今年度の調査の一番の目的は地域文化の再編について調べることである。
戦後、国民党政権は台湾の住民を「中国人」へ統合する政策を強く推し進めた。これにより、台湾の地域文化は抹殺された。しかし、七〇年代に入って政治体制が変わり、エスニシティの共存など、文化的多元化を見せるようになった。その流れをうけ、李登輝政権下(一九八八―二〇〇〇)ではじまる「本土化」政策を背景に、台湾固有の歴史・文化・アイデンティティに対する社会的関心が急激に高まる。内埔郷地区も独自のやり方で文化の再編を行い、地域社会の再建を図った。
近年の再編実態を二つのレベルから考察する。
一、 国家レベル―「六堆客家文化園区」(以下では園区)
1)建設の経緯
さまざまなエスニシティを抱え、文化遺産を数多く備える屏東県にも、本土化の一環として、「六堆客家文化園区」が開園された。これは台湾初の客家総合博物館である。
園区は、何年間かの構想期間を経て、ようやく二〇〇一年に着工され、さまざまな問題を抱えながらも、去年の十月に部分的な開園にこぎつけた。もともと園区は、(屏東)県レベルで企画されたものであったが、当時の県長の推進により、中央政府直属の国家レベルに格上げされた。建設の規模や経費は当初の予定をはるかに超え、建設にかかる年数も延びた。
園区は、元「台糖」会社の農場の敷地を利用して、内埔郷の建興村に造られた。劇場や展示館、マルチメディア館、学術研究センター、文化推進センター、図書館、浄水池などを備える。昨年に完成したのは、劇場と展示館である。
2)施設の紹介
@劇場
客家の伝統的なタバコ工房をモチーフとする劇場には、最新の設備が備えられ、座席は五百余り設けられている。ここで定期的に、客家の劇や踊りが、有料ないし無料で上演される。
A展示館
展示館は常設展と企画展のコーナーに分けられ、いずれも無料である。
常設展では、六堆地区の建築物、古地図、主要な姓の由来、「堂号」、「棟對」などがユニークな展示法で紹介されている。
企画展では、例えば、客家出身のアーティストの作品(絵画や彫刻、紙アートなど)が展示され、その内容は月に一度取り替えられる。これ以外にも、客家文化関係の講演や民俗イベントの攻砲城、客家芸術の図工製作などさまざまなイベントが随時催されている。
これらの情報はHP(http://www.ihakka.net/2008ludue/)やパンフレット、チラシなどで簡単に手に入れることができる。
3)入園状況
現在、展示会の見学や劇の観賞、イベントの参加においては結構の人出が見られる。入園客は個人客とツアー客があり、予約すればガイドつきの見学も可能である。園内休憩所では、そこに設けられた店で客家の料理を食べることもできる。広大な緑地も備えられ、小学校や幼稚園の遠足に利用される。今年度末に完成予定の高速道路のインターチェンジから直通の道路が開通すれば、さらに多くの来客が見込まれる。
4)組織の構成
園区は国家レベルの施設であるが、正規のスタッフはあまり多くない。しかも、そのほとんどは研究員である。そのため、館内の案内や紹介には、ボランティアの解説員(ガイド)があたる。解説員(ガイド)は、一六歳以上の、客家文化に興味がある者は誰でも応募が可能で、一定の期間の研修を受けることでなることができる。ちなみに、さまざまな来客の需要に応じて、客家語はもちろん、?南語と英語を話せる解説員が多いようである。
5)建設目標
園区建設の最終目標は、六堆地区の「司令塔」の役割だという。六堆の文化資源と情報を統括し、対外的な発信を考えているのである。園区にきて客家や六堆の概要を知ってもらい、特に興味を持った堆に関してさらに情報を入手し、園区から専用の路線バスで各堆に移動する。実際に現場に行って客家文化を体験させることが狙いである。
6)関連行事
園区の目的に合わせて、各堆が活動の足並みを揃えるようになった。例えば、六堆をコースにしたマラソン、六堆運動会の「聖火リレー」や六堆文化産業祭り、芸術祭り、「昌黎祠韓愈祭」などである。それらのうちで、「昌黎祠韓愈祭」と「内埔老街」を取り上げる。この二つは内埔郷の中心地区で行なわれる重要なイベントだからである。
@「昌黎祠韓愈祭」
韓愈の生まれた旧暦の九月九日、いわゆる「重陽節」、日本でいう敬老の日に当たる日に、毎年「昌黎祠」では管理委員会が祭祀を行なう。かつては豚と羊を供物とする簡単な祭祀で済ませていたが、二〇〇二年から屏東県政府の要請を受けて、「六堆客家文化園区」開園のウオーミングアップイベントとして、祭祀以外にも関連イベントをする大規模な催しに変わった。経費は県政府などの公的機関が経費を負担する。企画は民間応募制のため、主催者は毎年異なる。
A「内埔老街」
同じく「内埔郷老街」も「六堆客家文化園区」開園のウオーミングアップイベントの一環で、二〇〇六年十月から二〇〇七年の旧暦の正月(二月下旬)までの期間限定のイベントであった。内埔郷の古い町並みの代表的な建物を修繕し、それらを正月の間店舗として開放したり、町並みを観光ルートにしたりして再利用するというものである。正月の間、売り子が客家の伝統衣装(「藍衫」=青い服)を身に着けたり、店が客家の料理や道具などを売ったりし、昔の街の市場を再現している。それに合わせて、「媽祖廟」前広場でさまざまな文化活動も数多く催された。
二、地元レベル―「社区」
郷公所(役場)所在地周辺に位置する内埔村と内田村は、他の郷と同様にインフラの完備、施設の充実などの理由で「社区」の成立が遅い。「内埔社区」(内埔村の範囲のまま)と「内田社区」(内田村の範囲のまま)は、いずれも一九九九年頃成立され、同時に社区組織「社区発展協会」が発足された。会員制で、村民の自由参加という形で入会するシステムである。社区の活動やイベントには基本的に村民全員が参加できる。
この地区は古来より六堆客家の中心であったため、その豊富な文化資源は、官民を問わずしばしば各方面の機関・組織・団体に、保存や記録、「文化の客体化」の対象にされてきた。歴史がまだ浅い「社区」は、資金やノウハウを欠き、地域のまちづくりや文化振興に関わる活動を、やむ得ず専門家や他のより大きな組織に任せるしかない。その代わりに、地域の道路環境の衛生・安全性・快適性向上に関する活動を行なったり、他の地域の客家文化イベントに協力したりして愛郷心を表している。
環境保全の担い手は「社区発展協会」(以下では発展協会)の下部組織の「環境保護義工隊」(環境保護のボランティア)の成員である。その主な活動内容は定期的な清掃である。両「社区」は、提携して両村を清掃する。他の「社区」と提携してその範囲を拡大することもある。清掃の後は発展協会の用意した朝食を食べ、親睦を深める。発展協会は清掃の際に両村の環境状況を把握し、美化・緑化が必要な箇所を見つけ次第、関連機関に経費を申請してそれらの部分の改善を図るという。また、時には「内埔社区」・「内田社区」、時には内埔郷地区、時には後堆地区の代表者として村人が客家イベントに参加し、内埔郷(文化)をアピールしている。
三、まとめ
一度抹殺された客家文化は、政権の変化によって「園区」と「社区」を介し、活路を見出した。「上から」の企画とは言え、内埔郷の客家人は「園区」ないしその関連イベントを通じ、マスメディアを介して、客家文化を「客体化」している。また、「社区」のように柔軟な機能を持つ組織は、エスニシティの文化を尊重する現在の社会状況において、アイデンティティ再構築を企図して自発的に客家地区の環境保存及び文化の発信に努めている。
このように、国家との相互作用、及びグローバリゼーションを「内部化」しながら、内埔郷はそれぞれの状況下で独自性を発揮し得ていると言えよう。このような発展方向をみれば、「持続可能な発展」を期待できるのではなかろうか。
劉 梅玲(大阪中華学校・元教諭、博士(学術))
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