「キトラ古墳壁画」

 14年ぶりにキトラ古墳の石室内部の調査が実施されるとあって、3月5日の早朝はまだ薄暗いうちから緊張感が漂っていた。打ち合わせによれば、現地集合は朝6時30分であった。昭和58年11月ファイバースコープによって石室北壁に玄武の壁画が描かれていることがほぼ確認されていたが、その後の周辺環境の変化や阪神大震災の影響など、古墳および石室内の壁画の保存状態が危惧され、今回の調査となった。キトラ古墳保存対策検討委員会に加わるように要請されたが、委員会では数度にわたって古墳の保存対策と石室内の調査の是非と方法が議論された。26年前の高松塚古墳壁画の発見に匹敵する古代絵画の調査であり、前回同様に発掘をせず、非破壊的方法によって、石室内外の状態を変化させずに内部調査を実施することであった。すなわち、NHKの技術陣の開発した直径3センチにも満たない小型カメラを、自在に向きを変えられるケーブルの先に取り付け、石室の盗掘孔から入れ、奥壁にあたる北壁、東西側壁、天井、床、そして入口にあたる南壁を観察し、また計測する計画であった。しかし5日は石室南にある盗掘孔を探し当て、四周を観察するにふさわしい角度と位置に導入パイプを挿入するのが手間取り、何度もやり直したため、午後2時40分過ぎ、ようやく定位置が定まり、観察が開始されたが、約10分ほどでケーブルが切れたため、北壁の玄武がより正確に確認されたものの、3時過ぎ、この日の調査は中止となった。土砂降り雨の中、長い待機の一日であった。

 翌6日、昨日とはうって変わってよく晴れ渡った。10時から調査が再開され、この日は順調に観察が進み、比較的状態の良い北壁に対し、東西壁は漆喰の剥落もあり、また雨水の流入による汚れが著しく、東壁に青龍の舌や頭の一部が認められるものの、壁画の発見は困難を極めた。しかしレンズをよりクローズアップのできる望遠に変えたところ、西壁からははっきりと白虎、天井には天象図が次々に確認され、調査団をはじめ、報道関係のほか、見守る村の人々の興奮は頂点に達した。最後に南壁はどうしてもカメラが向かず見ることは不可能だった。

 今回の調査の結果、北壁には画面中央、約3分の2の高さに、玄武がほぼ完好な図像と良好な保存状態で描かれていた。一方東壁は中央部分が雨水の汚れがひどく、南を向いた青龍の頭部と舌の一部の彩色が確認できた程度で、主要な体部は汚れの下に隠れている。西壁は頭を北に向けた白虎が頭部から尾に至るほぼ完全な姿が認められる。体部の真ん中に雨水の汚れがあるものの、汚れの下に白虎の体部の輪郭線がはっきりと視認される。南壁の観察が不可能であったため、朱雀は確認できないが、東西南北の壁にはそれぞれ四神を一体づつ描いたものと見てよい。ただし四神以外の図像は見あたらない。天井は折り上げ部の東西に、たなびく霞か雲を表した横線が見え、その上に日月がそれぞれ位置していたと考えられる。天井の平頂部には朱線で同心円の三重円とそれと二点で交わる円を描き、天の北極を中心に、星の運行の範囲を示す内規・外規、さらに天の赤道、および太陽の運行を示す黄道を表し、その中に星の位置を表し、各星を朱線で結んで星座を示した、いわゆる天体の運行を図示した天文図が描かれていた。これは中国古代に成立した天球と星宿を合わせて表した本格的な天文図として、現存するものでは最古という。しかし天文学的にはいくつかの誤謬もあり、はたして当時正確に理解されていたものか、あるいは装飾的に描かれたのかは疑問があるとされる。今回発見された壁画は七世紀末八世紀の古墳壁画としては同じ明日香村にあって、キトラ古墳から約1キロ北にある高松塚古墳壁画と並んで二例目なり、古代の壁画としては、法隆寺金堂壁画、及び平成3年に発見された鳥取県淀江町の上淀廃寺壁画とあわせて、4例を数える。古代絵画の作例が増加し、日本の古代美術史の豊富な実体が明らかにし、また東アジアにおける文化交流の実証的な解明にとって貴重な1作例を加えることとなった。

 誰しもがもっとも注目したのは、ほぼ同じ地域にあって、築造年代も大きくは異ならず、同様な図像の壁画が発見された高松塚壁画との比較であり、また当然で重要な着眼点であった。高松塚に比べて、四神図は図像的に大きく異なるものではない。また両者ともその描き方は、極めて緻密で、細密画としての完成度は高い。日本絵画特有の細密画の美しい世界がある。背景を伴う構図や奥行空間への配慮より、限られた小さな画題を正確に濃密な集中力で描く表現は、後生の日本絵画の装飾的で平面への指向をすでに読みとることができよう。用いられている彩色もほぼ高松塚壁画と違いはなく、いずれも質の高い色彩の美しい鮮やかな顔料である。これは法隆寺金堂壁画ともほぼ共通し、すでに高度な画材が手に入っていたことを物語る。ただ壁画を描く際にまず下地を白く準備するが、キトラと高松塚では同じ漆喰であるが、法隆寺金堂壁画や上淀廃寺壁画では白土下地である。これは中国でも同じで、敦煌石窟壁画のように解放された寺院や宮殿の壁画は白土下地に描くようであり、土に埋もれて密閉して湿度の高い陵墓壁画は漆喰に描くようである。大陸で行われていた画材の吟味もすでに知られていたようである。

 各壁面における四神の位置はややキトラの場合は高いが、壁面中央にあり、各モティーフの大きさはほぼ同大と見られる。ことに玄武はきわめてよく類似し、共通の図像的祖本を考えさせる。この当時四神の手本となるべき図像がそれほど多種多量に大陸から日本に伝わったとは思えない。高松塚の玄武は中が剥落して亀と蛇の頭体部が不鮮明であるが、大きさや蛇と亀の絡み具合や蛇の尾の向きなどほとんど一致する。中国や朝鮮半島の玄武は様々なヴァラエティーがあり、蛇が亀の胴体に幾重にも巻き付くものや、蛇と亀の頭部の向き合う位置、蛇の尾の向きなど変化が大きい。一方東壁の青龍は大きな雨水による汚れでほとんど見えないため、比較は困難であるが、青龍の頭部、大きくのばした舌などの形や彩色からみるとほぼ同様な図像と見てよい。キトラでは舌の鮮やかな朱色や龍の頭部緑色が認められる。他方西壁の白虎は基本的な図像は類似するが、構図としては大きく異なるものであった。まずなにより驚かせたのは、体の向きが全く反対であった。すなわち頭を北に向け、尾を南に向ける。高松塚では青龍・白虎は同じ南を向いて描かれる。同時代の中国の陵墓壁画でも青龍・白虎は、互いに向かい合って同じ南を向く。やや時代の隔たった朝鮮半島の古墳壁画にもこのような例はない。この意表をついた白虎の構図はほかの四神や天象図とともにキトラ古墳の性格をめぐる議論となろう。

 しかし美術史的に見て、なにより興味深いのはこの白虎の描き方である。得られた画像が斜め向きの映像のため、正確には言えないが、高松塚に比べ、極めて躍動感に溢れた線描と、写実的な形態把握による表現は、キトラの壁画を担った絵師の技量と系譜を考える上でもっとも注目すべき点である。やや太めの胴体、後ろ足を大きく踏ん張り、そして尾を真っ直ぐに高く上げる。背中の輪郭線は太く勢いがあり、縞模様も現実味がある。一方腹は薄く細い線で柔らかく表し、薄い朱色が見える。首や頭部もややしっかりとして、全体として体が締まっているように見える。高松塚の場合は青龍と白虎はほぼ同じ大きさで、かなり近似する図像であり、ほとんど両者は下図を反転させたものといわれている。高松塚の白虎は描線がほぼ均一でいかにも定められた下図を忠実に壁面に写したような華奢な表現で静止的な表現である。下図を忠実に壁面に転写するような慎重な筆線と言える。やや高松塚壁画の画師は保守的な画技の持ち主であろうか。白虎の胴体は長く細く後ろ足も絡んだ尾もやや踏ん張りに迫力がない。すなわち白虎としては異様に長い胴体となる。しかしこれは南北朝から唐にかけての中国や朝鮮半島でも同様で、白虎は青龍のように異様に胴体が長い。そのため図像的には青龍と白虎はほとんど区別が見いだしがたいものとなる。薬師寺の金堂薬師如来像台座の青龍と白虎も、長さは両者ともおなじである。キトラの場合、白虎は虎としての合理的な写実性が看取される。亀と蛇が絡んだ玄武の奇怪な図像、そして想像上の動物である青龍に比べ、白虎は現実感がある。あえて向きを反転させ、迫力に満ちた白虎を描いた絵師は、もし被葬者の地位や身分、大陸の文化への理解力からくる古墳築造に対する意向を考慮外にすれば、左ききではないかとふと思いつくが確かなことは分からない。しかも大陸からの粉本、手本から、自在に工夫を加えつつ、柔軟で写実的な描写を得意とした進取の気性に富んだ絵師であろう。しかもこのような傾向はほぼ同時代の中国初唐期の絵画動向に一致しており、飛鳥から、白鳳、天平へと続く美術史の中で、かなり先進的な技量を備えていた絵師集団の担当と推測される。

 ただ被葬者の意向からか、高松塚のような男女人物像が描かれていなかった。当時の日本の宮廷に仕えた従者や女官の風俗を反映した本格的な日本の風俗図としては最初の例となるものであった。しかしキトラでは周壁に四神、天井に高度な天文学的な天文図のみを描き、厳密に神仙的な世界を構成している。一切の世俗的な画題を排除しており、この墓の被葬者の大陸の古風な墓制への厳格な意図が窺われる。なぜならすでに当時の中国では陵墓壁画の主要な画題はむしろ生前の華やかなりし頃の世俗的な画題が壁面を飾っているのである。四神や天象図は当然のごとくに描かれるものの、それは単なる儀礼としての墓制の名残であり、むしろ壮大なる列戟、儀仗兵の隊列や車馬出行図であり、また宮廷内の多くの従者や女侍たちの華やかな風俗絵巻である。すなわち現実的な世俗生活を投影させた画題こそが当時の陵墓壁画の主要な画題になりつつあった。よって、高松塚こそ画題の点ではむしろ中国の新しい墓制を反映しているとも言える。現在中国では、7世紀末から8世紀はじめとされる高松塚やキトラとほぼ同時代に当たる、隋唐時代、すなわち6世紀後半から10世紀初頭にかけての壁画を有する陵墓は80基近く発見されており、さらに時代の遡る南北朝の壁画墓を加えると100基を越える。いずれも当然のように南の入り口の両側に必ず青龍、白虎があり、墓室天井には高松塚のような簡略ではあるが満天の星を描いた天象図がある。描かれたスケールは大きく、描写は激しく、迫力充分であるが、図像的な統一性や細部の緻密さはない。むしろ画家の腕は写実的で力強い世俗人物の表情や風景、建築空間の描写にもっとも生き生きとした冴えを見せる。二度と誰も見ることを想定していない墓の中の壁画の大画面に、おおらかにこの世の謳歌の世界を再現した中国の絵師の名もまた伝わっていない。 中国の画史に残る隋唐代の著名な画家の一番の大きな仕事は宮殿や寺院の大画面壁画を描くことであった。閻立本や李思訓、呉道玄といった唐代の画家はいずれも壁画を描くのを主な活動の場としていた。一方日本では推古12年(604)に官の画師として黄文画師と山背画師など五姓を定めたという。それまで中国や朝鮮半島から渡ってきていた画技に巧みで、それを世襲的に伝えていた集団に対し姓を与えて帰化を促し、国家の技術集団の中に組み込んでいったのであろう。やがて六六三年白村江の戦いで日本は唐新羅の連合軍に破れ、百済は滅亡し、日本は朝鮮半島から撤退した。やがて668年高句麗を滅ぼして新羅が挑戦半島を統一する。以後日本は中国への直接的な交流をはかり、唐の文化の摂取や政治制度の導入を目指すのである。遣唐使が往還し、新羅船も来朝し、それによって行われた画師の往還や美術品の請来が古代の日本美術に大きな影響を与えた。そんな中に四神や天象図の手本になった図像粉本や後に正倉院に蓄積される美術工芸品の数々があった。また黄文本実などが中国から新しい唐の美術の異国風の香り高い写実的な表現様式を表す画技ももたらしたにちがいない。やがて大宝元年(701)集積された絵画技術とおおくの人材をもとに、画工司を中務省に置いた。本格的な日本画壇の設置であった。このような状況の中でキトラ古墳壁画は描かれた。高松塚古墳壁画も同様である。初めて知る大陸の墓制に対し、先進的で積極的な対応ができたのは限られた高位の身分や特殊な地位にある人物に相違ない。中国においても墓の内部に壁画を描くことができたのは、皇帝をはじめ、太子、公主をのぞけば、3品以上の高位高官に限られる。すなわち正史に必ず名を連ねるほどの人物である。墓室の入口には必ず墓誌があって、墓主の名はいうまでもなく、出身、経歴、身分、人柄に至るまで知ることができる。永泰公主墓、章懐太子墓、鄭仁泰墓など、先述した中国の100を越える壁画墓は、ほとんどの墓主っを特定できる。ところが、なぜか日本の壁画古墳には墓誌がない。中国の墓制を賢明に模倣しながら、なぜか一番肝心な墓誌を欠いているのはなぜか分からない。よってキトラ古墳、高松塚古墳の被葬者は誰か議論は尽きない。


百橋 明穂
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