アスベスト被害聞き取り調査―中村實寛(さねひろ)氏 [2006年9月12日] 松田毅 (神戸大学大学院人文学研究科教授): 今回はアスベストの被害、苦痛、あるいはその影響を、日常生活の次元から一般にこの問題に詳しくない方にも分かる形で、克明に浮かび上がらせることができたらと思いますので、よろしくお願いします。 『中皮腫・アスベスト疾患 患者と家族の会』の会報を見ておりますと、患者の方の生い立ちや仕事、病気のことも書かれていますので、それを基本的になぞるような形でお話していただけるとよいかと思います。多くの問題があり、現在に至る過程についても、一時間、二時間では語り尽くせないとは思うのですが。 アスベスト被害で中皮腫になられ、運動を始められる過程で幾つかの転機、ターニングポイントがあったと思いますが、それぞれのときに、自分がどう感じ、またそれがどう変って、今どう思われ、今後どうしていきたいか、そういう流れでお話していただけたらと思います。 中村實寛: わかりました。 松田: シナリオがあるわけではないので、生い立ちからお話しいただけたらと思います。先の会報には宮崎で仕事をされていたとありますが。 中村: 生まれは鹿児島なんですけども。中学校、学校卒業するまで鹿児島で生まれて育ったんですよ。 松田: 鹿児島のどちらですか。 中村: 鹿児島の、当時は曽於郡でした。今は市町村合併で曽於(そお)市となったのですが。まあ曽於郡、僕は財部町ザイベと書くんですけど、財部町いう所で、生まれ育ったんですけども、昔の曽於郡には、鹿屋市とか志布志町とか、志布志市ですね。そこで、中学校まで卒業するまで暮らしてまして、中学校卒業と同時に宮崎に弟子入りして、建築大工の修行というんですか。 松田: お生まれは昭和何年ですか。 中村: 昭和23年4月25日生まれです。ですから、中学校を卒業したのは39年の春ですね。 松田: それから宮崎市の方に。 中村: 宮崎市内です。宮崎市内に弟子入りして、そこで仕事を教えてもらって、それで一応、建築大工というのは4年間が一応修業なんですよね。僕の場合は何でか知らんけど、3年半ぐらいでもういいよと言われて。 松田: ああ、そうですか。優秀だったんですね。 中村: いやいや。要領が良かっただけですけどね。まあ3年半目で、自分の田舎の、鹿児島の家を建替えたんですよ。そのときに、親方に手伝って下さい言うたら、親方は暇やったんやけど、おまえの手伝いなんかできひんわ、言われて、自分の仕事が忙しい言うて断られたんですよ。まあそれが一つはどう言うんですか、突き放すというか、自分でやってみなさいという指導だったんだと思うんですけどね。で、まぁとりあえず3年半で卒業させてもらって、まぁ1年間は御礼奉公という昔ながらのしきたりみたいなあるんですよね。ただ働きになるんですけどそれを済ませて、ほんでまた鹿児島でちょっと働いてまして、昭和45年に大阪に出てきたんですよ。 松田: 当時、昭和40年の初めぐらいには、大工さんのお仕事の中で、アスベストの問題は何か認識されていたのでしょうか。たとえば、材料などでアスベストに関連するものがありましたか。 中村: 当時は、そういうのは、僕も無学ですから、そう言うのはほとんど教えてもらってないし、実感してなかったんですよね。最近になってと言うか、やはり学校パニック以降ですかね、気にし出したのは。それまでは製品自体に、例えば、建材の製品自体にアスベストのマークがあっても、別にほとんど気にしてなかったというのが現実ですね。 松田: 大工さんの仕事は、やはり木材に関連するのものが多いのでしょうか。木造の家をつくるというような。 中村: 木造の家なんですけど、どうしてもこういう内装で、家具・壁材とかでしたら、そういうアスベストが何%か、正確には分かんないんですけど、2、3%とか、5%含有されたような建材があったと思うんですよね。実際、どれぐらいの含有率かと言うのは分かんないんですけど、そういうアスベストマークが入ってるラベルを張ってあったり、印刷してあったりしたのを見た記憶はありますよね。 松田: 記憶はありますか。 中村: うっすらと。それと当時はセメントにも入ってたと言うようなことも、最近、報道で分かってきたというか、僕自身が分かってきたんですけども、当時は実際工務店で働いてたんで、木造の場合でしたら、基礎から全部一括してやってたんですよね。最近は基礎工事屋とか、左官屋とか、ブロック屋とか、いろんな職種に分かれてやってますけど、当時はもう1軒受けたら、もう一から最後までやってたんで、ほんでそういう土方仕事みたいなのは、ぼんさん、つまり若い弟子達がやってたんですよね。 ですから、そういうのにも入ってたって聞いたんで、いつどこで暴露したかも分かんないし、ですから昭和39か40年から、そういう環境の、作業環境の中で仕事してきてますので、実際はわかんないですね。ちょうど僕らが弟子入りしたころが、いろんな建材というんですか、新建材の出始めですよね。 新建材と言われる化粧材とかですね。そういうのが出だした時期ですから、それまでは左官屋さんが土壁を塗って、壁も作ってたし、ほとんどそういうのはなかったと思うんですけど。昭和40年代初期からですね。そういう建材が出始めたので、いろんなところで使われてたし、石綿は3000種類ぐらいに使われていたと言われてますから、いろんなとこに入ってたと思うんです。 松田: その作業の中で、当然でしょうが、建材を切った時に舞い上がるとか、そういうことが多かったですか。 中村: それはありますね。ほとんど電動丸鋸(まるのこ)言うて、ちっちゃい丸鋸で切るし、ほこりは、もうもうとしてましたね。 松田: 例えば、そのときにマスクをするとか、そういうことはどうでしたか。 中村: よっぽどひどい時で、タオルで口を覆うぐらいですね。普通はもう風で流されるんで、特別そんなマスクとか、そういうのはしませんでしたね。 杉川: そのマスク自体はそのアスベストを防止するためでなく、作業でほこりが邪魔だから。 中村: うん、逆に例えばガーゼマスクみたいなしてたら、すぐ詰まってくるんですよね。そのマスク自体が。そしたら息苦しくなって、それでマスクをし出したのも90年代なんですけどね。僕らが現場で、それでもううっとうしいなって、息苦しくなるから、すぐ外して、もうそのままで鼻なんかが真っ白けになるぐらいでしたけどね。 松田: 話を戻しますが、数年間ぐらい宮崎にいてその後はどうされたのでしょう。 中村: ええ、5年間、6年間ですかね。昭和45年に大阪に出てきまして、まぁいわゆる店舗屋と言うんですか、店舗改装をする。 松田: 昭和45年というと、1970年ぐらい。万博の頃ですね。 中村: 万博の頃です。万博の年に出てきて、その店舗屋で働いてたんですよ。70年ですねはい。 松田: やっぱり景気がよかったのですか。 中村: うん、あの僕の田舎の同級生を長いこと田舎で見なくなって。おまえどこへ行っとったんやと正月に会って、どこへ行っとったんや言うて聞いたら、大阪でこういうとこで働いていたんや言うから、一回引き上げてきたんですけどね。もう一回行く気ないか。紹介してくれ言うて、そんで一緒に出てきたんですけど。もちろん景気よかったし、田舎とは雲泥の差でしたから、日当というか、給料は良かったですね。 松田: 当時、宮崎で働くのと、大阪で働く給料とはどのぐらい違ったでしょうか。 中村: 約2倍です。 松田: 2倍ですか。今、そこまでは違いませんよね。 中村: 今はそこまでは開きはないと思います。 松田: では、出てくることにすごく大きなメリットがあったわけですね。 中村: そうですね。 松田: その頃はまだもちろん独身で。 中村: ええ、独身です。遊ぶ金に。消えて行きましたけどね。飲んで遊ぶ金。 松田: その頃の働き方はいかがでしたか。 中村: ものすごいハードでした。僕が入ったのが大阪に出てきて、その会社に入ったのは2月の多分7日ぐらいだったと思うんですよ。そんで3日間ほど準備があるから言うて休んで、10日ぐらいから働き始めて、それで月末までに残業80何時間しましたので、20日間で。朝もまあ6時ぐらいからですね、ひどい時は夜中の11時、12時。まあ日によってですけどね。早い時は5時、6時に終わってましたけど。そして次の月が1カ月で180時間残業してましたので、ほとんど寝る時間というのはないですね。 もう、現場から現場を渡り歩いてたと言う、ほんまに渡り鳥みたいなもんで。当時、日立の電器屋さん。家電屋さん一軒家の店舗行って、田舎なんかで店舗ありますよね。家電屋さんが。あれの店舗改装を三人のグループでやってたんですよ。そんで三人でグループ組むから、ほとんど最低2軒かけ持ちで、まず最初、スタートが三人で一つの店に行くんですよ。そんでここで撤去、解体ですね。改修工事ですから、三人で解体して、解体が終わったら一人残るんですよ。一日目に。そんでこの日の夕方、二人は2軒目にいって、夕方例えば5時ぐらいから解体入るんですよ。それで9時ぐらいまでで店舗を中だけですから、解体が終わる。そしたら一人はここで残ってやってるんです。そんで今度次の日になったら、一人は最初の店に、一人は2軒目に残って、後の一人は3軒目に行って、ほんでここが終わったら、こいつはここに行って助っ人してと言うような感じで、最低2軒はかけ持ちです。ひどいときは3軒。 そういうローテーションでやってたんで、夕方もう5時とか6時から現場行っていうのが、多くありましたが、そういうとこで一軒家の店もあるし、例えば、マンションの下のテナントみたいなとこの店もありますよね。電器屋さんなんかも。そういうとこの仕事もしてたし、そういう所に吹き付けアスベストがあったんですよね。 松田: それで解体のときに、例えば、壁とか、建材とかという形でされたのですか。 中村: うん。それもありますし、それは一軒家の場合はそういう建材なんかにありますし、そんで、建屋自体が鉄骨で建っていたら鉄骨に吹きつけアスベストというのがあったんですけどね。それが劣化したやつが天井裏とか、壁の裏に積もってたんで、天井をめくったらアスベストも一緒に落ちてくる、というようなんが現実でしたね。 松田: 解体作業の場合はアスベストに関してどのような危険性があったと思われますか。 中村: そうですね。解体のときはやっぱり一番ひどかったと思います。 松田: この作業の中心は何でしたか。取り壊しから作るところまでですか。 中村: ええ。もう全部また天井下地をつくって、天井板を張って、壁も下地して、壁もつくって、そんで陳列棚までつけて。あとは仕上げのクロス屋に渡して、もうクロス屋に渡すときは、僕らがよその現場に行ってるから一番どう言うんですかね、汚れ仕事というか、そういう仕事をやったんですよね。 松田: その場合の、危険性の認識はやはり薄かったのでしょうか。 中村: 薄かったですね。ただもうほこりっぽいなぁ。ちょっとチクチクするなぁ言うぐらいで。 松田: 今のところ国と企業がアスベスト問題を認識したのは、昭和46年とされていますが、その点はいかがでしょう。実際はともかく、大阪へ来られたのが45年だったわけで、次の年には国と企業は言葉通りとるならば、知っていたことになるわけですね。 中村: 知ってたし、通達を出したと言う事になってるんですよね。国は。 松田: そのとき、実際の通達というのはどうだったのでしょう。 中村: ないです。まず、多分僕が働いてた会社の社長とか、安全管理の人間とかも多分知らなかったと思います。 松田: 安全管理の人間とは、どういう人でしょうか。 中村: うん。会社に一応、安全管理責任者というのは少なくとも一人は常駐でいなければいけないんですよね。ですからこの安全管理責任者というのを、いろんな会合とか、建築組合とか、いろんなとこの会合に出て勉強せんといかんかったのですけど、出てもそういう話は聞いてたかどうか知らんけど、僕らまでには伝わってこなかったんですよね。 松田: 基本的には、安全管理者が話をすることになっているのですね。 中村: うん。自分とこの従業員に通達して、注意を喚起する役目がある。それがなかったということは、そこまで下りてきてなかったんだろうと。 松田: 仮にアスベストの危険性認識がないとしたとして、他のものと比べて、例えば安全性意識そのものが全体的に薄かったのか、あるいは、建設現場で危険だから注意しなさいとかいうことは、別のものではあったのか、そのあたりどうでしょう。 中村: 特に建築関係の現場というか、事業所というのは、まず目に見える傷害ですね。例えば、墜落、転落事故、指切断とか、とりあえず人身事故。そういった事故にはやっぱり厳しかったですね。ですから、そういう環境の被害というのは、ほとんど認識なかったと思うんですよね。 松田: 目に見えにくいものというのは、あまり当時、言われてなかったですか。 中村: そうですね。ですから現場に来ても、ちょっとしたゼネコンの現場でしたら、一ヶ月に1回、月初めのうちに、朝礼の時に安全大会というのが必ずあるんですよね。その現場現場ごとに。そんでまあ奉仕というんじゃないけど、いろんな注意を促すために、いろんな事業所の安全管理責任者が変わりで訓示みたいな形で話をするんですけど、そういうときに出る話というのは、どうしてもその足場の徹底とか、不備ないようにしなさいよ。転落事故に注意しなさいよ、そういう怪我に、怪我というか、事故に対して注意だったりですかね。ですからほこりっぽいから、ちょっと注意しなさいよというのは、誰一人いなかった。 杉川: ほこりっぽい。単純にほこりっぽいだけなら、まぁ我慢しろとなるし、ほこり自体に害があるという意識もない。 中村: もちろん、そういうのもなかったと思うんですよね。そういう意識があって、朝礼の時に安全大会の時に発言をされるんでしたら、多分僕らも耳に入ってくるわけですね。マスクしとけよとか、タオルぐらいじゃあかんぞという注意だったら、やはり気になるから、記憶に残ってると思うんですけど、それがないから。 松田: 例えば、建設関係で化学薬品についてはどうでしたか。そのころはそれほどやかましくなかったのでしょうか。 中村: やはり、塗料関係に関しては、うるさかったですね。それなりに。例えばちょっと狭い部屋での、そういう作業は一人ではするなとか、換気を絶対しなさいよとかいうのは促されてましたけど。事故関係ですね。ですから、その特にアスベストに関するような感じのそういう注意とか、そういうのは全然、全然言うて良いほどなかったですね。それを学校パニック以降もそういうようのがなかったから、つい最近までなかったから、僕は現役で働いておったのが15年の4月15日までですから、それまで聞いてないですが。アスベストに対しての危険意識というのは薄かったと思います。 松田: 現場で働く場合の会社との関係がわかりにくいのですが、安全管理責任者が、一つの会社で一人いれなければならないというとき、例えば、三人しかいない会社はどうしたのでしょう。 中村: 一応、企業となったら、一人従業員おったら、こう一応会社ですから、従業員一人おったら、社長なりがその役目をせんといかんのですよね。 松田: じゃあ兼ねてたという部分があるんですね。実際に兼ねてた人がいますか。 中村: それは多いですね。まあ僕が働いておったとこは就職した当時、入った当時は営業を含めて、全社員で50人ぐらいおったと思うので。常駐で一応おったんですけどね。そしてとりあえずそこの会社に入って、最初の5年間ぐらいはそういう電器屋さんの仕事、あとスポーツ用品店も同じような感じで、こういう店舗改装工事ですね。そういうのを5年間ぐらいかな、そんでもう毎日ですね。 松田: 土日も働いていることが多かったのですか。 中村: そうですね。月に2回休めたらよかったぐらいですね。2週間に1回。その5年ぐらいはそういう形で働いて、それ以降は会社自体がゼネコンとの取引ができる体力がついたから、ゼネコンから仕事をもらって、ゼネコンの下請でやってたんですけどね。そのゼネコンのときが、また多分一番危なかったんじゃないかなあと思うんですけどね。 というのは、建築現場でしたら鉄骨をまず建てるんですよね。下から順番に。そして、それにコンクリートで壁を作っていくと。で、壁ができたら、また鉄骨は順番に上がっていくんですけど、仮枠してコンクリート流すのも順番に上がっていくんですよね。だから各コンクリートの壁は3階分ぐらいまで例えば10階建てでしたら、3階分ぐらいまで、5階建てにしても一緒ですけど、3階ぐらいまで壁ができたら、今度は一階から吹きつけアスベスト屋が鉄骨に吹きつけていくんですよね。アスベストセメントを。その吹きつけが終わった、例えば、こう建物があって鉄骨がこう出てたら、それを全部吹きつけていくんですよね。スラブも、もし鉄板やったら全部吹きつけていくと。それも広かったら範囲を区切って、こんだけの範囲をまず吹きつけして、そんでここが終わったらこっちへ行きますよという作業をして、そんで彼らがこっちに移ったときに僕らがもうここに乗り込んでいって墨出しと言うて、直角出して壁の仕上がりとか、そういうの作っていかんといかんのですよ。順番に。そしたらもう彼らが移動したすぐ後やから、吹きつけアスベストも適当に掃除して、次に移動するんで足元はもう極端に言うたら、積もっているのよね。それを僕らは墨壺で、パチーンて印をつけるので、そこにほこりがあったら印つかないから、こうしてきれいに掃いてからやるんです。そしたら、そのほこりがそれこそ埃が舞い上がって、まだ窓も入ってないですから、ガラスが。そやから風が吹いたら抜けるのは抜けるんですけど、でもホウキで掃いたら全部上に舞い上がるんで、そういうものはかなり吸ってたと思うんですよね。 松田: 吹きつけ後の作業としては具体的にどんなことされたのですか。 中村: 一応、僕らがすぐ仕事いうたら、壁でこう仕上げしようとしたら、ここに下地をこう作っていくんですよね。この壁を取りつけるための。そしたら、この下地のこのラインを正確に真っすぐマーカーしていかんといかんので、そんでそのマーカーするときに、埃があったらつかないから、そんできれいに掃除してやっていくと。そんで一番最初はこのマーカーする仕事なんですよ。そんで、それが終わったら壁の下地をつくっていくと。そんで壁の下地ができたら、仕上げ材を張っていく。例えば、石膏ボードとか。 松田: 鉄骨があってセメントがあって、さらに壁と、その段取りですか。 中村: そうです。はい。 松田: 壁を作るのも、中村さんの仕事になるんですか。 中村: そうです。それと天井とですね。 杉川: 吹き付けたあとだから、作るときにもぽろっと。 中村: そうです。よう落ちとったんが、二階のコンクリートがありますよ。そしたらここに鉄骨がこうありますと。そしたらこれに吹きつけてるんですよ。吹きつけアスベスト、僕らは天井をここに作るために、広い、狭くても広くても一緒ですけど、天井を張りつける、下地というのがいるんです。これをもたせるために鉄骨やから、つっかえ棒がいるから、ここに木材をはめ込んで、こっから吊木いうて、落ちんように引っ張る。そしたらこれを入れるときに、ここに吹きつけて、ある吹きつけアスベストをたたきつけて、こう捲って、ほんでこれが歯がこう出てますからね。H鋼鉄骨で。だから、そしたらこれをギュッとして入れるから、どうしても吹きつけたとこが、ポロポロと落ちるんですよね。これが一番ひどかったですね。 ほんで今度は、これに下地をつくって、天井板を貼る時に下から振動を与えます。そしたらここら辺の溜まってるやつが、やっぱり落ちてきて天井板の裏に積もってるんですよね。そしたら次に今度、この天井を解体するときにめくったら、ここに積もったやつが落ちてくるんです。だから作るときも解体する時も、そういう危険性というのははらんでいるわけですね。 松田: この作業全体の中では、中村さんたちの作業が一番危険なのでしょうか。 中村: そうですね、一番はその吹きつけアスベスト屋になるんですけどね。彼らは専門ですから、それなりの防護してますよね。彼らは危険性を知っていたのかなと思います。一応防毒マスクみたいな感じの、ポチョッと先っちょにフイルターのついた、もう完全装備でやってた。 松田: それも昭和45年ごろから、もうそういう感じでやっていた。 中村: やってましたね。ペンキ屋が有毒ガスが発生するからはめてる。同じようなマスクしてやってましたので。彼らはそんだけの装備してたけど、僕らはそこまで、もちろんそういうのを買う金も惜しいし。 杉川: 現場の人がそういう、まあ吹きつける装備とか見てると、自分ら普段浴びているものだし、ある意味、重装備に着ているわけじゃないですか。違和感とかは無かったですか。 中村: 僕らは彼らが作業するときは、ビニールシートで囲ってたんですよ。一応。外に逃げんように。そしたらもうその中で作業するから、物すごい埃なんやろうなと言う認識があったから、そういうとこで作業するから、あんだけの重装備で仕事せんといかんのかなというぐらいの認識。だから、危険性というよりもあくまでそれは作業効率上げるために、まあマスクしとったほうが無難だからかなという程度でマスクというのは、そのアスベストを吸わないためという認識はなかった。 だから、彼ら側はそうして囲いの中で、吹きつけしてたから、そこの中やったら物すごいほこり回ってるんかなという認識があって、それであんだけの装備をしてるんだなあというぐらいの認識ですよね。 杉川: 自分たちの、その現場大工さんとも窓から出せばいいやというので。でもそう考えると、その時、溜まったアスベストとかというのは、全部外へ出してたわけですかね。 中村: ほとんど飛び散ってましたね。 杉川: 例えば小さいビルでしたら、すぐに建つでしょうけど、高層ビルとかの場合は、もしかすると多分…。 中村: 周囲だけじゃなくて、それこそ尼崎の疫学調査みたいに、例えば、4キロとか、飛んでた可能性はありますよね。 松田: アスベストを吹きつけるという作業そのものに関連する技術的なことですが、吹きつけられたアスベストは非常に剥がれやすいものなのですか。 中村: 一応は、きっちりついてるんですけども、こういう作業するためには逆に邪魔になるから…。 松田: もう一回、剥がすんですか。 中村: うん。それを剥がしたらいかんのですけどね。耐火のために吹きつけてあるんやから。 松田: それをしないと、作業はできない。 中村: そうです。僕らの作業はできないから。 杉川: でまあ、それを互いに知ってるから、ほっといている。 中村: でも、何にもしなくても多分データ、多分石綿協会は取ってると思うんですけど、何年かしたら、でっかいデータ欲しいから、多分石綿協会とか、吹き付け業者とかはデータ取ってると思うんですけどね。その劣化した吹きつけアスベストが一番危険ですよというのが、一応アスベストセンターのホームページにも書いてあるし。 松田: 吹き付け業者は、そのあたりは実際に知らなかったのでしょうか。 中村: 多分、それぐらいのデータは持っていると思うんですけどね。 松田: ちょっと話は変わりますが、アスベストに関連する他の作業はいかがでしょう。例えば、建材や織物を作るとかです。そっちのほうの危険性もあるし、お話しの作業での危険性もあるわけですよね。 中村: はい。泉南の場合でしたら、そのアスベストを糸に織り込んでたんですよね。ですから、女工さんはそのアスベストを袋から取り出して、その機織り機の機械ですか、糸を紡ぐ機械のとこにまぜとったんですよ。それも素手で。それこそマスクもなしで、そのアスベスト、石綿の原材料を使ってたんですから。 松田: それは工業製品の一次加工品のようなものですか。 中村: 防炎のカーテンなどです。いろんな所に使われてましたよね。それと溶接作業をするときに、火花養生で。そういうのは紡績工場でつくってたから。 松田: いろんなタイプの作業でアスベストを吸い込む可能性があるのですね。 中村: そうですね。ですから泉南地方の被害者というのは、そういう女工さんとか、例えば。その紡績工場の班長さんみたいなんは、男が多かったんでしょ。ですから、そういう人らが犠牲になってると思うんですよね。それとひどいのは、その工場から排気ダクトで外に出してた、と。 そしたら、その隣の田んぼをつくっていた人が、石綿肺で亡くなったとかいう人がおりますからね。泉南の方で。 ですから、そういう設備関係ができてないとこで扱われとったら、どうしても建築現場もそうですけど、泉南とか、そういうとこの紡績工場のとこも一緒ですよね。逆に建築現場よりもひどいかもわかりませんね。逃がすとこがないから。 松田: ちょっと話がそれてしまいまいしたが、吹きつけ作業の方の場合はどうでしょう。中皮腫の方はかなりおられるんですか。 中村: 多分おると思うんですけどね。それを把握できるのは監督署しかないんですよね。 監督署でしたら、労災の申請したら、職業は何やというのがあって、それは厚労省が握れるはずなんです。実態調査したら。全部それを本省に上げろ、言うて、号令かけたら上がってくるはずなんですけどね。監督署はもうすべて、一応労災申請したら全部、握ってるデータですからね。職業からその働いてた年数から全部職歴全部、監督署は知ってるはずですから。 松田: それは、どんなに下請になったとしても、その期間を把握されてるということがあるのですか。 中村: 労災申請してからです。逆に、しなかったらわかんないわけですね。病院も最近は個人情報保護法で何にも表に出さないし、もちろん監督署も我が行っても教えてくれないでしょうし。ですから、まあ労災を多分、中皮腫だったら病院の先生も労災申請しなさいと、最近は教えてくれると思うんですよね。でも、ここ最近ですよね。 松田: ここ1年とかですね。 中村: うん。僕自身も正直いうて、先生からは聞いてないから。でも、そういう専門でやってた人らは、ある程度知識はあったのかもわかんないですけどね。仕事でなったんやというのを。そしたら労災申請してると思うんですよね。 松田: 申請したこと自体が他に伝わりにくいってわけですかね。 中村: そうですね。監督署もそれは発表してないから。一応もう企業が去年の7月から順次、情報開示しただけであって、それを役所がお前とこは間違ってるぞ。こんだけおるん違うかとか、こういうのをやっていないんで実数はわかんないんですよね。 松田: 労災の話はまた後でしていただくとしまして、話を戻します。万博のころに大阪に出てこられて、それで最初は5年間ぐらい、何年間ですか。 中村: 5、6年間です。 松田: その間はどんなお仕事の内容だったでしょうか。 中村: ほとんど店舗屋ですからね。はい。 松田: その後、ゼネコンの下に入られた。会社の規模は50人くらいですか。 中村: そうですね。でもゼネコンの下に入るころはもう逆に100人くらいになっていました。最終的には250人ぐらいだったからそれぐらいは。 松田: 会報には現場監督になられたように書かれていましたが、現場そのものの仕事をされてて変わったわけですね。監督として現場の作業からちょっと離れたのですね。 中村: そうですね。全体を、まあ監督になるまでは大工としての仕事を重点的にやってましたけど、監督になってからは、今度はもう一から十まで、仕上がりまでですね。お客さんに引き渡すまでやってたので。 松田: 現場のやり方あるいは現場そのものは昭和45、6年とか、昭和50年ぐらいから、ごく最近まであまり大きな変化はなかったのでしょうか。 中村: そうですね、大きな変化というのはないですね。ただ道具なんかが便利のいい道具ができて、合理的になったなぁというぐらいですね。あと、そういう改善というのもされてないし、ただゼネコンの場合でしたら、一週間に一回は現場の清掃日というのがあるんですよね。それでまあおおかたのごみとか、そういうのをその現場に行ってる職人から、監督から皆で表に出しましょうという、そしたらまあある程度現場がきれいになるんで、埃も立ちにくいしというシステム取ってるところ多いんですけど。 松田: 学校パニックのときに、それこそ一度、大問題になったのですが、現場でも意識をある程度、持ったんじゃないかと思うんですけれども。 中村: 持ってもあまり変わらなかった。その時だけでしたね。一ヶ月とか、二ヶ月ぐらいですね。ちょっと注意せんとあかんぞっていう程度でした。 杉川: そう思っても、その会社とか、そういう安全管理担当の人も、まぁやっぱりまだ何も。 中村: うん、まだそう強くは。 杉川: 何かちょっとアスベストは気をつけとけよみたいなことは。 中村: そこまでも特別、ですからほこりがやっぱり気になるからいうぐらいですね。アスベストと言うよりもほこりも一緒に紛れ込んどるからという意識で。 松田: そういうことがつい最近までは続き、建築現場などでアスベストが舞い上がっているような状態があったのですね。 中村: はい。 松田: 若い、例えば、労働者の人たちはどうでしょう。 中村: そうですね。ですから僕自身もその無知やったんですけど、やはりアスベストがこんだけ危険なもんというのは、つい最近まで知らなかったんで。 松田: 日本の労働環境を考えると、外国人、アジアの方も結構おられましたか。 中村: 多いですね。現場の片づけとか、まあ土方のほうのああいう人が多かったですね。そういう人も曝露している可能性がありますね。 松田: そういう人の場合は、特に調査は追いにくいですね。 中村: 追っかけにくいでしょう。多分そういう人らは正式にビザをとって入って来ていても、多分そういう病気になったら企業から追い出されると思うし、特に建築関係は事故でも労災隠しあったんで、ましてやこういう病気とかいったら、多分追い出されてると思うんですよね。ですから、もうどんだけの被害者がおったかは追跡できないですよね。 松田: そういう外国人が現場で働き出したのはさかのぼったらどれぐらい前からになりますか。 中村: いつぐらいかな。50年、昭和50年。50年か52、3年ぐらいから多分、あんまり多くは見てないんですけど、ぽつんぽつんとは見るようになったのが、それぐらい違いますかね。だからもし、曝露して発症するんだったらもう被害者があってもおかしくないんですよね。そんなには多くはなかったんですけどね。一つの現場で二、三人とか。 杉川: 若干前後しますが、安全管理に関して、安全管理の人が勧告するというお話でしたよね。それ以外に、現場の方は、何かそういう安全管理の勉強の会というものはあったんですか。 中村: 一応はあったんですけども、現場で働いている人間はどうしても仕事優先ですから、そういう講習会みたいなのは、例えばゼネコンの営業所というか支所とか、本社とかの会議室で開かれるから、ある程度、そこまで出ていかんといかん。だから、ほとんどの会社ができてないと思うんですよ。現場を抜けるわけにいかんというので。 杉川: 感覚の違いかもしれないのですが、さっきの労災隠しなどで、その当人とかのその企業がその労災だということは、そのどれだけのマイナスイメージになったかという感覚が分からないのですが。 中村: まずですね、一つの現場で、一つの現場じゃなくて、例えばある程度の区域の中で監督署のある区域ですね、一つの区域があるんです。その範囲内で同じ企業が3回くらい、例えば労災事故を起こしたら、立入検査がある。そんで立入検査があったら、もちろん厳重注意で怒られるし、ひどい時には作業中止もあったみたいです。 だから、どうしてもそういう労災を少なくしようと。例えば、そうですね、阪神間で大阪北地区、阪神地区、神戸地区と分けてその一つの区域の中の、ここで人身事故があった。それでこっちの現場でもありましたと言うなら、一応注意で、口頭で何か注意があるみたいですね。2、3件事故が続いたら、それも多分期間があると思うんですけどね。半年とか、1年のうちにとか、僕もそこまでは詳しく知らないんですけど、3件事故が発生したら、そういう立入検査して、怒られると。そしたらもう何か、よそのゼネコンでも、そんなところでそういうのがと噂になるらしいから、ですからもうそこで企業イメージがダウンしてくるんですよね。 杉川: 今の自分たちの感覚からすると企業イメージというのは、「公の、パブリックな」、というイメージなんですけど、その際の企業イメージというのは、本当に仲間うちのものなんですね。 中村: それもあるし、これ自体は、そういう監督署からの立ち入りというのは、労働基準監署に、全部提示されているから、一般の目にもつくんですね。 杉川: そういう建築関係の場合でも、労災でもそのやっぱり就業中の不慮の事故も労災が出ますよね。例えば、何か偶然おったら建材が落ちてきてというのもありますよね。 中村: それは落とした、例えば、加害者というのは、やっぱりおりますやん。それとか、例えば、足場の上に、その建材を置いとって、それが風か何かであおられて落ちたとか。それからその一応加害者がありますやん。そしたらどうしてもそれで労災、一応そういう不慮の事故みたいなんは加害者も追及されるし。 松田: 単にイメージだけではなくて、実害もあるわけで、さらにあんまり多いと仕事が来なくなるということもあり得るわけですね。 中村: あります、あります。ですから、例えば、墜落事故ありますやん。それで何か骨折したみたいで動けんとかやったら、墜落した本人の会社の車を持って来いと、そんでその車に乗せて病院まで行けというのがあるみたいです。救急車を呼ぶんじゃなくて。 例えば、現場で何か事故を起こします。そしたら、みんなでその門の外まで運ぶと。これが一応、建築関係でもそうですね。墜落しましたよ。けがしとるみたい。そしたら、すぐもう墜落した人の上司に現場におりますからね。連絡して、「ケガしたぞ、車持って来い。それで車持ってこさせて、これに乗せて病院に連れて行け」っていうのが、僕らも現実に見てますから。 松田: それは正社員に対してもそんな感じだったんですか。 中村: ですね。 松田: なるほど。一回の労災で、全てで駄目になるという意識が強いわけですね。 中村: そうなんです。ですからもう事故が2件続いたら、もうピリピリしとんですね。1回でももうなんか。監督署が来そうな感じになり、もう一番最初に事故を起こしたところは、また事故を起こしたら、そのゼネコンの本社から怒られたり、睨まれるし、その所長が首、また昇級試験受けても上がっていけないんですよね。何年間かは。 下手したら所長やったら、大きいとこになったら部長クラス、小さいとこで課長ですから、もう課長ぐらいやったら、すぐもう飛ばされるんですよね。飛ばされて係長ぐらいに格下げされて。ですからもうみんながピリピリしとる。自分とこの責任を免れようとしてですね。 松田: すると単純に法律で、例えば、3回労災が起こると、注意や勧告を受ける。 中村: ですけど、やっぱりその企業イメージと自分のその地位ですね。地位を失いたくないために、そういうことをやったのかなぁと思うんですね。僕らには、もう想像もつかんのやけど。今もそれに近いものがあるのと違いますか。 松田: 安全は非常に大事ですが、事故が起こったとき、安全性を守ってなかったいうとこで隠す。そういう構造が今もあるわけですか。 中村: うん。これは多分、ずっと直らんと思いますよ。 杉川: どんなことでもそうですけど、事故をゼロにするのはできないのでしょう。それをわかってないというほうが不自然過ぎる。 中村: だから小さいケガとかだったら、素直に監督署に届けるんです。もし墜落事故とか、死亡事故やったら絶対届けんといかんでしょう、骨折ぐらいやったらという認識で動いてるわけですね。 松田: 多分、そのあたり何か組合のことも関係しそうですね。 中村: してくるかもわかりませんけど。 松田: 労働者の人権の問題ですね。 中村: そうです。 松田: 建設の場合、その辺がどうなのか。 中村: どうしてもゼネコンから押さえつけられると思うんですよね。「仕事をおまえんとこにやらせとるのやから」ってぐらい。我慢しろというのが現実だと思うんですよね。 杉川: 社員のほうにも、条件がそろえばその労災認定受けられる権利なわけじゃないですか。それをなんか使っちゃだめという。 中村: ですから、社員はちょっと、僕は経験ないから、見てないから知らんのですけどね。多分、それに近いようなのはあると思うんですけどね。 松田: 話は変わりますが、結婚は、何年ぐらいにされたんですか。 中村: うちとこは、72年か。1972年。昭和47年。 松田: アスベストの問題で作業着のことをよく言いますね。そのまま着て帰られて(家族がアスベストに曝露する例があると)。洗濯された奥様もやはり不安がありますか。 中村: 僕もやはり心配です。 松田: 職場と家の間はきれいに分けられていたのでしょうか。 中村: やはりもう、そのまま着て帰るときが多かったですね。現場ではたいてから、はたくぐらいですよね。パタパタとはたいて持って帰って、洗濯してたから。やはり心配というか、不安はありますね。 松田: 奥様としてはアスベストのことをどんなふうに考えておられますか。 中村夫人: あたし今、言われたように、はじめの頃は作業着を洗濯してたので、一度、検査受けた方いいかな。 松田: 自分自身の不安もありますか。 中村夫人: はい、あります。今までにね、一生懸命働いてきて、なんでこういう病気になったか言う事をね。今もう働けないし。本人自身は一応、離職してるから。私も、私自身もいつも見てて、何かかわいそうでね。みんな一生懸命働いてるのに。本人は寝ていても、横になっていても私は眠れないんですね。本人は気づいてないと思いますけど、やっぱしこう呼吸が。 松田: やっぱり苦しい。 中村夫人: うん、苦しそう。何か、ハァハァと息、呼吸してるけど、ハァーとなるんですよ。それで寝返りしたり、こうするからね。それがもう、どういうの、夜中にあるから、私何か落ちついて寝れない状態で。本人はちょっとわかんないって言ってるんですけど。それいつまで続くか。 中村: 僕が寝てる時でも、呼吸が乱れてるみたいですね。聞いたら。 松田: ところで、労働でも危険性が高いと危険手当のようなものがあると聞きます。こういう作業に関して会社としては何か認識があって、特別に給料がちょっと増えたとか、何かあったんでしょうか。 中村: いいえ、全く何にもないです。危険手当がつく職業言うたら、鳶(とび)さんで、高所作業の従事者、あとはペンキ屋さん、煙突なんかの高所の、高所作業関係ですね。それと、ビルの窓拭き屋、ブランコであったりゴンドラで拭いていく。ああいう人ら、ペンキ屋さんでタンクの中の塗装。それぐらい違いますか。 松田: 今でもないですか。 中村: ないですね。はい。 松田: アスベスト災害に関しては、今でもアスベストを使っているビルを解体するというような、非常に危険なことはもうあったわけでしょうしね。それがわかった時点で危険だから、給料たくさん出すとかはないのでしょうか。 中村: それはないでしょうね。はい。それはないと思いますよ。 松田: 危険性の意識は足りないというわけですね。アスベストが危険であるとかという意識、アスベストが危険であるということについての説明もなかった。 中村: そうですね。 松田: 見返りみたいなものも、なかったということですね。 中村: 何か一昨年の8月ぐらいですかね、東京で建築関係の組合が、調査してるんですよね。アンケート調査。そしたら現場で働いている人で、アスベストが危険であるので、確認する答えた人は17%ぐらいなんですよね。ほんで、その小さくても企業ですよね。建築関係のまあ工務店とか、そういうところの社長とか、その安全管理責任者が答えたのは、危ないから注意して扱うようにしなさいよと。自分とこの従業員に説明したのは、19%なんですよ。 それを考えたら、クボタショック、クボタ事件の前、そんだけの認識しかないんですよね。まず安全管理責任者などが危険性の認識を持って当たり前なんですよね。 杉川: 知識としては、既に使っているものだから、取り扱い注意をしておけば。 中村: うん。そやから、もっと政府が言っているのは、管理して使ったら大丈夫だと。何をどう管理するのと言うような、ところまでは言ってないんですよね。政府の通達は。これも、日本石綿協会からの、全くの受け売りなんですよね。政府の発言というのは。 杉川: 管理すればいい。逆に問題起こしたのは、ちゃんと管理してないからだというふうにされる。 中村: そうそうそう。おまえらが管理してないから、そういう被害者が出とるん違うかっていう、責任転嫁なんですよね。 杉川: でも、その管理基準のようなもの、例えば、石綿扱うんだったら、最低限これだけの空気清浄機を置いてや、従業員にはこれだけの装備をさせろというのはないんですね。 中村: ないんですね。 杉川: それで、管理しろと。 中村: うん。そんで今できたんは、その解体のときの一応基準は出来ていますよってね。 杉川: でも、所持や購入に関してはまだないんですね。 中村: ないですね。 杉川: まだ当時輸入はわずかで。 中村: できません。 杉川: 輸入業者に関しての取り扱いのための、例えば、そのマニュアルみたいなものは、ガイドラインはできてないのですかね。 中村: 何もできてないですね。 杉川: とりあえず管理(しなさい、とだけ)。 中村: だから日本石綿協会は、92年に旧社会党が議員立法で提出した、石綿対策規制法案をもみ消したときの文言を受け売りで発言してるだけなんですね。繰り返し。管理して使ったら、危険性はないという発言を。 松田: そのあたりは何か、調査が必要ですね。実例として例えば、中皮腫の方だとか、アスベストの肺ガンであるとか。それはどういう形で曝露したか調査して、データを示し、分析することが必要なんでしょうね。その場合、調査にはかなりの幅があるかもしれませんが。 中村: そうですね。ただ、それは僕ら民間団体では、障害が大き過ぎて、まず厚労省が調査できると思うんですが。 松田: 一週間ぐらい前でしたか。国が三つの地区の調査をするという発表がありました。 中村: はいはい。尼崎と泉南と鳥栖(とす)。 松田: あれは製造業ですね、尼崎はクボタで、泉南は石綿紡績でしょうけども、鳥栖は私よく知らないんですけども。 中村: 鳥栖はエタニットパイプとかいう所。水道管ですね。石綿水道管の工場があったんですよ。 松田: それも製造業関係のアスベスト使用で、中村さんのケースとは違いますね。 中村: 違いますよね。はい。 松田: こういうケースはかなりたくさん埋もれてるということでしょうか。 中村: 埋もれてるかもわかりませんね。そう考えた方がいいでしょう。 松田: しかし、掘り起こそうとすると、先ほど言われたように、大きな組織力が必要となりますね。 中村: やはり実際の被害者が考えているのは、さっき言ったみたいに、多分監督署が資料を保管しているだろうということです。それの所轄は厚労省ですから、厚労省が監督署宛に一斉に資料を出せ、と言うて、集めたら、全部出てくるんですけどね。あと埋もれてるのは、我々がいろんなこう活動していく中で、拾い上げていくしかないですね。政府は何もしないから。逃げ腰やから。我々がマスコミを利用して、いろんな問題提起していくしかないですね。 松田: そのあたりは、今の中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会の活動との関係でお聞きしたいと思います。ただ問題がかなり拡がっていることはたしかで、県レベルで、例えば、兵庫県という形で状況を調査する必要があるわけですね。被害者の会にはかなりたくさんの方が参加されていますね。 中村: そうです。ですから、まあ僕らのこの中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会というのも2004年、平成16年かな2月7日に発足して、発足した当時は被害者と家族は10人ぐらいだったんですけど、日本全国で。去年のクボタショック前は百五十何人だったんですよ。正確な数字ははっきり今あれなんですけど。 それで今年の6月15日現在で385人に増えてますので、やはりクボタショックはかなり大きなその被害者というんですか、それを掘り起こしたなと。現在、会員増で385人になってますから、まだ今でも毎日、毎日増えてるみたいで、正確な数字は事務局の方も把握できにくいんですけどね。ですから、そういう我々の活動を新聞とかテレビで知って、東京の事務局の方に電話かけてくる、被害者、それと家族の人が多いみたいですね。 杉川: 被害者の会の方が300人でも、それも氷山の一角。 中村: そうですよね。ですから去年おととしか、2004年度で死亡者だけで、中皮腫の死亡者だけで985人ですかね。ですから、それを考えたら、全然少ないです。 杉川: 中皮腫というのがあって、自分もその病気に罹っても自身は知らないというか、自分は関係ないだろうというのが…。 中村: 多いと思うんですよね。それぞれの人がもう自覚症状が出たときには、もう完全な手遅れなんですよね。ほとんど自覚症状がないですから。 松田: 中皮腫の場合は、ほとんどがアスベストが原因であることはほぼ間違いないのですね。 中村: そうですね。一応80%は職業性曝露と言われているんですね。ほんで役所の役人も勘違いするんですけど、80%がアスベストという認識を持った役人もおるんですよ。80%は職業性曝露ですよと。あとの20%は例えば、環境曝露、家族曝露、それとか、どこで吸ったかわかんない人が、あとの20%ですよというものが、世間、全世界の一応の認識なんですけどね。 松田: アスベスト以外はあり得ないわけですね。100%アスベストですか。 中村: 99%って、学者は言うてますね。 杉川: たまには1%。まれに何かあったみたいな。 中村: 何かがあるんでしょうね。世界保健機構かなんかのヘルシンキ・クライテリアとか言うので公表された数字が職業性曝露80%と言うことです。 松田: やはり労働現場で働いているよう人たちにも詳しい情報を提供することを徹底したいですよね。 中村: 残念なことに、それがないんですよ。 松田: テレビでは問題が言われるかもしれないけど、各関連の会のホームページを見るとか。 中村: まずないですね。まず末端の職人というのは、まずパソコン触らんでしょ。そして、ましてやパソコンあったとしても、インターネットは、やってない。ですから情報を見る所がないんですよね。ほんでましてや、建築現場の職人というのは新聞でも、スポーツ新聞買う人が多いんですよね。ですから、一般紙買ったら、たまに載ってるんですけど、ほとんどがもうスポーツ新聞でしょ。 杉川: テレビなどでも、アスベスト関係のニュースもやっぱりどっかの被害者団体が訴えた訴訟に関してだけで、アスベストの問題自体についてもやることは今無い。 中村: たまにしかないですからね。特集みたいなことでやってくれるのも。 杉川: そういう場合も、危機意識とかのアスベストを曝露するかもしれない、という危機意識というのを当事者になっている方でも職業曝露してるだろう人にも思わせる場合に、その本人に届くまでが一番難しい。 中村: そうですね。まずほとんどの人が自分は大丈夫だろう、というぐらいの認識しか持ってないと思うから、ですから、それをなくするために、一人でも救えたらなあと思って、最初、僕は職業と名前を実名で報道してください言うて、最初、毎日新聞が報道してくれたんですよ。新聞で。 そのときに一応実名で流してくださいと。何でって記者も聞くから、いや僕も建築関係で長年やっていたから、大阪へ来てもう30年やっているし、何万人という人間、知ってるから、職種は違っても、で名前出してもらったら、彼らがもし中皮腫とか、アスベスト関連の病気になったときに、ああ、あの時の中村はこんな病気やったなーと。で、労災になるんかとか言うような、どういうんですかね、伝わったらいいなあと思って、実名で流してもらってるんですよ。僕は16年の1月から新聞のスクラップ始めたんですけど、ですからこんなにいろんな所に出ているから、これで僕を取り上げてくれたんです。 名前とか出したら、昔の同僚とか、仲間がもし見てくれたら、そんなに病気になったときに、一人でも増えるかなぁ思って、自分でもしあれやったら電話かけてきてくれるかなぁと。 杉川: 今その、中皮腫になられた方の年々、中皮腫かなと、検査に行かれる方の場合で、本人が自分で、ああもしかしたら中皮腫になったのではと思って行く人と、逆に家族の人がもしかしたらといって、その気付くというのは、どっちの方が多いんでしょうか。 中村: どうなんでしょうね。たしかに、みんなに言われて行ってると思うんです。そうやって行く方が多いんじゃないですかね。本人自身もやっぱり認識が甘いと思うから。 松田: 健康診断も中村さんの場合は、何らその自覚症状というか。 中村: なかったですね。後で考えてみたら、ちょっと咳が出とったかなぁ言うぐらい。ちょっと軽い風邪かなあと言うぐらいですね。健康診断、この年受けたのが2月14日ですから、平成15年の。ですから冬やったし、ちょっと風邪気味かなぁというぐらいの認識しかなかったんですよね。これの半年前までは8階建ての新築の現場やってて、8階まで階段上がって、一日5、6回は上がってたんですよね。ですから、呼吸の乱れも何もなかったし。 松田: 症状が急に出て来るわけですか。 中村: そうですね。僕の場合は、右の肺、肺の下の方が鋭角に尖っているらしいんですが、平成14年度のときに、10円玉重ねたぐらい、ちょっと丸くなってたわけですよ。で、先生はまあこれぐらいやったら、まあ様子みようか、1年間、言うて。で、平成15年度に写したレントゲンでお碗かぶしたぐらいに大きくなってて、一日でも早く精密検査受けなさいと言われたんです。僕の場合はただこんだけなんです。そんでいろんな人に聞いたら、もう肺がほとんどまだらやとか、真っ白だったという人が多いんですよ。そういう人らは何にも外科的処置できてないんですよね。手術も何にもできない。ただ抗ガン剤治療受けてるだけで。 杉川: 年に一回は検査受けておられたんですね。そういった風に、中村さんみたいに中皮腫の名前が出て来る方は全国各地でどれくらいあるんでしょうか。 中村: 多分、そのレントゲンの読影の先生が知っているか、どれだけ認識あるか、その病気に対して、あるいはその肺に対してどんだけの知識を持って見れるとかによると思うんですよね。 杉川: 何か、何ともないやろというか。なって欲しいやろうとか。 中村: そうですね。まあそういう建築の仕事してたら、ほこり吸い込んどるかな言うぐらいの認識の医者だったら、見逃す可能性がある。 松田: 中皮腫という病気そのものは、私もそうですけど、今回のことが起こるまで知らなかったし、医者も中皮腫そのものを、そんな知らないんじゃないか、と粟野さんの本にも書かれています。中村さんの場合はどうだったんでしょうか。その辺のところ。お医者さんの認識ですが。 中村: 僕の場合は、この健康診断受けたとこの内科の先生から、ここでは何も治療もできないから専門医に行きなさいというアドバイスもらって、その写真と紹介状を書いてもらって、総合病院に行ったんですよ。北摂の総合病院なんですけどね。内科の先生は、一応検査しましょうと。その診断はまだつかないからということで、検査、検査を続けてきたんです。 ほんで4月の中ぐらいですかね。10日前後やったかな。その病院で胸部外科の方と今までずっと相談しながら検査見てきたんやけど、これから外科の方で診ていこうかと言われて、そんで外科の方で診察に行ったんですけど、そんで細胞検査しようとなったときに中皮腫の疑いというのが、一応説明で出てきましたんで。あれは多分、細胞検査するのが5月2日にしたんで、その時の説明なんですよね。ここで胸膜中皮腫の疑いっていう言葉が出てきとんですよ。そんで生検しましょうと、胸腔鏡で内視鏡を使ってと。 松田: そこの病院には、こういう専門医がおられる。 中村: でも、この部長先生なんですけど、この部長先生と、そんで僕の主治医と二人とも、後で聞いた話ですけど、うちの病院で初めてなんやと。(そう)言われましたので。 松田: 北摂の総合病院と言えば大きな病院ですよね。 中村: そうですね。700ぐらいのベッド数ですね。 杉川: 確か中村さん、全く気づかれずに。 中村: うん。一番最初その健康診断を受けたときも、淀川健康管理センター、この先生が、ここに肺野の胸膜肥厚と書いてあるんですね。これは総合病院には見せてないんですけどね。多分、紹介状にこれを書いてたんじゃないかなと思うんですよ。 杉川: 最初の健康診断の先生が。 中村: 怪しいと思って、胸膜肥厚ありますよと。ただこんだけのレントゲンの写真だけで、胸膜肥厚ありますという、一応診断を下してるんですよね。 松田: 中皮腫じゃないのですか、説明があったのは。 中村: そうだと思います。 松田: でもその健康診断のお医者さんはすごいですね。 中村: 僕の主治医も、この部長先生も「中村さん健康診断受けたとこの内科の先生はすごい先生なんやなあ」って言われましたから。 杉川: 逆にそれくらい、普通はもう気づかない。 中村: だと思うんですよね。 杉川: さらにまあ何かあるなあと思っても、中皮腫まで気が付かない。 中村: いかない。かもわかんないですね。 中村: 半年か1年で真っ白けになるみたいですから。こういうのが出てきとんですよね。ほんで、この間、言いましたように、古川さんへの相談で。検査説明書のここでは胸膜中皮腫になってますよと。ここでは胸膜腫瘍になってますとか。この資料持って行って、労災のお手伝いしてくださいって持って行った時、病名が二つになっとるんですけど。僕は胸膜腫瘍というのを腫瘍やからガンやなという気持ちで、どのような労災認定になるんでしょうか、とりあえず資料持っておいでいうことで。 松田: こちらの病名(胸膜腫瘍)ではならない。 中村: ならないんですよ。中皮腫でなかったら。 松田: ちょっとその点がわからないですね。 杉川: 中皮腫の労災認定を受けれるということは、やはり労働環境への間違いだというような今はちゃんと規定としてあるわけですか。 中村: これは先生ね、そんだけの一応、職歴とか、証明できたら。 杉川: アスベストに中皮腫になるのは、やっぱり仕事ですから、業種でしかないという意見とかあったのですか。 中村: あったんですね。 松田: この人はここの病院が労災認定させないでおこうと思って、こう書かれたわけでも ないですね。 中村: ううん、ないですよね。いや、このとき、この頃は労災の話なんか、全然、僕もしてないし。 松田: 少し危険な検査もあるんですか。 中村: 一応、この生検したら、電子顕微鏡で見たら、何か石綿があるらしいんですよね。それで一応、判断、中皮腫という判断ができると。ですから細胞をとらんことには、どっちにしろ診断というのはつかないんですよね。 松田: 今はこちらになったと言ってよろしいんですか。 中村: はい。最終的にはもう悪性胸膜中皮腫という診断ですよと、部長先生が、電話の先だったけど、言うてくれたんで、そんでそれで手続をして、あとは病院との書類、書いてもらったんですよね。 杉川: もしかしたら、何年か疑いもあれば精密検査してくれればいい、と。レントゲン程度じゃわかりにくいのですね。 中村: 分かりにくいですよね。適格な診断というのは。 杉川: 精密検査して、自分は建築現場で働いていたから中皮腫汚染のあれですから、肺をもう少し詳しく見てといえば、もっと発見率が上がる。 中村: そうですね。でも、その先生がレントゲンをまず一番、最初はどこでもそうですけど、今でも尼崎の健診でも一番、第1回目の健診というのは単純のレントゲン検査だけですから、そのレントゲンを読影する先生おかしいと思ったら、二次検査を受けなさい、いう指導があるわけですけどね。だから先生によりけりなんですよね。ですから、命を預けるんも、当たりはずれがあるんですよね。 松田: いかに疑いをもって見るかですね。 杉川: もっとセカンドオピニオンとかで、あちこちの先生に見てもらうというのは。 松田: 多分、中皮腫の疑いがある点を感じられるお医者さんがいたら、それはいいお医者さんですね。 中村: おったら、いいんですよ。 松田: どれくらい日本全国にいるか。 中村: 少ないと思うんですよね。 松田: それには医療や医者の教育の問題があると思うんですけど。 中村: うん。ですからそれも厚生労働省に僕らは、尾辻前厚生労働大臣と去年の10月16日に大阪労働局で面談を行ったときに言ったんですよ。とりあえず医者を育ててください。中皮腫の医師、専門の医者を。ですからちょうど10月16日、15日時点で日本全国で500何人、530人ぐらいいると言いましたかね。講習受けてると。 そういう答えが返ってきたんですよ。事務方から。ですから、とりあえずもう去年の段階で500人ぐらいはどっかの労災病院で研修を受けてると思うんですよね。簡単なもんでしょ。例えばレントゲンの読影とか、CTの影像の読影だけですから、知識が元々あるドクターやから。 松田: 病気の疑いの気持ちでは見ますよね。 中村: そうです。とりあえず、多分僕らがお願いするんであれば、まず受診者の職業を聞いて、疑いの目をもって診察してくださいというふうに指導しますけどね。 杉川: 今そういう先生が足りなかった場合用に患者さんの方も、もしかしたら中皮腫の可能性があるのでその先生にお願いしますと。 中村: そうですね。それとまた一つの病院で、ちょっと納得いかなかったら、セカンドオピニオンみたいな感じで、もう一件診察を受けてみるとか、もうそういうのが自己防衛みたいな感じで自分でやっていくしか、今の日本では難しいと思うんですよね。 杉川: 行ってもらわないと。 中村: そうなんですよ。とりあえずはそういう健康診断を促すのが、もちろん政府の仕事なんやけども、政府、環境省と厚生労働省の仕事なんやけども、そういうのを一つも(やってくれない)。例えば、新聞の一面に厚生労働省からのお知らせとかいうような、流してくれるのが一番いいんですけど。 松田: それは無理でしょうね。 中村: やらんから、われわれがちょっとした何か署名活動をしたりするついでに、マスコミに協力して貰って流してもらうしかないんですよね。 杉川: 本人になんかこう伝えるのが難しいのなら。大体、周りから喚起する。家族の人のその奥さんとか娘さんとかにこう、お父さんもしかしたら中皮腫かもしれないということを促す。   中村: そうなんですよね。そこらがどこまでどうしてやるんか、一番いいかというのを、これから考えていかんといかんのですよね。 杉川: 自分ぐらいの若い世代、二十代ぐらいだったらパソコンを使うのも。 中村: うん。ある程度、情報。 杉川: アクセスの仕方というのを。多分ちょっとアクセスしてみようかという。 中村: そうですね。ほとんどがあれでしょ。そういう何ていうかな、情報を得るとこがまずないから、そこらをどうにかしないといけませんね。 松田: (そういう場所は)増えてるんですか。 中村: わずか15%って書いてまっしゃろ。 松田: 組合のアンケートですね。多分このタイプの方は、健康診断とか嫌いですよね。はっきり言ってね。 中村: ですから、これが去年の7月18日でしょ。クボタショックの後すぐなのに。直後でそんだけでしょ。例えば、一ヶ月とか半年とか、向こうやったらもうぼやけてきてという見方もあるけど。大々的にテレビとか、新聞とか賑やかな部分でこんだけですから。でも、東京に行って聞いたら、大阪、関西よりもものすごい冷めてるなぁと、関東は。これアスベスト問題も、そういう話が多かったですね。やはりクボタが尼崎やから、関西はものすごいなぁと。新聞の報道でも、大阪で例えば、これぐらいの報道されとったら、関東ではこれ以下や言うてます。 杉川: ああ、何か関西の事件みたいな。クボタが尼崎ですので。ほんとはその日本全国規模の問題なのに。もうクボタだけが問題のように扱って、それ以外には何にも。 中村: そうなんですよ。やっぱり被害に遭ってる人とか、もう遺族の人なんかは、敏感になってるから、みんな必死で新聞記事とか、そういうのを見るんですけど、一般の人というのは、やっぱりそんだけ認識薄いんでしょうね。ですから、報道関係もそんな雰囲気ですから。 松田: ただ世界アスベスト会議自体は、クボタショックの前になりますね。私はたまたま、かもがわ出版の『ノンアスベスト社会のために』という本を見て、おおよその認識はあったんですけれど、結構、東京に被害者や運動があると思ったのですが。 中村: あれは石綿全国連絡会議とか。 松田: そういう本を出されていましたし。そういう認識が出てきてたのかなと思ったんですけど。 中村: そうですね。でも、やはりあれも全建総連、全港湾、全造船の方々のバックアップ 大きかったから。やはり全建総連もかなりバックアップしてましたけど、どうしても上辺だけなんですよね。ですからもう、ほんまのその目の前のことだけですから。2004年アスベスト東京会議は有意義な会議だったと思いますよ。かなり日本の実情を知ってもらってて、書いてもらったから。 松田: その会議自体は報告書みたいなのが、何か出ているんですか。 中村: 報告書はまだできてないですね。まとめる側が忙しくて。出す言うてますけどね。石綿全国連絡会議のほうが。 松田: そろそろ12時前なので、2時間近くお話聞いたので、きょう1回目これで終わりということにさせていただいて、まだ何か、多分半分も聞いてないような感じがするんで、申しわけないですけど、またもう一度、お話伺うということでよろしいですかね。 中村: はい。 松田: 本日はどうもありがとうございました。 中村: ありがとうございました。