客家文化の再生における教育機関、メディアの役割
1、初等教育機関=内埔小学校
内埔小学校は内埔郷の最初の初等教育機関である。現在の生徒数は40クラスで計1128人。六堆の中心地に位置し、生徒、教師、歴代の校長はほとんど客家人である。
@「郷土語言課」(母語の授業):
教育制度改革により、2003年から小学校一年次以降のカリキュラムに週一時間の「郷土語言」(母語)という授業が設けられた。母語の選択肢は、?南語、客家語、原住民語の三つ。内埔小学校の場合は全クラスで客家語を教える。授業では、客家語が母語ではない学生でも自然に習得できるように工夫されている。
A「芸術與人文課」(芸術と人文の授業):
教育制度改革により設けられたこの授業は、改革以前の音楽や図工、美術の合わさった授業。小学校3年次以降を対象に、週3時間。
現校長は客家文化の振興に力を入れ、授業に各種の伝統芸能を組み込んでいる。さまざまなコンテストやイベントに参加するため、休日も練習する。子供たちは、伝統芸能を自己表現の一環と捉え、練習に積極的で、保護者も協力的である。教員の他にも、それぞれの専門家を招いて指導に当たっている。
B「客家生活学校」:
2003年以降「客家委員会」が主催している計画である。教育機関を介して、長期間抑圧された客家文化の再生を目的としている。公私立の保育園から中学校までの教育機関は、この計画目的に関して自由に企画し計画書を提出する。審査を通れば、30万元を上限とする補助金を受けることができる。内埔小学校は毎年この計画に参加して高い評価を受け、高額の補助金を受けている。
これまでの活動内容から、次のような狙いを読み取ることができる。1)、「客家」を日常的に身近に感じさせる、2)コンテストを通じて成果を確認させる、3)伝統芸能を身につけさせる、4)客家語(文化)学習を図る。
校内のイベントは保護者だけではなく、地域の名士や行政機関の人も招いて行なわれる。反対に、地元や客家関係のイベントの際には、内埔小学校が招かれる。学校と地域社会は協力し合い、客家文化の復興に力を入れている。
以上の授業や計画の施行以降、毎年の関連イベントや成績、日常生活の中でこうした成果が感じられ、多くの生徒の客家文化に対する理解が深まり、客家語も上達したという。
2、高等教育機関=私立M大学と国立P大学
近年、多元化社会の志向にあいまって、客家関係の学科や大学院、研究センターを設ける大学が増えた。内埔郷内の二つの大学も同じである。その観点は異なるが、それぞれの方法で客家文化の振興に努めている。
2.1 文化資産保存派の私立M大学(学部)
医学と経済が重視されるこの大学には、2006年7月に「文化事業発展系」(以下、文発系)という文系の学科が新たに設立されたが、大学当局はあまり重視せず、その資金は乏しいという。カリキュラムは、文化事業管理の人材の育成、メディアを用いた文化の表現・保存、 地域文化の発掘・宣伝・商売、などを目標にすえている。
@「客家社区研究中心」との提携:
大学の研究センター「客家社区研究中心」は、文発系の学科長がセンター主任を兼任し、文発系とセンターはしばしば合同で授業や学術イベントを行なっている。また、センター所蔵の豊富な資料や書籍は、総合図書館の完成に併せて特別コーナー「客家図書専区」に保存されるようになった。所蔵場所が変わり、学外者でも簡単に借りれるなど、以前より利便性が高まった。
A専任教員の努力:
1)専任の教員は、自分の研究プロジェクトや授業の実習、あるいは関与しているイベント(例えば、村史の編纂、古跡の調査、社区のイベントなど)の際、出講先の大学の学生と共同作業をさせている。
2)研究会、学会の情報を周知し、学生に参加を勧める。
3)客家文化に関する情報を集め、学生に閲覧を勧める。
B教員の学術活動:
学科長個人の例だが、「屏東県文化資産維護学会」(2002年に創立)と「屏東平原郷土文化協会」(1996年に創立)という二つの民間団体を創設した。前者は学術的な組織で、後者は地域の客家文化愛好会のような組織である。学科長は大学のイベントをこれらの組織と共催し、組織の財源を活動にあてる。この活動を通して大学と地域との接点ができた。
2.2 産業開発派の国立P大学(大学院)
農業系のP大学には、2006年に大学院に「客家文化産業研究所」という研究科が創設された。客家の産業形態の諸相を研究し、新しい産業を開発して、客家人地域の生活、観光・リゾート、社区の発展に貢献するのが目的である。産業開発の研究を中心する研究科なので、学内活動として企業との連携イベントも少なくない。
@客家語の重視:
「客家文化産業研究所」の学位の取得には、客家語検定の初級資格が条件とされる。そもそも客家語で行なう授業もあり、客家語の学習を必要とされる。言語運用能力のある人材を育成するために、客家語・中国語の通訳の特別クラスも設けられている。
A「客家産業研究中心」の尽力:
研究科のサポート組織として、研究科の創設と同時に研究センターが設立された。センターのさまざまな計画・プロジェクトに大学全体が取り組んでいる。
B「六堆客家文化園区」との連携:
客家総合博物館「園区」は、客家語が堪能な院生をボランティアやバイトとして求人している。大学側も園区の専門家を迎え、講演会や研究会、臨時授業などを依頼する。園区のイベントの際に協力するなど、大学と園区は友好関係にある。
C地域や他大学との連携:
地域で行なわれるイベントや活動への参加、M大学の学園祭などへの参加、前述の共同授業など、地域や他大学とは交流が深い。
3.内埔の地方紙と六堆の郷土誌
3.1 地方紙
戒厳令により、新聞の自由な発行は禁止されていた。地方紙は、変則的に雑誌として申請して発行されていた。1987年6月、戒厳令解除と同時に、新聞の禁令も解除された。しかし、解禁と裏腹に地方紙は打撃を受ける。全国紙が地方欄を設け、地方紙の役割を奪ったからである。財力および人材の面で、全国紙と比較しようがなく、地方紙は衰退の一途をたどった。
内埔には、『利郷旬刊』と『今日内埔』の地方紙があった。前者は雑誌として1985年発行、後者は新聞として1996年発行である。両者とも、郷内の知識人の自費による発行であった。内容は郷民の啓蒙、郷民に関する記事、政治評論など。公正な立場と平板な記述で、郷民の間で好評であったが、他の地方紙と同様に財力と人材の不足という現実問題で両方とも一年以内に休刊になった。
3.2 郷土誌
1971年、地元の名士の依頼で、二人の郷土研究者が六堆(高雄県、屏東県の11郷鎮)の郷土誌を作成した。六堆初の郷土誌で非常に重要な文献である。しかし、経費と人材の不足で、3百年以上の六堆社会の変遷について考察が不十分であった。
1996年、六堆の文教団体が郷土誌の再編纂に着手した。地誌の作成は、大学など研究機関に委ねるケースがほとんであるが、六堆の郷土誌は地域住民の手によって編纂された。知識人を総動員(200人ほど)し、5年の歳月をかけ、新しい郷土誌が完成した。
戒厳令の解除以降、台湾研究は多元化し、統治者史観の言説から抜け出したとはいえ、客家研究は依然として重視されなかった。客家は常に漢民族として一括りにされ、漢民族の大半を占める?南人へ同化・同質化されているからである。このような背景を考慮して、編纂グループは台湾の主体性、六堆客家の主体性を強調する方針にした。ちなみに、編集の人材を育成するために、「六堆文化研究学会」が創設され、定期的に研修会が開かれる。
4、おわりに
政府の多元化社会政策・制度、意図に忠実に沿って、内埔郷では教育機関とメディアにおいて「客家」を意識化し、客家文化を再構築している。
客家語をベースにする内埔小学校は、失われつつある客家語と客家文化の学習を通して学校生活で子供たちに新しい仲間意識を作り出す。M大学は教員の努力により、学内と学外の資源を統合して、文化資産保存に貢献した。P大学は学内の人材と資源を利用することで、学外の組織や他大学、地域、企業と連携し、文化産業の開発に役立っている。
一方、民間から地域発信に努力する地方紙は国の政策に翻弄され、維持するのが困難な状況に陥ったが、六堆の人力と財力が総動員された郷土誌の編纂作業は、各堆の関係や人間的なつながりを再認識させる機会を与えた。
今後の課題として、客家文化の「客体化」が、地方的世界とどのような関係(影響、相互作用など)を持つかについては、今回インフォーマントになってもらった主導的な知識人以外の人々にインタビューして明らかにしたいと思う。 劉 梅玲(神戸大学学術研究員)
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