―基層・動態・持続可能な発展―

Basic structure,Dynamics, and Sustainable Development

 

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2007年調査報告(台湾)

◇概説

 内埔郷は水源が豊富で土地も肥沃である。2007年7月現在の人口数は59,574人、17,089世帯を数える。漢民族の定住以前は、先住民族の「平埔族」が当地に居住し、その後、広東省客家系の漢民族が入植し、福建省?南系の移民がこれに続いた。客家系の移民は西南部に集住、?南系の移民は東北部に「平埔族」と混住した。人口数の割合で言えば、客家系は60%、?南系は35%、原住民と他のエスニシティは5%、となる。
 内埔は農業郷であるが、近隣の郷に比べ商工業が発展し、交通の便も良い。鉄道の駅こそないが、幹線道路が完備し、バスや自動車、バイクが住民の交通手段となっている。商業面では、24時間営業のコンビニエンスストア、全国規模のチェーン店、銀行、ガソリンスタント、スーパー、市場、病院、娯楽施設、レストランなどがある。工業面では、「内埔工業区」(工場が建ち並ぶ場所)に、酒工場、ビール工場、食品工場、電子部品工場などがある。近隣の郷民の職場や、日常生活および消費の場ともなっている。
 一方、大学は2校を数え、教育機関も充実している。また、郷立の図書館や郷民センターなどの文化施設も完備されている。
17世紀末、清国政府の統治下では、税金徴収以外、実質的な行政統治は行わず、各エスニシティ間の紛争が絶えなかった。台湾南部の客家人は他エスニシティから身を守るために連合集団を結成した。これが「六堆」である。「六堆」は客家の集村の所在地により、「中堆」、「前堆」、「後堆」、「先鋒堆」、「右堆」、「左堆」と分けられている。当時、六堆の組織には自治と自衛の役割が与えられていた。
 だが、日清戦争後、日本植民政府の統治下では、行政統治体制が基層社会まで浸透、六堆組織の存在意義は実質的に失われた。現在、六堆はその地域と文化圏そのものを意味し、内埔は「後堆」に属している。
 内埔は、六堆の集会の場および教育機関を備え、交通の利便も良く、加えて当地には各種の行政機関が設けられた。これにより、六堆の政治、文化、商業の中心になっている。現在もその地位は変わらず、屏東県第二規模を持つ地方都市にまで成長を遂げた。
 17世紀以来の移住と植民の歴史のなかで、エスニシティと社会階層とが複雑に絡み合いながら、融合と分裂、同化と異化を繰り返して、台湾社会の多様性は形成された。
台湾全体からすれば客家人はマイノリティーであるが、内埔ではマジョリティーであり、どこでも客家語が通じる。客家系の建物や伝統行事、宗教施設は今日でも数多く残っている。
内埔は長い時間をかけて客家文化、?南文化、原住民文化が共存する地域として発展してきた。今後、政治的変化とともに、この「地方的社会」の持続可能な発展に必要な課題や条件を、「文化の客体化」という切り口から明らかにしたい。


劉 梅玲(大阪中華学校・元教諭、博士(学術))