一緒です。やはり自分が苦しみを味わうと、苦しんでいる人の気持ちがわかるようになります。私は三十代のときに新潟から尼崎の公害のひどいところへ出てきて、そこですぐに結核を患いました。若い頃から苦労をしてきたので、子どもにはそんな苦労はさせたくないと息子たちを育ててきました。私はもう十分に生きましたから、「いつ死んでもいい」と思っていたのですけれど、息子のほうが先に逝ってしまった。 息子は親孝行な子で「将来、高齢になったらエレベーターのないこの県営住宅では上り降りが大変やろう」と高校を卒業してから結婚もせずに働き続け、亡くなる五、六年前にやっとエレベーター付きのマンションを買って準備をしてくれたんです。そして、食べていくために(鰻屋の)店を持とうと。私は「誰か(嫁に)来てくれたら」と思っていたのですが、息子は私を幸せにしてから結婚のことを考えようと思っていたのでしょう。それが、間に合わなかった。アスベストで、夢も命もみんな奪われてしまった。 新しいマンションに行けばいいのですが、私はここから離れられません。そこの戸を開けたらクボタ(旧神崎工場)が丸見えでしょう。ベランダで洗濯物を干していてふと見たら、「これでもってうちの子がやられたんや」ともう悔しくて。何度か杖をついてふらふらになりながら「社長に謝りに来てくれ」と一人で言いに行きましたが、「伝えてはおくけど、それはできない」と言われました。 うちの子は家族といっても私ぐらいで妻も子どももいませんでしたが、妻や子どもがあって苦しんでいる人もたくさんいます。早く助けてやってほしい。 ここ(県営住宅)が当たったとき、中学一年生だった眞治たちと「よかった。5階でもええわ。ええ空気や。ええ風が入るわ」と言って深呼吸をしていたのが、クボタの猛毒のアスベストを吸っていたのです。そんなことも知らず、親子で喜んでいたのが、30年経った今、こんなに悲しい想いをするとは思っていませんでした。もう、死ぬということは考えられません。「杖をついて、生きて、アスベスト問題、そして企業・国がどう移り変わっていくか、この目で見て、この耳で聴いて、お母さん生きていくからね」と。眞治は無念という言葉を残して死んでいきましたから。「無念や」と言って。 あの子は、お医者さんに一度も行ったことがなかったんです。それほど病気をしたことがない。一度、職場で釘を踏んで怪我をしたときには、化膿しているのに病院にも行かず、仕事も休まず、遅刻もしませんでした。周りの人は「病院に行ってこい」と言ったらしいのですが、「母ちゃん、病院に行ってこいってみんなが言うけど、病院ってどうやって行くんや」と言うくらい、病院を知らなかったのです。その一度だけしか病院に行ったことはありませんでした。ですから、アスベストのときも、すぐには病院に行きませんでした。温めれば治ると思ったのでしょう。有馬温泉に行って体を温めたりと、そんなことをしていましたから、兵庫医大に行ったときは「もう、手遅れや。今まで何しとったんや」と言われました。眞治が有馬温泉に行っていたことは(後になって)眞治の友達から聞いただけでしたので、「私には何で言ってくれんかったんや」と言いました。「そうしたら、有馬温泉には行かずにすぐ医者へ連れて行ってやったのに」と、そう思いました。 あの子が生まれたときから死ぬまで私はずっと見てきましたから、この子(眞治さんの兄)が知らないことはたくさんあると思います。だから、私が死ぬ前にいろいろと帳面に書き遺して、この子のために置いていこうかと思ったのですが、帳面と鉛筆はそこにあるのですけれど、書く気がしないんです。 国に対しても恨みはありますが、クボタに対しても「きれいなところになったなあ」と思って今まで見ていたのが、眞治がこの病気になってからはもう、恨みの目でみているというか。ベランダで洗濯物を干しているときも、クボタを憎しみの目で見ている自分が分かるのです。30年前に家を出たけれど、店を持たずして夢も命もみんな無くなってしまいましたからね。今は、「お前の無念を晴らしてやるまでは、母ちゃん死ぬ気はないからな!」と言っています。 アスベスト問題に決着が付いたら、私は「謝罪させた」「認めさせた」ということは、テレビや新聞では見たくもない、聞きたくもない。その気があるんだったら、うちの子の墓の前で土下座して欲しい。それが私の想いですね。私たちの。 クボタへ行ったときは、「謝りに来て欲しい」と言いましたが、一人のところにでも謝りに行ったことが分かれば、大変なことになるということは分かっています。それを承知の上で行ったのですから。もし私の家まで謝りに来たことが人に知られたらパニック状態になると思います。だから「(謝罪したことが他人に知れないように)黙って、夜中でもいいから来てください」と。「そうしないと、うちの子は窓を開けたらクボタが丸見えやから、浮かばれないから、頼みます」と言いましたけれど、駄目でした。 色々なことがありました。お医者さんの目の前では口に出しませんが、医者に対しても色々なことがありました。でも、親の私がでしゃばって出て行ったら、あの子(編者注:眞治さん)はみんなの前に出られないだろうなと思い、我慢していました。親でなかったらこの悔しさは分からない、ということはありますね。もう駄目(手遅れ)な子が、倒れて、目は紫色に腫れている。頭はパンパンに腫れている。それを何も治療してくれなかった。(病院の)事務所に怒鳴り込んでいこうかと思ったこともありました。ですが、駄目だということを分かって(看護を)やってくれているのだから、私がそんなことを言って「あんな子にはもう、やらず触らずにしとけ」ということになったら、可哀相なのは、惨めなのは、あの子だと思って私は我慢しようと思ったんです。死ぬことは分かっているのだから、尚更それだけのことをしてやってくれたらと思いました。 いろんなことがありましたよ。それは、友達に言えば、哀しそうに聴いてはくれますが、やはり他人は他人ですから。 「死んでしまった子どもに、なんであのときこうしてくれなかったんや」と思うことはありますね。してもらったとしても助かったわけではありませんけれど。だけど、もう駄目な子だからと思って手をつけなかったというのは、私は許すことができません。 松田: 治療に関して、お医者さんに何か問題があったのですか。 武澤一子: 治療といっても、できませんでしたけれど。死んだときは(兵庫医大とは)違う病院だったのですが、そこでは駄目だということが分かっていましたから。眞治が兵庫医大に入院していたとき、大部屋にいる患者同士で「俺はあそこの病院に行けって言われた。あそこの病院に行ったら、もう終わりや」「今度はおれの行く番や」と言っていたらしいのです。お医者さんは分かっているのか分かっていないのか…でも、お医者さんより患者さんのほうがみんなで話をする分、よく分かっているのではないでしょうか。そして、それをあの子は私に言って、はっきりと病院にこだわっていました。 (兵庫医大に通院しているときに)眞治が死んだ病院の婦長さんから「今すぐ迎えに行きます。兵庫医大から連絡がありましたから」と私に連絡がありました。けれど、「ちょっと待ってください。もう、目を開けることもできない、受話器を持つこともできない子やから、携帯電話を(眞治さんの)枕元に置いていますから、そこに掛けてくれませんか。そして、本人に訊いてみてください」と。そうしたら、(看護師長から眞治さんに電話が)掛かってきたらしいですが、苦しいので少しだけ話して「もう入院はせえへん」と言ったそうです。 (眞治さんが亡くなられた病院に行く前に入院していた)兵庫医大には労災で二ヶ月と少しだけ入院させてもらえることになりました。眞治は一人暮らしでしたが、入院から二ヶ月ちょっとして労災から「お母さん、もう手遅れで駄目ですよ。帰ってもらいますからね」と言われました。ですから「あんな子を帰してどうするんですか」と言ったのですが、「今はもう、部屋も無いし、ベッドが空くのを待っている人がいるんやから」と。 痛み止めか何かをもらうために通院しなければならなかったのですが、二、三回通院して駐車場で倒れたり診察室まで行くのに倒れたりしたのを私は実際に見ていました。そして、病院に着いたらすぐに待合室のベッドに横になるんです。人の前でそんなことをしたことのない子が、です。ですから、あの子は二回か三回行って「母ちゃん、兵庫医大行くのやめるわ。怖いから行かれへん」と言いました。 私は二回ほど一緒に付き添って行きましたが、自動車に乗るときは「もうこれが最後や」と思って死ぬ覚悟で乗っていました。あの子はどうしようもない体なのに、兵庫医大に行かなければならないから、自動車を自分が運転していたんです。私は自動車なんて全然知りませんから、横に乗っていました。うちの子は痛みで意識が遠くなることもありましたから、どこか土手へ落ちるか、どこかにぶつかるかするのではないかと思いました。だから、私はあの子と車に乗るときは死ぬ覚悟で乗っていましたね。 松田: そんな状態でも、自分で運転して行かれたのですか。 武澤一子: 「母ちゃん、俺ちょっと休むわ」と、通りの横のほうで邪魔にならないように休みながら運転していましたね。三回目の通院のとき、お医者さんが「もう入院させますわ」と言うものですから、私は兵庫医大に入院させてくれるのかと思ったんです。本人が「兵庫医大に行きたい」と言っていましたから、「あの子の望むところで亡くなるんだったらしょうがないわ」と思ったのですが、(医師が)「僕のところと違いますよ。違う病院ですよ」と言うんです。「兵庫医大はもう駄目です。違う病院に行ってもらいます。そこへ電話しておきましたから」と。 それで、そこの病院の婦長さんが「今、兵庫医大から連絡がありましたらから、すぐ迎えに行きます」と電話を掛けてきて、それから先ほど言ったとおりのことになったんです。(眞治さんが)婦長さんに「いや、僕は行きません」と言って。もう自分が駄目だということが分かっていたのでしょうね。 「あんたお母さんが看てやっからな。頑張ろうな。病気に負けたらあかんねんで。弱気出したらあかんで」と、駄目だと分かっていても私は口では嘘を吐いていました。その前に、一言「母ちゃん俺、自殺しようか」と言ったことがあったんです。後から聞いたのですが、アスベストの被害者は自殺しようかと言う人が多いのだそうですね。うちの子もそうでした。確かに一回だけ言っていました。だから私は「何言ってんの、あんたは。病気に負けたらあかんねんで。頑張んねんで」と言って怒ったこともありました。 それでも、(退院後マンションで看病していたときに)私は隣の部屋に寝ていたのですが、(ベランダから飛び降りるのではないかと思って)眞治が寝ている部屋を毎晩そっと見に行っていました。十一階建てですので飛び降りたら終いですからね。そうしたら、今度は私が昼も夜も寝られないようになってしまったんです。あと何日かしたら、私のほうが先に死んだか分からないぐらいやつれてしまいました。 夜中に眞治が枕を抱えて部屋をうろうろと歩き回っているんです。「どないしたん。痛いんか」と訊くと、枕を抱えて立ったまま寝ないで「痛い。痛いねん」と。「どこが痛いんや。母ちゃんだって肺病抱えとって、肺のことよく分かってるから、横になろう」と言ったら、「母ちゃんになんか言うたかて、俺の痛みは分からへんねん。普通の結核とは違うねん。これはアスベストの人にしか分かれへん。肺に針が刺さるような痛さなんや。だから母ちゃん、悪いけど何も言わんといてくれ」と言っていました。私が何か言うと、それに応えるために話さなくてはなりませんから、それで呼吸が苦しくなるのです。ただ黙って、枕を抱えて苦しんでいる姿を私は見ているだけでした。 そんな状態が続き、私は眞治が寝ている部屋の入り口に布団を敷いて寝るようになりました。その姿を見ていたのでしょうね。一週間ほど経って「母ちゃん俺、入院するわ。病院に電話して」と言ってきたのです。「母ちゃんを家に帰さな、母ちゃんが死んでしまうわ」と思ったのでしょう。 電話をした翌日には病院から迎えのハイヤーが来ました。入院する部屋を見せてもらったら、改装したての特別にきれいな部屋でした。婦長さんに頭を下げてから、「婦長さん、この子は便所に行くのにも倒れるんです」と言うと、「お母さん、そんなこと心配せんでも、そのために便所に近いところをとったし、私が車椅子に乗せて連れて行ってあげますよ。そんなこと心配する必要ありませんよ」と言われたんです。それで、私は「そうですか、ありがとうございます。お願いしますね」と言って、病院に泊まることはできませんから、そのまま帰ったのです。 でも翌朝、(眞治さんのことを頼んでいた)知り合いの奥さんから「お母さん、昨日きれいな部屋に入ってた言うてたけど、今日は下の汚い部屋に入ってるよ」と電話で知らせがあったのです。なぜ一晩できれいな部屋から汚い部屋に移したのか、理由を訊くと、どうやら同じ部屋に入院している人が部屋の中で排泄してしまうため、「武澤君はまだ若いから、気の毒やから下に降ろした」ということらしいんです。 そのうちに、トイレに行くのにも一度も車椅子に乗せてもらっていないということも分かりました。ですから、結局はトイレに行く度に倒れていたのです。頭が腫れて、水枕をしていましたが、看護婦さんたちはそれに関しては何も言ってくれませんでした。そして、今度はお岩さんのように目が紫色に腫れているのです。眞治に訊くと「便所に行くときに倒れた」と言うのです。「痛くないのか」と訊くと、「痛くない」と。痛み止めが効いているため、倒れてばかりいるようになり、さらに頭を打っても目が腫れても、痛みを感じないのです。 昨日は頭が腫れている、今日は目が腫れている、そうなれば事務所に怒鳴り込んで行ってやろうかと思いました。でも、そんなことをすればあの子にみんなが冷たくなるだろうと思って、我慢をしていました。・・・本当にいろいろありましたね。 松田: 長時間お話しいただきありがとうございました。