キトラの四神図          神戸大学 百橋明穂 

3月22日の第3回目の内部調査によって、なくなって残っていないと思っていた南壁の朱雀が発見されたのは、本当に驚きであった。中国でも朝鮮半島でも、四神のうちで南に位置する朱雀は発見例が少ない。それは墳墓や宮殿などは南面するを原則としているため、南は入口にあたり、地表からは浅く、土砂の堆積や盗掘などによってどうしても残る例がすくない。それに比べて墓道の左右にあたる東西壁の青龍、白虎は残る例があり、さらに一番地中深い奥にある北壁の玄武はよく保存されている。高松塚においても南からの盗掘によって、南壁が破壊され、また土砂の流入によって壁面が荒らされて朱雀は確認されなかった。そんな状況下での見事な躍動感あふれる朱雀の発見は奇跡とも思われ、キトラは四神全てが揃った幸運の遺跡となった。 先回の内部探査で発見された白虎が、その頭を北に向いているため、ひょっとしてキトラでは四神があたかも時計回りのように循環構図に描かれているのではないかと予想していたが、今回の朱雀の姿は将にこの予想を裏付けることとなった。朱雀は西に頭を向けて、右足で後に地を蹴り、左足で大地に踏ん張って、羽根を羽ばたかせようとして将に飛び立とうと助走を始めた瞬間の姿である。中国の朱雀の多くの例では、正面を向き、二本足を大地に突っ立て羽根を大きく広げて、あたかも孔雀が羽を広げた様である。側面向きに描いた例でも、一本の足で立ち、もう一本の足は遊脚にして、羽根を大きく舞上げる。これは朝鮮半島の高句麗古墳壁画の場合でも同様で、静止して大きく羽根を広げる姿である。キトラのような敏捷に走り出す姿の朱雀はない。一体この朱雀の図像のルーツはどこにあるのであろうか。そして四神が時計回りに循環するという構図は一体どこからきたのであろうか。少なくとも中国古代からの伝説である四神の思想には、宮殿や陵墓は南を正面として、北を正殿として南面するのを原則としている。よって中国や高句麗の四神図はおおよそ青龍、白虎は南を向き、朱雀は正面を向く。さらにその定位置を動いてはならない。もし、朱雀が側面を向く場合では東を向いている。ちなみに持統11年(697)制作とされる薬師寺金堂薬師三尊像台座の浮彫四神では、青龍、白虎共に南面し、朱雀はほぼ正面を向いて大きく羽根を広げながら、やや頭を東に振っている。そして高松塚壁画では白虎は頭を南に向けているのである。では、キトラのような循環構図をとる例はあるのであろうか。天平勝宝八年(756)に奉納された正倉院にある日本での制作とされる十二支八卦背円鏡にある四神はキトラのように白虎は頭を北に、朱雀は西を向いている。しかるに中国の鏡ではどうであろうか。初唐の永徽元年(650)銘の方格四神獣鏡では当然中国的原則である白虎は南に向かい、朱雀は東を向いて、決して時計回りではない。つまり高松塚と薬師寺薬師三尊に対し、キトラと正倉院とでは四神に関しては、大きくその構図原理を異にする。この変換は極めて日本的な発想と思われる。またこの循環構図への転換を促した背景の一つに仏教文化の影響があるとする奈良国立博物館の井口喜晴氏の示唆も興味深い。絶対的な時空を容易に離れ、次々と循環して場所移動したり、四季の変化のように時と共に移ろいゆくといった発想が根底に大きな相違としてあるように感じられる。キトラの四神図には日本的な解釈や感性が加味された絵画といえる。キトラの朱雀の自由で大胆な線描と暈取りを多用した細やかで緻密な彩色による魂のこもった表現はどこか和風化した日本絵画の始まりを思わせる。いずれにせよこの墓の被葬者は天皇をはじめとする皇族の誰かであることはいうまでもなく、とすればまた文武天皇大宝元年(701)に設置された画工司に集結した練達の画師の参画になることもまた当然であろう。


百橋 明穂
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